Blessed Zephyrinus Namuncura, lay

福者 セフェリーノ・ナムンクラ

            (一八八六~一九〇五)

アルゼンチンにおけるサレジオ会

サレジオ会宣教師の最初のグループが、南米に向かってトリノを後にしたのは、一八七五年十一月十一日であった。その際、ドン・ボスコは、神が夢を通して見せたことを、パタゴニアのパンパスの大地を自分の目で見たかのように父親の愛をこめて語り、そこの未開の住民が福音の光からまだ遠いということを話した。使徒職の最初の領域は、ブエノス・アイレスとその地にいるイタリア人の移民であった。しかし息子である会員たちが奥地にも進んで、先住民にも福音を告げて欲しいと願っていた。団長のカリエロ神父に、愛すべき息子たちへのはなむけの言葉と心のこもった勧告を記したメモを手渡した。締めくくりは「最善を尽くしなさい。神が私たちのできない部分を補ってくださる。すべてをご聖体のイエスと扶助者聖母マリアに任せれば、奇跡とはどういうものかが分かってくる」という言葉であった(MB・XI.369)。

  ドン・ボスコの子たちがパタゴニアで行ったすばらしい使徒職から生まれた奇跡のひとつは、確かに「パタアゴニアの草原の百合」セフェリーノ・ナムンクラであろう。一九一五年、セフェリーノの死後十年経って、ブエノス・アイレスの管区長ホセ・ベスピニャーニ神父は言っている。「神が北パタゴニアにくださった美しくて芳しい花の中で、ひときわ目立った一輪の花はセフェリーノ・ナムンクラであった。生まれ故郷のチンペイからこの町に来て、さらにイタリアに行った彼について、どこでも身分ある人々、その中には教皇ピオ十世もいるが、誰でも彼

の美徳に感心していた」

アラウカノ族の戦い

 セフェリーノ・ナムンクラは、アルゼンチン中央南部のパンパス地方に住む先住民アラカウノ族の出身である。

 スペイン人の入植者たちは、一五三六年にブエノス・アイレス市を設立し、そこから大河をさかのぼって奥地に植民地を開拓し、先住民を打ち滅ぼしては土地を占領した。

アラカウノ族は飢餓にも乾きにも、地面に寝ることにも風雨にも耐えるよう訓練を受けており、また乗馬の達人であった。族長は最も勇敢なものから選ばれ、カシケといわれた。大カシケには、戦争の時にリーダーシップをとる能力のある者が選ばれた。彼らの生活様式と違う文明を断固拒否し、彼らのカシケたち以外の、どんな権威にも従おうとはしなかった。

アラウカノ族はしばしば「マロン」という戦術を用いて白人と闘った。占拠されたことを受け入れたように見せかけて、数年間じっとしているが、突然夜の闇に乗じて、早い馬に乗って白人に奇襲をかけ、農家に火をつけ、皆殺しにしてその地を荒廃させてしまう。繰り返される闘いの中で、多くのアラウカノ人が殺され、抵抗する力も弱まっていた。

セフェリーノの祖父、ホァン・カルフクラという勇敢な族長が、千人の兵士をもって残りの部族民を統率し、白人の村々を攻撃しては、次々と攻略していった。しかし、一八七二年には、七十歳になったカルフクラにリーバス大将が勝って、千人以上のアラウカノ人を殺した。一八七五年に、伝説めいたカルフクラの末子、マヌエル・ナムンクラが統率するようになり、反撃のために部族を再編成し、四千人で襲撃して、農作物を焼き尽くし、農夫達を殺し、工場と騎手たちを急襲した。

一八七九年四月六日には、ユリウス・ロカが八千人の兵士を率いて、首都を出て南部に進軍し、全パンパス地方で組織的かつ徹底的な捜査を行い、最終的にインディオスを全滅しようとした。アラウカノ族の最期が見えてきた。抵抗することはできなかった。マヌエル自身はアンデス山脈の方に逃げて逮捕を免れた。頑強な抵抗者、アラウカノ人たちはもう一回血生臭いゲリラ戦を試みたが、それも長くは続かなかった。

