Venerable Andrea Beltrami

Venerable Andrea Beltrami

尊者 アンドレア・ベルトラーミ (一八七〇‐一八九七)

少年時代
オメーニャは北イタリアのオルタ湖の湖畔にある絵のように美しい小さい町で、十人の兄弟の長子アンドレア・ベルトラーミは一八七〇年六 月二十四日にその地に生まれた。父のアントニオは誠実勤勉な職人のカトリック信者で、町民にも非常に尊敬されていた。子供に大きな影響を及ぼした母のカテリーナは、とても信心深い女性であり、毎日の祈りのうちに、子供が信仰なしに成長するくらいなら、早くみもとに行かせてくださいと神に願っていた。

アンドレアは性急な子で、いたずらをしてはよくトラブルを起こし、気に入らないことは我慢できなかった。ある日先生が「こんないたずらを続けると、神さまは天国に入れてくれないよ」と言うと、アンドレアは「それなら、聖母マリアに頼む」と即座に答えるのだった。

「聖母は君のような腕白坊主の味方をすると思うのか」と先生が続けて言うと、アンドレアは「そうなら、聖アロイジオに頼んで、彼のようにいい子になりたいと願えば手伝ってくれる」と答えるのであった。十歳になると初聖体を受け、間もなく堅信の秘跡を受けた。

小学校を卒業すると、アンドレアは通学生としてオメーニャのコンティ中学校入学を許された。大変残念なことにその学校は非宗教的な運営がされていて、道徳上の環境は良くなかった。最も感じやすい時期にアンドレアは無責任な級友たちから何回もショックを受けた。幸いなことに、母の優しい見守りのおかげで、この早熟で元気のよい子は守られていた。他に様々な特徴があるが、第一に率直で正直であった。不誠実や二枚舌は大嫌いであった。もう一つの良い点は貧しい人に対する愛であった。そのために小遣いを蓄えて、貧しい人に施すことができると、傍で見ていても喜んでいるのがわかった。

ランツォのサレジオ会学校で

コンティ中学校で一年を過ごしてから、アンドレアは頭脳明晰で成績もよかったので、両親はもっと良い学校に入れようとした。ボレッティノ・サレジアーノ予約購読者で、トリノ近郊のランツォの学校のことも知っていたことから、一八八三年の秋に始まる新学年から、その学校で勉強させることにした。

十月二十四日にランツォ支部に着いたとき、アンドレアは新時代に入るのだという思いでいっぱいであった。活発な休み時間、教職員との親密な関係、親しいブオーナ・ノッテなどはよい印象を与え、彼はすぐに新しい生活にとけこんだ。数日後、両親に出した手紙にこう書いている。「この学校は気に入りました。お二人が私のためになさったことを、心から感謝したいと思います」。しかし、すべてうまくいくわけではなかった。ある時には教頭に叱られ、霊務係からももっと頻繁に秘跡を受けて意志を強めるように注意されている。アンドレアは聖体の信心会に入会して、チームワークの重大さを習い、また校則をもっときちんと守り、使徒的精神と指導力を身に付けていった。このようにして、ランツォでの滞在の一年目には、仲間から大いに尊敬されるようになっていた。

ランツォでは聖母信心が生徒の霊的生活の中心になっており、アンドレアも自分を聖母に捧げ、茶色のスカプラリオを身に着けていた。ランツォ支部は、ドン・ボスコ自身が養成し、徳育を重視する立派な上長方に恵まれていた。手本としてよく話されたのは、ベンジャミン・フランクリンとか、ヴィクトル・アルフィエーリのように鋭い知能よりも、時間を良く用い、強い意志力のために成功した偉人たちのことであった。サレジオ会の学校でアンドレアは、時間のよりよい用い方と「なすべきことをなせ」のような実践的な姿勢を身につけた。そのために、自習で時間を有効に用い、休み時間には活発にスポーツに参加した。卒業したとき、一人の上長はこう書いている。「アンドレアがランツォを離れたとき、休み時間の活発にあふれていた雰囲気がすっかりなくなったように感じた。彼が去っていくのは、この学校にとって大きな損失であった」

「別人になったようだ」

こうしたことのすべてがアンドレアに著しい変化を起こし、夏休みに帰宅すると、母はこう言ったものだ。「わが子だとほとんど分からないほどでした。一年のうちにこんなにも変るものなのかと思いました。よい習慣を身に付け、散歩とか、信心の勤めに時間を決め、読書にも長い時間を当てています」。兄弟や仲間に及ぼしたよい影響は、その小さな町の町民の注意をひいた。

