Places Related: 門司港-長崎の大浦天主堂-宮崎-大分別府-熊本の黒川温泉
(強制収容-逃げはられない絶壁のようなところ)
1925年12月29日 ジェノバ港出発

1926年 2月 8日 門司港到着
『2月8日朝8時 〔門司港に上陸〕
ついに門司港に入港しました。濃霧が、瞬間的に太陽から照らされるすばらしい景色を遮ったりしますが、まもなく霧が晴れ、うっとりと眺めいる目に、美しく輝く陸が見えてきました。言葉で描くよりも、想像していただいた方がいいでしょう。陽の光りに輝き、雪に覆われてそびえ立つ真っ白な山々、生い茂った木々につつまれた島々、前方には広い湾に面した産業豊かな門司市、幾つもの煙突と、山麓にまでのびている家並みの、壮大な光景が現われてきます。神に感謝! 日本万歳!でも、急に不安に襲われてきました。「これからはどうなるのでしょうか。もし、出迎えもなく、誰も助けに来てくれないなら...。」
しかし、リナルディ神父様、信じてください。この旅行中ほど、子供のような単純さで、神のみ腕に自分を任せたことはありませんでした。み摂理は、私たちを助けるために大きな奇跡までも行われました。そう考えると、「主よ、そうです。あなたは私をあまりにも甘やかせすぎるのではありませんか。イエス様、あなたの思う通りになさってください」と言わざるをえません。
実際、そんな不安も、束の間でした。私たちを見つけるや、遠くから微笑みながら手をふってくれる、髭の神父が見えました。彼は、まっ先に乗船して、私たちを抱擁してくれました。長崎司教から送られたパリミッションのMartinマルタン神父でした。フルダ号の上で、彼の助けをかりて私たちが入国手続きを済ませるには12時までかかりました。ここの日本人たちの目に入らないものは、一つもありません。税関で乗客たちの持ち物を細かく調べている様子を見ながら頭に浮かんできたのは、私たちが持ち込もうとしている40個のトランクと20個のカバンのことでした。けれども、検査官は、カバン1個ずつを開けさせただけでした。私たちの正直な、陽気な態度や、自分たちの貧しい私物をさらけ出す姿をみて、何も隠そうとしないことが分かったようで、旅の途中で開いてしまったトランク1個の中を調べただけで、すべてが済みました。私たちは、喜びのうちに教会へ向かいました。
ここで、初めて、日本の家に入りました。日本の風習を身に付けなければなりませんので、まず、玄関でヨーロッパの靴を脱ぎ、スリッパを履く大仕事をしなければなりませんでした。神父様は、笑いながら見ていました。助ける人たちも、好奇心で見ていました。続いて、かわいい祭壇の前に導かれて、“テ・デウム”〔感謝の歌〕を歌い、迎えてくれた日本の地を感激の気持ちで接吻しました。次は、聖務日課を唱え、楽しい語らいの後、長崎に向かう23時30分の列車に間に合うように、駅の食堂で夕食をとることにしました。食事は、中身は日本料理、マナーはヨーロッパ風でした。とても美味しかった。マルチン神父は、気を利かせて、たくさんのパンを持ってきてくれました。日本の習慣に従い、サービスはきわめて礼儀正しいものでした。お米で作った酒は欠かせませんでしたが、熱いうちに出され、とても美味しいと思いました...。アルコール分もかなり強いです。
私たちは、荷物がすぐに宮崎に届かないので、全員、司教を喜ばせるために長崎に赴くことにしました。』
〔長崎に向かう汽車の中〕
皆に挨拶して、長崎に向かう汽車に乗りました。三等車もわりあいに便利で、暖房がきいており、満員でした。どちらかというと、私たちにとって狭い感じでした。この愛すべき日本人たちは、履き物をぬいで、好んで座席の上に座ります。食事などを済ませると、残ったものを床に落とし、時々係りの人が掃除に回ります。鼻をかむとき、紙のハンカチを使います、そして、気持ちよさそうに眠ります。
汽車は、特急とはいえ、たびたび駅に停まりながら、のろのろと進んでいきます。気分が優れないタンギー神父を除いて、他は皆ぐっすりと眠りました。夜明けになって目を覚ましますと、興味をもって辺りの風景を眺めました。冬でも、日の出ずる国は心を奪われるところです。緑の丘々や山々の間に、大小の川に潤された静寂として小さな渓谷の連続です。いたる所が、松、杉、椿や、花が開こうとしている梅など、ありとあらゆるおい繁った木々で覆われています。あちこちにみえる平地は、すべて見事に耕され、美な面から見ても整然としています。広くはない平野では、米や、麦、野菜などが作られ、どこも、目を休ませる整頓と清潔さがみられます。
あちらこしら、緑の樹木の中に、一軒家や小さな集落が散らばり、こんもりとした茂みの中に寺院や先祖たちの墓が見えます。農家はすべて一階建ての木造で、屋根は藁葺きです。裕福な家は、二階建てになっており、特製の瓦を使っています。セメント建築は(工場をのぞいて)非常にまれです。
汽車は煙を上げながら、森に覆われた尖った火山性の山の坂を昇り、再び心地よい谷間を下り、次々と入れ替わるすばらしい景色の海岸にそって走ります。大小の島々、岩、入江、湾などが次々と現われ、そのほとりには集落、村、町がつづき、昇ってくる太陽の光線を浴びています。
おお、聖フランシスコ・ザベリオと多くの宣教師たちの使徒的活動によって聖とされ、数多くの殉教者の血にうるおされた日本よ! 神は、何と不思議な美しさで装わせてくださったのでしょう!
2月9日~15日 〔長崎での滞在〕

