聖マリア・トロンカッティ
(一八八三-一九六九)
少女時代
一八八三年二月十七日、生誕の翌日に、マリアはおばあさんのショールに包まれて、雪の中向かった教会で洗礼を受けた。父ジャコモ・トロンカッティは金持ちではなかったが、コルテーノの家のほかに、山小屋を所有し、アルプス山腹には広い牧場があった。洗礼から三年後には堅信の秘跡を、七歳で初聖体を受けたマリアは非常に賢く、初聖体の子供たちのなかで最年少だった。三年後には、四年目の学校生活を終えたが、その学校にはそれ以上上級の学年が無かったため、ブイラ先生は、独力で五学年を設け、マリア・トロンカッティはその最初の生徒となった。
一八九二年のある日、ブレシャ・コルテーノ・ゴルジに、いつものボレッティーノ・サレジアノの一部が届いた。ブイラ先生は、終業時間にその抜粋、宣教師たちの手紙や、南米の国々の貧しい人々の冒険や、「先住民」や移民たちの仕事などの話を子どもたちに読み聞かせた。その話にうっとりと聞き入っていた生徒のうちに、九歳になったマリア・トロンカッティがいた。純心に目を輝せたマリアは、すぐにも宣教地に出かけたくなったが、父ジャコモと母マリアの家には、彼女の仕事がいっぱいあった。夏になると、アルプス山脈の山腹にのぼって、山羊を小屋まで連れて行かなければならず、牛を飼って山腹の牧場でチーズ造りをしている父母の主食となるポレンタをかき回すのもマリアの仕事であった。
扶助者聖母会への召命
一九〇〇年、十七歳になったマリアは、勇気を出して先ず姉カテリーナに、その後主任司祭に、修道者になりたいという望みを打ち明けたが、司祭は、マリアには、資格が全くないと異議を唱えた。最大の難問は、父の許可を得ることであった。父は荒削りな人であったが、娘を愛していた。瞬き、そして長い不機嫌な沈黙で二人の対話が終わった。このような状態は四年間続いた。
マリアは祈り、両親に仕え、毎日家庭の雑用をこなした。主任司祭は、時々父と娘のところに話しに来た。一九〇四年、二十一歳となったマリアは、より強く修道生活の召命を確信し、密かにルア総長に手紙を出した。ドン・ルアはその手紙を扶助者聖母会の総長マードレ・ダゲーロに渡した。彼女はマリアに、ティラノのガリバルディ街にある扶助者聖母会の学校の校長に会うよう勧めた。シスター・ジュディッタ・トレリはマリアを迎えて、激励した。主任司祭は父と話して、娘が修道会に入るのを妨げないようにと説得した。十月半ばマリアは、父の同意を得て、志願者として修道院に入ることとなった。父は必要なものを全部手配し、不満の言葉を一言も発することはなかったけれども、別れの挨拶をしたときは気絶してしまった。マリアは一九〇四年十月十五日コルテーノを後にした。
修練院で
総長マードレ・ダゲーロ自ら、ニッツァに着いたマリアを出迎えた。「ラ・ブルーナ」という修練院で、マリアは自分の無能さを感じ、ホームシックにもかかった。上長方はマリアの着衣式を延期しようとさえ思った。一九〇六年八月十二日、シスター・ロジーナ・ジラルディを修練長に、修練期開始が許可されたが、式には親族は一人も参加しなかった。
長い苦悩の末、マリアの体調は崩れていった。頭痛、不眠症、食欲不振、難治性の腫れ物。日記にこう書き留めている。「皆から忘れられるように。神様だけのものになるために、すべてを取り去ってください。愛を深め、犠牲心、謙遜、放棄の心をください、多くの貧しい人のために、わたしをみ手の道具に変えてください」。マリアにとって、貧しい人といえば、ハンセン病患者のことを意味した。どうしても彼らのために生涯働きたかったからである。健康状態のため、誓願は一年間だけのもので許可された。一九〇八年九 月十二日、扶助者聖母会員として初誓願を立てた。
ロシニャーノ、ヴァラッツェ、ニッツァで