ゆっくりと休んでからアンドレアが十月に学校に戻ると、飛び級を許され、間もなくそのクラスの首席になった。ドン・ボスコは生徒をよいキリスト教徒に変えるだけで満足したわけではない。「教会には、聖人と使徒を必要とする」。ランツォの学校で、この理想を生徒に教え込むためにあらゆる機会もとらえた。そのような一つの機会は、カリエロ神父の来校であった。神父は南米の先住民の間で行われている使徒的活動について話し、宣教師の召命の偉大さを誉めたたえた。その日から当分の間、宣教地のことが話題になった。地理の授業も宣教の宣伝の場となったのだ。

アンドレアの聖体に対する信心が盛んになったのは、二年目のことであった。もっと頻繁に秘跡を受け、五月になると毎日聖体を拝領した。金曜日ごとにイエスのみ心の信心をはたした。このような深い信心と勤勉のために、二年目の年末に学校全体で最もたくさんの賞を受けたのも不思議なことではない。 その次の休暇の間にはギリシャ語を勉強し、再び飛び級を許された。通常五年掛かる課程を三年で修了したのである。

サレジオ会への召命

中等教育が終わろうとすると、アンドレアが将来のことを考えたのは無論のことである。当分の間、司祭職のことを考えつづけた。教区の司祭職なら父は反対しない。事実、人間的観点から見て、特に当時ドン・ボスコに従った者たちの生活は、あまり魅力的ものではなかった。反対にサレジオ会員の生活は骨の折れるものであった。つらい生活に慣れた田舎ぐらしえをした者でないと耐えられないと思われていた。

ドン・ボスコの子らの清貧はよく知られていた。ある人は上品な紳士的服装の立派な主任司祭と、着古したスータンと修繕した靴で仕事に精を出すサレジオ会員とを較べていた。後者は司祭に相応しい礼儀正しさを軽視していると思われていた。このために、初めのうちアンドレアは教区司祭の方に強い魅力を感じていた。主任司祭もその方に導こうとし、教区の大神学校に入学手続きを始めようとした。にもかかわらず、アンドレアは、他のことをすべて捨てて、より困難な道を選ばなければならないと思った。ドン・ボスコとの率直な話の末、サレジオ会の方を選びたくなった。学校での黙想会の間に熱心に祈ったが、決心がつかなかった。

学期末のある日、アンドレアは院長のグイダッツィ神父のところへ行った。その子の話を全部好意的に聞いてから、神父は運動場を見下ろす窓際へ連れていって、彼に下の情景を指し示した。スータンをまくりあげた数人の若い司祭と神学生が、額に汗して心いくまで満足そうに遊ぶ何百人の子供のにぎやかな遊びを活気付けている光景は、いかにも理想のように見えた。窓から目をはなして、院長に言った。「分かりました。サレジオ会員になりたい」。そこで躊躇に終止符が打たれた。決意について母に手紙を出すと、母はその決意が気まぐれのことではなく、よく考えた上のことなら反対しないと答えた。

身に迫る困難

指導司祭に送った手紙によると、召命に従うにはいろいろな困難があったようだ。「主は一つの確信を抱かせた、すなわち、サレジオ会員になるという道しかないと。ためらいを許さない、親密で緊急な声でした。ご存知の通り、神父様、神様はよい頭をくださった。学校でいつもクラスの首席でした。成功のことを話すと、ただ世間での華々しい生涯を約束する誘惑でもありました。しかし、『サレジオ会員にならないとだめ』と言う声は、いつまでも心に残りました。学校の生徒のうちに修練院に関する偏見などもあって、私もそれに同意するのでした。あの内的な声は、説得力を持って『サレジオ会員にならないといけない』と言い続けるのでした。

私は長子で、皆から愛されていました。初めてサレジオ会に入りたいということを話すと、母は泣きだしました。でも後には恩恵が自然に打ち勝つと、いつも励ましてくれました。父は土壇場で同意を拒否したので、母だけが見送ってくれました。その後父も考えを変えて承諾してくれました」

アンドレアの召命は実に例外的なものであった。伝記作家のバルベーリス神父は、「アンドレア・ベルトラーミは摂理がサレジオ会に行った最も素晴らしい贈り物だった」と書いているが、たしかにそうである。