朝8時半、長崎到着です。パリミッションの世話役、ティリー神父に温かく迎えられ、間もなくカテドラルに着き、コンバーツ司教の客になりました。ごミサの後、司教様は父親のように私たちを迎え、私を抱擁し、私たちがその教区を助けに来たことに対して大きな喜びと感謝を表してくださいました。
私たちが教会法に定められている誓いを立てた後、自分の権限にある宣教師へのすべての権能を与えてくださいました。そして、荷物が宮崎に着くまで自分の所に留まるようにしてくださり、その間、長崎の教会を見学させ、自由に司教館の豊富な名図書館を利用し、博学な宣教師ラゲ師〔日本語文語訳新約聖書の訳者〕の指導のもとで日本語や難しい日本の布教についての手ほどきを受けられるようにしてくださいました。こうして、学び、観察しながら、2月15日まで大変有意義な日々を送ることができました。
〔見学した場所〕
1)パスポートのため、イタリア領事館を訪れました。
2)マリア会経営の学校を見てきました。非常に盛んで、700人の生徒がいます。そのうち、50人がキリスト信者です。政府の認可を受けていて、すばらしい資料室があり、コンクリートの立派な建築です。長崎の郊外には、広い敷地の中に養成のための小神学校もあり、生徒数60人ほどいます。
3)日本26聖人が殉教した丘にも行きました、また、長崎の郊外にある、先祖代々のキリシタンが密集している浦上天主堂を見てきました。ちょうど600人ほどの母親たちが黙想会中でした。
4)神学校も訪れました。美しい建物は、静かな、良い場所にあり、40人余りの神学生がいます。
5)日本人のシスターたちが経営する養護施設、また、フランスのシスターたちの寮と修練院も訪問しました。
このように、宣教師たちが手がけているカトリック事業は、盛んで、困難の中にあっても良い実を結び、良い召し出しも期待できることを示しています。日本人は、大変知識欲が旺盛で、開かれた心を持ち、活発です。では、子供たちや、青少年たちはどうでしょうか。
おお、リナルディ神父様、多い、多い、多いです。あらゆるスポーツ(特にテニス)や運動をこなす者です。長崎の信者の子供たちをご覧になりましたら! いかに信心深く祈り、喜んでミサ仕えをして、両親の手本もあっていかによく歌っていることか。家庭では、親はあまりチヤホヤせず、ある程度厳しく子供たちを教育しています。
長崎付近には6万人ほどのカトリック信者がいます。日本全体の8万人の大部分を占めています。数からいえば、宣教師は少ないです。しかし、方々に分散している信徒を世話するために、老齢にもかかわらず、感嘆するほど1人数倍働いています。
6)他の重要な名所、国家神道や仏教の寺院も見てきました。ここの異教徒は、自分たちの寺院や神仏に対してとても深い崇敬の念を抱いています。もし、一部の私たちのカトリック信者が同じ尊敬の念を持っていれば、なんと素晴らしいと思うほどです。
11日、建国記念日で国祭日であり、どこでも旗、行列や学校の遠足でにぎわっていました。人々は、祈る時に鐘つきで神を呼び、礼拝、献金、祈りを捧げます。その行動は非常に真剣です。間違った信仰のことは別にして、すばらしい手本を示しています。
ーサレジオ会着任当時の宮崎教会ー(1926年頃)