十日後、ロシニャーノ・モンフェラートに着いての最初の任務は、調理係、そして女子生徒の教理の教師であった。勤勉と優しさゆえ、生徒はマリアをすぐに気に入った。ある日、木材を切っていたとき、指にひどいけがをし、切断の危機に陥った。その後、腸チフスにかかった。容態が急変したので、三月十七日にはニッツァの支部に移された。回復後、元修練長であった管区長は、マリアとシスター・クレールをヴァラッツェに送り、十年間そこで過ごした。そのとき、次のように書き留めた。「どんなことにおいても、どこでも神様を見ましょう。射祷と全き従順で神様と話し合いましょう」。第一次大戦の終わりごろ、マリアとシスター・クレール・ノーヴォは看護学の受講者に選ばれ、ヴァラッツェ市の市立学校を改造した軍病院で、手投げ弾で傷を負った兵隊たちの病棟を回って治療にあたり、患者を慰めた。
一九一五年六月二十五日、ちょうど学校から戻ったとき、激しい嵐がヴァラッツェ市を襲った。市内は急激な土砂降りとなり、テイロ川は水かさを増して両岸から氾濫し、水が校内に入ってきた。裏の道路は川と化し、家具や家畜、根こそぎになった木々を運んでいった。運動場は荒海となり、周りの塀は倒れ、渦巻く水は腰まで上がってきた。マリアは聖母に向かって祈り、もし助かったら、宣教地に行って、ハンセン病患者のために働くと約束した。突如食堂のテーブルに乗せられ、流れに足をさらわれた。シスター・クレールも助かったが、もう一人のシスターは溺死した。
宣教師の召命
シスター・トロンカッティは起こった事をくわしく書いた手紙を総長に出し、ハンセン病患者の所へ行きたいと頼んだ。その依頼の手紙は、七年間上長の机の上に置かれ、ヴァラッツェでその後の三年間を過ごした。通常の勤務のほか、香部屋係にもなった。その勤勉さは、皆に評価された。戦後多くの病気のシスターたちがニッツァの本部に集まり、二百人の寮生が冬休みの期間をそこで過ごしたが、マリアはそこの看護人に任命された。
一九二二年三月十四日、マリーナ・ルッツィという生徒が、肺炎で死にかかっていた。シスター・トロンカッティはそばにいた。この世の最後の夜、二人きりでいたとき、シスターはその子に、「マリーナ、あなたはまもなく聖母マリアにお会いします。イエス様がわたしをハンセン病患者の所へ宣教師として派遣して下さるよう、恵みを聖母に願ってください」と言った。マリーナは彼女を見つめて微笑んだ。そして小声で、「宣教師としてエクアドルに行くでしょう」とささやいた。聖母の家で死ぬという最後の恵みを願った純白な子マリーナ・ルッツィは、その夜なくなった。三日後、総長マードレ・ダゲーロは、シスター・トロンカッティを呼び寄せて言った「ずっと前、宣教地に行きたいと言っていましたね。でも、戦時中は不可能でした。今、海が穏やかになってきています。あなたをエクアドルに送ります」
一九二二年五月七日、エクアドルの地域司牧コミン師がマリアに会って、彼女をエクアドルの宣教地に派遣すると言われた。当時、エクアドルの扶助者聖母会管区長マドレ・ミオレッティがイタリアを訪れて、宣教地のための会員を募集していたからである。やっと四人のシスターたちを集めることができ、そのうちの一人が三十九歳のマリア・トロンカッティであった。九月二十五日から十月六日まで、マリアは紡績の町キエーリに滞在して、機織機(はたおりき)の使い方を習った。
宣教師としてエクアドルに
宣教師たちを乗せた船はリヨン、マルセーユに寄航、ジブラルタル海峡を通りすぎ、大西洋を横断して、パナマ運河を通り、太平洋に出、最後にコロンビアの海岸を下ってエクアドルに着き、グアヤキル湾に入った。グアヤキル市の郊外に木造の家があって、数人のシスターたちと歌ったり、勉強したり、遊んだりする女子生徒のグループがいた。シスター・トロンカッティは最初の宣教地のクリスマスをそこで過ごした。
エクアドルは、海岸部、コルディルイェラ山地と東部の三つに分けられる。人口は六百万人であったが、分布は一様ではなかった。四十九%は海岸平野に住み、あと四十九%は海岸地帯からアンデス山脈までの州に住んでいた。そこで白人と土着民が次第に混合していった。しかし、前人未踏のアンデス山脈を越えた東部に広がる未知の地方には、二%の人々が住んでいた。この人たちは、主にペルーとコロンビアから入ってきた入植者や白人の冒険者、またシュアル族とアチュアル族の先住民であった。ジャングルに住む白人と先住民(インディオス)の間に、絶えず衝突があった。サレジオ会の宣教師たちと扶助者聖母会は先住民のこの忘れられた二%の人々と連絡を取って、キリスト教と現代文明の福利をもたらそうと勤めていた。