一八八二年、ビレーガス大将の大攻撃に、二千人ものアラウカノ人が捕虜となった。その中にマヌエルと妻と四人の子供たちもいたのである。

 

サレジオ会宣教師の斡旋により降伏

マヌエルは勝利の見込みがないと分かり、一八八三年五月三日、条件的降伏を取り決められた。この解決は、ひとりのサレジオ会宣教師の斡旋のおかげであった。さもなければ部族全体が虐殺されるはずであった。サレジオ会の宣教師たちは、リオ・ネグロ川の川岸にあるカルメン・デ・パタゴネスとビエドマに落ち着いた。マヌエル・ナムンクラは白人のミラネジオ神父にだけ信頼を置いた。この勇敢なサレジオ会の宣教師は、インディオスの友人とも守り手ともなり、彼等の言語を習得し、虐待された者を弁護し、洗礼を授けるためには遠くの地方にまで馬に乗って出かけた。この熱心な宣教師は、ビジュガス大将を進んで出迎えるようマヌエルに説得した。

一八八三年五月五日、九人の族長を連れ、降伏するためにロカ要塞に出頭し、これ以上アルゼンチン軍隊と交戦しないことを約束した。交換条件として、マヌエルはアルゼンチン軍の陸軍大佐の称号、軍服、給料を受け、部族の人々にはリオ・ネグロ川流域の広い土地が与えられた。また彼個人の責任も免除された。その後、アラウカノ部族は、カトリックの影響で、好戦的な風習を捨て、キリスト教的兄弟愛と平和を学んでいった。

 ところが、十二年後、軍事政権は約束を破り、部族と一緒にその肥沃な土地を離れ、アルミーネ渓谷に退くようにマヌエルに示唆した。その渓谷はアンデス山脈の丘陵地帯の狭い土地であった。失意のうちに、高齢のナムンクラは部族を連れ、指定された土地に向かった。そのかたわらを歩んでいったのは、十二人のこどもの六番目の八歳になった賢い子モラレスであった。その子は間もなく父によってその名をセフェリーノと改められた。

幼年時代

  マヌエル・ナムンクラは数人の妻を有していたが、一九〇〇年に市民権を取得した時、十二人の子供は全員彼の子として認められた。セフェリーノはアラウカノ族の勢力が衰えた後の一八八六年八月二十六日、リオ・ネグロ州チンペイで、ロサリア・ブルゴスとの結婚によって生まれ、一八八八年十二月二十四日にミラネジオ神父から洗礼を受けた。その子は生まれながらにして優れた資質を持っていたが、ふさわしいキリスト教的教育を受けることはできなかった。兄弟のハンニバルは言っている。「母は朝早く目が覚めてセフェリーノが家にいないことに何回も気づき心配していたが、しばらくするとセフェリーノは薪の束を持って戻り、それを売って家族のために食料品を買って来るのだった」

 近隣の人々はその子の気立てのよさに感心して、通常の価格以上で買ってくれた。その上に、セフェリーノは母の羊を牧場に連れて行ったりもしていた。アンデス山脈の荘厳、静けさ、孤独、そして素朴な家庭生活は、その子に温和な性格を形作った。他方、父が好んでセフェリーノに語って聞かせた過去の軍隊時代の誇らしげな思い出話は、彼に祖先と母国に対する深い愛と誇りを抱かせた。その後、彼もまた兵士になって、国のためではなく主キリストのために戦いたいと望んだ。「よい戦い」を戦って、アラウカノ人の使徒ミラネジオ神父のように、自分の民族に福音をもたらしたいと思った。事実、アラウカノ人の福音化は、アラウカノ人自身によって行なわなければならないと彼は考えていた。

