Words of Chairman Renato

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レナート会長の言葉を(2021年のADMA大会)もう一度聞きましょう。

友人の皆さん、

はじめに、ごあいさつを申し上げ、この大会が、恵みと識別、また新たな始まりの力強い時となることを願います! 全世界が大変な困難にある中、今日、ここで私たちの約束とマリアへの愛を新たにでき、主イエスを知り、主に従うためにマリアに倣いたいという望みを新たにできることは、信仰が山をも動かせるということのしるしです。

私たちを招いてくださり、ありがとうございます。皆さんが招いてくださったことは、世界各地のさまざまなADMAのグループの間に、家族以上の絆、より深い一致と交わりをつくり上げたいという願いを表します。皆さんと一緒にここにいられることをとてもうれしく思い、皆さん一人ひとりとお会いしたいと心から願います。

この大会で、「世界/社会の中のADMA、信徒の視点から」というテーマでささやかな話をするよう頼まれました。3つの異なる視点について考えてみたいと思います:1つめは、私たちの会の視点、ドン・ボスコの夢、意図、そして私たちの会則について考えます。2つめは、教会の視点、そして最後は、ADMAの一員としての私の生活、私の体験を考える実践の視点です。

ADMAと信徒

 これは、ADMAの定義に始まる、私たちに深くかかわるテーマです。その定義によると、ADMAは「ドン・ボスコのカリスマにしたがった、聖性の歩み、そして使徒職」です。3つの言葉に光を当てたいと思います:

  1. 聖性:私たちは皆、聖性に呼ばれています。どの人も皆 -特にここで、信徒 - が聖性に呼ばれています。
  2. 旅:聖性は旅です。時に旅そのものは、私たちがたどる一歩、あるいは達成する一つひとつの目標によって、より重要なものになります。
  3. 会:私たちは、一緒に聖人になります。

 具体的に、ドン・ボスコは人々の信仰を守るため、特に貧しい人々のためにADMAを創設しました。多くの労働階級の人々に、マリアの母なる存在のもと、サレジオ会の霊性と使命に参加してもらうためでした。

 ADMAは第一に信徒の会です(会則第1条、第2条参照)。世界の会員の大多数は信徒で、私たちが会員として生きる約束(会則第4条参照)は、信徒のための生き方の約束であり、最後に、使徒職、奉仕として私たちが行う活動は、共同体の信徒たちのうちにその自然なよりどころを見いだします。

 すなわち、信徒性と庶民的な次元は、私たちのカリスマに深く刻まれた、会をつくり上げる側面であるということです。

教会と信徒

 第二バチカン公会議後の教会の考察と教え、ヨハネ・パウロ二世の使徒的勧告「信徒の召命と使命Christi Fideles Laici」などの重要な文書は、教会における信徒の役割を深く刷新しました。信徒の役割は、個人として参加するもの - なぜなら信徒の召命は本物の召命であり、その召命を通して私たちは、聖性へと至る完全な福音的体験をすることができます - またADMAのように集合的な形で参加するもの- その目的は教会の使命に責任をもってあずかり、キリストの福音を人類の希望、社会の刷新の源泉としてもたらすことです(信徒の召命と使命29) -、その両方の形として理解されます。

 その意味で、教会性という規範と「信徒の使命」が提案する信徒の会の生き方と働きがもたらす実りを取り上げるのは、興味深いことです。ADMAが提案されていることにいかに余すところなく応えるものであるか、再発見するためです。教皇ヨハネ・パウロ二世は言います:

 「次のような基本的基準は、教会における信徒の会を評価するために助けとなります。

すべてのキリスト者が聖性に招かれていることを第一におくこと。これは「霊が信者のなかに実らせる恩恵の果実」によって、また、キリスト教的生活の感性と完全な愛にいたるよう成長することによって示されます。

カトリック信仰を宣言する責任。これは、キリストについて、教会について、人間についての真理を、教会教導職に従って、教会が説明するように受け入れ、告げ知らせることによります。

堅固で確かな交わりのあかし。これは、普遍教会の一致の、「永久の見える源泉であり基礎である」教皇に対する子としての関係において……地方の司教とともに……あかしされます。

教会の使徒的目的に一致し、これに参与すること。この目的は、「人々に福音を告げ、聖化し、人々の良心をキリスト教的に育成し、ひいては種々の団体や分野に福音の精神が浸透しうるようにすること」です。