シスター・トロンカッティは当初先住民が住むアンデス山脈の頂上にあるチュンチという所に住みつき、三年間滞在して、環境への順応と東部の種族への伝道を準備した。移動式の医務室を持つ内科医と小さな薬局を持つ薬剤師の役目務め、身体の病気と心の病気を治そうと、社会的、道徳的福利を促進した。
シュアルの地への大探検
一九二五年のある日、ドメニコ・コミン司教はチュンチに着いて言った。「大探検を始める時間です。アンデス大山脈を越え、入植者とシュアル族が住む森林地帯に下りていかなければなりません」
隊長となるアルビノ・ダルクルト神父が先頭になり、数人の現地協力者を連れてその未開地へ分け入り、小道を切り開いて、長い旅の間避難所となる小屋を造った。海抜二千メートルのクエンカで、「聖母のみ心」に捧げられた家に泊った。シスター・トロンカッティは、同行する若いシスタードミンガ・バラレとシスター・カルロッタ・ニエト、それから管区長と一人の修練者とともに、赤道直下のジャングルの藪を通るための準備をした。エプロンを掛け、オーバーを着、つば広の帽子をかぶり、長靴をはいた。
司教とサレジオ会員二人、十二人の頑丈な協力者と一緒に歩いた。先頭はアルビノ神父、馬に乗ってクエンカから来た人たちは護衛を務めた。底知れない深い穴と、高くそびえる峰のあいだ、見え隠れする急流に沿って、三千メートルのパイラスまで登った。その夜、アルビノ神父が造った小屋で寝た。朝になると、司教がミサを捧げ、護衛が帰っていって、宣教師たちは徒歩で森林を抜け、果てしない旅を続けた。シスター・トロンカッティは、後で旅がどのくらい掛かったのか思い出せなかった。先頭に立ったダル・クルト神父はずっと聖母の賛美歌を歌い続けた。
ナイフで外科手術
森の中は恐ろしいほど静まり返っていたが、迎えに来るコルベリーニ神父とシュアル族のグループから銃声が聞こえてきた。彼は一隊を見て、パウテ川をカヌーで進んできた。みなはコミン司教の代牧区の中心となるメンデスに着いた。そこで不愉快な知らせを聞いた。百人ほどの武装したシュアル人過激派が教会敷地に集まっていたが、二つの種族の衝突で、族長の十三歳の娘が傷を負ったのだ。弾丸が腕を貫通し胸部に達していた。族長がコルベリーニ神父に近づいて、かたことのスペイン語で、「治してくれれば助ける。治してくれなければ、皆を殺す」と脅して言った。弾丸をその子の胸から抜くには、外科手術が必要である。司教は、シスター・トロンカッティに言った。「少しでも医学の知識があるのはあなただけです。何とかできますか」と聞いた。「できません」と答えると、「やってみなさい。わたしたちは祈ります」。シスター・マリアは聖母に祈った。それから、炎で消毒した台所のナイフとヨードチンキで、傷の周りに数日間で形成されていた膿瘍を切り始めた。弾丸が出てきて、族長の足元に落ちた。皆は大喜びした。三日後、その子は種族の人と一緒に森林に戻ることができた。
マカスで四十四年間の献身的な奉仕
一行は、メンデスから四日間ウパノ川に沿ってマカスへと歩みを進めた。マカスは、キヴァロス族に囲まれた入植者の村であった。一行到着のニュースは、不思議な話を伴い先立って届いた「メンデスのシュアル族が一隊の通行を認可したのは、シスター・トロンカッティがナイフ一丁で手術をして、族長の娘の命を救ったからであった。太鼓を鳴らして全森林に次のような話を伝えた『我々の祈祷師よりずっと有力な医師が着いた。彼女とその連れを通せ』」と。
教会敷地とシスターたちの小さな住まいは丘の上にあり、 温かく迎えられた。近所の人たちは鶏、蜂蜜、ぶどう、バナナを持ってきた。みんな集まってクリスマスをマカスで過ごした。一九二六年の年明け、管区長と修練者は、司教と一緒に国に戻っていった。