 一八九七年八月、セフェリーノが十一歳になった時、父はブエノス・アイレスに連れて行って、エル・ティグレという陸軍学校の一つの施設に入学させた。マヌエルの考えははっきりしていて、息子に次のように話して聞かせている。「お前は頭がいい。いいか、われら部族の最後の頼みだよ。大きくなった時、アラウカノの権利を守らなければならない。さもないと部族が絶滅する」。しかし、初めからセフェリーノにはその学校も、教育制度も気に入っていなかった。そこで間もなく父に手紙を出し、連れ戻してほしいと書いた。共和国の前大統領サエンス・ペーニャは、息子をブエノス・アイレスにあるサレジオ会のピオ九世校に入学させるように父親に薦めた。 

セフェリーノは苦労もおそれず、自分で決断もできる強い意志を備えていた。賢明な上長たちは、入学したセフェリーノに過度な要求をするようなことはなかった。彼は特に信仰深く、祭壇、聖ひつ、賛美歌とオルガンの調べに心をひかれていった。初めは遅れていたが、熱心に勉強と信心業を果たしていた。教理の授業には喜んで参加し、いつも素直で、勤勉で、陽気であった。そのために級友たちからはよい仲間として歓迎された。品行、学業ともにすぐれていた。

 サレジオ会の学校の家庭的な環境の中に、セフェリーノはすぐに溶けこんでいったが、山の上の生活から街へ、家族ののんびりした雰囲気から学校の規律、規則正しい生活への転換は、もちろん、彼にとって楽なことではなかった。初めは整列するのが嫌いで、彼にとってそれは考えられないほどのことであり、もっと自由が欲しかった。スペイン語を話すのは難しかったし、生い立ちの違う生徒たちとはなじめなかった。しかし、理解、忍耐強い愛情と優しさに基づいたドン・ボスコの予防教育法と不思議な恩恵の働きは、非常に肥沃な土地を先住民の子どもであるセフェリーノの中に見つけ、実りをもたらした。数週間もすると、上長たちも級友たちも彼の見事な変化に気がついた。これまで学校教育を受けていなかった十一歳のアラウカノ族の少年は、その時から小学校の勉強を始めた。一八九八年三月からの新学年に入って正式な勉強が始まり、一九〇二年までの四年間続けられた。

セフェリーノ・ナムンクラが亡くなって六年後に、ベスピニャーニ神父は彼のことを次のように思い出している。「ナムンクラは単純な良い性質で、素直で、信心深く、上長に対してはいつも深い感謝を表わしていた。ドン・ボスコがドミニコ・サヴィオとフランチェスコ・ベズッコの伝記に描写したような、サレジオ会の生徒の完全な模範だった」。教区、またローマでの調査においても、この点は十分証言されている。若いセフェリーノは信心業、祈り、勉強、規律正しい生活、上長の望みへの一致において、すべて模範的であった。

一八九八年九月八日に初聖体を受け、翌年の十一月五日に堅信の秘跡も受けた。初聖体の前日には、ひどく彼を侮辱した友人ともすすんで仲直りしている。当時から級友のうちで彼の信心は際立っていた。級友であったサンギネッティ神父は後にこう言っている。「中背で重々しい足取りで一見丈夫そうに見えたが、あまり健康ではなかった。事実、学校の規則正しい生活はその健康を蝕んでいった。つぶらな目をした柔和な眼差しの中に、悲しげな表情をしていた。私たちは彼を愛し尊敬した。授業中好んで前列に腰かけており、よい成績は生まれながらの才能というよりも、勤勉と努力によるものであった。分別があり、級友間の無理解とか争いのときには、自然と仲介の役割を果たした。しかし仲間たちがもっとも感嘆したのは、その信心であった。学校のいろいろな会に属し、毎日とても熱心に聖体を拝領した。私たちにとってすぐれた手本であって、上長たちも事あるごとに彼を手本として推薦していた」

もう一人の級友、マルチェルロ・ジスモンディは同じように確信をもって証言している。

「私たちは土曜日の昼から、告白する前に小さいグループで十字架の道行きを行った。神のしもべはいつも最も大きなグループをなしていた。これは彼の敬虔な態度と、一留ごとの黙想の祈りの読み方のためであった。また十字架の印の切りかたも思い出す。ゆっくりと切って、一語ずつ黙想するかのようで、丁寧にゆっくりと信心をもって切る方法を仲間にも教えた。休みの間には、友だちに勉強の問題を解いてあげていることもしばしばあった。二年間親しい仲間として過ごしたが、ナムンクラに二枚舌とか不誠実さとかを見受けることは一度もなかった。反対にどのような不誠実さをも大いに嫌った。セフェリーノの行動は人間的な動機からではなく、その考えはいつも超自然的で感嘆させられたものである」