人間社会のなかに存在するために献身すること。この献身は、教会の社会についての教えに従って、完全な人格尊厳の確立に尽くします。

……

 以上述べてきた基本的基準は、多様なグループの生き方と働きのうちに示される具体的な実りによって実証されます。その実りとして、次のようなものがあげられます。祈り、観想、典礼、秘跡生活を新たに喜んで生きることキリスト者の結婚、司祭職、修道生活への召命を再び目覚めさせること地方レベル、全国レベルおよび国際レベルでの教会の計画や活動に参加する準備ができていること要理教育に献身し、キリスト者を育成し教える能力社会生活のいろいろな環境においてキリスト者としての存在を示そうと望むこと。また愛にあふれた文化的で宗教的な働きを目覚めさせること。すべての人への惜しみない愛を導き出す、とらわれのない精神と福音的清貧。キリスト教生活への回心、あるいは洗礼を受けながら信仰から遠ざかっていた人を交わりとしての教会に復帰させることなど。」(信徒の召命と使命30

ここに述べられていることは、まさに私たちの会のIDカードであり、自分たちの姿をここに認めるもの、私たちの信徒としての養成と使徒職の歩みの規範、実りであると私は思います。ここに述べられた言葉と、一世紀前にADMAを創設するようドン・ボスコを動かした発想との間に、強い一致があるのです。

 しかし、私たちは時に、特に実践において、信徒の次元のいくつか重要な側面を当たり前のことと思い、それについて考えないリスクに陥ることがあるように思います。それらの側面は、十分に理解するなら、今日、私たちのADMAのメンバーとしてのあり方を変え、変容させることができます。十分にわかったということは決してなく、何も決して当たり前と思ってはいけないのです。経験が教えてくれるように、神に関する事柄には深いダイナミズムがあり、それは自らを新たにするよう私たちに求めます。生きるべき「今日」があります。みことばの光に照らし、主が私たちに何を求めておられるのか、理解しながら……

私たちの体験

 そこで、今日、皆さんとこのテーマを考えるために、自分の体験を振り返ることにしました。ADMAヴァルドッコの会長としての奉仕の経験から、でもそれ以上に、会における自分の歩みから-志願者として、そして会員として。自分が参加した祝祭や会合について、出会った人々のこと、大きな感動の体験、頂いた数々の恵みについて振り返りました。実際、イエスは人となられました、私たちの信仰は何か理論上のものではなく、私たちの人間性のうちに、私たちの体験の中で、具体的なものになります。私たちはその人間性、体験の中でこそ、忠実な信徒であることの深い意味、また忠実なADMA会員であることの意味を見いだせるのです。

 私自身について大まかにわかっていただくため、少し情報を提供します:名前はレナート、48歳です。妻はバルバラといいます。きっかり12日後に、私たちは結婚21周年を祝います。バルバラと私は2013年からADMAのメンバーで、2017年からADMAヴァルドッコの会長を務めています。私たちには4人の子どもがいて、たくさんの喜び、いくらかのトラブル、日常生活で直面する大小さまざまな問題や挑戦から成る、全くふつうの生活を送っています。夫婦として、親として、共同体のメンバー、キリスト者、市民として、家庭、学校、職場、教会など生活のあらゆる場で。

 この短い紹介に、最初の言葉を結び付けたいと思います。信徒の次元についての今日の私たちの振り返りにとって重要な言葉、すなわち「日常」です:信徒としてADMAに属するということは、私たちを日常生活の外へ、ほかの場へ、何らかの形で日常生活から逃避させるのではありません。その反対に、ADMAの一員であることは、「今」を見るまなざしを変えさせ、日常生活において正しい姿勢を生きるよう、私たちの人生をマリアにゆだねるよう、私たちを助けます。何というすばらしい贈りもの、与えられている源泉でしょう! ADMAへの帰属を、決して日常生活から切り離してはいけません、会合や黙想会、祝祭のときだけADMAのメンバーだと思うようなことが決してあってはなりません。私たちの人間性は、単に外面的な、環境的に条件づけられるものではなく、イエス・キリストのうちに満ち満ちた意味を見いだすよう方向づけられた存在なのです。私たちはADMAのメンバーとして生きるとき、ただ個人としてではなく、「家族」として生きなければなりません。これは、私たちの会の信徒的次元を今日、再発見するための、2つめの重要な言葉です:ADMAは家族の皆が参加できます:大人、若い人、子ども、親、子ども、祖父母などなど。

[私は、生きる糧として、毎日、日常生活の中で、ADMAへの帰属を生きているだろうか? ADMAは私の家庭生活に結ばれているだろうか? 時に、現実から遊離し、日々の生活の責任(家庭、仕事、教会の現実)とかかわりなく、ADMA会員であることに逃避するリスクに陥っていないだろうか? ]