シスター・トロンカッティと二人の若いシスターは、木造の家に取り残され、大泣きして眠りについた。森林に囲まれ、シューッという蛇、猛獣の唸り声、シュアル族からの危険などを考えては震えていた。それでも、三人の女性たちは一生懸命働いた。まもなくシスター・トロンカッティは気を奮い立たせ、二人のシスターたちに言った。「仕事を始めましょう。聖母が助けてくださいます」。その時四十二歳であった。その後の四十四年間を、森の中の移動診療所、学校、道端で過ごした。小船に乗ってキヴァロス族を迎えに行った。彼らは「マードレシータ(小さいお母さん)」と呼び始めた。その年月は、犠牲、勝利、涙と布教などの出来事でいっぱいだった。先住民にとって、シスター・トロンカッティはコインのようなものであった。手から手に渡されて、皆でそれを使い、何時も心に残る善意と愛が残された。
ある朝夜明けに、玄関に九歳ぐらいの女の子が来た。「誰ですか」とたずねると、「わたしはヤンバウチ」と答えた。「リオ・ブランコをお通りになったとき見たのです。ずっとシスターたちと一緒にいたい」と言った。シスター・トロンカッティはシュアル語の最初の言葉をこのヤンバウチから習った。それから一人の宣教師に初歩の教理の本をシュアル語に訳してもらった。ヤンバウチに続き、十人、三十人、八十人と先住民の女子寮生が入ってきた。また、酔っ払いの主人から暴力を受けた白人の母親を迎え入れた。
夜遅く、子供たちを連れて避難してきた。「マードレ・シータ、泊めてください。でなければ、主人はわたしたちを殺してしまいます」といった。マリアはまた、皆が殺そうとしている、貧しい使用人婚外子を養子にして、ベッドの近くの揺りかごに入れて、ホセ・マリアと名づけて、息子のように育てた。
エクアドル東部には常駐する医師も、病院も、薬局もない当時、マリアは看護師としての熟練した腕と医師の目を持っていた。マカスの最初の診療所と、サクアのピオ十二世の病院を建てるために払った努力は、多くの人の賞賛の的となった。病院の壁を越えた彼女のにこやかな優しさ、気持ち良い微笑みと賢い助言の自然な結果であった。ベッドからベッドへと移動して、患者を慰め励ました。
病院に産科病棟を増設し、さまざまな医学部門を拡大、外科設備を近代化し、腕のある優れた医師と資格のある看護師を雇い、グアダルキザ、メンデスとスクアの三か所の病院で一流の公共医療制度を導入した。シスター・トロンカッティは、インダンザ、タイシャ、チグアザ、セビッラ・ドン・ボスコ、チュカンザ、ヤウピ、サンティアガ、リモン、とボンボイザで診療所を建て、何百人もの人々を助けた。学校の開校に着手し、若者の勉学を支援するため、授業料も払った。
十年間働いたとき、シスター・トロンカッティは年報に次のように書いた。「小学校に児童七十人、実習室に既婚または婚約した人八十人、寮に二十人のシュアル族の子供と八人の白人が収容され、シュアル族の大人二百人が教理を勉強している。森林の中に神の国を植え付けるために、アンデス山脈への小道を登るだけの価値があった」と。毎晩十字架の道行きをしたときも、聖時間を過ごしたときも、同じ気持ちであつた。
一九四七年十一月、森林の孤立が急に止まった。小型飛行機がメンデスと首都キートを結ぶようになったからである。一九四八年八月二十七日、シスター・トロンカッティはその飛行機の一機に乗って、首都での黙想会のために旅をした。すでに六十五歳になっていた。その後、次から次に、電器、ラジオ放送局、風車、脱穀機、ジープまでも到着した。白人支配からシュアル族の権利を守るための「シュアル同盟」発足の奇跡までも見ることができた。
コスメ・コッセル修道士はユダヤ系のアメリカ人元役員であったが、次のような証言をした。「シスター・トロンカッティほど人間味あふれ、これほど強い人格の持ち主を、ほかに見たことがありません。何回もちょっと相談にうかがいましたが、あきらめなければなりませんでした。彼女と話したい人が、長い列をつくって並んでいたからです。家族の問題を抱える男性、主人に捨てられた女性、生涯をだめにした不運を嘆く女子などでした」
熱意を支えた力
