聖フランシスコ・サレジオ(一五六七‐一六二二)
サレジオ会の保護者
おいたち
フランシスコはサレジオ城(フランス、サヴォア地方)の貴族の家庭に、男の子ばかりの六人兄弟の長男として生を受けた。パドゥアで法学を学んだが、しばらくのあいだ、霊魂の暗夜と呼べるような状態を経験した。非常に激しく深刻な絶望の誘惑にとらえられたのである。フランシスコは自分が地獄の永遠の死に陥るにちがいないと考えたが、聖母像の前で聖母に祈り、終生の貞潔を誓った。すると、あらゆる試練から解放された。二十五歳でパドゥア大学の法学博士号を取得した。若い弁護士としてフランスに帰国した彼は、彼を議員にしようとする父親の野望を拒み、また父親が決めた縁談も断った。そして、幼いころから司祭になるのが望みであったこと、すでに貞潔の誓いを立てたことを父親に話した。
神の司祭
フランシスコは聖職者の衣を身につけ、まだ司祭ではなかったが、スイス、ジュネーヴ教区の司教座聖堂の司教補佐の職に就いた。まもなく、一五九二年十二月十八日、フランシスコは二十五歳で司祭に叙階された。
ジュネーヴ湖の南岸、ル・シャブレ地方は、カルヴァン派の強固な砦であった。フランシスコ神父は、聖堂参事会員であった従兄のルイ・ド・サレジオと共に、彼らを信仰に帰らせる任務のために志願した。ボアジー氏(フランシスコの父)は、息子をそのような危険な任務に赴かせないようにとグラニエ大司教に嘆願した。司教は父親の話に同情しながら耳を傾け、また、聖なる司祭を失うことも恐れた。しかし、息子の意志は固く、大司教に願うのだった。「大司教様、踏みとどまってください」。そして、鋤に手をかけてから振り返る者は神の国にふさわしくないと、大司教に思い起こさせるのだった。フランシスコは、大いなる情熱をもって異端者たちの中に遣わされ、働きはじめた。
フランシスコは、カルヴァン派の地方で熱心に働いた。異端と闘い、老若男女に要理を教え、あちこちの教会を建て直し、記事を書いては冊子をつくり、人々が読めるように自ら製本もした。カトリック信仰について説明したこれらの冊子を、プロテスタントの家の戸口の下からそっと入れたりした。フランシスコの働きに対して、神の祝福が次第に表れるようになった。ますます多くの人々が彼の説教を聞きにやって来るようになり、回心するようになった。人々は、彼の反論の余地のない明快な論理と同じほどに、その打ち克ち難いやさしさと単純さ、忍耐強さに共感し、心を動かされた。フランシスコはよく言うのだった。「百樽の酢よりも、スプーン一杯の蜂蜜の方が多くの蝿を捕らえることができる」。「思慮深い沈黙は、愛徳なしに語られる真理に常に勝る」。苦難に満ちた四年の間に、フランシスコは地方一帯を絶えず巡回し、繰り返し命を狙われながらも、七万人のカルヴァン派をカトリックに立ち帰らせることに成功し、最後には、すべての教会にカトリックの礼拝が復活するのを目の当たりにする喜びを得た。フランシスコの大きな成功を目にしたプロテスタントの一部の指導者たちは、非常に腹を立て、殺し屋を雇って彼を暗殺しようとしたが、ことごとく失敗に終わった。
司教
ド・グラニエ司教は高齢になり、寄る年波を感じていた。司教は補佐がほしいと願っていて、フランシスコ神父が最もふさわしいと確信していた。しかし、フランシスコ神父は、頑として司教になることを受け入れようとせず、グラニエ司教に言うのだった。「司教様のもとには、わたしよりも立派にその役を果たせる司祭が大勢いらっしゃいます」。多くの人が、司教職を引き受けるようにフランシスコに願った。フランシスコはしばらくのあいだ抵抗したが、とうとう、それが神のみ旨であることを納得し、補佐司教職を受諾した。そのとき、三十二歳であった。
グラニエ司教は一六〇二年に亡くなり、聖フランシスコは二十年に及ぶ模範的な司教職となる務めについた。彼の住まい、食事、服装は、フランシスコの主張に従い、最も簡素なものにされた。貧しい人々、困窮する人々をよりよく助けることができるようにするためであった。フランシスコはたゆむことのない熱意をもって、アルプスの山ひざに隠れ、たどり着くのが困難な最も遠方の小教区をも訪ねた。彼はあらゆるところに出向き、説教をし、ゆるしの秘跡を授け、修道共同体の改革を行い、老若男女のための「平易な言葉」による要理教育を、また司祭団の年ごとのシノドスを確立した。司祭たちには、短く、直接的な、余計な飾りを省いた説教の価値を説いた。「話が長くなればなるほど、聴衆のおぼえていることは少なくなる」からであった。「上手に話すには、良く愛せばいいのです」
