福者 ラウラ・ヴィクーニャ (一八九一-一九〇四)
「私の生涯は君たちのためにだけ」とドン・ボスコは、一八四六年、彼の貧しい若者たちに言った。これは、司祭職の始まりのライフ・ワークのはっきりした宣言であった。具体的には、若者たちを「誠実な社会人、良きキリスト者」に育てあげるために、自分の一生を捧げることを望んだのである。彼にとって、これは、聖人のイメージをえん曲に表したことばである。最初の少年証聖者ドミニコ・サビオが神の不思議なはからいによって、ドン・ボスコの生徒であったとは驚くべきことである。教会史の十九世紀の間に、多くの教育者である聖人が輩出してはいるが、このような偉業はなし得なかった。神学者達は弱冠十四歳の少年が、神学的・道徳的徳を実践できるかどうかと長く議論を戦わせた。最後に、可能であるという結論が出され、ドミニコ・サビオが列聖された。二十世紀始め、ドン・ボスコの霊的娘たち、扶助者聖母会のシスターたちも、やっと十代になったばかりのチリの貧しい少女、ラウラ・ヴィクーニャを、聖人になるよう育てあげた。
さまようヴィクーニャ家
ヨセフ・ドミニコ・ヴィクーニャは、スペイン系の高貴の生まれでであることを誇りとするチリ陸軍の士官であった。妻のメルセデス・ピントはチリ人で、農家の出身の裁縫師だった。この下層階級の妻にめとったために、ヨセフは人々から見くだされていた。一八九一年四月五日に長女が生まれたが、政治情勢がかなり不安定であったため、洗礼を授けてマリア・ラウラ・カルメンと名づけることができたのは五十日後であった。共和国大統領ヨセフ・エマヌエル・バルマセーダは、保守党支持者のヴィクーニャ家らの応援を受けても余儀なく退位をさせ、その後反乱軍は、ヴィクーニャ家たちを含む支持者に対し、猛烈な反乱を起こした。
長年熱心に忠実に仕えた祖国から見捨てられ、ヨセフと家族は逃亡しなければならなかった。母はまだ生後四ヶ月のラウラを抱え、でこぼこ道を南へ五百キロ以上歩いて、テムコにたどり着いたが、生活は苦しく気候も厳しかった。一八九四年、次女の誕生で家族の悩みは少し軽減したが、その喜びもつかの間、数ヶ月後には、父ヨセフが肺炎で亡くなった。
政治情勢悪化のため、父親のいない家族が、チリのサンチアゴに戻るのは無理で、またメルセデス夫人は親戚の援助を求める気もなかった。齢二十八歳の勇気ある未亡人は、洋裁を再開し、その後貯金で小さな紳士用装身具店を買った。一生懸命働き、お得意さんにはいつも微笑んでいたが、心の中では泣き続けていた。テムコは彼女にとって非常につらいところで、暴力に満ちた追放の地であった。その上困ったことに、一八九九年のある夜、泥棒が入って、全財産を盗んでいった。失望した彼女は、二人の子供を連れ、そこには明るい見通しがあると言われていたアルゼンチンのネウケンに出かけようと決めた。一八九九年夏メルセデスは出発、大きな山脈を越えてアルゼンチンに到着し、先ずはノルキムそれからラス・ラハスに定住しようとした。少したつと、支えてくれる人もないこの未知の土地にいることに危険を感じはじめた彼女は、再び移動しなければならなかった。
最後にフニン・デ・ロス・アンデスに落ち着き、そこでマヌエル・モーラと言う金持ちの地主と知り合いになった。モーラは、邪悪にして冷酷、服役後にチョス・マラルから来た者であったが、美男子で馬術の名手、無慈悲な主人で、牛や羊、農家の世話をするため多くの男女を雇っていた。二十五キロ離れたフニン近郊に、二つの大牧場をつくりあげていた。この身持ちが悪く裕福な牧場主は、美しい若い未亡人に、富、安楽な暮らし、保護を約束して、彼女を誘惑しようとした。窮状に陥っていたメルセデスは、彼にいささか気を許して、結婚の話は出なかったのに、彼女自身は結婚を夢見て、彼との同居に同意した。彼女はキリスト教的な家庭をつくり、二人の若い娘たちに財政的援助と安全を確保しようと考えたのである。