最後の休暇

若いアンドレアは友人たちに、修練院に入る前に、休暇を大いに楽しむと言ったが、約束を文字通りに守った。「魚のように上手に泳ぎ、ボート乗りでは舵取りとして専門家に負けない」と、一人の友人は言っている。彼にとって登山は気晴らしであったが、ただ身体面だけではなく、魂の楽しみにもなった。こう書いている「雪をいただいた先端を雲の中に隠し、巨人のようにそびえるあの山の前で、自分のつまらなさを感じる。事実、神様はその山をお造りになって、ご自分の偉大さと永遠性を反映させたのだと思う」

しかも、その旅は信心業の規則正しさを妨げなかった。いつも模範的に、忠実に行った。ある時、ごミサに間に合うために、最寄りの村へ一晩中歩きつづけなければならなかった。列福調査の時に弟のヨセフは、アンドレアの神秘的な体験を一つ、このように語っている。「ある時、山を歩き回って楽しんでから、帰る時間になると、アンドレアが見当たらない。やっと山中にあるフランシスコ・チャペルで見つけた時、彼は跪いたまま、祈りに夢中になっていた。二回ほど呼びかけて、肩に手を触れたけど、反応は無かった。最後にもっと強く手を触れると、やっと振り向いて、帰る時間になったのかと聞いた」。弟はアンドレアが少なくとも三時間そこにいたと確信している。帰宅するとアンドレアは部屋に閉じこもって、霊的読書にかなりの時間を過ごすのであった。毎日教会へ行って、聖体訪問をしていたと母は思い出を語っている。

若いベルトラーミはむやみに世間離れした神秘家ではなかった。親戚の者に対する愛は、減少しないばかりか、もっと素晴らしいものになった。祖母と話したり、本を読んでやったりして何時間も過ごすのであった。また、使徒的熱意の対象も見つけている。町で病人に対する彼の愛は広く知られている。一人の友人はこう書いている。「当時、町には寝たきりで、数年間も外出できない病人が数人いた。それを知って、アンドレアはよく見舞いをしていた」。町の霊的、物的福祉にも大きな関心を持ち、プロテスタントの宣伝と社会主義の発展による宗教の無関心に気付いて、カトリックの読み物を手に入れては配っていた。また、町民のための移動図書館を組織している。

修練期

休暇が終わると、アンドレアは母と一緒に修練院に赴いた。母はキリスト者の模範的な母のように、息子を上長に渡してこう言った。「神父様、私には大きな犠牲ですが、喜んで捧げます。アンドレアを聖なる司祭にしてください。そして、私が残りの子たちをよく育てることができるように祈ってください。他に何も望みません」

修練院はトリノ市から少し離れた村、フォリッツォに移されたばかりであった。数週間前に買った古くて空いていた大邸宅を、百人以上の修練者と養成者を収容するために修理中であった。一八八六年十一月六日に、ドン・ボスコが着衣式のために来院したとき、新修練院のすぐれた清貧と簡素さを見て喜んだ。椅子は数個しかなく、ドン・ボスコと他の客は、修練者たちが椅子を応接間から聖堂に、聖堂から食堂に、食堂から他のところに運んでいくのを見て、面白がった。「私は非常に嬉しい。これは素晴らしい滑り出しだ」と言う言葉が聞こえた。

修練長のジュリオ・バルベーリス神父はドン・ボスコのお気に入りの人であった。事実、彼についてドン・ボスコは言っている。「バルベーリス神父ほど私のことがわかる者はあまりいない」。かつて十四歳のジュリオに「君はいつまでも友人である。私の手助けをする日が必ず来る」と言っていた。果たして、彼はサレジオ会の最初の修練長となった。

「修練期の一日目から、アンドレアは真剣にふるまい始めた」とバルベーリス神父は書いている。「着手したことには目標を持ち、あいまいな野望とか、中途半端なやり方に満足しなかった。すぐはっきりした目標で働き始めた。私との最初の対話では、どうぞ私の誤りをどしどし指摘して下さいと謙遜に願っていた。願いがかなえられるなら、心から感謝するとも言った。成聖の道に導くような無数の恩寵を若い修練者にもたらしたのは、この率直さと謙遜であった」。アンドレアは、すべての行いにおいて、全く純粋な動機を得ようと努力した。