すべての人のための霊性
フランシスコは、多角的な活動を通して信徒を教育し、霊性がどのような身分を生きる人にとっても手に入るものであることを示した。彼は、牧者としての使命に全面的に献身した。素朴な人々と共に素朴になり、プロテスタントの人々と神学を議論し、キリストに仕えたいと望む人々を「信心生活」へと導き、神の愛の神秘を分かりやすく説明して見せた。フランシスコは、霊的生活を信徒の手の届く範囲に示すように心を砕き、信心を快い、望ましいものにした。
同時に、ジュネーヴの司教フランシスコは、おびただしい数に上る文通を続け、また『信心生活入門』、『神愛論』、『霊的講話』といった霊的指導の傑作を著す時間も捻出するほどであった。後の二つの著作は、聖ジャンヌ・ド・シャンタルと共に一六〇七年に創立した「訪問会」の修道女たちにあてて書かれ、『信心生活入門』は、特に信徒のために書かれたものである。最初に書かれたときと変わらず、今日も明快で的を射ている。聖フランシスコは、「信心と相容れない身分が存在するなどと主張するのは、異端である」と考えていた。
創立者フランシスコ
フランシスコが聴罪司祭として霊的指導を行った傑出した人々のなかに、ジャンヌ・ド・シャンタル夫人がいた。ド・シャンタル夫人は、幼い四人の子どもを持つ未亡人だった。聖性への大きな渇きを抱いていたジャンヌは、サレジオのフランシスコ神父のうちに理想的な霊的指導者を見いだした。フランシスコ司教はジャンヌ、そしてジャンヌと親交があり、同じように聖なる生き方への望みを抱いた、何人かの信心深い婦人たちのうちに、修道会を作る望みを育てた。彼女たちのために小さな家も購入した。最初の仲間は、ジャンヌ・ド・シャンタル、ジャンヌ・シャルロット・ド・ブレシャール、ジャックリーヌ・ファーヴル、ジャックリーヌ・コストであった。新しい修道共同体は「訪問の姉妹たち」と呼ばれた。それは、貧しい人々を訪ね、エリサベトに喜びの知らせをもたらしたマリアに倣うからである。会員の人数は少しずつ増え、まもなく、フランスのほかの地方にも修道院が設立されるようになった。姉妹たちは貧しい人、病気の人を訪問し、物質的援助や精神的・霊的なぐさめをもたらした。やがて、ローマは、姉妹たちが訪問に出歩くのではなく、修道院の中にとどまるようにという決定を下した。司教は大いに失望したが、ローマの指示に従った。
柔和
フランシスコ司教は、アンヌシーの訪問会修道院に、評判に問題のある、美しく若いベロ婦人を受け入れた。このことは、心ない人々のうわさの種となった。町のある人物は、フランシスコが書いたとされるベロ婦人あての手紙まで偽造した。司教が婦人に愛をほのめかす内容であった。良心に曇りのないフランシスコは動じることがなかった。手紙を偽造した人物は一六一七年に重い病にかかり、自らの犯した罪を告白し、司教のゆるしを乞うために、ヌムール公爵に取り次ぎを願った。
聖フランシスコ・サレジオは、特にその穏やかさ、親切、柔和で知られた。彼を迫害したカルヴァン派、無礼な物乞い、おしゃべりな女性たち、彼の善良さをよく思わない人など、すべての人に同じように接した。フランシスコは「紳士的聖人」、「最も穏やかな聖人」、「愛徳の博士」、「最も人間味のある聖人」、「最も愛すべき聖人」などと呼ばれている。
ペレという名の弁護士は、あらゆる機会をとらえて数々の侮辱や中傷をフランシスコに浴びせていた。あるときは、訪問会修道院の扉に、「ジュネーヴの司教閣下のハーレム」と書かれた掲示を貼り付けさせるほどであった。ある日、ペレを前にしたフランシスコは彼に言った。「あなたはわたしに悪意を抱き、わたしの評判に泥を塗るため、あらゆる手段を講じていますね…でも、もしあなたがわたしの片方の目をくりぬいたなら、わたしはもう一方の目で、善意であなたを見つめるのをやめないでしょう!」。あるとき、従兄のルイ・ド・サレジオは尋ねました。「あの弁護士に腹は立たなかったのか?」フランシスコは答えて言った。「もちろん立ちましたとも。血が煮えくり返りましたよ。でも二十二年間、絶えず自分を抑制し、自己を見つめ、闘ったおかげで、自分の思いどおりにできるほど怒りを抑えることができるようになりました」