教師であったチェッコット神父はこう言っている。「初めて出会ったときにはすでに模範的な子どもであったが、より徳を増していった。叱る必要は一度もなかった。秩序を好み、何にでも決まった場所があった。教理のコンテストはいつも一等に近かった。机の上には、聖母の絵と手本にしていたドミニコ・サヴィオの絵があった。毎週忠実に告白し、毎日聖体拝領をし、そのために祝日には二番目のミサまで断食した。ベスピニャーニ神父が信徒を教育するために、その遅い時間にも生徒が拝領することを望んでいたためである。ミサの侍者の一人として、信心深くその務めを果たした」

セフェリーノのあこがれ

 チェッコット神父はこう語っている。「セフェリーノの絶え間ないあこがれは、司祭になりたいということであった。秘密にせず、誰にもそれを隠さなかった。自分の部族の使徒となり、その部族の悪習を廃止し、カリエロ司教とミラネジオ神父のするように、良いキリスト教徒の生活を勧めたかった」。よくこう言っていた。「宣教師になって私の部族を福音化したい」。ある日、聖イシドロ農業学校を訪れたとき、一飛びで馬に乗った。馬乗りがとても気に入ったと分かったフランチェスコ・デサルボが、一番なりたいのは何かと聞くと、「司祭になることだ」と答えて乗り続けた。

レゲーラ・ゴドイは言っている。「しばしば休み時間にカリエロ司教のチャペルで夢中になって祈っていた。誰かが入ってきたら、ミラネジオ神父のアラウカノ族への宣教遠征の成功を一緒に祈ってくださいと頼んだ。父が初聖体を受け、家族の多くの者が一九〇二年三月二十四日にカリエロ司教の手から洗礼を受けたことを大いに喜んでいた。ある日、ルイス・ペデモンテ神父は、セフェリーノが大きなユーカリの木にもたれて教理の復習をやっていることころを見た。『どうしてそんなに勉強するのか』と尋ねると、『教理の一番になりたいからです。後でこれらのことを全然分かっていないわたしの部族の者に教えたい』。あるとき『将来の夢は何か』と聞かれると、すぐに『司祭になりたい』と答えた」

一八八四年に教皇レオ十三世はカリエロ神父をパタゴニアの代牧に任命した。七月九日に着任し、後に住まいをパタゴニアの首都ビエドマに移した。そこにサレジオの聖フランシスコ高校、扶助者聖母学園、聖イシドロ農業学校と、現在ビエドマ教区の司教座大聖堂となっている聖母に捧げられた立派な教会を建てた。

セフェリーノは四年間ブエノス・アイレスのピオ九世校にいたが、そこの気候は次第に彼の健康を悪化させていった。

一九〇三年、カリエロ司教がセフェリーノの病気のことを知り、リオ・ネグロにあるビエドマ市の教区本部と自分の住居に彼を移してもらった。気候がよく、神学の勉強にも適するところであった。このようにしたのは、いろいろな理由があった。第一に、セフェリーノに召し出しの兆しがはっきりしていたこと、そしてビエドマの気候が彼の健康に適していたからである。セフェリーノはアラウカノ族からの唯一の召命なので、司教は直接自分で彼を養成し、司祭にしたかったのである。おそらくセフェリーノの叙階の日を想定し、最初のアラウカノ人司祭の叙階ができることを望んでいた。司教にとってその宣教生活の中の記念すべき日となるはずであった。