1.初めての任地 宮崎教会 (宮崎教会:1891年設立)
2月16日 〔宮崎への旅〕
ついに荷物が宮崎に届いたという知らせがあったので、私たちは、温かく迎えてくれた巣を立って、生活の現実に向かうために準備にかかりました。司教様が全員や各自に最後の教訓と祝福と励ましの言葉をお与えになった後、私たちは勇気づけられて、宣教の地に向かうことになりましたが、主は、私たちを試してくださいました。グアスキーノ修道士が、数日前から喉の痛みと熱のため、病に倒れてしましまったのでした。そのため、司教様にお願いして、マルジャリア神父を付き添いとして長崎に残すことにしました。
15日13時30分、ティリー神父が駅まで送ってくださり、出発しました。(略)
途中で、次々、美しい景色が目に映りましたが、夕方6時、久留米に着き、一旦下車して、パリミッションのRaoultロール神父の教会に寄り、翌日の日中に宮崎に着くため、夜半過ぎまでここで待つことにしました。
夜中1時、一行を起こして、再び出発でした。ところが、再び不意なことが起りました。今度は、リヴィアベラ神父が、急に持病で倒れてしまったのです。そのため、次の汽車に乗せてくれるようにと教会の宣教師にお願いして、私たちだけが出発しました。
途中、乗り換えねばなりませんでしたが、日本人はとても紳士的です。私たちのわずかな言葉でも、すぐに言いたいことを察してくれて、助けるため骨折ってくれます。汽車の車掌たちは、大変親切です。車両のドアを開け、入ってくると、まず深いお辞儀して、『まことにご面倒でございますが、切符を拝見させていただきます』とか、『ただいま、何々駅でございます。お荷物など、お忘れございませんように』と知らせてくれます。
もし、途中で1人の信徒に出会えば、何千人の中でもすぐに見分けがつきます。何のためらいもなく近寄ってきて、両手を膝に当てて丁寧に深いお辞儀します。もし、帽子をかぶっているなら、まずそれを取り、それからお辞儀します。すべて微笑みながら、ごく自然にするのです。これは、大勢の異教徒の中にあって、すばらしい信仰告白です。子供たちの方は、もっと勇気を出します。私たちの前に立って、きれいにお辞儀します。そして、どの挨拶でも、いつもため息しながらお辞儀します。何か良いものを吸っているかような感じがします。(略)
2月17日 〔宮崎に着く〕
午前11時頃、宮崎に着きました。何名かの信徒と共にパリミッションのBonnecazeボナカーズ神父が駅で待ってくれていました。何人かの子供たちが、カテキスタの先生から前もって知らされて、早く私たちを見るために駅の100メートル先から「万歳!万歳!」と叫んでいました。駅から出たところ、まっ先に微笑んでお辞儀してくれたのは、2人の小さい子供でした。ドン・ボスコは、自分の子らに最初の挨拶をするのは、自分とイエス様のみ心から一番愛されている子供たちであることを望まれたのでしょう。
そこから行列が始まりました。私たち6名は人力車に乗り、カヴォリ神父は先頭、私はしんがりで教会に向かいました。すでに新聞で私たちの到着が報じられていました。市民たちが好奇心のまなざしで私たちを見、警官たちが警備しながら信者たちに情報を聞いている中で、私たちは堂々と進んでいきました。
教会に着いたら、夢を見ている感じでした。教会は、日本式の素晴らしい建築です。天国から落ちてきたかのようでした。教会の前で6名で「テ・デウム」〔感謝の賛歌〕を歌い、日本の聖母、殉教者の元后、キリスト信者の助けの称号で尊ばれているマリア様に、私たちを捧げました。ドン・ボスコの聖母は、日本でも、キリスト信者の扶助者の称号で尊ばれたいのです。神に感謝! ふたつの意味で、故郷に来たような感じです。
晩になって、主任司祭は信徒(約100名)を集めて荘厳な聖体讃美式を行ない、その後、壮年の男子が私たちに挨拶しました。通訳を通して、私が神が勧めてくださった言葉を話した後、昔なじみの友人であるかのように、互い例のお辞儀をして別れました。
今日は、聖ヨゼフに捧げられた月の始まりで〔3月17日まで〕、教会も聖ヨゼフに捧げられています。これ以上、望めることはあるのでしょうか。
2月18日
今日は、灰の水曜日。灰の式に駆けつけた信者たちの額に灰を塗りました。この人たちこそ、大きな期待を抱かせる選ばれた一握りの信者です。戦いながら異教徒の間に生きているここの信者は、強く、たくましく、自分の務めを果たすことに厳格です。閉鎖的とも言えます。特にこの宮崎で。大多数は農家からなるこの共同体は、余り好まない都会生活や学問から離れる傾向があります。この現象は、特に聖フランシスコ・ザビエル時代の古い信者の子孫に見られます。確かに、彼らは大きな困難を抱えています。前述の状況からも解るように、彼らは貧しく、心細い日々を暮らし、はばかりも見られます。すべてを許すプロテスタントや異教と比べれば、カトリックは厳しく感じられます。物質面で裕福に暮らし、出世しようと思えば、公の宗教である神道が欠かせないようです。他にもいろいろな理由がありましょうが、この土地にまだ慣れていないので、まだつかめません。とにかく、一見したところ、将来のために素晴らしい実りが期待できそうです。
