13 October Blessed Alexandrina da Costa

13 October Blessed Alexandrina da Costa

福者 アレキサンドリナ・マリア・ダ・コスタ
                   (一九〇四‐一九五五)

アレキサンドリナの私的な日記は次の言葉で始まる。「一九〇四年三月三十日、聖週間の水曜日にポルトガルのバラサール教区で生まれた。四月二日、聖土曜日に洗礼を授かった。復活祭の八日間内であった」。彼女の生涯は二つの期間に分かれる、十九年ののんびりとした楽しい「アレルヤ」の期間と、三十二年の受難の期間。後者の期間は、自分の十字架を喜んで背負って、カルワリオまでイエスに同行した。

家族
 バラサールは明るい田園地帯で、人口はおよそ千人、そこの松の木陰、高いぶどうの木のパーゴラに隠れた石造りの家に彼女は住んでいた。
教会は石だらけの丘の麓にあり、数百メートル離れたところに田舎風の古いチャペルがあった。すぐそばには大きな十字架が立っていたが、このチャペルの近くのカルワリオと言う大地の上に、アレキサンドリナは五十一年間住んだ。晩年「十字架に付けられたもの」とか、「バラサールの病人」と言われ、一生涯長い旅をしたことがなく、ただ一度だけ十五キロメートル離れたポヴォア・ドヴェルジニまで行っただけであった。そこで大西洋の長くて強いうねりを見た少女はうっとりしたのである。
 村の子供たちと同様、六歳から要理教室に通い、七歳になって初聖体を受けた。教会には喜んで行ったが、これは聖人たちのご像を見るためであったかもしれない。特にロザリオの聖母像と聖ヨセフ像が好きだった。きれいに飾ってあったから。後に彼女は書いている。「おそらく、それは、わたしの虚栄心のあらわれであった。聖人や聖性のことを考えていたのではなく、貧しい少女がお城と王子様を夢見る、多くのやせた青白い顔のシンデレラの一人であったかもしれない」