シスター・トロンカッティは、マカスで、またジャングルの中を歩く時にも、いつもニッツァで書き始めた日記帳を携えていた。そこに書いてある聖なる格言から栄養を得、自身も言っている。「殉教者でない使徒はいない」。これは彼女の生活で証明したもののひとつである。
シスター・チャルロットが終生誓願の準備をしていた時、シスター・トロンカッティに倣いたいと、その生活を勉強した。シスター・トロンカッティについてこう言っている。「よく祈り、よく聖堂に入っていました。亡くなる前日まで、毎晩十字架の道行きの信心業をしていました。いつもロザリオを手にして、人々はこう言っていました。『マードレ・マリアは祈っています。わたしたちも祈りましょう』。聖性の雰囲気がありました」
あるときシスター・トロンカッティはシスター・カタリナに写真を送った。裏面に、「わたしは宣教師になるため、日毎に幸せになりたい」。失敗しても、善行を行いつづけた。それは、「善行を行えば、最後には実を結ぶ」と言う彼女の確信から出た言葉だった。シスター・ドメニカは次の出来事を思い起こす。「あるとき、ジュルンバイノで、三十歳のキヴァロ族の男性の道案内で、マカスの病気の女性を見舞いに行った。帰り道、川を渡る途中、水がシスター・トロンカッティの首までになり、平衡を失って、溺れそうになった。「扶助者聖母マリア、助けてください」と叫んだ。あの若いキヴァロ人が、シスターの命を助ける聖母の道具となった。彼は言った「ああ、小さなお母様をなくしてしまうとは、なんと恐ろしいことでしょう。もしあなたが亡くなったとしたら、わたしたちはどうなってしまうのでしょう」。彼自身は数ヶ月後亡くなったが、死ぬ前に言った。「わたしは喜んで死にます。マードレ・マリアの命を助けることができて、幸せです。マードレの命は、わたしの命よりずっと貴重なものですから」と。
晩年になると、シュアル族の人たちと白人との間の憎しみがますます強くなっていった。一九六九年七月四日、スクアのシュアル同盟の本部が全焼した。シスター・トロンカッティにとっては非常につらい体験だった。幸いなことに犠牲者はいなかったが、入植者とシュアル族の間に、憎しみが広がっていった。涙と老年の痛みの中で、シスター・トロンカッティはこう言った。「いけにえが必要でしたら、主よ、わたしをお取り下さい」と。そして、同窓生のテレサ・タンカマシュに、「わたしは、また嫌な事が起こらないうちに死にたいです。神父様方やあなたのご主人が、殺される前に」と言った。テレサの主人は、シュアル同盟の会長であったが、その同盟は、先住民の権利を守るために、宣教師たちが設立したものであった。マリアが亡くなると、白人も、シュアル人も皆、「もう、誰もいません。お母さんがなくなりました」と嘆いた。
帰天と葬儀
一九六九年八月二十五日、シスター・トロンカッティはすでに八十六歳となり、両足は脹れていた。それでも黙想会に与かるため、小型飛行機のはしごを上っていった。二・三分後、「シュアル同盟ラジオ」が、興奮した口調で、次のメッセージを放送した。「本日、午後三時、離陸直後に飛行機が墜落した。わたしたちの親愛なるマードレ・トロンカッティはもういらっしゃらない」と。
管区長は遺体をクエンカに移したかったが、スクアで見た悲惨な場面を考え、その話を持ち出さなかった。
入植者の一人が、家族のれんが造りの墓を提供した。午後四時からサレジオ会の管区長ともう一人の神父が死者ミサを捧げた。スクアとマカスの人々に担がれて、シスター・トロンカッティの棺が教会と宣教地を出、病院の前を通り、数え切れないほどの会葬者に送られた。棺のすぐ後ろを歩いていたシスター・チャルロットは、シスター・トロンカッティがしばしば繰り返していた言葉を思い出した。「どうして悲しむのですか。わたしたちは、すでに天国に近づいているのに。どんなに嬉しいことでしょう」と。