目下、私たちには、活動するための一番必要な手段、すなわち言葉が欠けています。聖フランシスコ・ザビエルが手紙で書いたことは、私たちにも当てはまります。「この民の間で、私たちはまるで沈黙の像のようです。人々が私たちについて話し、論じたりしているのに、私たちは返す言葉がありません...。」この年になって、言葉を習得しながら、幼子に戻ったかのようです。願わくは、子供たちのように純真で素直になれますように。
私たちは、建物の2階の4つの部屋で共に寝起きし、勉強しています。少々窮屈ですが、もっと悪い状況の人を考えれば、まだましです。1階には食堂があり、他の部屋はパリミッションの神父様が使っています。
順調にいけば、22日の月曜から本格的な時間割に入ります。それについては、次回にご報告しましょう。
昼食の時、日向新聞の編集長がインタビューにやって来て、私たちの写真を撮し、どういう者か、何のために来たのかを聞きました、私は、すぐに話した方がいいと思いました。
そして、今日、新聞にその記事と写真が載りました。(翻訳を送りますが、十分には表現できていないと思います。日本人の頭の中を理解するのは、しばしばとても難しいことです)。これは、日本において、初めて公に出たドン・ボスコ、サレジオ会の記事です。
午後、タンギー神父と一緒に、県知事、市長、警察の長官に挨拶に行きました。3人とも丁寧に迎えてくださり、必要とあれば、いつでも協力すると約束してくれました。県知事は、お茶を出してくれました(日本の習慣で砂糖は入れません)。ここでも、他の場所と同様に、お辞儀やお礼の言葉が延々と続きました。とにかく、私たちの訪問は皆から喜ばれたようで、こちらにとっても有益でしょう。夕方、やっと元気になったリビアベラ神父が宮崎に着きました。
語学の勉強(1926年、一年間)
「目下のところ私達の第一の課題は、日本語と独特の生活様式の勉強である。指導に当たってくれるのは主任司祭のボネカーゼ師と伝道師の安部氏である。日本語の勉強には小学校の国語の教科書を用い、午前中は読み方と書き方、午後には会話をすることになった。・・・・・しかし皆が苦労しているのは確実だ。安部氏は日本語しか知らないので、主任神父がフランス語で通訳してくれるが、互いに意思がよく通じない時がある。そのため、勉強はたいしてはかどらない・・・・時には大変な勘違いもしでかす。一人の修道士はそんなわけで断念してしまい、共同の授業から免除されることを願ってきた。」
「一番大きな犠牲は、子供のようにならなければならないということである。皆はある年齢に達している者ばかりだし、それだけに勉強への意欲はただ意志力のみにかかっている。何も分からず、何一つすることができない。・・・・これは一般の人には気づかない犠牲。多くの人々からの離別、そして、避け得ない蔑みのもととなり、疲れ切ってしまうこの仕事のない生活。・・・・それに大部分の者たちは第一次世界大戦から戻ってきたばかりだし、それぞれこうした犠牲を増すばかりの不自由を感じているのだ。」
「至る所に多くの子供たちがいます。主よ! 聖母よ! 早く私達の舌を解いて下さい!」
-日本に到着して3カ月経った頃のこと- 「本当に気違いじみた事をやってみました。お聞きください。9日間の聖母の祝日の準備期間中、前もって練習し、自然に起こってくる恐れに打ち勝ちながら、交代で私達は信徒達に短い話をしました。聖母を賛美し、その助けを私達に引くためです。勿論、日本語にするのを助けてもらい、それを丸暗唱しました。・・・・・一番驚いたのは、私達の日本語の上達を褒めてくれた信徒達です。彼らはこんなことを言っていました。『この新しい宣教師たちは本当に変ですね。聖堂の中では上手に話すのに、外では何も分からないのですから。』」「毎日の勉強の疲れを癒すため、皆はチマッチ神父と一緒に散歩に出かけたものですが、とても愉快でした。特に皆が喜んで行ったのが、"一ツ葉"と言われる浜辺です。そこに入江があり、漁師の船がありました。一度我々はそれを利用して、面白い写真を撮ったことがあります。一番よく知られているのは、我々8名が船に乗り込んで、チマッチ神父が一人で岸から綱でそれを引いているポーズです。」 (マルジャリア神父の言葉)
当時の教会:https://maps.app.goo.gl/usLJFPXLZKdUg2Vm7
当時の教会から一ツ葉まで:https://maps.app.goo.gl/KH9rCeGYGHLHR4yV8