幼いころから苦労を重ね、ラウラは年齢の割に早熟であった。天使のように無邪気だが、生来の直観力で、なんとなく母の状態が健全でないと感じとっていた。モーラは若い母と二人のかわいい子供たちをキルキウエの牧場へ連れて行ったが、そこは、メルセデスが夢見たものとはほど遠いものであった。こうしてメルセデスは、モーラの内縁の妻になった。
扶助者聖母会の学校への入学
当時、フニン・デ・ロス・アンデスでは、サレジオ会宣教師たちが男子のための学校を開き、 扶助者聖母会のシスターたちは女子の学校を開いた。 一九〇〇年一月二十一日、 メルセデスは二人の若い娘たち、ラウラとアマンディナをこの学校に連れて行った。新学年の始まる数ヶ月前の夏休み中のことであった。
多分、キルキウエ(たかの巣)の牧場が、若い子供たちにとってふさわしい住まいではないと、母は気づいたのだと思う。ラウラは、福音的な愛の雰囲気を学校に発見した。その雰囲気は、熱列な信心と晴れやかな喜びに溢れ、典型的なサレジオ会の家族的精神によるものであった。
二月、三月はこのような平和な喜びの中にうち過ぎた。新学年の初めに校則が生徒に説明されたが、その中の一カ条は次の如くであった。「若いときから、徳を実行するように努めなさい。 老年を待つと、永遠の滅びを招くことになる。その危険は罪から起こる」。ラウラは、すぐに母のことを考えた。修道院長シスター・ピアイによると、最初からラウラは年に似合わず判断力に富み、信心にも熱心であった。主任司祭でラウラの指導司祭サレジオ会員クレスタネロ神父は言っている。「入学前からラウラの品行は模範的であったが、シスターたちと知り合いになって教理を習い始めてから、徳の面でも、優雅さの面でもより成長した」。もう一人のサレジオ会員ジェンギーニ神父も言っている。「ラウラ・ヴィクーニャは人並み以上の知性があり、彼女には物事をくり返し言う必要はなかった」。院長は次のようにも指摘している。「彼女の目立ったところは、品行と教理の勉強であった」。 わずか十歳のその子は、すぐに勉強を知恵に、神の教えを生活に移した。ある日カテケージスの時間に、シスター・アゾカルは婚姻の秘跡について話した。その地方に不法な家族が多いと知っていたので、よく気をつけないと婚姻の秘跡を受けないで同棲する男女が重大な罪を犯し、永遠の滅びにいたる危険があると説明した。この言葉に若い少女は気を失い、病室に運ばれなければならなくなった。明らかにこれは母の普通でない状態のためであったが、そのわけは先生も友達も全く分からなかった。学年末、ラウラは品行と勤勉で表彰された。メルセデスは式にあずかり、娘二人をキルキウエ牧場に連れて帰った。ラウラは恐怖に震えながらそこに帰った。母も長女の身体が早く発育していくことを見て心配したが、その夏、モーラはその子に対して紳士的にふるまった。それでも、ラウラは彼を見るたびに恐怖におびえた。
休暇で学校を離れる前、シスターたちは子供たちに、家に帰ってからも祈るように勧めた。残念なことに、ラウラとアマンディナは牧場でおおやけに祈ることができなかった。母もモーラの怒りへの恐れを口実に、子供たちの秘密の祈りには参加しなかった。ラウラは、いつも母について口には出しにくい心配を抱き、事実、深く同情もしていた。
初聖体、信仰の深まり
新学年になると、ラウラは喜んで学校に戻っていった。のんびりしているように見えて、活発にレクリエーションに参加していたが、よく見ると、顔には悲しみの色が見えた。慰めるため、院長は彼女に初聖体を受けさせた。メルセデスが、式にあずかりに来たとき、ラウラは、走り寄って言った。「ママ、明日、初聖体を受けます。今までの不愉快なことをお赦しください。過去において悪かったなら、これからは慰めになります。お母さんのためにお祈りします」。そして泣きだした。六月二日、荘厳な式が行われた。そのとき、ラウラは次の決心をした。