 私たちが生きるよう呼ばれている日々の生活におけるもう一つの基本的なことは、「単純素朴さ」、です。それは、本質的なことの再発見として理解されます。これも、信徒である私たちに深く関わる側面です。私たちはこの世にありながらこの世のものではない者(ヨハネ17章15節)として生きるよう呼ばれています。天と地上の間のバランスを絶えず求めなければなりません。例えば、被造物の恵みを利用するよう私たちは呼ばれていますが、均衡の取れた形でそうするよう呼ばれています。単純素朴な生き方が基本であることについて:私たちの歩み、ADMAのすべてのグループの歩みにおいて、私たちの信仰の基本的な価値と選択が、私たちの取り組みの中心にいつもあるようにしなければなりません。あのスタイルを、創設以来、ドン・ボスコがADMAのために思い描いたあの単純素朴さを、失ってはなりません。聖体におられるイエスの中心性とキリスト者の扶けマリアへの委託は、私たちのバランスの探求における枢軸です:この二つを中心に置くなら、信徒としてのほかのすべての体験は、あらゆる時、場所において、正しい形、正しい色を帯びるようになるでしょう。

[私は日常生活においてバランスを求めているだろうか? 信仰の歩みにとって本質的でないものを捨てることができるだろうか? グループとして、信仰の中心にあるものから目をそらさないようにしているだろうか? 養成と使徒職の歩みにおいて、固有の、資質を高めるものと、そうでないものとの識別ができているだろうか? グループで、聖体礼拝、ロザリオ、毎月24日の扶助者聖母の記念など、私たちのアイデンティティーの価値を活かしているだろうか?].

 強調したい4つめの側面は、常に私たち自身の体験から出発しながら、私たちのADMAへの帰属が、出会いから、人との、友人、兄弟との、生きた、なくてはならない関係から生まれたものであるということです。その人たちは信仰とあかしをもって私たちに道を示し、私たちの日々の歩みに寄り添ってくれました。ADMAとは、この関係、この呼びかけの名前なのだと、私はいつも言っています。主はいつもこのような人間関係を用い、人を通して働かれます。主は恵みの仲介者を必要とされますが、それは司祭や奉献生活者だけでなく、私たち皆です。信徒の視点から、この側面に気づき、再発見し、「恵みの仲介者」であること、世の光(マタイ5章14節)であることのすばらしさを再発見できると思います! 毎日、毎瞬間、主が兄弟姉妹に手を差し伸べ触れられるための道具に、私たちはなれるのです。私たちがADMAのメンバーとして差し出すことのできる第一の、最も重要な使徒職、奉仕は:恵みを分かち合い、人生をマリアにゆだねることのすばらしさを伝えることです。

[個人のレベルで、私はマリアに心を奪われているだろうか、マリアへの愛を兄弟姉妹に伝えているだろうか? グループとして、マリアを家に迎えたこと、マリアによってイエスへと導かれることの恵みと喜びを、分かち合う用意があるだろうか? 主が私たちに与えられた仲介者の役割を、私たちは認識しているだろうか? 良い仲介者であるように自分たちを養成しているだろうか、将来、別のレベルで私たちの諸グループを活気づけることができるよう、信徒を養成しているだろうか? 私たちの間でイエスを示す奉献生活者や司祭の重要な役割を見失うことなく、同時に、霊的活性化のために信徒が果たす役割を、私たちは力づけることができると思います。]

 一文に要約するなら、私たちは、信徒のADMAメンバーとして、日々の(家庭)生活の中で、単純素朴な生き方をもって、恵みの仲介者になれる、と私は言いたいと思います!

 最後に、恵みを分かち合うことが私たちの最も自然な使徒職であるなら、毎日の生活がその枠組みであり、単純素朴さがそのスタイル、そして全世界が、そこで働くようにと主がADMAメンバーを呼ばれるぶどう園なのだと付け加えることができるでしょう。それぞれが、置かれた状況の中で。そうです、ADMAは全世界を抱擁するから、あらゆる時代に抱擁するからです。ドン・ボスコが私たちの会を生み出したのは、一つひとつ、どのグループも、小さな集いも、大きな集いも、トリノからティモールに至るまで、アフリカでも、南米でも、どこにあっても、そのグループがユニークで類ないものであるためです。それぞれのグループは、生きるように呼ばれた場所と時の美しさ、色彩、固有性を捉え、発展させることができます。聖霊の風を迎え、本質的なものだけをとどめ、私たち皆を二つの柱に結びながら。ドン・ボスコの夢の子らとして、大いなるサレジオ家族に属するものとして。

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