ヒューマニズム
以下は、聖フランシスコ・サレジオの実践したヒューマニズムのいくつかの側面である。フランシスコは、次のことがらを愛し、評価した。
自然、人間的価値と人間の善を受け入れること。フランシスコは自然に感嘆し、鳥や蜂を観察し、風景や自然の美のうちに創り主の美しさの反映を見た
絵画や詩といった芸術や美の表現
洗練された表現。「美しいものを下手に表現すること、それは役に立ちません。言葉は少なく、でも美しく語りなさい、そうすれば多くを得られます」。フランシスコが著作家の保護者とされるのも不思議ではない
音楽。フランシスコは、自分が音楽についてほとんど何もわからず、歌も下手であると告白しているが、音楽を喜び、評価した。『神愛論』に次のように書いている。「二年前、ミラノにいたとき、若い修道女たちのいる修道院で、わたしたちはすばらしく心地よい修道女の歌声を耳にしました。わたしたちには、その歌だけで、ほかを全部合わせても比べようのないほどすばらしく聞こえました……」
人間的な愛情。フランシスコにとって、人間の愛と神の愛の間に対立はありませんでした。恋人への愛をどのように言葉で表現したらいいのかわからずにいたある若者のために、聖フランシスコは恋文を代筆したと言われている。
死と栄光
フランシスコは、リヨン滞在中、重い病にかかった。医者たちは、当時の医療で知られていた非常な痛みを伴う治療をほどこした。回復の見込みがないことがわかると、塗油の秘跡が授けられた。愛徳に動かされた善良な司教は、医学のために献体を望み、また本人の望みにより、心臓は訪問会の本部修道院に送られた。神の栄光と霊魂の救いのための苦労に自らを使い果たしたフランシスコ・サレジオは、一六二二年十二月二十八日、五十五歳でこの世を去った。
フランシスコは一六六五年、アレキサンデル七世によって列聖され、一八七七年ピオ九世によって教会博士の称号を贈られた。ピオ十一世は、一九二三年に、フランシスコを著作家の保護者と定めた。聖フランシスコの生誕四百周年の閉幕に当たり、パウロ六世は、「神の愛の博士」の称号を贈った。
フランシスコ・サレジオとドン・ボスコ
聖ヨハネ・ボスコが、司祭叙階の準備に行った黙想の終わりに書いた九つの決意の中に、次のものがある。「聖フランシスコ・サレジオの愛徳とおだやかさは、わたしの導きである」(MB Ⅰ・385)。伝記作家たちによると、フランシスコ・サレジオは生来、どちらかといえば激しやすく短気であった。長年にわたる根気強い努力によって、フランシスコはおだやかで優しい、柔和な聖人として知られるようになったのである。
サレジオ会会憲の第十七条に、次のようにある。「会員は、聖フランシスコ・サレジオの人間主義にならい、人間の自然的・超自然的能力を信用する。無論、人間の弱さを知らないわけではない。この世の価値を取りいれ、今の時代を嘆くことはしない。良いものは、特に青少年に喜ばれることなら、なんでも受け入れる。『良い知らせ』を告げるので、つねに喜ぶ。また、この喜びを周囲に及ぼし、キリスト教生活の快さと祝いの気分を味わわせる教育をする。『聖なる快活さのうちに主に仕えよう』」
ドン・ボスコは、青少年と共に働くため、彼の後に続く人々が、おだやかさと優しさの卓越した模範を必要とすることを良くわきまえていた。そこで、自分の、また後に続く人々の模範として、フランシスコ・サレジオを選んだのである。この青少年の友は、自ら創立した修道会を「聖フランシスコ・サレジオ修道会」と呼び、その子らを「サレジオ会員」と呼んだ。しかし、第十六回総会(一九四七)は、「聖ヨハネ・ボスコの」という言葉を名称に加えた。そのため、修道会は、S.C.からS.D.B.へと変更された。
祝日は一月二十四日である
年譜
一五六七 フランス、サヴォアに生まれる。
一五九二 司祭叙階
一六〇二 司教叙階
一六〇七 訪問会創立
一六二二 帰天
一六六五 列聖
一八七七 教会博士となる。
一九二三 文筆家の保護者となる。
一九六七 「神の愛の博士」となる。