性格的には積極的な傾向があり、いつもクラスで一番になった。他の人が彼の知能と他の特徴に感心しているということも知っていた。仲間より常に優位にたっているにもかかわらず、神だけを賛美しようと努めていた。詩編作家の言葉、「神よ、栄光はあなたの名に、わたしたちではなく、あなたのいつくしみとまことのゆえに」(詩編 115・1 ) を自分のものにしようと努めていた。霊的日記の最初の書き込みに、次のようなものがある。「勉強や他の面で収めた成績は、神だけに帰する」

日記にこういうことも書いてある。「霊的進歩を妨げる主な欠点は傲慢だと分かった。勉強や他の面で、それに打ち勝とうと努める。絶対に自慢話はしない。遊び時間に、自己主張はしない。『柔和で謙遜なイエスの聖心、私の心を聖心にあやからせてください』という者になる。傲慢をくじかれるとき、沈黙をし続ける」

アンドレアの信心にも、謙遜にも気負いはなかった。謙遜は男らしく、弱い人に見うけられるような無駄な嘆きにふけることはなかった。皆に慕われるようになったのは、謙遜の一面である仲間の修練者に対する尊敬であった。自分と比べて、彼らが聖人であると信じた。

フォリッツォ修練院では、聖イグナチオの精神が優位を占めていたので、聖アロイジオ、聖ヨハネ・ベルクマンズ、聖スタニスラオ・コスカがアンドレアの聖性の模範であることは当然であった。ランツォの学校ですでに標語として「いつも聖性を望む、粘り強く聖性を望む」と決めていた。修練期の初めに母に手紙を出してこう書いている。「どうしても聖人になる。神様が私にくださった恵みは数えきれないほどだから」。後になって、「意志あるところ、道は開ける」と言う小冊子を書いている。間もなく、黙想と良心の糾明が、自己の本当の姿を知り、彼の生涯を方向づけるために必須の方法であるという確信に達した。

半年間の記録に修練長はこう書いている。「アンドレア・ベルトラーミは修練者たちの中でひときわ目立つ、徳の面でも、知恵の面でも。従順は非常に模範的である。いつも自分を謙遜にする機会や方法をさがしている。神の現存を深く体験することでも非常に進歩している、特に射祷をもって。神は長くて厳しい試練をお許しになり、そのためにこれまで大いに悩み、まだ今でも悩んでいる。しかし、神様の助けをもって、すべてに打ち勝ち、ひるまない勇気をもって戦いつづけている」

聖心と聖母への愛。バルベーリス神父はアンドレアの霊的生活、特に修練期の後半に、二つの愛、聖心と聖母への愛を特筆すべきものとしている。「この二つの愛は、いかに主の道において見事な進歩をとげているかを示している」と言った。

聖櫃がアンドレアの生活の中心であったと言っても過言ではない。「どこにいようとも、教室であれ、運動場であれ、寝室であれ、しばしば聖櫃と聖母の祭壇のことを思い出そう。どこからでも、主と聖母に愛の射祷の挨拶を送ろう」と、霊的日記に書いている。

独特な信心 主にいろいろな恵みを願った。 月曜日に貞潔を、火曜日に宣教師の召し出しを、水曜日に聖ヨセフの取り成しによって貞潔と謙遜を願った。木・金曜日を、イエスの聖心に特別な願いのために取っておいた。それは、自分と二人の仲間が聖人になれるようにということであった。土曜日には貞潔とそれにかかわる小さなことへの忠実を願った。

「聖母と一日を送ろう」という、聖母に対する一連の信心業を、親友のために書き留めたのは、おそらく五月であった。「朝目がさめると、聖母に挨拶をし、寝る前に私たちを祝福して、翌日の聖体拝領のふさわしい準備ができるように願いましょう。仕事を始める前に、また聖母のご絵、ご像の前を通ると、祝福を願いましょう。勉強において困難にあうときには、『上智の座』である聖母に祈りましょう。聖母の御名や頭文字のイニシャルを教科書に書きましょう。机にご絵を飾りましょう。とりわけ、しばしば聖母の祭壇に近づいて、本当の子どものような信頼をもって、心を開いて、その日の成功も、失敗も、努力も、困難も知らせましょう。お母さんですから、すべてを打ち明けましょう」

