29-October-Blessed Michele Rua

29-October-Blessed Michele Rua

福者 ミケーレ・ルア
(一八三七―一九一〇)

家庭で 
幼年時代
十九世紀の半ば、ヴァルドッコ(イタリア、トリノ市)にほど近い牧草地に軍需工場があった。その従業員だった洗礼者ヨハネ・ルアと、ジョヴァンナ・マリア・フェレーロの間に、一八三七年六月九日ミケーレが生まれ、聖シモンとユダの小教区(現在は聖ヨアキム教区)の教会で受洗した。ルア家には最初の結婚で五人の子が生まれ、二度目の結婚でミケーレを含む四人が生まれた。ミケーレが七歳の時に父が亡くなったため、最初の教育は母ジョヴァンナからのものであった。彼女は後に、マンマ・マルゲリタに倣い、ドン・ボスコを手伝うためにオラトリオに行って晩年をそこで過ごしている。ミケーレは工場のチャペルの神父の教えのもとに読み書きを習い、ミサの侍者を務め、九歳の時にそこで初聖体にあずかる幸運に恵まれた。

ドン・ボスコとの出会い
ミケーレが八歳のとき、友達がピカピカ光るネクタイを締めていたのを見て、「それどこで買ったの?」と訊ねると
「ドン・ボスコのオラトリオの宝くじで当たったんだ!」というので
「オラトリオって何?」と聞き返した。
そのオラトリオは、一年前にバロロ侯爵夫人が慈善事業として始めたものだった。次の日曜日、二人は駆け足でその場所に行ったが、オラトリオは市営の製作所の方へ移っていた。その狭い製作所に行くと、多くの少年たちが一人の若い司祭を囲んで遊んでいた。若い司祭は、父親が二ヶ月前に亡くなったばかりで喪章を付けていたミケーレを見つけ、近づいて頭に手を置いてやさしい言葉をかけてくれた。ミケーレはとても感動した。こうしてミケーレは一八四五年に、ドン・ボスコとオラトリオとに出会ったのであった。

当時のオラトリオは「さまようオラトリオ」の時代であった。病院から墓地へ、工場から畑へといろいろな場所へ移っていった。トリノの市民は、騒々しい腕白小僧の群れを連れて移転していくあの奇妙な神父を冷ややかな目で見ていた。
ある日ミケーレは、軍需工場の監督に「お前はまだドン・ボスコのオラトリオに通っているのかね」と訊かれたので
「よく行っています」と答えるとその人は
「あわれなドン・ボスコ! 君は、彼が気が変なのを知らないのかね?」と付け加えた。またある時ミケーレは、偉い人たちが「ドン・ボスコはあの見捨てられた子どもたちに熱中しすぎて、全く正気を失ってしまったようだ。」と言っていることさえ聞いたが、それを聞いたミケーレのあの司祭に対する愛は衰えるどころか、一八四九年からは、それまでは時々しか通わなかったオラトリオの常連になるほどであった。

ラ・サール会の学校で
当時ミケーレは、ポルト・パラッツォという、トリノ市がキリスト教修士会に委託した小学校高学年に通っていた。ドン・ボスコはその学校で教理を教えたり聴罪したりしていた。教師としてのドン・ボスコの評判は高く、子どもたちにも大人気で、彼が学校に着くと子どもたちが周りにどっと集まった。
後にドン・バルベリスは「ミケーレはポルト・パラッツォの学校時代以来ドン・ボスコを聴罪司祭と決め、ドン・ボスコが亡くなるまで変えなかった」と証言している。ミケーレを司祭職に導いたのはドン・ボスコであった。
ミケーレは信心深くまじめで勤勉な子だったので、修士会はミケーレが入会することを希望していた。ミケーレは、登下校の途中時折ドン・ボスコに出会うと嬉しそうに走り寄り、手に接吻してメダイをおねだりした。

ある時ドン・ボスコは、自分のビレッタ(聖職者帽)をミケーレの頭に被せ、左手を出して右手で半分っこするような仕草をした。「半分取ってごらんミケーレ、さぁ取って」。幼いミケーレはちょっとまごついて、ドン・ボスコがどういうつもりなのかと不思議に思った。

一八五〇年にミケーレが修士会の小学校を卒業するとき、ドン・ボスコが「神父になりたくない?」と訊くとミケーレは「もちろん、なりたいです!」と答えた。「それならラテン語の勉強の準備をしておくといいよ」。この勧めにしたがって一八五一年、十四歳になったミケーレはラテン語の勉強を始めた。ミケーレは教区立の中学校過程を学ぶためピエトロ・メルタ神父とカルロ・ボンザニーノ神父のクラスに入学した。そして高学年ではマテオ・ピッコ神父の学年に上がった。