一、神様、一生涯神様を愛し、神様に奉仕し、私の心と魂、全存在を捧げます
二、罪を犯して神様を侮辱するよりも死にたいので、神様から遠ざけてしまうものを全部断念します
三、神様を知らせ、愛させるためにできるだけのことをしたい。そして、神様が毎日お受けになる侮辱、特に私の家族からの侮辱を償うために全力を尽くします
四、神様、愛、苦行、犠牲の生活をください
その日、母は娘と一緒に聖体を拝領しなかった。
ラウラは、最初の寮生の一人メルセディタス・ヴェーラと親友になった。二人とも、いつか扶助者聖母会員になるつもりであった。二人は、主に対する愛を表わすために競い合った。あるときラウラは、作業室にいるメルセディタスにたずねた。「だれのために働いているの?」「イエス様とマリア様のためよ」「よかったわ。マードレ・マザレロにならって、一針一針を神への愛の業に変えましょう」とラウラは言った。
二十五年後、メルセディタスは、次のような出来事を思い出している。二人がイエスのみ心のご像の前で祈っていたとき、ご像の足に接吻したかったが、高くて届かなかった。現在、扶助者聖母会員になっているメルセディタスは言っている。「ラウラがあまりにも熱心に祈ったので、イエスのみ心のご像が降りてきて、私たちは敬意を表わすことができたのです」。 同じように、二人が上長に従って植えた枯れ枝は花をつけた。それは従順の棒と呼ばれるようになった。シスター・メルセディタスは、また次のことを証言している。ラウラは聴罪司祭の許可で、硬い毛織のシャツを着た。荒い綱に硬い結び目をつけた。十五個の結び目は、ロザリオの十五の奥義を意味していた。それはキルキウエで犯されている罪と、そこで催されるダンス・パーティを償うためであった。
二年目の年末、無原罪の聖母の祝日に、聖母の子ども信心会の入会式が行われ、青いリボンと聖母のメダルをもらった。それは、聖母に属することと、熱心に愛徳を尽くし、天使のように清く生きるという約束の、目に見えるしるしであった。
純潔の固守
クリスマス後、一八九九年の夏休みの間、メルセデスは子供たちをキルキウエ牧場主の家へ連れて帰った。ラウラは緊張し、「はげたか」が餌食を待っていると予感した。ある日、モーラはラウラとふたりきりにしてくれといって、メルセデスを家から追い出した。その美しい少女と話し、学校での良い成績のことを聴いて喜びと満足を表わし、その美しさにも感嘆した。それから、手がラウラの方に伸びて、彼女の肩をつかもうとしたとき、ラウラは一歩さがって戸口から逃げ、畑へ避難した。モーラは思いがかなわなかったため、かんしゃくを起こし、怒ってみだらな言葉を吐いた。
その後しばらくの間、ラウラは彼を避けた。日が経つに連れて、恐怖が増していった。モーラは、それまで自分の思いがかなわなかったことはなく、十二歳の女の子に出し抜かれるつもりもなかった。彼女の外観の美しさだけを見て、彼女の道徳的な力と勇気を理解できなかった。
しかし、モーラはチャンスをうかがっていた。その間ラウラは、毎日、神と聖母に熱心に祈り、この残酷な輩(やから)から純潔を守ってくださるように願った。どうしても側にいなければならないとき、ピンと張ったばねのように、モーラが近づいたらすぐ飛び出す用意をしていた。
毎年、その年に牧場で生まれた家畜に焼きごてが押され烙印がおされたたあと、パーティをして祝った。その日モーラはラウラに近づき、一緒にダンスをしてくれないかと誘った。「罪を犯すよりも死を選ぶ」と心に決めて、勇敢な女の子は「いいえ」ときっぱりと答えた。モーラの心に怒りがもえあがってきたが、心を引きつけようと頼み続けた。ラウラは、きっぱりと「いいえ」をくりかえすのを、招待客たちは見ていた。モーラの口調は強くなり、彼女を侮辱した。モーラは、自分の家にいる「目下のもの」に、勝手に命ずる権利があると考えていた。ラウラは、岩のように硬く断り続け、メルセデスは緊張しながら心配していた。