2.宣教師達、宮崎教会からそれぞれの任地へ出発
1927年2月1日 : チマッティ神父は正式に宮崎教会の主任司祭となる。彼に協力するのはカヴォリ師とグァスキーノ修道士である。彼はまた新教区である福岡教区の司教のもとで宮崎、大分両県の司牧責任者となった。

1927年2月20日 : ピアチェンツァ神父、リビアベッラ師神父、中津教会へ出発。

1927年3月 10日 : タンギー神父、マルジャリ神父、一人の修道士、 大分教会に出発。

1928年3月 27日 : 宮崎県と大分県が独立宣教区となる。田野と高鍋でサレジオ会の宣教活動が開始。チマッティ神父、教区長となる。
チマッチ神父主任司祭に(1927年2月1日~1929年3月15日)
- チマッチ神父が宮崎教会の主任神父になった時に記したもの-
「ドン・ボスコに倣い、その教えに従い私達の精神を生かし、彼がこの立場にあったならきっとしたように働きたい。私達個人個人の霊魂の配慮を怠ることなく、まず青少年から始めて、使徒職の道を開き、それを完成させるために役立つことをいっそう学び、助けてくれる人々との交際を密にしながら、神の名において前進する覚悟である。」
宮崎での最初の仕事と言えば、委ねられた信徒を確認することだ。名簿をわずかな手がかりとしてカヴォリ師が数人の信徒達を探すために奔走し始めるが、次第に悲しい事実が明らかになってくる。多くの人々は何年も前から司祭に会ったこともなく、僻地に住んでいるために教会に通うこともできない状態だ。・・・・・サーカスが宮崎にやって来た。皆そっちへ行くので聖堂の儀式がさびしい。世界中どこでも同じことだ。」「カヴォリ師は、青少年たちの活動を組織し始める。・・・・・・特に青少年たちの間には、師のお陰で、聖心の信心が実を結びつつある。」
チマッティ神父は、サレジオ会に任せられた宮崎の悲惨な現状を何とかしなければならないという責任を感じていた。1928年に「研究していかなければならない問題。身寄りのない老人たちがいる・・・・・彼らのために特別な施設をおこすべきだろうか。どこで、また誰にまかせたらいいのだろうか。適当な建物があるだろうか。」と自らのノートに綴っている。
カヴォリ神父主任司祭に (1929年3月15日~1938年5月20日)