ドン・ボスコとともに 
ルアがドン・ボスコと「半分ずつ」
ミケーレ・ルアは、昼間はずっと母と兄弟と共に自宅で暮らし、毎夕と日曜日は終日オラトリオで過ごした。しばらくしてドン・ボスコは、ポルタ・ヌオーヴァにある聖アロイジオのオラトリオへ、神学生アスカーニオ・サヴィオを手伝うためにミケーレを送った。ドン・ボスコの初期の志願者は何人も辞め、中には着衣してから辞めた者もあった。ドン・ボスコは、トリノの有名な霊的指導者ドン・カファッソのところに一八五二年にミケーレを送り、召命の指導を受けさせた。そしてミケーレはその年の九月二十二日、ドン・ボスコと一緒に働くことを決意し、ドン・ボスコと生活を共にする三十七番目の寮生となった。彼は当時中学校三年の十五歳であり、この日から最期までオラトリオに住み続けることになるのである。翌日、寮生は秋の遠足にベッキ村に出かけ、ドン・ボスコの兄ヨセフ家の泊り客となった。出かける前にドン・ボスコはミケーレに言った。「十月三日に、カステルノーボの主任司祭が君にスータンを着せることになっています。そしてここに戻ったら仲間のアシステンテと一緒に教師になってもらいます。いいですね」
途中の馬車の中でドン・ボスコは再び愛すべき弟子に話しかけた。
「ミケーレ、新しい生活を始めるんだ。さあ、約束の地に入る前には紅海も砂漠も横断しなければなりません」
ドン・ボスコの言葉に励まされてミケーレは訊ねた。
「神父様、いつか手刀で半分に切るような身振りをなさいましたが、あれはどういう意味だったのですか」
「まだ分かっていなかったの。あれはね〝あなたは私の半分を受け持つのだ〟という意味だったんだよ」とドン・ボスコが答えた。

一八五二年十月三日の日曜日、ロザリオの聖母の祝日に主任司祭のチンザーノ神父は、ベッキ村のチャペルで荘厳ミサを捧げ、着衣式を司式した。二着のスータンを祝福し、ヨハネ・ベルターニャ神父に手伝ってもらってヨゼフ・ロケッティとミケーレ・ルアに着せた。昼食の際にミケーレは、かつてドン・ボスコにもスータンを着せたチンザーノ神父がドン・ボスコに次のように話しているのを聞いた。

「あなたがまだ神学生のときによく『私は将来、神学生、司祭、若い学生、若い労働者、吹奏楽団、そして美しい教会を持つだろう』と言っていたが、その度に私は、そんなバカな、ありえないことだ、と答えたものです。しかし今、あの頃あなたが言っていた通りになっていることを目の当たりにしています」と。
ユリウス・バルベリス神父によれば、ルアは着衣式を終えた瞬間に、ドン・ボスコの半分を受け持つということが多くのことをしなければならないのだと分かった。後継者になるということが、常に仲間たちにより優れた者とならなければならないのだということを悟ったのだ。ドン・バルベリスは、『ルアの、ドン・ボスコに対する無条件の忠実と生涯の伴侶』のことを言ったのである。

いわゆる「サレジアーニ」の歴史は、ルア神父がオラトリオに入ってから始まった、ということができる。彼はドン・ボスコが計画した建造物の「隅の親石」であった。ドン・ボスコへの無条件の忠実と生涯の伴侶を表明したのである。

福者フィリッポ・リナルディは、後にこう証言している。
「ミケーレ・ルアは、ドン・ボスコの愛情のこもった勤勉な弟子であるばかりでなく、極めて有能な協力者でした。み摂理がルア神父を選び、創立者が始めた修道会創立のための困難と苦労を共にし、その事業を完成させました」

ドン・ボスコがルアをどれほど信頼していたかは、ドン・ボスコが彼に、カリエロを含むオラトリオの最初の寄宿生の登下校の世話役を任せたことからも分かる。カリエロはルアについての最初の思い出をこう語っている。
「彼は八十人の仲間の中で目立っており、非常に高潔な少年という印象を与えました」

ミケーレはまた、日曜日にオラトリオに通う数百人の子どもの責任を任された。ドン・ボスコが聴罪する間、ミケーレは他の子どもの面倒を見、聖体拝領をするつもりの子が水を飲まないように注意した(当時、聖体拝領の前には水も飲んではいけなかった)。聖堂で祈りの先唱者を務め、ぼんやりしている子を親切に注意し、最も幼い子たちに教理を教えた。

一八五三年にルアとロケッティは哲学を勉強し始めた。同時にルアは寮生のアッシステンテを務め、勉強室、食堂、運動場での規律を守らせ、ドン・ボスコの発行物『カトリック講話集』の仕事を手伝った。毎週の主日と祭日にはドン・ボスコがヴァルドッコ以外では初めて開いた聖アロイジオのオラトリオへ通った。

一八五四年十月二十九日にドメニコ・サヴィオがオラトリオに入ってきた。カヴァリエレ・アマデオ・コンティによれば、サヴィオは祈りの面ではルアと一、二を競うほどであったといい、フランチェジア神父は「オラトリオでルア神学生は『完全なる者』としての模範であったが、サヴィオをそれに並ぶ者と思った」と言い、さらにドン・ボスコの言葉を引用して「ルアのような人がもう一人居る」と言っている。

「サレジアー」という名称
ドン・ボスコは長い間修道会を設立することを考えていたが、全ての子どもたちを修道者にならせたいとは思わなかったので、子どもたちの前でその話はしなかった。それでもドン・ボスコは、子どもたちの何人かについてはそれとなく準備をしていた。ドン・ボスコはオラトリオのその子どもたちを対象として、将来修道会を設立することを念頭に特別の講話を続けていた。
一八五二年六月五日の集会の議事録の最後に、ルアは以下のように書き留めている。
「イエス様、マリア様、このノートに名前が書かれている子どもたちを皆聖人にしてください」