若いときの教育
 大好きな姉が一人いて、母は朝から晩まで忙しかった。わずかな収入で家計を何とかまかないながら、姉のディオリンダと違って、とても活発なアレキサンドリナを抑えなければならなかった。「小山羊のように走り回ったり、掴むことのできるところならどこでもよじ登ったりしました」と母は言っている。悪ふざけが好きで、石垣の裏に隠れては、教会帰りの黒いベールを被った信心深いお婆さんたちに石を投げたものだ。陽気な少女はその告げ口をするお婆さんが大嫌いであった。あるとき、長い説教の間にすばやく動いて、後ろから二人ずつショールの縁飾りを結んだ。しまいには大混乱になって、大笑いを避けて教会をとび出さなければならなかった。
 アレキサンドリナは陽気であっても、軽率ではなかった。どの少女でもするように、家事に忙しかった。好きな歌を歌いながらまきを割った。家にいないときは、いつも小川で洗濯した。きれい好きで、よく「だらしのないイエスを想像できません。若いときから聖人になりたかったけれど、不潔の中で聖人になるのは嫌です。きっと、主は不潔を好まれないと思います。体も、霊魂も」と言っていた。
 十二歳になると、大ていのポルトガルの子供と同様に、アレキサンドリナも隣の農夫のところに働きに行った。主人は残酷な人で、体力以上の仕事をさせた。また、ひわいな話をし、みだらな行為もしてみせた。「なんの理由もなく、わたしを皆の前で、はずかしめたりしました。わたしは若くて生まれつき陽気だったので、とてもつらかったです」と言っている。五ヶ月も経つとアレキサンドリナはもはや我慢できなくなり、その仕事を辞めた。しかし、家族に負担をかけたくはなかったので、一生懸命に畑仕事をして、十三歳で母と同程度の給料を受けるようになった。大人と同じように穀物を一俵持ち上げることができた。あるとき、下品な話しをした既婚の男性の頬を平手打ち、夕方仕事が終わってから 彼女を待ち構えて、言いよる金持ちの若者を厳しく叱ったこともあった。
 十四歳になったアレキサンドリナは、美しい少女に成長していた。彼女が十二歳の時に雇った悪い主人は、彼女に惚れこんで、二人の好色な男を連れ彼女の家に入ろうとした。後に、アレキサンドリナはその時のことをこのように語っている。「家で姉ともう一人の年上の女の子と編物をしていました。三人が近づいてくるのが見えると、ドリンダはわたしに『戸を閉めなさい』と言いました。直後、彼らは戸を叩いて、開けるように命じました。『ここはあんたたちの入るところじゃない。戸は開けない』とドリンダは叫びました。それから戸を打つ棍棒の音が聞こえ、戸がこわれました。ドリンダともう一人の女子は二人の悪者に押し倒されました。もう助からないと思いました。見回すと、開いている窓が見えたので、急いでそこから飛び降りました。立ち上がって、ぶどう畑から棒を拾い、姉と友人を助けるため入っていき、『嫌なやつら、出て行け』と叫びました。
二人が行ってしまったとき、私たちは仕事を続けましたが、疲れきっていました。少したって、私は鋭い痛みを覚え、やすみに行って、長く休息しなければならなくなりました」
 はじめ、アレキサンドリナは病気を我慢せず、治るために何でも試みてみた。希望をもって、都会のいろいろな病院へ行くための長く退屈な旅をし、勧められる治療法を真剣に試みた。そのあとは神に頼るようになった。派手な服装を好んでいたのに、健康を回復したら生涯喪に服すと誓いを立てた。母も姉妹も従妹たちも皆、九日間の祈りや、特別な誓いを立ててその回復を願った。しかし体力は少しずつ衰えていった。
 オポルトの医者、ヨハネ・デアルメイダははっきりと母に言った。「生涯麻痺状態になるでしょう」。十九歳になったアレキサンドリナは床について、もう起きることはなく、姉が三十年間看病した。その後、霊的指導司祭は、彼女をてごめしようとしたあの男と話したあと、こう書きとめた。「ある日、涙を浮かべて私に言いました。『彼女は聖人です。苦しみで寝込んでいるのは私の責任です』と」。母から子山羊のようにすばしっこいと思われたあの体は、今は活力のない骨と皮ばかりに痩せてしまった。ますます祈りとイエスとの一致を必要とした。少しずつ健康の回復の望みがなくなり、救われがたい状態にいる霊魂を愛しはじめた。神がそれからの唯一の関心事となった。

キリストの受難を共にする
 この時から神の不思議な恩恵はアレキサンドリナに働きかけた。十字架上のイエスに同伴し、罪人の救いのため、あの役に立たない体を神秘的ないけにえとなるために変えていった。長くて苦しい旅であった。始めは病気を我慢したくなかったが、今は、罪人の改心と世界平和のためにキリストに身を捧げはじめた。このように書いている。「神に光栄を与え、神のための救霊以外何も目標はない」。イエスを愛し、苦しみ、償いの方法を提案した。一九三六年、「救霊のために手を貸してください」という主の招きの言葉が聞こえた。翌年の四月、アレキサンドリナの健康状態が悪化して、主任司祭は毎日聖体拝領をさせることにした。ジョアキーナ・デシルヴァ夫人は身の回りの必需品を配慮した。一九三八年十月三日、初めてキリストの受難を体験した。その後、一九四二年までの毎金曜日にくり返された。教皇は、念のため、カマ・エマヌエル・ヴィラール参事会員を送って事情を調べさせた。また、オポルト市の数人の医者も診察した。一九三九年一月二十日、六月十三日と二十八日に、イエスは第二次世界大戦勃発を予言した。はたして九月一日、罪の罰となる戦争が始まった。彼女は平和のために自分をいけにえとして捧げた。その後、四年間毎金曜日、三時間にわたって主の受難を体験した。
 一九四二年四月三日、アレキサンドリナの健康状態は悪化した。病者の塗油の秘跡を受けて、非常に苦しい神秘的な体験をし、身体のタガがまったくはずれたようになってしまった。そのときから一九五五年 十月十三日の帰天の日まで、ご聖体だけで生き続けた。教皇ピオ十二世に、聖母の御心に世界を捧げるように願った。一九四二年十月三十一日、教皇はその願いに応じた。
 一九四四年六月二十一日、彼女はサレジオ会のウンベルト・パスクァーレ神父と出会った。彼はアレキサンドリナの死まで指導司祭を勤めた。彼は「生涯の最も悲惨な時期(一九四四年から一九四八年)のわたしのキレネ人」と呼んだ。彼女の貴重な日記帳と、姉妹、神父自身、そしてバラザールの女教師が口述したことや、「アレキサンドリナの事例」に関する大量の資料を集めた。十一年かけて、全部を五千ページにまとめ、テープに吹き込んだ。リスボンの総大司教、エマヌエル・カレヘイラ枢機卿は、何時も慈父のような理解を示し、精神的に支持した。アレキサンドリナとの関係を誇りに思った。