1929年3月15日からカヴォリ神父の宮崎教会主任司祭の時代に入る。主任司祭になって2年後に行われた宮崎市内での聖体行列のために作られた小冊子の中に、宮崎教会内に様々なグループがあり、それらのグループが活発に活動していたと想像できる記述がある。そこには、少年たちのために『ドミニコ会』、少女たちのために『テレジア会』、青年たちのために『アロイジオ会』『マリア処女会』そして『青年会』『父の会』『母の会』など、信徒のグループの名が連なっている。これを見ると、来日以来、主任司祭・助任司祭として働いたチマッティ神父、カヴォリ神父、そしてリビアベラ神父によって、それらの会は設立され、指導され、活発に活動していたことが伺われる。
国が強力な軍国主義の道を突き進む中にあっても、宣教師らの活動は続けられた。「1931年のクリスマス、"マリア処女会"の活動と宣教師たちの働きの実りとして、20人位の人に洗礼を授けることが出来た。その後、孤児や身寄りのない老人たちの身の上も思い返し、その人々の一部なりともちゃんとした施設に収容し、もっと人間らしい生活をさせてあげようという考えが私達の頭に浮かんだのは、ちょうどこの頃のことです」(『回想録』124ページ)とある。そしてそれは、困難の中にありながらも、知牧長チマッティ神父の権限と指導のもとに実行に移される。こうして1932年7月には 宮崎教会は世話をしてくれる人のいない貧しい子供や老人たちのために、宮崎市郊外に50アールの土地を求め、8月には救護院の建築の第一期工事にとりかかっている。ここに本会の事業の起こりがある。
1931年5月17日:宮崎市内、荘厳な聖体行列
https://maps.app.goo.gl/Fc9nUMvxoXkkDvHs5

聖体行列に関する情報:イエスのカリタス修道女会(https://www.m-caritas.jp/home3.html)聖体行列No2をご覧ください。

聖体行列の為に援助してくださったへのチマッティ神父の思い: 1931 年5 月20 日
口頭や手紙をもって宮崎で行われたすばらしい聖体行列のために協力してくださった方がたに心からの感謝をし、祈りを約束しました。もう一度、この行事の担い手となり、企画や組織の中心となったアントニオ・カヴォリ神父、宮崎支部の会員たち、また扶助者聖母修道女会に感謝いたします。みなさんは、行事が立派に成功するために最善の努力を尽くしてくださいました。主がみなを祝福し、豊かな実りを味わわせてくださいますように。
またいろいろなプレゼントをもって参加してくださったイタリアの友だちにも感謝します。リナルディ総長はカリスを、ヴァルサリチェの支部は聖体顕示台を、聖ジューリオの婦人会は子どもたちの衣装を、フラスカーティの高等学校はドン・ボスコの旗を、聖アロイジオのオラトリオはドメニコ・サヴィオの旗をプレゼントしてくれました。言うまでもなく、立派な天蓋をプレゼントした中国のロ・パ・ホン氏や、大きな犠牲を払って参加したほかの方々にも感謝いたします。イエスさまをたたえるために、みなさんは、心を一つにして協力してくださったのです。







田野教会
1927年 長崎より信者4家族が、田野に移住して来る。 移住当初は聖堂がなく、日曜日には信者の家でミサが捧げられる。宮崎教会からチマッティ神父様、カヴォリ神父様が交代で来る。


1929年 田野教会献堂。海の星と聖女テレジアに捧げられる。
歴代司祭 1928.12月~1933.10月 ルチオニ神父(サレジオ会)
土、日 1933.11月~1936.10月 チマッティ神父(サレジオ会)
1936.11月~1939.12月 ルナルディ神父(サレジオ会)
1983年 現在の教会落成
https://maps.app.goo.gl/SHN1kwfzLXF7BPSv8


1931年12月9日:別府教会が始まる。杵築と守江を訪問する。
https://maps.app.goo.gl/pYxmVYdfzkbsmH1y8


1934年11月~宮崎小神学校。現在日向学院
https://maps.app.goo.gl/TWVByidSsS16op9w8

↓1934年1月28日ー落成式

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イエスのカリタス修道女会の歴史



















サレジオ会来日100 周年 宮崎巡礼マップ 候補地リスト(順序は特に意識していない)