ルアは、一八五四年一月二十六日の議事録にも、自分を含めて四人の神学生を「サレジオ会員」と書き、〝やがて誓願を立てることになる〟と記している。

一八五五年三月二十五日、お告げの祝日に、哲学課程の二年生であったルア神学生は一年間の誓願を立て、まさしく最初のサレジオ会員となった。神学は、教区の大神学校でフランシスコ・マレンコ神父とヨゼフ・モリナーリ神父という優れた教師のもとで学び始めた。同時にヘブライ語の勉強を始めたので、朝は四時に起きた。屋根裏の彼の部屋には、簡単なベッド、インク壷だけが載った机、四個のレンガに載せた板一枚、その上に数冊の本と書類があり、その他には何もなかった。ルアは後に聖ビンセンシオ・ア・パウロ会の会長を務め、そしてドメニコ・サヴィオが一八五六年六月八日に「無原罪の聖母信心会」を設立したときには、その会長に選ばれた。

ドン・ボスコとともにローマへ
ミケーレ・ルアは一八五八年二月十八日の夜、教皇ピオ九世の助言を求めるためにドン・ボスコが書いた「サレジオの聖フランシスコ修道会の会憲」の草案を、長時間かけて清書した。ドン・ボスコは、留守中のオラトリオ責任者としてヴィクトル・アラソナッティ神父を指名し、ルア神学生を伴ってローマへ出発した。教皇は会憲の草案に注意深く目を通し、肉筆で修正された。ミケーレはその修正を清書するためにさらに数時間をかけた。また、聖ドン・ボスコの教皇への三回にわたる謁見と、その他のローマの実力者の訪問にも同行した。

四月十四日、二か月ぶりにトリノに戻ったドン・ボスコは、出発した時と全く様変わりしたオラトリオの雰囲気に気づいて驚いた。彼はオラトリオを家族のような集まりとして造ったのに、厳格主義のアラソナッティ神父はたった二ヶ月の間に、オラトリオを規律正しい〝兵舎〟に変えてしまっていた。列はいつもまっすぐで、軍隊式に命令が下った。ドン・ボスコはいらいらしてルアに漏らした。

「何もかもめちゃくちゃになっている。はじめからやり直しだ。ミケーレ、オラトリオの責任を引き受けてくれますか?」
ミケーレは「お望みの通りに」と承諾した。

一八五九年十二月十七日にミケーレが副助祭になり、その翌日、新しい修道会が誕生して、ミケーレ・ルアは正式に霊的指導者に選ばれた。それから数年に渡って、ドン・ボスコが文系の生徒の世話で忙しい間、ルアはドン・アラソナッティを補佐して実業系の生徒の指導者を務めた。ルアはドン・ボスコと共にオラトリオの切り盛りをした。ミケーレはまだ二十一歳の若さであったので誰も「院長」とは呼ばなかったが事実上の院長であった。

神の司祭 ドン・ボスコの後継者
アマディ神父はこう証言している。「ルア師が司祭職の準備にかけたあの十年は、完徳への絶え間ない進歩であった」。ミケーレ・ルアは一八六〇年七月二十九日に司祭に叙階された。司式司教はトリノ教区のフランゾーニ大司教補佐のバルマ司教で、場所はカザーレの私的聖堂であった。その晩ルア神父はドン・ボスコに代わってボナノッテの話をし、自分が司祭として負った責任を充分に果たすことができるよう、皆の祈りを願った。二十三歳の若さで叙階されたのは、会がまだ司法上の資格が無く、教区司祭としての叙階であり、教会法に決められた年齢の条件が免除されたためである。その晩、祝典が終わって新司祭が部屋に戻ってみると、机の上に霊父からの手紙が置かれていた。「あなたは、サレジオ会の事業が発展してイタリアの国境を越え、世界中のいたるところに広がる姿を私よりも見ることになるでしょう。仕事が多く、苦しみも多いでしょうが、紅海と砂漠を横断しなければ約束の地に入ることは出来ないのです」

ルアはその夜を祈りのうちに過ごし、朝には、オラトリオのサレジオの聖フランシスコのお聖堂で初ミサをつつましく捧げた。初ミサには、マンマ・マルゲリータが亡くなった時からオラトリオに住み着いて手助けをしていたた、新司祭の母が与った。
それからのドン・ボスコはさらに落ち着き、さらに穏やかになったと言われている。分身であるミケーレ・ルア神父にオラトリオを安心して任せ、自らはより複雑な活動を続けることができるようになったからであり、自分が留守をしても全てが計画通りに進むことがわかっていたからである。

ルアは生涯を通じて、抑制と無私の精神生活をむしろ楽しんでいたが、そのことがとてつもない積極的な生活として花開いた。オラトリオの実業科と文系の生徒が合わせて五百人ほどになり、ルアはその全員に対する責任を負うようになった。一八六一年にオラトリオに入ったバルベリス神父はルアについてこう言った。「彼があれほど多くのことができることはまさに驚きでした。多くの仲間が〝彼は聖人に違いない〟と思っていました」。バルベリス神父によると、ドン・ボスコがルアに感心したのは、たゆまぬ働き、並外れた犠牲心と皆から愛される喜びに満ちたやり方であった。ドン・ボスコはルアに、ヴァンキリアにある守護の天使のオラトリオを受け持っていた協力者のムリアルド神父を手伝うようにと頼んだ。