七月の末、試験が終わると、アンドレアは明らかに疲れていた。上長方は彼を一人の友人と一緒に、転地療養のためにランツォの支部に送ることにした。ランツォで、ローマ旅行での疲れをいやしていたドン・ボスコと数時間を過ごすことができた。フォリッツォで修練者たちは一八八七年九月二十三日の誓願を準備する黙想会を始めた。ドン・ボスコはその機会にフォリッツォに立ち寄ると約束していたが、疲れのために旅ができなかつた。それで修練者がヴァルサリチェへ行き、ドン・ボスコが誓願式を司式することになった。アンドレアはドン・ボスコの司式で、一八八七年十月二十日に決定的な奉献を行った。

司祭叙階の準備‐哲学課程

ベルトラーミ神学生は修練後の養成のためヴァルサリチェ支部に移った。そこには優れた養成者のチームがあった。非常に熱心で親切であったが、同時に要求も厳しかった。アンドレアの自然な傾向は文学であったが、すべての科目に熱心に専念した。「時間を節約して、ドン・ボスコに倣うつもりです。勉強を第一義と考える。予習が完全にできるまでは、読書も霊的読書もしない」と決意していた。ピシェッタ神父は言っている。「アンドレアは従順のために勉強に励んだ。その時さえも、神の栄光と霊魂に役立つための準備をするという望み以外になかったとわたしは心から断言できる」

哲学研究にも成果をあげたが、同時に、霊的進歩にもこころを配った。ドン・ボスコが亡くなってから自分の生活をドン・ボスコの模範にあわせようと、非常に熱心に努めた。母に次のようなことを手紙に書いている。「今、一つの望みしかない、すなわち、父なるドン・ボスコのもっとふさわしい子となること」。感情に流されるという危険を避けるために、異例の苦行を行う許可を願い出たけれども、上長は承諾しなかった。

アンドレアは情熱的な気質と情愛に富んだ性質の持ち主で、類似した人との親密な交わりを求めていた。ランツォでも、フォリッツォでも多くの良い友を持っていた。ヴァルサリチェでの最も親密な友はアウグスト・チャルトリスキーであった。ポーランドの皇子で、フランス亡命中であった。フォリッツォですでに会っていたが、死ぬまでの友情を結んだのはヴァルサリチェであった。上長方はその交わりを認めただけではなく、大いに励ました。年末にアウグストは療養のためにペナンゴ支部に移された。アンドレアは彼を助け、励まし、規則正しく散歩や運動をさせるために一緒に送られた。この時期、二人はますます親密になった。皇子が再び病に倒れ療養のためランツォに送られたとき、アンドレアはまた彼の友、守護の天使となるように依頼されたのである。

実地課程

哲学課程が終わると、ベルトラーミはフォリッツォ支部に派遣され、古典文学を教えることになった。しかし、彼の仕事は普通の教師よりもずっと多岐にわたっていた。生徒を指導し、神学を本格的に勉強し、さらに大学の学位を取らなければならなかったのである。生徒の学習面での成果を優先させて、自分の文学的才能を高めるための研究を犠牲にした。

ヴァルレ神父はこう言った。「ベルトラーミ神学生には三つの務めがあった。その一つだけでも十分であった。信仰と従順の精神に従って、授業を最優先した。それから神学の勉強、そして最後に大学生の務めの順番であった」。教え子の一人はこう書いている。「骨身を惜しまずに授業を準備し、多くの書籍を参考にして詳細に説明し、毎日生徒たちのノートを点検していました」。何よりも、彼の第一の願望は、授業に本当のキリスト教精神を染み込ませることであった。彼にアドバイスを頼んだ一人の友人にこう書いている。「教室を教会に変えてはいけない。また、授業が説教になってもいけない。知識は良心的に伝えなければならない。しかし、教師の務めは、同時にキリスト教的人格を造りあげることである」。遊び時間の時の良い手本を、授業と同じほど重視していた。「わたしたちが神を恐れ、その掟を守り、神の愛がわたしたちのすべての行いを支配すると言う印象を生徒に与えなければならない」