窓から一部始終を見ていた母は、心が張り裂けんばかりだったが、愛する娘をかばうために何もできなかった。モーラは言葉から行動に移し、無力な女の子の腕を掴むと、犬と一緒に暗闇に放り出して戸を閉めた。そして、娘を連れてきて謝らせ、一緒にダンスをさせろとメルセデスに叫んだ。母は出て行き、ダンスは罪ではないと言って、ラウラに入るように言い聞かせようとした。賢い女の子はモーラの意図が良く分かっていたので、罪を犯すよりも死んでもいいと決心し、今度は母に「いいえ」ときっぱり答えた。それから暗闇のなかに飛び出し、木々の間に隠れた。
メルセデスが一人で入ってきたとき、モーラは彼女をのろい、手首をつかんで外へ引っ張り出した。ダンス・パーティが終わると外へ出て、娘を柱に縛りつけさせた。怒った男は女の子の顔に熱い焼きごてを近づけた。彼女は目をつぶって心の中で神に祈った。モーラは急に焼きごてを捨て、鞭をつかんで、「生意気な女の子」と言いながら容赦なく鞭打った。打たれると柔らかい皮膚がひどく痛んで、ラウラはしくしく泣いたが、あわれみを乞うことはなかった。人々は心配そうに息をこらして見ていた。彼らも友人であったラウラのために祈っていた。
初代教会のキリスト者の拷問と勇気の話は聞いたことがあったが、この時代、天使のような少女に同じことがなされるとは夢にも思わなかった。モーラの命令で、ラウラは一晩中柱に縛られたまま放って置かれた。だれも絶対に彼女に近づいてはいけないし、だれも近づかなかった。
その後、つらい日々が続いた。モーラはまだ十歳そこらの女の子に負けて恥をかいたとつらく当たり、母にも子にも侮辱を加えた。その時からモーラは、学校の月謝を払わなくなり、子供たちを牧場で奴隷として働かせた。母は反対した。「この子たちは私の子どもです。私は、ここに奴隷としているのではありません」と言った。新学年に子供たちは、学校に行かれなくなった。
給費生として
校長のシスター・ピアイは全ての状況を知り、簡単な仕事をさせて、五年間ラウラを給費制の寮生として学業を継続することを認めた。衣服と履物は母が買ってくれると約束した。この新しい状況は、普通の生徒にとっては恥ずかしいものだったかもしれないが、ラウラにとってはそうではなかった。誰かの役に立つことは、ラウラにとって恥ずかしいことではなく喜びであった。ラウラは無償で認められたが、アマンディナはキルキウエの牧場に残らなければならなくなった。
学校の授業は規則通りに進み、ラウラは勉強しながら、同時に小さい子供たちの面倒を見た。朝はベッドを整頓させ、顔を洗い、髪の毛をくしでとかし、祈るためチャペルに連れて行った。時には家事も手伝った。志願者であったマリア・ブリチェーノは、一緒にチェメフィン川へ洗濯をしに行ったことを記憶している。ときには香部屋係の手伝いをしたが、ラウラにとって聖なるものに従事するのは、とても嬉しいことだった。実際、彼女は誰にでも手を貸し、みんなはラウラをほめたのである。
ラウラはしばらくの間、ひそかに心の中で自分の上長たちのように、扶助者聖母会のシスターになりたいと言う希望を抱いていた。もはや自分自身を神に捧げたいというこの望みは、ますます強くなっていた。友人のメルセディタスと同じように、志願者と他の生徒たちを区別するあの黒いケープを受けたかった。 ある朝、院長のところに行った。彼女の目は輝き、心は喜びで大きく鼓動していた。胸に両手の指を組み合わせて、願いを述べた。シスター・ピアイはその場ですぐ返事をしなかった。事実、母の特別な生活ぶりのため、少女は扶助者聖母会の入会を許されず、これはラウラにとって大打撃ではあったが、すべてを黙って耐え忍んだ。