修道会の誕生 
霊的指導者
一八六二年五月十四日、会はまだ正式に認可されていなかったが、ルアを含む二十一人が初めて有期誓願を立てた。ルア神父が言葉を区切って式文を朗読し、他の者がそれを復唱した。そのときドン・ボスコは「皆さんが私の前で誓願を立てるとき、私自身もこの十字架の前で無期誓願を立てました」と言った。

ミラベッロ支部の院長
一八六三年の秋に、トリノ以外の最初の支部、カザーレ司教区にあるミラベッロの聖カルロ小神学校が開かれると、ドン・ボスコは二十六歳のルア神父を院長としてそこに送った。その地区では神父はルア一人だけであった。彼の仕事は神に祝福され、結果として百人ほどの召命に恵まれ、その中には後の宣教地の司教ラサーニャもいた。ミラベッロに出発したときには母のジョヴァンナ・フェレーロが同行した。彼女はもう年寄りになっていたが、ミケーレにとっては大事な助け手であった。

ドン・ボスコがルアをそこに送るに当たって、「私がいつもそばにいることができなくなるので、ためになる規範となるような事柄を書き留めておきます」と言って、様々な勧めとして〝サレジオ会の教育法〟の要約を渡した。

「教育者は先ず慕われるべきです。そうすれば、畏れられるようになるでしょう。命令したり、誤りを直したりする場合は、気まぐれでするのではなく、その子に本当に良くなって欲しいからなのだと分からせましょう。罪を犯さないようにさせるために何でも大目に見ましょう。身を委ねた者の霊魂に最善を尽くすように努力しなければなりません。愛徳と丁寧が特徴である院長でありますように」

ドメニコ・ルッフィーノ神父は日記にこう書いている。「ミラベッロでルア神父は、ヴァルドッコでドン・ボスコが指揮を執ったと全く同じように振舞っています」。教師として二年間をドン・ルアと一緒に過ごしたフランシスコ・チェルッティ神父が次のように称賛している。「その骨の折れる仕事へのたゆまない取り組み、繊細で慎み深い支部運営、彼の仲間と彼を頼る子どもたちへの、精神的、知的、道徳的、そして身体な健康への熱意にあふれた対応。二十八歳の司祭に、これ以上に期待することがあるでしょうか」

オラトリオに戻る
ヴァルドッコのオラトリオのアラソナッティ神父が一八六五年十月八日に亡くなった時、ドン・ボスコはプロヴェーラ神父をミラベッロに送ってルア神父にこう伝達させた。「ドン・ボスコがヴァルドッコであなたを待っています。ミラベッロはボネッティ神父が代わってくれますので、ヴァルドッコのオラトリオに急いで戻ってください」。ルア神父は机に向かい執務にあたっていたが、特に説明を求めることもせず、躊躇もなく立ち上がって聖務日課書を手に取り「準備ができました」と答えた。

トリノに着くとドン・ボスコはルア神父に言った。「今まで、ミラベッロで私の代役を務めてくれましたが、今からこのヴァルドッコで同じことをしてください。すべてをルア神父に任せます。実業科の生徒三五〇人、教会の仕事、講話集の発行(当時、購読者の数は二万人であった)、それに私の文通の一部も」。その時から亡くなるまでの四十五年間、ルア神父はヴァルドッコのオラトリオに住みつづけた。一八六五年十一月十五日の終生誓願者の名簿の筆頭に彼の名前がある。彼はドン・ボスコの秘書であり、腹心の友であり、協力者であった。当時は、一八六三年に建立された扶助者聖母の大聖堂の工事中であり、そのための莫大な資金が必要で、多忙を極めたドン・ボスコの負担を更に重くしており、工事費と他の実費を探しに出かけるときに、信頼できる代役が必要だったのである。

ルア神父は、ドン・ボスコの精神に基づいた、莫大で隠れた見事な仕事をした。事務所は簡素の見本であり、机、本棚、普通の椅子二個、十字架、聖体と聖母の二枚のご絵のみであった。隣の部屋には事務のために必要な二、三個の小さな机が置いてあるだけであった。

ルアには欠点がない
卒業生のリゴリ閣下は「ドン・ルアはドン・ボスコのためだけに生きていました。そして、聖ドン・ボスコが聖母の指導を頂いていることを確信していました。」と言っている。一八七六年のある時、ヴェスピニャーニ神父が、入会を志願した司祭に宛てて書かれたドン・ボスコの手紙を投函せずに仕舞い込もうとした。その志願者が、進行した結核に罹っていることを知っていたからである。しかしルア神父は叱ってこう言った。「どうしてドン・ボスコからの手紙を渡さないなどということができるのですか。ドン・ボスコと聖母との間には特別な申し合わせがあること知らないのですか」(MB XII, 274) 

