サレジオの宣教精神

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ACTS437号53ページ~
宣教顧問アルフレッド・マラヴィラ師
サレジオの宣教精神
サレジオ会員として、私たちはどこでも、若者の真の宣教師であり、若者は私たちの宣教地です[16] 。私たちサレジオ会員は皆、牧者の愛の中心としてのドン・ボスコの宣教精神を生きており、それは「オラトリオの心」、熱意、意欲、異文化間・宗教間対話の能力で現されます。それは、特に若者の福音化への情熱であり、アルベルト・カヴィリア師がサレジオのモットーと考えたは “Ci vado io”(私はそこに行く)に表されるように、必要があればどこへでも派遣するという意志でです。つまり、“Da mihi animas”に集約される宣教精神は、サレジオのカリスマそのものにそのルーツがあるので、すべてのサレジオ会員に典型的なものです。この宣教精神が、私たちにサレジオ奉献生活を「宣教の状態で永続的に」生きさせるのです[17]。
若い会員、養成者、学習センターの先生のための夏の宣教体験、また国際養成共同体での体験は、心の開放、異文化・宗教間関係、そして究極的にはサレジオ宣教精神を育みます[18]。 毎月11日の宣教の祈り、毎年のサレジオ宣教の日、その他の宣教的な活動の取り組みは、すべての共同体と管区で宣教精神を生かすのに役立っています。すべてのサレジオ共同体が、自分たちの管区に到着する新しい宣教師を歓迎し、同行することができるのも、この宣教師の精神によるものです。

サレジオ宣教師の召命
教会全体が宣教的であるという事実は、召命によって生涯を送る宣教師がいることを排除するものではありません。同様に、私たちの福音宣教の新境地や教会がまだ完全に確立されていない場所(ad gentes)で熱心に寛大に協力するために、自分たちの文化環境や国から世界のあらゆる場所(ad exteros)に送り出されることを完全に可能にして、召されていると感じるサレジオ会員がいます。それは、根本的で完全な自己の贈与であり、その性質上、時間の制限なく完全に委ねられたことを意味します(ad vitam)[19]。
洗礼の秘跡を通して、すべてのキリスト者は神の民の一員であり、教会の使命を分かち合います。したがって、サレジオの宣教師召命は、私たちの共通のサレジオの召命の中で、主からの呼びかけです[21]。ドン・ボスコのカリスマ(会憲 30)の本質的特徴として、サレジオの宣教師召命は、司牧的慈愛をより根本的に表現しています。それは主からの贈り物であり、祈りの中で呼び起こされ、会員の中で目覚めさせられ、彼らの識別の中で確認され、彼らの成長の中で伴われる必要があるものです。サレジオ会の使命は、唯一のサレジオ会の使命の一部です。ですから、サレジオ宣教師は特権的な会員のエリート集団に属しているのではありません。彼は、すべての会員に共通のサレジオ会の召命を、より寛大で現実な方法で表現したいと願う人なのです。
現総長は、管区長、霊的指導者、そして院長の助けを借りて自らの宣教的召命を見分ける旅をした会員を、人手が足りないから、あるいは管区が必要としているからという理由だけで妨げることはできないと何度も繰り返し述べています。ヴァルドッコの扶助者聖母の聖堂での宣教師の送り出しは、キリスト者の助けの聖マリアの前で、修道会がその宣教の約束を新たにするしぐさです。

サレジオ宣教師
サレジオ会の宣教師は、単に人材の必要性に応えるだけでなく、何よりも異文化間の対話に、信仰とカリスマの文化化に貢献し、地域の新しい召命を生み出すことができるプロセスを引き起こすために、管区に決定的に任命されます(会憲159)。宣教師は与えるだけでなく、何よりも受ける人であり、教えるだけでなく、何よりも奉仕する人々から学びます。仲介者として、宣教師は自分のために何も持たず、「一致の恵み(grace of unity)」を通して聖性への熱意を生かし、消耗するまで惜しみなく自分を与えるように気を配ります[22]。
宣教師は地域教会の中に、そして、管区の生活と教育・司牧計画の中に組み込まれ、その個人的賜物、使徒的熱意、宣教的感受性によってそれらを豊かにするのです。文化化はゆっくりとした過程であり、完全に実現されることはありません。したがって、宣教師は、キリスト教信仰とサレジオのカリスマに照らしてその理解を深め続けながら、現地の文化によって豊かにされることに心を開くのです。各宣教師は、各グループの具体的な召命と生活の形態に従って、賜物と価値の真の交換を促進することによって、信徒、宣教士ボランティア、サレジオ家族の他のメンバーと協力することに努めます。[23] 老年になっても、祈りと生活の模範によって、友情と知恵を分かち合うことによって宣教師の仕事を継続します。宣教師は最後の息まで自分に託された人々のために身を捧げ、宣教地で埋葬することによってこの愛を封印します。
宣教師がその管区にいることは、文化交流を強化します。地元の会員は、宣教師が持っていない自分たちの文化についての認識を持っており、宣教師は地元の会員が認識していない文化についてのいくつかの視点を提供するのです。実際、同じ文化の会員だけで構成される教区は、異文化への挑戦に鈍感になり、自分たちの文化世界の枠を越えて見ることができなくなる危険性があるのです。宣教師のおかげで、今日、ドン・ボスコのカリスマは134カ国に存在し、文化的な影響を受けています。実際、修道会の宣教への献身は、総会27 が要求する会員の世界的な再分配にも決定的な方法で貢献しています[24]。

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-16 Cf. L. RICCERI, “Missionaries of Youth”, in ASC 279, p. 6; GC22, no.13.
-17 Cf. FRANCIS, Apostolic Exhortation Evangelii Gaudium (2013) no. 25;J.E. VECCHI, “Our Missionary Obligation in view of the Year 2000”, in AGC362, p. 6-8; F. CEREDA, “Encouraging International Communities (GC27 75.5)”, in AGC 429, p. 44-46.
-18 Cf Ibid P.50
-19 Cf. JOHN PAUL II, Encyclical Redemptoris Missio (1990), no. 32, 65; E. VIGANÒ, “Pope’s Appeal”, p. 33.
-20 Cf. JOHN PAUL II, Apostolic Exhortation Vita Consacrata (1996), nos.30-31, 71, 78.
-21 Cf. Ad Gentes no.23; Redemptoris Missio, n. 65.
-22 Cf. Fratelli Tutti, no. 284; Redemptoris Missio, n. 90.
-23 Cf. Charter of the Charismatic Identity, no. 10, 19.
-24 Cf. GC27, 75.5; E. VIGANÒ, “Pope’s Appeal”, p. 11; F. CEREDA, “Encouraging International Communities”, p. 46-48.

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