サレジオの聖フランシスコ学院では、ブエノス・アイレスのピオ九世校の時と同じような環境で日々をおくった。 偉大な宣教師ベルナルド・バッキーナ神父は非常に親切に彼を迎え、もう一人の聖アロイジオであるとしばしば褒めていた。当時、ボレッティーノ・サレジアーノに記事を書いて、セフェリーノのことを「徳の高い青年であり、いつか司祭になり部族の王になることを期待しよう」と述べている。その学校でセフェリーノはラテン語の勉強を始めた。その年、カリエロ司教はスペイン人とイタリア人の少年十二人を集め、司祭職やサレジオ会の生活の準備を始めた。セフェリーノにはラテン語の勉強はやや難しかったが、どうしても司祭になりたいという希望を捨てなかった。彼についてペレス神父は言っている。「模範的な学生でした。級友の間では、立派な使徒職を果たしていた」

彼は、ドン・ボスコ著のドミニコ・サヴィオ伝を読んで、仲間の学校生活の困難を軽くしてあげなければならないと感じていた。ヨセフ・ガロフォリはこう言っている。「セフェリーノは校則を完全に暗記して、私が過ちを犯すと注意してくれた。休み時間のとき私が一人ぼっちになっていると、一緒に遊ぼうと声をかけてくれるのだった」

ホァン・カスティッラ修士は次のようなことを思い出している。「一九〇三年、セフェリーノがビエドマにやってきた時、ベラルディ神父は彼を私に紹介して『この支部の最もいい子だ』と言った。セフェリーノは父のこと、部族のこと、兄弟がアンデス山脈の渓谷で放牧している牛のこと、部族の農業のこと、彼らに対して胸に秘めている夢のことなどを話してくれた。ある日、部族の好戦的な気風のことを話しているとき、ミケレ・デサルヴォが振り向いて「人間の肉はどんな味ですか」と聞いた。びっくりして、セフェリーノは胸が一杯になったように口をつぐんだ。質問した人を見て口ごもり、涙を目に浮かべていた。ため息をついたが、無神経な質問に何も触れようとしなかった。その後、ミケレは、セフェリーノが前よりもいっそう、自分に愛情を示しているという印象を受けた。

ヨセフ・ガロフォリ神父は証言している。「一緒にすごした六ヶ月の間、セフェリーノは私がドミニコ・サヴィオ伝を読んだことを思い出させた。にぎやかなレクリエーションを好み、サレジオ会員たちが持ち込んだ伝統的な遊びを進んで取り仕切っていた。仲間に見せた手品は、どこで習ったかはわからない」

  カリエロ司教はある時宣教旅行中にアルミーネ川まで行った。そこはアラウカノ族のマヌエル・ナムンクラの領地であった。マヌエルは洗礼を受けていたが、動機は政治的で、信仰を実践してはいなかった。カリエロ司教を部族の友人と認め、尊敬と敬意を示して、最初の告白を司教にした。初聖体もして、堅信の秘跡も受けた。将来、自分が葬られることを望んでいた土地も祝福して欲しかった。司教にこう言った。「司教様、私は幸福です。私も家族の者たちも良いキリスト教徒の生活を送りたいのです。私は善良なアルゼンチン人です。私の部族の者たちもカトリック教徒になりたいと願っています」。 司教の秘書であったベラルディ神父がこのことをボレッティーノ・サレジアーノの記事に書いたとき、セフェリーノに関して以前書かれた「部族の王になるだろう」という表現は、父のマヌエルが、自分がパンパスの王だと宣言していたことに由来するのだろうと付け加えている。

仲間も上長も、セフェリーノが徳を最高度まで身につけていたと、異議なく証言している。ヨセフ・ガロフォリは彼を、本物の有色人種のドミニコ・サヴィオだと言った。ドミンゴ・ペレスは、セフェリーノの言葉と行いによる使徒職に言及して「ここでは逆で、インディアンが白人を改宗させている」と述べている。ヴァッキーノ神父は「聖アロイジオの生き写しだ」と言っている。