ドン・ボスコは、この忠実な弟子の行いに感心していた。ある時オラトリオの誰かが、「多くの若いサレジオ会員が過労死をしている、」といってドン・ボスコを非難した。時間をかけて話を聞いてからドン・ボスコは、氏名と事実を示してこう言った。「その会員たちを死なせた原因は過労ではありません。誰が過労の被害者かといえば、それはルア神父です。しかし主が彼の健康状態を守ってくださっています」。さらに続けて言った。「神様のご保護がなければ、過労でとっくに亡くなっている人がいます。それは他の誰よりもせっせと働きつづけるルア神父です」

また別のときにドン・ボスコはコスタマーニャ神父に言った。「もしも、神様が私に『あなたはもうすぐ死ぬので後継者を任命しなさい。あなたが設立した事業が無になって欲しくない。その後継者に任務の遂行のために必要と思う恵み、徳、超自然的贈り物を何でも願いなさい。その全てをその後継者に授けます。』と仰せになったとしても、ルア神父に授けられるべき必要なものは、もう他に何も思い当たりません」(MB VIII, 333-34)。
聖ドン・ボスコはまた、ドン・ルアについてこう言った。
「ルア神父が奇跡を行おうと思いさえすれば、彼にはその能力があります」(MB VI, 410)

「それは死に至る病ではない」(ヨハネ 11:4)
一八六八年の夏に、ドン・ルアは、扶助者聖母の大聖堂の献堂式に伴う過労で重病にかかった。七月二十九日にオラトリオの入り口で友人の前で倒れたのである。部屋に運ばれ、医者の診断は急性腹膜炎であった。当時の医学では手術などは考えられない。その時ドン・ボスコは留守であったが、帰るとすぐに長上たちも子どもたちも周りにどっと集まり、「ルア神父が重体です、いつ亡くなってもおかしくない状態です」と伝えた。「安心しなさい」とドン・ボスコが答えた。「ルア神父をよく知っています。彼は私の許し無しにはどこへも行きません」。     ある司祭は既に聖香油をルア神父の部屋に持って来ていた。皆が驚いたことには、ドン・ボスコはあわてることもなく夕食を摂るために食堂に入った。食事の後でルア神父の部屋へ行き「まだ逝ってしまってはいけませんよ、まだ沢山の仕事を手伝ってもらいます。たとえあなたが今窓から飛び降りたとしても、あなたは死ぬことはできません」と言った。
長い安静期間の後に、ルア神父は院長としての仕事に戻った。霊的規律を維持し、扶助者聖母の大聖堂で説教をし(フランチェジア神父によると彼は秀でた説教師であった)、聴罪をし、修練者たちの養成を懇ろに見守り、神学を教え、黙想会を指導し、支部を視察し、新支部の設立の交渉に余念がなかった。

ドン・ボスコの代理者
再びフランチェジア神父の話である。「ドン・ボスコが新しい仕事に着手する時には必ず、ドン・ルアが熱心な協力者となりました」。仕事とは、扶助者聖母会の設立(一八七二)、会憲の認可のための手続き(一八七四)、南米の宣教地設立(一八七五)、サレジオ会協力者連盟、成人召命の企画などであった。ドン・ボスコの最後の十年間、ドン・ルアは、イタリア、オーストリア、スペインの様々な地を訪れるドン・ボスコに随行した。一八八四年十一月二十七日に最高評議会の勧めに応じて、教皇レオ十三世はルア神父を、継承権を有するドン・ボスコの代理者に任命した。一八八五年十二月にドン・ボスコはサレジオ会員たちに次のことを伝えた。「今から、私に代わってルア神父が、サレジオ会全体について私が今やっていることを全て、全権をもって行うことになります」

教皇に謁見する
ドン・ボスコの代理者にならなければならないと分かってから特に、ルア神父は父性愛と温和を身に付けようと努めた。一八八七年に彼は、イエスの聖心(みこころ)の大聖堂の献堂式のために、
ドン・ボスコと共にローマに行った。教皇レオ十三世の謁見のとき教皇様はこう言われた。「ああドン・ルアですね、サレジオ会の代理の。子どもの時代からドン・ボスコと一緒にいたと聞きました。その事業を続けて創立者の精神を守ってくださいね」

病気の父の枕元に
ドン・ボスコがローマから戻った時、会員たちも子どもたちも、ドン・ボスコの健康状態が急速に悪化していくことに気がついた。十二月になると、もう重態であった。そして一八八七年十二月二十日に、最終的に床に就いた。ドン・ルアはできるだけの世話を注いだ。非常に頻繁に病床に近づき、その勧めのことばを聞き、父の言葉に注意深く耳を傾けた。ドン・ボスコの健康状態が悪化したとき、南米のカリエロ枢機卿に「気がかりな兆候」という電報を打った一八八八年一月三十日の夜、ドン・ボスコの臨終の時、ルア神父は何時間も枕元に付き添った。集まっているサレジオ会員は祈りつづけた。ルア神父は屈んでドン・ボスコの耳元にささやいた。「もう一度祝福してください。私はあなたの手のご指示に従って式文を唱えます。」聖人のもうほとんど麻痺した右手を上げ、出席しているサレジオ会員と、世界中の会員に向かい、扶助者聖母マリアのご保護を祈った。翌三十一日の四時四十五分、扶助者聖母の大聖堂のアンジェラスを告げる鐘が響き渡る時、ドン・ボスコは亡くなった。享年七十二歳五ヶ月と十四日であった。気も狂わんばかりのルア神父は会員たちに向かって言った。「今、私たちは孤児になった。この地上の父を失ったが、天国での保護者を頂いた」と。