葬列は十字路に着いた。そこには、レデンプトール会の神父たちが一九五八年に行った黙想会を記念して十字架を建てていた。それから墓地への坂道に入った。シスターたちの管区長秘書シスター・フィリポッツィが目を上げると、美しい虹が空に見えた。まるで天蓋(てんがい)のように墓地の上に掛かっていた。周りの人に虹を指したが、シスター・トロンカッティがサンティアゴのモロナで埋葬されるまで消えなかった。神は言われた。「わたしは雲の中に虹を描き、わたしと地との契約のしるしとする」(創世記 9・13)。
シスター・トロンカッティの葬儀の後、シスター・マルゲリータ・サルゾーザは、メキシコの兄ヴィンチェンツォに手紙を出して、事故の詳細を述べた。返事の手紙で兄は書いた。「お手紙ありがとうございます。返事に当たり、涙を抑えきれません。母を亡くしたみたいに感じます。わたしが司祭となり、わたしが今できる善行ができるのは、シスター・トロンカッティのおかげなのです」と。
当時の扶助者聖母会総長マドレ・エルシリア・カンタは、マリアの事を次のように書いた。「信心深い、謙遜な、控えめで、愛らしい人、サレジオ会独特の快活さを備えている人、機知に富んだ人、本物のサレジアン・シスターで、一九六九年八月二十五日、息をひきとるときまで、いつまでも理想に忠実であった」。スクアの病院前庭に、シスター・マリア・トロンカッティの質素な記念碑が建てられた。碑銘には「キリストの優しさの比類ない代弁者」と書かれている。
教区内で一九八六年九月七日、シスター・トロンカッティの列福調査が始まり、一九八七年 十月二十五日に終わった。
資料
教皇庁列聖省 神のはしためマリア・トロンカッティ 諸徳についての教令(抄)
《福音に驚きを感じること、キリストと出会うこと以上にすばらしいことはありません。キリストを知ること、わたしたちがキリストの友であることを、人に語ること以上にすばらしいことはありません》(ベネディクト十六世 使徒的勧告 「愛の秘跡」84)
神のはしため、スオル・マリア・トロンカッティの生涯は宣教精神の強烈なしるしから特徴づけられています。前半生(三十九歳まで)においては熱烈な精神をもって、実際に八十六歳で死去するまでの後半生においては、全面的献身のうちに現実を生き抜きました。彼女の絶え間ない熱望は、どのような事情、あらゆる生活状況においても、出会う人々にイエスをもたらすことでした。
尊者マリア・トロンカッティは、一八八三年二月十六日、ブレシア州の中心、コルテノ・ゴルジで生まれました。
一九〇八年九月十七日に、初誓願を立てました。若い修道女は犠牲の生活を愛し、献身の熱望のうちに成長します。
第一次世界大戦(一九一五年‐一八年)のさなか、スオル・マリアは赤十字の看護師養成の特別講座に通うためにヴァラッツェに派遣され、その後、戦場から到着した負傷兵たちの看護と安らぎを与える仕事に就きました。彼女はこれらすべての苦しみに心が揺り動かされるのを感じました。そして彼女の中に、苦しみを和らげ、治療し、解放し、救うための骨身を惜しまない新たな母性愛が熟していきます。戦後、修道会の本部、ニッツァで看護係、アシステンテ、オラトリオの助手として、予期しない場合でもいつも喜んで補助する心構えで尽くしました。
三十九歳のとき、総長は彼女を二名の若い姉妹と一緒にエクアドルに派遣します。彼女は一九二二年十一月九日に出発しました。その後のスオル・マリアの四十七年間は、文字通りの“宣教”の歳月となります。そして短期間を不在にした時にも“彼女の心は常に宣教地にありました”。
一九二五年にスオル・マリアは小さなグループとともに、アマゾンの密林へ大きな“冒険”に出かけ、長い旅の後にメンデスの宣教地付近に到着します。そこには旅の苦労に疲れ果てた哀れな宣教女たちを、弓矢と槍、刀で武装したキヴァリ族の一団が待っていました。彼らは、ここを通るために一つの条件を出します。それは敵対し合う二つの部族間の争いで数日前に重傷を負った酋長の娘を、宣教師たちが治さなければならないというものでした。
宣教師たちの一団が祈りに集中している間、スオル・マリアはわずかな医療器具で行える消毒を施し、化膿した傷口を切ると、弾丸が外に跳び出しました。キヴァリ族の人たちは大喜びで、密林の中にこの知らせを“波のうねりのように”伝えました。「すべての魔術師よりも優れた魔術師の白人の女性がやってきた」と。