サレジオ協力者会
一九四五年パスクァーレ神父が会員証を渡して、アレキサンドリナは、サレジオ協力者会の会員となった。彼は次のように書いている。「授与されたわけは、アレキサンドリナがサレジオ会員たちと一緒に、特に若者の魂の救いに協力し、祈り、世界中の協力者の聖性のために苦しむためでした。証書はいつでも目に見える所にかけるよう願っていました」。彼女は言った。「サレジオ会員と全世界の協力者との強い絆を感じます。何回となく会員証を見つめ、彼らと一致して、若者の救霊のために苦しみを捧げます。わたしはサレジオ会をとても愛しています。この世でも天国でも、忘れないでしょう」
 協力者会の会員証書と一緒に、アレキサンドリナは、その支部のチャペルを拡大した写真をそばに置いて、モゴフォレスのサレジオ会修練院の信心業に参加できるようにした。このように世界に向かってドン・ボスコの宣教に備えて準備していく、サレジオ会の修錬者たちのために苦しむ姉妹となった。面識がなくても、次の手紙を彼らに送った。「皆さんを心に留めています。自信を持って下さい。イエス様はいつも一緒にいらっしゃいます。この世で、また、皆さんを待つ天国で。どうぞ、わたしのためにお祈りください。  親愛なるアレキサンドリナ」

神秘家
 一九五三年アレキサンドリナの枕もとに集まった巡礼者の数は、聖ヨセフの祝日は五七〇人、五月九日は二千人、六月五日は五千人、六月十日は六千人に達した。何十台もの大型バスがバラザールの道路や狭い広場に詰め込まれた。パスクァーレ神父は書いている。「使徒的な使命のある神秘的な人は多いが、彼らを知っている者が望まないで人気の的になるのは驚かない。彼らが耐えなければならない苦しみは計り知れない」

夕暮れ
 一九五四年四月九日は、アレキサンドリナが聖体だけで生きはじめてから十二年になる。厳しい断食は医者団に細心に残酷なまでに見張られた。視力はだんだん弱くなり、日中はいつも暗闇の状態で過ごさなければならなくなった。ほんの少しの光も耐えられなくなった彼女は、部屋を「わたしの暗い牢獄」と名づけた。罪人のほうを向いて、「わたしは皆さんのために押しつぶされました」と言って、改心するように勧めた。一九五五年五月六日 聖母は告げた。「間もなくお迎えにまいります」。その「間もなく」は十月十三日になった。枕もとに立っている数人に小声でささやいた。「罪を犯さないでください。この世は全く価値のないものです。しばしば聖体拝領をしなさい。ロザリオを毎日唱えなさい。さようなら。天国でお会しましょう」。その晩、「私は天国にまいります」と言いながら、亡くなった。
バラザールは今、多くの人々が訪れる巡礼地となっている。
 一九六七年一月十四日、ブラーガ教区でアレキサンドリナの列福調査が始まり、一九九五年十二月二十一日、彼女は尊者と宣言された。二〇〇四年四月二十四日、列福された。

年譜
一九〇四 ポルトガルのバラザールで生まれる
一九一八 生涯全身不随になる     
一九三八~四二 キリストの受難を体験
一九三九 世界平和のために自分をいけにえとして捧げる
一九四二~五五 聖体だけで生きる    
一九四五 サレジオ会協力者会の会員となる
一九五五 死去          
一九六七 教区の調査が始まる
一九九五 尊者の宣言
二〇〇四  列福式(四月二十四日)