三週間を経てドン・ルアは教皇レオ十三世の謁見を賜った。教皇は語調を強めてこう言われた。「ドン・ボスコの後継者ですね。彼は聖人でしたから、天国から援助してくださいますよ」
しかしながらサレジオ会は困難に直面していた。当時、会員数八六三名、修練者数二七六名、支部数五十七、管区数六にのぼっているにもかかわらず、バチカンのある高位聖職者は、「偉大な創立者が亡くなり、充分な養成を受けていない会員たちは、創立者の期待に応えることはできないであろう。また、後継者たちには適切な指導などできないであろう」と言った。根拠として、ドン・ボスコが一八八五年十二月八日、会員たちにドン・ルアを自分の代理として紹介する際に、継承については口にしなかった、というのである。そして、サレジオ会を似かよったカリスマを持つ他の会、たとえば、聖ヨゼフ・カラサンスが創立したエスコラピオス修道会などと合併すべきだと主張した。ローマでこのような考え方があるという話は、トリノの大司教に口頭で報告されていた。

しかし幸いなことに、カリエロ枢機卿がローマの当局に対して「ドン・ルアは、会員たちから確固たる信頼を得ており、選挙をすれば満場一致で当選する」ことを保証していることが伝わり、また、アリモンダ枢機卿とマナコルダ司教の熱心な仲介を頂き、疑惑を晴らすことができた。

総長 
ドン・ボスコの名によって
一八八八年二月十一日に、教皇レオ十三世はドン・ルアを任期十二年の総長に任命した。実際の任期は、亡くなるまでの二十二年に及んだ。会の生活は前と同じようにうまくいった。それは、ドン・ルアがその理想、その方法、その徳、献身と勤勉の全てにおいてドン・ボスコの路線を踏襲したからである。彼は短い言葉で計画の概略を述べた。「ドン・ボスコの事業、特に見捨てられた者と宣教地のための事業を継続します」と。会員たちに話すとき「私が言う」とか「私が勧める」とは絶対に言わず、いつも「ドン・ボスコが教えてくれる」とか、「ドン・ボスコが望んだことです」とか、「ドン・ボスコがよくおっしゃったように」と言った。任期の初めに会員たちに向けた回状に、目標の概要を述べ、創立者に対する絶対的で愛深い忠実と、各自に対して感じる責任を著してこう締めくくって書いた。「皆さんに唯一つのお願いがあります。聖人になっていただきたい!」(ASC No.263) ドン・ルアは謙遜の気持ちから、ドン・ボスコの部屋を使いたがらなかった。初めて使ったのは、新副総長、ドン・リナルディの為に部屋が必要となった時であった。そうなってもドン・ボスコが亡くなった部屋は使わなかった。

ドン・ルアはドン・ボスコが晩年になって着手した活動を再開した。各支部のオラトリオに体育館と社会福祉サークルを備えた。実業学校には、理論も実践も考慮して、時代の要請に適応した教育計画を提供した。昼間に通う学校のほかに寄宿学校も建てた。ドン・ボスコの教え子たちが、遠く離れた国々の何千人にも及ぶ見捨てられた子どもたちの所へ派遣された。ハンセン病患者たちの周りにも多くのサレジオ会員と扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)会員のシスターたちが居た。パタゴニアの宣教地に、エクアドルのキヴァロス、ブラジルのマット・グロッソのボロロスにも。一八九〇年には拠点が三箇所になった。

フランチェジア神父はドン・ルアに関してこう言った。「絶え間なく働く、と皆に知られています。どうしてそれほどの疲労に耐えられるかは謎です。」ナイ神父は「彼は一生涯、休息することを知りませんでした」医者のピエトロ・ペイネッティ師は「ドン・ルアは疲労の殉教者でした」と言った。ドン・ルアは第八回総会議を自ら二年繰り上げて開催した。そして、一八九八年八月三十日の総長選出選挙で二一七票のうち二一三票を獲得した。反対票の一票にはドン・ボスコの名があり、一票にヨゼフ・ベルテッロの名、そしてドン・ルア自身の票はドン・マレンコに投じられた。

ドン・バルベリスは言った。「彼はドン・ボスコに特別な信頼を置き、ドン・ボスコに倣い、その跡に従い、サレジオ会においてその精神を維持することに最大の価値を置いていました。」ドン・ルア以上にドン・ボスコを理解し、感服し、ドン・ボスコがした通りのやり方を行い、創立者の聖性を吸収した者はいなかった。アントニオ・マリアというフランシスコ会の司祭はこう言った。「ドン・ボスコの生活にあった奇跡的な面が、全てドン・ルアの生活にも表れたことはもっと大きな奇跡のように思えます」