健康が衰え、イタリアへ

一九〇三年のある盛大な祝日、おそらくビエドマ市の保護者である解放の聖母の祝日であったかも知れないが、セフェリーノは普段よりもせっせと働いた。その晩、荘厳な儀式が終わった時、疲れきって聖堂の巻き上げた絨毯に寄りかかったままでいた彼は、ひどい咳の発作に襲われた。実にその咳は死を招く最初の兆候であった。ブエノス・アイレスですごした数年で健康を害しており、顔色は真っ青であった。エバージオ・ガルローネ神父のもとで治療を受けてから、勉強をまた続けることができた。病気の間、彼の性格のもうひとつの一面を見せた。ホァン・カランタは「ビエドマでの滞在中、特に病気の間、彼は聖人のように苦しみを耐え忍んだ」と言っている。

ビエドマでの出来る限りの治療と配慮にもかかわらず、セフェリーノの健康は期待していたようには良くならなかった。

一九〇三年、ベラルディ神父はカリエロ司教と一緒にイタリアに出かけていた。セフェリーノは彼に手紙を出して「少しずつ良くなっていって、主と聖母マリアが、神様のご光栄と霊魂のためになれば、神父様が何回も教えてくださったように、健康を回復させることができると希望しています。第二の父ともなっていらっしゃる司教様によろしく願います。私のための祝福を司教様に願ってください」と書いている。カリエロ司教としては、父マヌエルの了解を得て、セフェリーノをイタリアに連れて行こうと考えていた。ローマのどこか気候のよいところで勉強させるためであった。

一九〇四年によい機会があった。それは聖座が司教を大司教に昇進させるためにイタリアに招いた時であった。一緒に旅行したモンテヴィデオの管区長ヨセフ・ガンバ神父がこう言っている。「セフェリーノは勉強を続け、サレジオ会入会のためにローマに出かけるところであった。神さまからの恩恵と自然の宝物を豊かにいただいた子である」

セフェリーノは扶助者聖母の大聖堂に初めて入った時、喜びでいっぱいであった。一八七五年、カリエロ神父と仲間たちがアルゼンチンに向けて出発したのはここからであった。また彼は父のような愛情にあふれるルア神父の手に接吻できたことを大いに喜んだ。

一九〇四年の秋、セフェリーノはトリノ本部の少年たちと一緒に勉強し始めた。教師の一人、ヨハネ・ズレッティ神父は日記に記している。「セフェリーノ・ナムンクラは私のクラスにいる。なんという立派な態度だ。放課後ラテン語の宿題を採点し、しばしば運動場で一緒に散歩しては、彼の部族のことを話してくれた」。ズテッティ神父は、この若いアラウカノ人が若者の徳をたぐいまれな程度まで身につけていることを確信した。

しかし十一月になって寒くなり始めると、トリノの冷え冷えとした気候の中に留めていては良くないとわかった。アラウカノの王子がサヴォアの女王マルゲリータに紹介されたとき、彼女は「あの若者には、立派な紳士の特徴が何一つ欠けることがない」と感嘆したのであった。新聞は、この出来事についてセフェリーノのことを「王子、パタゴニア・パンパスの王様の息子」と広く報道した。ピオ十世教皇の謁見の機会もあった。それについてカリエロ枢機卿はこう言っている。「セフェリーノが教皇様にご挨拶したときのことを覚えているが、彼は完ぺきなイタリア語でキリストの代理者に対する敬愛の念を示した。また自分の国にサレジオ会の宣教師を派遣してくださったことを、教皇様に感謝した。部族の中での宣教師になりたいとの望みを表し、教皇様に特別な祝福を、自分、両親、そして部族のために願った」

 これに対し、教皇は「主がこのりっぱな意向を祝福してくださいますように」とお答えになり、彼に特別なメダルを与えられた。

セフェリーノはヴァルドッコからフラスカーティにあるヴィッラ・ソーラの学校に移され、一九〇四年十一月から一九〇五年三月までそこに滞在した。その支部の院長コスタ神父はこう言っている。「セフェリーノは寮生としてヴィッラ・ソーラに入学したが、仲間も上長も初めから、彼がすべての徳の模範と、ドミニコ・サヴィオの忠実な模倣者であることを知り、まなざしからも、落ちついた態度からも、貞潔な面でも抜群であることは、誰の目にも明らかであった」。当時級友であったペトロ・ガリーニ神父はこう言っている。「彼と接するようになった時から、素直さと、多くの思いを秘めた深遠なまなざしに心をひかれた。おそらくイタリア語が達者でなかったからか、また彼に親しく近づくものが少なかったためか、口数は少なかった。しかし、私は仲良しであった。屋上を一緒に歩き、そこからは運動場で子供が遊んでいるのが見えたが、彼がよく見ていたのは、遠くによく見える聖ペトロの丸天井であった」

