5 October Blessed Albert Marvelli

5 October Blessed Albert Marvelli

福者アルベルト・マルヴェッリ  1918~1946

清く明るい喜ばしい光

アルベルト・マルヴェッリはドン・ボスコが夢見た生徒たちの模範、理想像である。カトリック精神によって在世に生きる者の模範である。この理想的な生活は、あたかもバチカン公会議の先取りのような生活であり、カトリック信者は如何にあるべきかを示している。

アルベルト・マルヴェッリは1918年3月18日、フェラリ市で2番目の子として生まれた。その家系は古く、代々続いたものであったが、アルベルトたちはロディ市に住みつくことになる。アドルフォが長男で、アルベルトの次にカルロ、ラファエロ、ジョルジョ、ジェルトルーデと子宝に恵まれた。

アルベルトたちの生活を知るためには、母親に焦点をあてなければならない。マリア・マルヴェッリはカトリック・アクションに属し、心からの奉仕の精神に満ちていた。少女を危険から守ることを目的とするヴィンセンシオ・ア・パウロ会の会員であった。生れながらの教育者の姿が彼女にはあった。

マリア・マルヴェッリは、年齢を重ねると、扶助者聖母の教会で、すべてのこどもの母となった。皆にとって開かれた心で接し、特に、貧しい者にはなにも断らない女性であった。こどもたちは、放課後、スープを飲んだり、おやつをいただいたりしていた。

彼女は言っていた。「ひもじさ」を訴える人がいたら、すべてを捧げましょう。イエスさまにすべてを捧げましょう。

アルベルトの父、アロイジオ・マルヴェッリも心のすぐれた人物であった。しばしば、出張で汽車の中で、夜を過ごすようなことがあっても、朝にはミサに与り、聖体拝領をしていた。教会活動としては、さまざまな信心会に加わり、ヴィンセンシオ・ア・パウロ会の会長の任を受けていた。

ファッシストの運動が隆盛を極めていたとき、アロイジオはカトリック銀行を解雇された。そのとき、ひとりの貧しい女性は、預けていたわずかな金も失うはめに陥った。その時、アロイジオは自分のサラリーで彼女の苦境を救った。

マルヴェッリ家はロディ市からモディナ市、さらにアンコナ市に移り、1931年リミニ市に移住した。このとき、アルベルトとサレジオ会とのつきあいが始まった。サレジオ会のオラトリオに通うようになった。

アルベルトは健康で、真面目で、強い性格を持ち、利巧な少年であった。サッカーに打ち込んでいたが、中学を卒業すると、クラシック音楽にも興味を抱いた。マルヴェッリ家はアルベルトが15歳の時、父親、アロイジオ・マルヴェッリを失うのである。

当然の如く、マリア・マルヴェッリが家長となり取り仕切ることになるが、母親はアルベルトを長男ではないが、若い兄弟・姉妹の面倒を見させた。

1933年、父親が亡くなってから、10月頃日記を書き始めた。ここに、アルベルトが、若いにもかかわらず、人間的にも成長していることがわかる。「麦」が熟していることがわかる。読んだ本から、とくに、聖書と「キリストにならう」から、多くの考えを書き記している。たとえば、「受けるべきことと捨てるべきことがどんなものであるか。この区別は本物の節制が可能にする。(キリストにならう)」

ここにアルベルトの生活のプログラムがある。
1. 朝の祈り できれば黙想
2. 毎日の教会訪問 できれば秘跡を受ける 聖体をいただけるなら最高の幸せ
3. 毎日、ロザリオ1本
4. 罪の機会をすべてにおいて避ける
5. 晩の祈り 黙想 糾明
6. 大きな不完全に打ち勝つ 怠惰 食べ過ぎ 不忍耐 好奇心など
7. すべての困難においてもイエスに逃れる。