ある日、聖堂に行き、次のように祈った。「イエスさま、扶助者聖母会の中で自身を捧げる会員の中間入りを許されませんので、私はわが身を完全にイエスさまの愛に捧げます。私が俗世に残らなくてはならないとしても、私はイエスさまのものでありたいのです」。クレスタネロ神父は、ラウラが清貧、貞潔、従順の誓願について彼から教えを受けたと言っている。ある朝、聖体拝領後に、彼の許可のもと、神のみ前でひそかにその三誓願を立てた。司祭だけがこれを知っており、彼女の奉献生活について、他には誰も知らなかった。
母の救霊への熱望
賢いラウラは、もうずいぶん前から母の弱さを悟り、その清い心ゆえに胸を痛めさせた。母はモーラと不倫関係にあり、罪深い生活をしている。ラウラは母の回心のため、たくさん祈り、サレジオ会の聖堂で多くのミサを捧げてもらった。腰に巻いた結び目のついた縄のことも、床の中で、また祈るため跪いたときにはひざの下に、歩く時には靴の中に入れた小石や木の破片のことも、誰にも打ち明けなかった。苦行は母の回心のための手段であり、昼も夜も涙と祈りを、愛する母が神に立ちかえるように捧げた。しばしば母に、よそで新しい生活を始めるよう願った。三人一緒に、もう一度正しく神の子として生きることができるよう、別の家を造るように懇願した。メルセデスは、初めのうちはラウラの願いに首を振ってきっぱりと拒絶し、そのうちラウラに対して冷淡になり、めったにラウラに会いに学校に行かなくなった。このことはラウラの感じやすい心をひどく傷つけた。
ある日曜日、クレスタネロ神父は説教の中で、福音の良い羊飼いについて話した。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・・わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10・11~13)。狼に関するそのくだりは、ラウラにキルキウエのことを思い出させ、良い羊飼いが羊のために命を捨てるという考えは、少女の心の中に深く刻まれた。突然、母の救いのためにもう一つの方法を見つけたと思った。母の回心のために自分の命を捧げることができるのだ。
その日、ラウラが自分の命を神に捧げることができるかどうか、シスター・アゾカルに尋ねたところ、シスターは自分の霊的指導者クレスタネロ神父に相談するように勧めた。ラウラは母の魂の救いのために、自分の命を捧げたいとはっきり言った。神父はすぐには返事をしなかったが、そのような重大なことについては、祈ってよく考えてからでないと返事をしたくなかったのである。少女はいったん立ち去ったが、何回も戻ってきては同じ質問をくり返した。神父はラウラには、殉教者、いけにえになる素質があると判断し、その申し出を承諾すると、ラウラは直ちに祭壇のもとへかけつけた。クレスタネロ神父によれば、ラウラは喜びと希望にあふれた涙を流し、母の霊魂の救いのためにイエスとマリアに自分自身をいけにえとして捧げたのである。
神父はさらに、祈りがラウラは身を捧げたあの日から聞き入れられたと確信し、彼女の健康はすぐに衰え始めた、と言っている。一九〇二年年末、上長たちは彼女の健康が衰えていくことに気づいて心配し、 彼女に託した手仕事の量を減らして少し長く休ませ、もっと栄養のある食事を与えた。
洪水、そして病床での祈り
一九〇三年の冬は特に暗くて雨が多く、何日も立て続けに雨が降った。チメフィン川の水位がどんどん上がっていったが、シスターたちはあまり心配していなかった。毎年のように川が氾濫しても気にする者はなく、たいてい水はいつもすぐに減っていっていたのだ。一九〇三年七月十六日夕、カルメル山の聖母の祝日に、猛烈な勢いで学校に浸水してきて、数分間で一メートルの水位に達した。校長シスター・ピアイは大騒ぎを聞いて血が凍ったが、子供たちを助け出すために教室に入り、手を貸して安全なところに移動した。