他のところでと同じように、フラスカーティでも、サレジオ会員と司祭になりたいという願いははっきりしていた。そのために、健康が衰えていっても、勉強に励んだ。事実、クラスでジーノ・トージに次ぐ成績を得ており、ある科目では一位であった。ラテン語のテストでは筆記でも口頭でも成績が非常によかった。それから数学、教理、フランス語と歴史もよかった。イタリア語の作文だけが少し弱かったが、これは他の少年たちとリクリエーションを共にできなかったからであろう。その科目でも、第二学期に入ってからは成績が上がっている。

ナムンクラは、その病の重さが正しく診断されないまま、病気中も忍耐強く勉強に精を出していた。彼の主との内密の対話の邪魔になりたくなかったかのように、仲間たちは彼から距離を置いていた。彼らからは近かったが、理想と信仰心において非常に遠かったと言える。心は郷愁でいっぱいになっていたが、意志は自分の決めたあの目標に達したいと努めていた。このように、ヴィッラ・ソーラで過ごしたわずか数ヶ月の間に、彼自身の聖性への仕上げを成し遂げていた。

最期

冬は深まり、自然はさまざまな形の生命の目覚めを準備していった。しかし、セフェリーノ・ナムンクラの生命は無情にもゆっくりと衰えていった。勉強もペースも遅くなり、しばしば授業を欠席しなければならなかった。その上、早期に診断されていなかったのだが、さなだ虫を患っていた。病気の苦しみは、神が司祭職を願望する、この天使的志願者を浄化し、聖化する手段であった。ついに状況の重大さがわかって、達成しようと決意していたあの崇高な目標を諦め、聖性の本質である神のみ旨への委託を受け入れたのであった。セフェリーノは十字架を甘んじて喜んで受け入れ、寛大な心をもってイエスに従い、それらの重荷を担った。

コスタ神父はこう記している。「最後の二、三週間、何よりも彼の普遍の忍耐とすべての苦しみと神が要求なさる苦しい犠牲を受け入れる従順さに感嘆した。一回も不満を示さず、いらいらとかうんざりした様子を微塵も示さなかった。かえって、痛みが激しくなればなるほど、服従と忍耐の精神はよりはっきりと示されていた。咳が激しく眠れない夜は、扶助者聖母のメダルに接吻して、静かに一番好きな射祷を唱えた。アンドレア・ベルトラーミ神父に倣って、咳をする度ごとに『神さまが賛美されますように』と祈った」

 セフェリーノは一九〇五年三月二十八日に、テヴェレ川の小島にある神の聖ヨハネ修道会の病院に運ばれた。そこで上長に囲まれ、五月十一日に慢性肺結核のため亡くなった。

自分の部族に福者の光をもたらす宣教師になりたがったが、願いはかなえられなかった。自分が部族の中でしたかった仕事は他人が遂行すると知って、後悔することなく平静さのうちに亡くなった。

 遺体は一九二四年にアルゼンチンに移され、コロラド川近くのフォルティン・メルセデス市にある扶助者聖母大聖堂に埋葬された。

 

霊的面影

ナムンクラは「青少年宝鑑」を手にして行った聖体拝領の立派な準備と感謝をもって、皆の模範となっていた。ひんぱんな聖体拝領によって、彼の特徴となっていた天使的貞潔と罪への嫌悪を身につけていた。彼の深い信心は、言葉、行い、十字架のしるしの切り方、聖水の使用、短い祈りと射祷など、学校生活の記録からも明らかである。