看護の傾きのある若い女性たちに看護学の講座を組織し、そのほか、裁縫、保健、育児、料理の講座も開きました。一九六〇年‐六二年に結婚準備講座も始めました。彼女が常に懸念していたことは、女性の開発向上でした。先住民の文化の中で、女性は主人である夫に従属し、しばしば罰せられ、あるいは母性や子女の養育に不都合なことも顧みられず、重労働によって搾取されていました。
一九六九年の『農業協力週間』中、悲しむべき争いが起こり、その後、いくつかの移住地の地主から、先住民の開発のために最も活躍している宣教女と宣教師たちに対する暴動が勃発しました。七月四日にその不穏な空気は放火という形で表れ、一夜のうちに長年苦労したスクアの宣教所は灰となってしまいました。
スオル・マリアは心の奥深くで苦しみました。祈りをささげ、復讐を望む人々をなだめるようにスアール連合の指導者たちに嘆願し、和平のために自分をいけにえとしてささげました。姉妹たちは彼女が、「この二つの部族は、彼らのために自らをいけにえとする人がいなければ和解することはないでしょう」と確信をもって断言するのを聞きました。
八月五日、マカスの聖母「いと清きマリア」の祝日に、スオル・マリアは、聖母のお祝いに真の霊的喜びをもって参加しました。その後で、彼女は一人の姉妹との親密な時間に、事が起こった後でなければ誰にも何も口外しないようにと、ひそかに打ち明けました。「いと清きマリアはわたしに、準備しなさい、まもなく私に重大な事が起こるでしょうとおっしゃいました」。
八月二十五日、首都キトに黙想会に行くために、不安そうな姉妹たちをじっと見つめ、共同体に別れを告げながら、しっかりした口調で言いました。「もうすぐ、すぐに、平和と静けさが戻るでしょう。わたしはそれをあなたがたに約束します!」。
飛行場に着いたとき、小さな飛行機はもうエンジンがかかっていました。見送りの人に別れを告げると、すぐに乗り込みました。死への離陸です。数秒後、大音響が聞こえました。管制塔の警報がこの小さい飛行機の墜落を告げます。
いけにえの奉献は果たされました。そのときから、すべての人―地主、スアール族、あらゆる階層の人々―の泣き声が、ただ一つの共通の悲しみと哀惜の表明として溶け合いました。「聖女が亡くなった…もうわれわれのお母さんはいない!」。
スオル・マリア・トロンカッティの霊性は単純で、慎ましいものでしたが、深みがあり、日常の具体的な生活におけるのびやかな英雄的な霊性でした。
一九九七年五月八日、列聖省に提出した、La positio(列福審査書)は、二〇〇八年五月二日、神学諮問官の特別会合において討議され、肯定的な成果を得ました。続いて、二〇〇八年十月七日の定例会において、枢機卿と司教の諮問に付され、尊敬すべきジロラモ・グリッロ司教、チヴィタヴェッキアのタルキニアの前司教のもとに、全員一致で、神のはしためが対神徳、枢要徳、その他の関連する諸徳を英雄的に実践したと宣言しました。
以上のことについて、教皇ベネディクト十六世聖下に下記の枢機卿長官から綿密な報告書が奉呈されました。聖下は、本日の日付で、列聖省から表明された請願を受理し、認可し、次の宣言をなさいました。
「対神徳である、信仰、希望、神と隣人に対する愛、さらに、枢要徳である、賢明、正義、節制、剛毅、およびその他の関連する諸徳は、それに関する場合と目的において、英雄的程度に、扶助者聖母会の修道女、神のはしため、マリア・トロンカッッティにより実践されたことを、確認するものである」。
教皇はこの教令が公表され、列聖省の議事録に記載されることを命じられました。
ローマにて、二〇〇八年十一月八日
長官 アンジェロ・アマート
秘書 ミケーレ・ディ・ルベルト
年譜
一八八三年 二月十六日、コルテーノで誕生
一九〇八年 初誓願
一九二二年 エクアドルへ出発、キヴァロス族のための宣教
一九六九年 八月二十五日、帰天
一九八六年 教区で列福調査開始
二〇〇八年 尊者の宣言
二二十五年 聖人