どの決心においても不忠実であれば、外的罰を決める

この計画において、アルベルトは一生、忠実であった。閉じこもったり、怠ることなく、懸命におのれの内的生活を整えていた。人間を愛し、人と人の間に好きな場所を作っていた。自分のつとめにすべてを捧げ、人々の助けとなり、人々の中にキリストを運んでいた。ほほえみを忘れず、学校に通い、カバンをさげ、自転車に乗ってカトリック・アクションやサレジオ会のオラトリオに通っていた。

これらすべてにおいて、アルベルトを導いたのは、母親のマリア・マルヴェッリであった。

熱心に学んだ

高等学校を60人中の2番で卒業し、1936年、ボローニァ大学の工学部に入学した。友達と連絡を取り、ボローニァで新しい結びを保った。

おばの家に寄宿した。そのおばに当たる人が当時のことをこのように語っている。

「かれは、毎日、勉強と宗教かつどうに奔走していました。ときどき、ロザリオをにぎったまま本のうえに眠りこけたこともありますが、朝、6時には教会に行っていました。そこで聖体拝領をして、昼まで、なにも口にしていませんでした。四旬節には食欲をコントロールしていました」

ボローニァ時代の彼の友人は、アルベルトについて、このように振り返っている。

「わたしが聖バロトロメオ教会に入ったら、12時すぎに学校を終えて聖体を拝領していた。リミニ市からボローニァまで汽車で通学していたが、聖体をいただくために彼は何も口にしていませんでした。食べないで授業を受けていました。そこで、わたしは言いました。わたしにはこんな生活はできない、と。アルベルトは、ただ、微笑んでいたのですが、この微笑みが魅力的でわたしたちの心を捕えていました」

さらにつけ加えて、「このような完全な人間、完全な信仰者は他に例をみない」とその友人は語った。

第2次世界大戦の中で

アルベルトが大学の過程を終えたとき、第2次世界大戦が勃発した。1940年、この戦いにおいて、ムソリーニはドイツ軍のヒトラーに加担した。アルベルト自身は、技師の資格を得て、8月から11月までメヂラム市のヴァンアノッテイの鉄工所で働いた。その時、最初の空襲が始まり、多くの家族は被災して、貧しい生活を強いられた。大人も子供も軍に連行された。

鉄工所の工場長は、当時のアルベルトについてこのように証言している

「かれは数カ月わたしの所で働いた。最初の日から、すべての労働者に親しく接していた。困っている者の友となっていた。その人の家庭の問題に理解と関心を示し、援助の方法を模索していた。病人を訪問したり、多くの人に夜学に通いように勧め、助けていた。皆に好感をもたれ、愛されていた

 戦争に参加するようになった日から、聖体と祈りの中に力を汲み、最後までみなのために奉献していた。

1940年6月30日、ギリシャでの戦いは終わった。その8日後、ロシアと戦った。そのとき、アルベルトは技師の博士号をとり、軍隊に召集された。

トリエステの兵舎で4ヶ月を過ごし、家に帰った。2人の兄弟はすでにされて、自由になっていた。アルベルトはリミニ市に帰って、ボローニァ大学の工学部の教授となり、1943年まで勤めた。

ロシアとヒトラーが勝利を得た。アルベルトの弟のラファエルは戦死した。アルベルト自身も再び、召集された。母親にとっては大きなショックであった。

日記と証言

神はわたしたちの家族とわたしの信心会を試みられた。み旨が行われますように

戦争は悪の罰である。神と人類に対する愛が欠けていることの証拠だ。

責任はみんなのものだ

どこにでも敵がいる。愛のかわりに憎しみ

キリストが救ったものが憎まれている

アルベルトはテルアヴィヴに送られる

聖マリア教会のダヴィデ神父の証言

「アルベルトがテルアビヴにいた時、2000人の兵士がいた。多くの者は神に対して軽い冒涜のようなことばを吐いていた。生活はかなり乱れて、愚行を重ねていた。その乱れは著しくまんえんしていた。ところが、しばらくすると、生活の乱れもなくなり、かれらのことばに、かつてのような、神に対する耳障りなことばも聞かれなくなった。なによりも、将校たちが落ち着いてきた。部隊長、将校たちも、かつては、神を侮辱しているように思われたが、今は、部下たちに忠告を与えるようになった