ドン・ルアの業績の目立ったものは次の通りである。サレジオ会の協力者の最初の国際大会をボローニャで一八九五年四月二十三~二十五日に開催したこと。出席者は、大司教と司教二十一名、枢機卿四名、新聞記者五十九名に上り、教皇もメッセージを送ってくださった。送り出した最初の三つの宣教団の準備の資金として、当時としては莫大な二十万リラが必要であったが、その金額を特に協力者から集めたこと。教皇からの勧めにしたがってドン・ボスコの列聖調査を始めさせたこと。副総長のベルモンテ神父が亡くなったときに、後継ぎとしてスペインからリナルディ神父を呼び戻したこと、などである。

厳しい試練 
ローマからの命令
聖座から、長上が目下の聴罪をすることを禁じるというお達しがあり、総長のドン・ルアは非常に悩んだ。これはドン・ボスコの考えと思われて習慣となっていたからである。どうすればいいのか分からずドン・ルアは途方に暮れた。同様に、聖省がサレジオ会と扶助者聖母会の完全な分離を命じたときにも、ドン・ルアの悩みは大きかった。ドン・ボスコの時代から両会の協力はとても密接であり、ドン・ルアはドン・ボスコに、伝統に対する完全な忠実を誓っていたので大変に躊躇し、ローマへの回答を遅らせた。その結果ルアはローマから激しく非難された。このことは、後に教皇ピオ十世が扶助者聖母会の総長の弁明を聞いて漸く穏便に解釈されることとなる。

サレジオ会員たちがヴァラッツェで中傷される
一九〇七年七月二十九日から、いわゆる「ヴァラッツェの出来事」が始まった。それは反聖職者、フリーメーソンたちのでっち上げであった。サレジオ会員たちが児童虐待で告発され、数人が逮捕された。「サレジオ会の学校が犯罪の温床だ」という、生徒の一人が書いた日記がきっかけだった。反聖職者系の新聞がこれを公表し、大きな字で汚らわしい見出しを印刷した。幸いに、数人の代議員と専門の弁護士が無料でサレジオ会を弁護し、その日記が、生徒によって書かれたものではなくフリーメーソンのでっち上げであることが証明され、裁判所はサレジオ会を無罪にした。

広域にわたる旅
イタリア国内の旅のみならず、ドン・ルアは海外へも旅行して会員たちを励まし、事業のために援助を求めた。三回ほどスペインのドン・リナルディを訪れた他、一八九〇年にはフランスとオランダ、一八九五年にパレスチナ、一八九九年にフランス、スペイン、ポルトガル、アルジェリア、一九〇〇年にシチリアとチュニジア、一九〇四年にポーランド、スイス、ベルギー、一九〇六年には、英国、フランス、ポルトガルとマルタ島、そして最後の旅行としてオーストリア、トルコ、パレスチナとエジプトを訪れた。この途中で汽車の三等席に乗車し、後に致命傷となる病気に感染した。重症だと分かったのは一九一〇年の始めであった。

カスターノ神父によると、ドン・ボスコが亡くなったときの会員数は一〇五〇名、支部数五七、扶助者聖母会の人数は四九八名、支部数五〇箇所であった。そして、ドン・ルアが亡くなったときには、会員数は二九二九名、支部数は三一二に増大していた。

病気と死去
一九〇九年十月二十一日、ドン・ルアは翌年の第十一回総会議を準備するために最高評議会を主催した。一九一〇年二月十五日には、あまりにも具合が悪いので寝たまま聖体を拝領した。感謝の祈りが終わり、持ってこられた手紙を読もうとしたができなかった。そしてリナルディ神父への手紙に「私には、もうこれ以上できない」と書いた。病気の間メルシエ枢機卿が、教皇ピオ十世と数人の高位聖職者の祝福を伝えた。ヴァルドッコの会員たちに囲まれてリナルディ神父が最後のご聖体を持ってきた。祈りが終わるとドン・ルアは話しかけた。ドン・ボスコがなさったように皆に向かい、ご聖体、聖母マリアと教皇に対する信心を尽くすようにと勧めた。そして「私のための祈りを忘れないでください。天国に入ってドン・ボスコと一緒になれたときには、皆さん全てのために祈ります。」彼は病の床についても正確な予定表を持っていた。そしてドン・リナルディに「ドン・ボスコの伝統に忠実に従うことを誇りとしてほしいと会員に伝えてください。」と言った。そして四月六日に危篤状態に陥った。最後の言葉は「終生おとめ聖マリア、私の魂を救ってください。」であった。ミケーレ・ルアは二十二年間にわたって総長の務めを果たし、一九一〇年四月六日の朝、サレジオ会員とシスターたちが手に接吻しようと押し寄せるうちに、安らかに亡くなった。

マレンコ司教が葬儀を司式した。行列は二マイルにもおよび、十万人ほどが参列した。夕刊にはこう書かれていた。「本日昼から行われたドン・ルアの葬儀ほど感動的な式はイタリアのどの都市にもかつて無かった」何年かの間、遺体はヴァルサリチェのドン・ボスコの遺体のそばに安置され、後に聖母大聖堂に移され、地下室のチャペルに納められた。

列聖へ 
聖性の名声

マンマ・マルゲリータ 臨終の時ドン・ボスコにこう言った。「ルア、カリエロ、ドゥランドそれにフランチェジアは、きっと後で頼もしい協力者となります」。そして「ヨハネよ、子どもたちは皆いい子だけれど、ルアは秀でていますね」と付け加えた。