フニン在住の寛大な婦人で、堅信の秘跡の折にはラウラの代母を勤めたフェリシンダ・ラゴス・デ・エスピノスは、町の高台にある大邸宅に住んでおり、学校の生徒たちとシスターたちを泊めようと申し出た。安全な場所に移されるため、馬車に乗せられると、ラウラはため息をついて、「マリア様、あなたの家で死んでもよかったのに」と言ったが、これは何も驚くべきことではない。もはや彼女の一番好きな射祷は「カルメル山の聖母、私を天国に連れていってください」であった。
四日後大水は引き、シスターたちと子供たちは、全ての部屋から苦労して泥をかき出した。その時、一人がラウラの顔色の悪さと苦しい呼吸に気がついた。シスター・ピアイは医者を呼びにやったが、治療はあまり効果がなかった。彼女にはこの世を去って天国に行くという一つの望みしかなかった。事実、子供の時からさすらい人、ホームレス、家族もない状態にあったこの若者の夢は、すべて人間の邪悪さとみじめさの岩にぶつかって砕け散ったかのように見えた。
いつもの月毎の買い物のためフニンに来たメルセデスは、ラウラが重病だと知って、キルキウエに連れ戻したくなった。ラウラは小声で「私の天国を離れなければならないのですか」と言ったが、少したって、「これがイエス様のお望みなら、そのとおりになりますように」と付け加えた。最後の別れを告げ、母と娘は旅路についた。農場が地平線のかなたに見えてくると、体力は衰えていても、ラウラの精神はまだ強かった。農場でメルセデスは娘の衰弱を見て悲しんだが、自分がその原因だとはまだ気づいていなかった。ラウラは一九〇三年九 月十五日から十一月 一日までキルキウエに滞在した。
モーラはラウラをフニンに連れて行き、医者にかからせ、アマンディナを再入学させるというメルセデスの計画に反対はしなかった。メルセデスは学校の近くに小さい家を借りた。その家は、とてもみすぼらしかったが、病気の娘は非常に喜んだ。そこでは自由であり、クレスタネロ神父やシスターたちが、ラウラを時々訪ねてくることができるからであった。
ラウラの病気はおそらく肺結核の一種であったのだろう。日中はほとんどベッドに横たわっていたが、朝は母に支えられてミサに行き、夕方は聖母への祈りに参加した。M字形のリボンとメダルをベッドの脚のほうにつけ、自分がマリアの子だということを思い出させた。子供たちにそのことを教えたのは、故シスター・アンナ・マリア・ロドリゲスであった。メルセデスは、ときに二つの相反する望みの板ばさみになっていることを自覚し動揺した。しばしばこの考えを捨てようとしながらも、いつかあの男と縁を切るための勇気を持ちたいという淡い希望を抱いた。 当面はその日その日を失意のうちにただラウラの世話をし、家の整頓をした。ラウラはそのみすぼらしいバラックから、毎日熱心に、「主よ、お母さんを救ってください。カルメル山の聖母、私を天国に連れて行ってください」と祈った。
クリスマスがやってきたが、ラウラはサレジオ会の教会の馬小屋を見ることができなかった。学年が終わってからも、バラックは狭かったので、妹アマンディナは寮にとめ置かれた。時がたつに連れてラウラの呼吸はだんだん困難になっていった。ある晩、不意に中庭で馬のひずめの音が聞こえると、モーラがバラックに押し入り、一晩泊まると言ってきかなかった。メルセデスはぞっとして説得を試みたが、彼は彼女を侮辱し病気の少女を怒鳴った。男と「奴隷女」は激しい口論となった。
口論が進むに連れて、ラウラは母が迷っているという印象を受けた。身体的には疲れきっていたが、精神はまだ強かった。苦労して起きあがり、「彼が泊るのなら、私はシスターたちのところに泊まります」と断言した。それから、よろめきながら家の外に出た。モーラはラウラを追いかけ腕をつかんで、血が出るほどひどく叩いて家に連れ戻そうとした。そのうちに大勢の人が集まってきたので、モーラは馬に飛び乗り、急いで走り去って行った。ラウラは、ベッドに戻された。