休み時間、聖堂で聖櫃か聖母のご像の前に彼の祈る姿が、時々は友達と一緒にいる彼が見出された。ミサの侍者を依頼されたときには非常に喜んだ。ミサ仕えを習い、ラテン語の祈りを唱え、礼儀正しく儀式に奉仕するように努力していた。

セフェリーノは侍者連盟と守護の天使信心会の会員となった。彼が聖堂とか自習室とかの当番になると、すべてきちんと整えられていた。聖体と聖母マリアに対して特別な信心を持っており、またドン・ボスコへの愛もきわだっていた。聖母への溢れるような愛をもって、彼は聖母の祭壇を飾っていた。ある日父が訪れたとき、十ペソを息子に与えたところ、セフェリーノはそれをチェッコット神父に持って行き「聖母の祭壇のためです」と言ったのだった。

休み時間はいつも聖体訪問をしていた。何回もヨセフ・カランタは彼と一緒にロザリオの十五連を唱えている。聖堂の入口の、木造の台座の上に、悲しみの聖母像が置かれていた。そのご像の足に人々は接吻をしていたが、特にセフェリーノが目立っていた。ミケーレ・デサルヴォ神父はこう書いている。「セフェリーノの信心、潜心、落ち着いた慎み深い歩き振りを忘れることができない。祭壇に近づき、跪き、ろうそくに火をつけたり消したりしたときのまじめさは、彼のこれまでの生い立ちを知っていた人たちを驚かせた」。香部屋でセフェリーノに手伝ってもらったヨセフ・カランタは言っている。「早く終わって遊びに出ようとしたがる他の少年たちとは違って、セフェリーノは神の家で神に仕えたいという愛と勤勉さにかられて疲れを知らなかった」

  彼は上長たちの小さい勧めやちょっとした示唆までも、できる限り実践していた。友達の間の不和を仲介するには、セフェリーノの一言で充分であった。ヨセフ・ヴィダル修士によると、セフェリーノはハンドボールがとても上手であった。活発な気質を抑えるようになって、誰とも親しく接するようになったが、危険ななれなれしさを一切避けた。上長たちを愛し、彼らと共にいること、語り合うことが好きであった。批判とか恨みごとを絶対に口にしなかった。『ピオ九世校』の財務、後に校長をつとめたボネッティ神父はこう言っている。「セフェリーノがここで過ごした数年間、勤勉、信心、優れた従順、天使的な徳の実行において、他の学生たちの模範であったと断言できます」

カリエロ司教が訪れた時、聖なる青年が示した尊敬と愛は、言葉では言い表せないほどであった。彼の部族のこと、リオ・ネグロとネウケンの宣教地のニュースなどを尋ね、アンデス山脈に住むアラウカノ人のもとにミラネジオ神父を派遣してくれたことを感謝した。

一九〇一年十一月二日にカリエロ師のヴァルドッコのオラトリオ入学五十周年を祝ったが、最も司教が気に入ったのは、セフェリーノが部族のためにした感謝した言葉であった。「司教様が私たちに宣教師を派遣なさらなかったのならどうなったでしょうか。誰が私たちの救いのことを考えたでしょうか。司教様が父の小屋にいらっしゃらなかったならば、私はどうなったでしょうか」。カリエロ司教はある時そのときを思い出してこう語っている。

「恩恵の働きを、この少年のうちに私たちは見た」

列福に向かって

一九四四年五月二日に列福調査が始まった。彼の生涯についての厳密な調査が行われ、大勢の人の証言を聞いたうえで、教皇は、一九七二年六月二十二日、徳の英雄性を宣言する文書に署名した。こうしてセフェリーノは尊者とされた。二〇〇七年十一月十一日に列福。

年譜

一八八六年 アルゼンチンのチンパイに生まれる

一九八八年 ミラネジオ神父から洗礼を受ける。

一八九七年 ブエノス・アイレスのピオ九世校に入学する。

一九〇三年 ビエドマで神学生になる。

一九〇四年 カリエロ司教とイタリアへ

一九〇五年 ローマで亡くなる。

一九二四年 遺体がアルゼンチンに移される

一九四四年 列福調査が始まる

一九七二年 尊者の宣言

二〇〇七年 列福式