聖ピオ十世 列聖調査の審問検事サロッティ枢機卿に「ルア神父のことを忘れないでください。聖人となる全ての英雄的な徳を備えています。なぜサレジオ会は躊躇しているのでしょうか。彼は神のしもべの偉大な模範です」教皇はさらに言われた。「ルア神父を見る度に、生きたまま列聖していいのではないかと思いまし。」と。

カリエロ枢機卿 長年ルア神父の親友であったカリエロ枢機卿は調査法廷でこう証言した。「ルア神父にとっては、神様だけが関心事でした。ドン・ボスコは『ルア神父は、奇跡を行おうと思えば、神様に一言いうだけで可能であった』と最高の賛辞を送っています」

福者フィリッポ・リナルディ 「ピオ十世はドン・ルアのことをよく知っておられ、とても尊敬して、ルア神父が賢人であり、また聖人であったと強調しておられました」

ルアは、聖書の義人の特徴である信仰心の厚い人であった。マツェイ師がこう書いた。「その姿は多くの人に、目に見えないものを指し示すでありましょう。彼はすべての会員に深い愛を示しました。『私は一日の各瞬間を皆さんのために捧げます。私は皆さんのために祈り、皆さんのことを考えます。母親が自分の赤ん坊のために働くのと同じように、皆さんのために働きます。そして一つのことだけを願います。すなわち、皆さん自身が聖人に、偉大な聖人になりなさい、と』」

アスティの司教サンドラはこう言った。「ある朝、ルア神父の教え子である私たちは、ルア神父が真夜中にお聖堂で祈っていることを知って驚きました。それも一度や二度ではありませんでした」。マッフィ枢機卿は書いている。「ルア神父がごミサの後、感謝の祈りをしているときの姿を生涯忘れることができません。あたかも主と対面して話している印象を受けました」

特別の信心
フランチェジア神父は言った。「ドン・ルアはいつも信心と祈りにおける専心の模範でした」信心はご聖体と扶助者聖母マリアが中心であった。リナウド先生が「ルア神父は祈りと活動の人でした」と言ったのは正しかった。バルベリス神父はこう証言した。「彼はイエスの聖心に対する深い信心を尽くしました。自分で実践し、他人にも教え込みました」一九〇〇年の十二月三十一日に、サレジオ会員も、扶助者聖母会(サレジアン・シスターズ)のシスターたちも、三日間の祈りをしたあと、両会をイエスの御心に荘厳に捧げるように願った。バルベリス神父は言った。「ドン・ルアの、扶助者聖母マリア様に対する愛は優しくて特別であった」サルッツォ神父は言った。「ドン・ルアによると、扶助者聖母マリアに対する愛がなければ、良いサレジオ会員でありえない。」扶助者聖母会のシスター・ソルボーネは「ドン・ルアは、いつも扶助者聖母マリア様の話を、私たちに本当のお母さんとして紹介してくださっていました」と言っている。

霊的横顔 特色のある徳 
ドン・バルベリス
「彼はドン・ボスコに特別な信頼があって、ドン・ボスコに従い、志を継ぎ、彼にとってサレジオ会においてその精神を維持することほど貴重なものはありませんでした。誰よりも良くドン・ボスコを理解し、感嘆し、誰よりも創立者の聖性を吸収しました」

ドン・フランチェジア
「ドン・ルアの謙遜は実に異例でした」

ドン・リナルディ
「ドン・ルアは、言葉においても、いつも、どのような状況においても、どんな相手に対しても、謙遜でした。その特徴は「清貧」でした。ドン・ルアはたくさんの援助を求めましたが、自分のためには決して求めませんでした。最も良くない場所、目の粗い服、残ったパン屑で満足していました」

皆が共通して認めるルア神父の特徴
・ドン・ボスコに対する忠実
・全てのことにおける几帳面さ
・会憲・会則の厳しい遵守
・自分に対する厳しさ
・ドン・ボスコの脇役を務めたこと

列福調査が始まる
一九二二年五月二日に、トリノのリシェルミ枢機卿がドン・ルアの情報に関する裁判を開いた。列聖省に提出されたルア神父の五十四の書類を調べた専門家たちは、聖性への着実な歩みの中で一箇所たりとも中弛みを見つけることができないと証言した。説教集は確実な教義と正当性に優れ、実践的で、神、聖母マリア、隣人への愛を示した。裁判は一九三九年五月八日に成功に終わった。

一九五三年に教皇ピオ十二世が徳の英雄性の決定を署名すると、神のしもべは「尊者」となった。教皇パウロ六世が、ドン・ルアのとりなしで行われた二つの奇跡を認可して、一九七二年十月二十九日に「福者」と宣言した。列福されても、ミケーレ・ルアはドン・ボスコの写しとして、その福を〝山分け〟することになった。

福者ミケーレ・ルアの記念は、十月二十九日に行われる。

年譜 
一八三七  トリノに生まれる
一八五二  ドン・ボスコのオラトリオに入る。着衣式
一八五五  私的誓願
一八六〇 司祭叙階
一八六三  ミラベッロ支部の院長
一八六五  副総長
一八八四  ドン・ボスコの代理
一八八八  総長
一九一〇  死去
一九二二  列福調査が始まる
一九五三  尊者となる
一九七二 福者となる