アルベルトは、ヒトラーがヨーロッパ軍を率いてイタリアを撤退する、9月8日までそこに滞在した

彼は家に帰り、ボローニァ大学の工学部の教授を勤めた。戦いは続き、ドイツ軍がイタリアに攻めいり、働くことができる者は、ドイツ軍の工場に送り込まれた。空襲が始まり、リミニ市では、11月1日に300回にも及ぶ空襲によって町は廃墟とかした。多くの人に助けが必要になった。大学の勤務を終えると、マルヴェッリは、教会に行き、聖体拝領をすませ、困窮者のために働いた。

家族はリミニ市から7キロ離れたウリジャノ市に移った。母親は嘆いている。

「息子のラファエロは戦死、カルロはアフリカで捕虜の身、アドルフォは兵隊に、アルベルトだけがここにいる」



確かに、アルベルトは英語が堪能で、技師の資格があり、残るチャンスがあった。技師としてかれをドイツ軍が必要とした。それでも、かれは多くの若者がドイツ軍に連行されないように努力していた。これがドイツ軍に気に入られないところとなり、ドイツ軍に送られることになった。送行中、連合軍が列車を攻撃し、爆撃をしかけてきた。アルベルトと仲間は逃亡した。3日後には家に帰っていた。リミニ市も爆撃されていた。家族はサン・マリーノに逃亡した。人口1万4000人の島は、やがて12万の国と膨れ上がった。

アルベルトと母は、ロバに車を引かせて逃げて行った。多くの兄弟姉妹たちは、自転車などで行動した。ヴェルッジ郊外に住みかを見つけた。このような時でも、落書きをもって生活し、平静にふるまうかということに、アルベルトは力を発揮した。自分の仕事を続け、まわりの人を力づけ、助けた。

夜は、先頭にたって、ロザリオを唱え、修道院に行き、祈り、避難した人で溢れる教会で、ミサに仕え、聖体を拝領し、町に出て、危険もいとわず食料品を探しまわった。

1944年11月21日、連合軍はリミニ市に侵入してきた。戦車、武装した車は、美しいリミニの森や田畑を壊滅状態にした。街並みは廃墟と化した。犠牲者の遺体は放置され、家屋は爆撃のあとを生々しく残していた。

マルヴェッリの家族は、自分たちの家に帰った。しかし、ずいぶんと耐えなければならない生活を強いられた。かなり広い住居であったので、イギリスの軍隊が占拠して、かれらのためには、ほんのわずかな部分だけが住み家となった。戦争の最後の冬であった。

戦いが終わった。連合軍は都市復興計画を立て、委員会の代表アルベルトを起用した。かれは、技師で土木工学に通じていたからである。

キリスト教会の組合は会長にアルベルトを推薦した。司教もカトリック・教職員組合員に困窮者に手を伸べるように促し、貧しい家を訪ねて回った。昼食の途中、いろいろの人が助けを求めて、断ることもできない状態だった。

1946年、リミニ市の市長選が行われた。
対立党派のひとりの党員は言う。「わたしの党が敗北するようなことがあってもかまわない。マルヴェッリが市長であればとそれでよいと望んでいる」

10月5日、夕方、サンジュリアーノの集会に自転車で向っているとき、連合軍の車が猛スピードでやってきて、他の車に衝突があった。そのあおりを受けて、アルベルトは道のそばにある広場まで吹き飛ばされた。病院に運ばれたが、2時間後に28歳の生涯を閉じた。

その葬儀は、超宗教の集まりとなり、参列者は墓地まで行列をつくり別れを惜しんだ。フローレンスの市長は、「かれは喜ばしく、清い光であった」と称えた。

カトリック・アクションの会長アロイジオ・ジェダは言った。「アルベルトの思い出はわたしの一生の伴侶である。新しい若者の召命として、教会が育て上げた人物である」

2004年9月5日、ヨハネ・パウロ2世は彼を福者の列に加えた。