最期の日々
ある日、ラウラを慰め、最後の望みをかなえてやるために、クレスタネロ神父が年長の男子生徒を幾人か連れて来たことがあった。その望みとは、最後にもう一度聖ひつの前に跪いてイエスに感謝することであった。生徒達を外で待たせ、病気の少女は母が罪から解放され、救われるようにと、神に再度自分の命と苦しみを捧げた。それから神父は男子生徒たちを招き入れ、彼女を丁寧に担架に乗せ聖堂に運ばせた。これは、彼女が聖ひつのイエスに礼拝できた最後の機会となった。ラウラの絶え間ない祈りは、母が回心してあの男のもとを去り、救われることであった。自分のためには、ひたすら天国に憧れた。
ラウラは重態におちいると、すすんで病者の塗油の秘跡を望み、一月十八日(一九〇四年)、メルセデスはクレスタネロ神父を呼びにやった。彼はゆるしの秘跡を授け、翌日聖体を持ってくると約束した。彼女はひどく苦しんでいたが、全く不平を言わなかった。翌朝早く神父が来て聖体拝領をさせた。死に瀕しているラウラは、感謝のうちにも決意をあらたにし、母のために命を捧げた。その晩遅く、サレジオ会員たちとシスターたちが黙想会のためチリに出かけると告げた。最初は「それでは、私は助けてくださる方々の留守中に死んでいかなければならないのですか。イエスさま、何て辛いことでしょう。けれども、あなたのみ旨が行われますように」と反応したが、その後大きなあきらめを込めて言った。「イエス様のみ旨なら、私も受け入れます」
死に瀕している少女は、夫ではない人との母の罪深い生活のことをいつも考えていた。祈りながら、自分の苦しみを母の回心のために捧げていた。もう終わりが近いので、母の回心のために二年前から命を捧げていたことを、打ち明けないままで死んでいくかどうか考えた。
母の回心、娘の死
嘔吐が収まり臨終の聖体拝領が許された。一月二十二日早朝、サレジオ会のジェンギーニ神父が聖体を持ってきて、しばらくラウラと二人きりで過ごした。 少したって神父はメルセデスを呼び入れた。娘の死が近いことを知った母は声をあげて泣き出した。神父はラウラと打ち合わせたとおりに、部屋のすみに退き、瀕死の娘はたいそう優しく母に語り掛けた。「そうです。お母さん、私は死んでいきます。私はこれをイエス様にお願いしました」。メルセデスは娘をじっと見つめ、涙が頬をつたわってこぼれ落ちた。ラウラは話し続けた。「二年近く、私は自分の命をお母さんのために、お母さんの回心のためにお捧げしてきました」。メルセデスは、ひざまずいた。「お母さん、私は死ぬ前に、お母さんの回心を見る喜びを味わえないのでしょうか」
静けさを破ったのは、メルセデスのしのび泣きの声だった。ついに苦悩と後悔で打ちのめされて母は叫んだ。「それなら私がラウラの十字架の原因であり、現在の死の責任者ともなるのですか。ラウラ、今ここでラウラのお願いをかなえます。悔い改めます。神様が私の約束の証人でおられます」
ラウラは、神々しい表情で、神父を大声で呼んだ。ジェンギーニ神父が近づくと、「神父様、お母さんはあの男から離れると約束しました。神父様もその約束の証人です」と言った。それからメルセデスは言った「そうです、ラウラ。明日の朝、アマンディナと一緒に教会に行き、ゆるしの秘跡を受けます」
母と娘はしっかりと抱き合った。それは夢のようなひとときであった。メルセデスと他の人たちが、ラウラの英雄的な秘密を知ったのは、まさにその時であった。ラウラは十字架に接吻してほほえみ、小さな声で言った。「イエス様、ありがとう。マリア様、ありがとう。今は、安心して逝けます」
そして、息を引き取った。一九〇四年1月二十二日十八時のことであった。
葬儀
ラウラの母は、メルセディタスを学校に送り「マリアの子」信心会の入会の時にラウラが着た白いドレスと青リボンを頼んだ。それから、身を切るように泣きながら、娘の遺体にドレスを着せた。ラウラの友達は、愛情を込めて首の周りにリボンを巻き、手にロザリオと信心会の会則の本を置いた。ジェンギーニ神父、オルティス神学生、シスター・マリエッタとメルセディタスは、交替で遺体を見守った。
「彼女は、聖人でした。ラウラ、おとめ・殉教者、私たちのために祈ってください」と口々に言った。娘のなきがらの側に座っていた母は言った。「そうです、私のために殉教者に」。母はジェンギーニ神父を呼んで、マヌエル・モーラにもう私のことを忘れるようにおっしゃってくださいと頼んだ。自分は生きかたを変える決心をしたのだから。
一月二十三日の葬儀ミサには、フニンの住民がこぞって参列した。母がミサの前にゆるしの秘跡を受け、愛する母のために命を捧げた十二歳の娘の葬儀にあたって、長くて罪深い生活のあと聖体拝領するのは、とても心を打つ光景であった。
ラウラの生涯は、すべての少女たちにとり、純潔、謙遜、犠牲、そして特に愛の素晴らしさを示す模範である。彼女の生涯を変化させ、英雄的にまで高めたのは、愛であった。世俗にも利己主義にも汚されることのなかった愛であった。
結び
ラウラの葬儀が終わって人々が去っていくと、モーラがフニンにやってきた。なぜなら、「小さな聖人」がいなくなったので、メルセデスをキルキウエに取り戻したかったからである。しかし、今度はメルセデスではなく、ジェンギーニ神父がこの横柄な牧場主に、もう近づかないというメルセデスの決意を告げるため進み出た。群集を見て、モーラは牧場に戻るしかないと悟った。少したって再びフニンに戻ってきたが、村の婦人たちはいつもメルセデスを守った。
彼女は、はっきりと言った。「私は自分の命を犠牲にしても、死に瀕していた娘とした約束を守ります」。モーラは、大声でわめいた。「おまえは、おれから逃げることはできない。ただ、おまえが死んだとき、おれは喜ぶ」。モーラは、メルセデスに復しゅうすることはなかった。一九〇七年、喧嘩をして二人の男に襲われ、非業の死を遂げたのだ。フニンの人々は、ラウラとその母に加えた苦しみのため、神のみ手がモーラに及んだと噂した。
ラウラの妹アマンディナは、小学校を卒業すると、一九〇六年若くしてホラス・ジョーンズという人と結婚した。
フニンの婦人たちは、メルセデスが一時身を隠し、安心して戻ることができる時まで援助した。彼女は戻ってから新しい生活を始め、自分の手仕事で金を稼いだ。最終的には、鉄道員バルラ氏と結婚し、生涯の最後の二十年間は、幸福なキリスト者としての生活を送った。 若い娘の命を犠牲にして得たあの神の恵みは、一時的なものではなかった。長い時間を祈り、償いと慈善事業のうちに過ごした彼女は、繁昌している店を娘に遺して、一九二九年十一月十七日、五十九歳で良きカトリック信徒として亡くなった。
列福に向けて
ラウラ・ヴィクーニャの列福調査は、一九五五年、ヴィエドマで、教区の司教ヨセフ・ボルガッティ師によって開始された。翌年、神の若いしもべの遺体は、バイヤ・ブランカに移され、扶助者聖母会の聖堂に埋葬された。教区、またローマでの調査が成功のうちに終了し、一九六六年、尊者の称号を授与された。教皇ヨハネ・パウロ二世による列福式は、一九八八年九月三日、アスティのカステルヌォーヴォ・ ドン・ボスコで行われた。
年譜
一八九一 チリのサンチアゴで誕生
一八九九 母メルセデスとともにアルゼンチンのフニン村に移住
一九〇〇 フニンの扶助者聖母会の学校に入学
一九〇一 「マリアの子」の信心会に入会(十二月八日)
一九〇二 モーラに対して純潔を守る。母の回心のために命を捧げる
一九〇四 母の回心(一月二十二日)。ラウラの死去 (同日)
一九五五 列福調査開始
一九八八 北イタリア コルレ・ドン・ボスコで列福式