神学を勉強し、百人ぐらいの生徒に教え、同時にトリノ大学で講座を受けることがどうして可能だったか。大学には、担当授業のない木曜日にだけ通い、週に一回出席して試験を受ける資格を取得した。 級友から貸してもらった講義のノートで、 教授たちの講義内容を学び取った。虚弱な体質で、特に冬の期間には毎週トリノまで通うことは負担であった。ある時は帰って来られるのは翌朝であったりした。そういう場合、八時半ごろ帰宅して聖体拝領をし、間に合うなら朝食を取り、担当していた授業を行っていた。トリノ大学の体験から、カトリックの学生クラブを組織し、メンバーの霊的利益を促進するというアイディアを得たのである。

このクラブは後に福者ピエル・ジョルジョ・フラッサーティのような若い聖人を造り出すことになった。アンドレアはせっせと働き、いささかの時間も費やさなかった。速く働くコツをよく心得ていて、焦ることはなかった。四ヶ月の間、すべてがうまくいっていた。

二月のある日、いつものとおり講義を受けるためにトリノへ出かけた。汽車による通学は彼の健康をそこない、ついに大量の吐血をして倒れた。一八九一年二月二十日のことであった。その日はアンドレアの生活の転機となり、以後はもう健康を回復することはなかった。しかし、聖なる神学生はキリストのために苦しむことを特権と考えたのであった。サレジオ会員が過労のために死ぬようなことがあれば、それは会にとって勝利であると、ドン・ボスコは言ったのであるから。

司祭としての生活

八月末にアンドレアはサヴォイアを後にして、生まれ故郷のオメーニャに行く途中でトリノに向かった。故郷の気候が健康のためになると思われた。冬が近づくとオメーニャを出て、アラッシオの温暖な気候の土地に行き、翌年の春には、健康は随分よくなって、神学の勉強を続けることができた。しかし、彼は健康の回復が一時的なことだけだと予感していた。事実、こう書いている。「処方された薬を全部飲みながらも、死を準備していきます。神が慈しみをもって恩恵の体験をくださったから、とても喜んでいます」。ヴァルサリチェと同様に、フォリッツォの生徒達も、アンドレアの病気回復を祈っていた。彼はできる時には神学を勉強し続けた。上長も兄弟も早く司祭になることを願い、教会法によって定められた年齢に達していないため、特別免除を得て、一八九三年一月八日にカリエロ司教の司式で叙階された。

叙階式はヴァルドッコのドン・ボスコの小さいチャペルで行われた。全く非公式だった。母が出席できたのは、翌日の初ミサの時であつた。五月末に、医者の勧めでまた親を喜ばせるためにオメーニャに行き、そこでゆっくりと健康を回復していった。司祭としての熱意は貧しい人と子供に対する愛に示された。

容態が快方に向かっていたある日のこと、幼年時代によく登った山にある巡礼所まで行けると思いこんだ。しかし、あまり張り切ったので、大量の吐血を引き起こすことになった。間もなく危篤状態になり、塗油の秘跡を受けたが。二・三日すると、また回復してきた。

ある日、子供の時の友人が訪れ、アンドレアは喜んで長椅子から立ち上がって挨拶しようとしたが、力が抜けて倒れてしまった。これで活動的な生活の夢は永久に消え去ったのである。病気が長続きすると分かり、しばらくの間は落胆したが、間もなく病気が神の御旨だという確信を得て心の平和を取り戻した。

秋が近づいてくると、アンドレアは修道院に戻りたいと言い、上長方には転地療養とか特別で高価な薬などの使用の中止を頼んだ。願いがかなえられてトリノへ出発し、ヴァルサリチェに着くと、聖櫃が見える部屋を与えられた。

一八九四年の年末に、ベルトラーミ神父は執筆を始め、亡くなる十日前までその仕事に従事した。フェルリ教授の協力のもとに現代の外国文学に関するエッセー集を書き始めた。その後、次の書も著している。

聖マリア・マルガリタ・アラコック伝(一八九四)、アッシジの聖フランシスコ伝(一八九五)聖女ジャンヌ・ダーク伝(一八九五)、聖リドイン伝(一八九五)、「真珠とダイアモンド」(一八九六)、「意志あるところ、道はひらける」、「小罪」、トマス・モア(劇)、ナポレオン伝、「星の夜明け」、ドン・ボスコの格言集。

聖ヨハネ・ド・ラ・サール伝、聖スタニスラウス・コスカ伝、聖ユリウスとユリアーヌス伝。この三冊は著者の死後に出版された。

霊的生活

アンドレアはその最期の日々を、特に祈りと苦しみと仕事に当てた。ある時、親友にこう言っている。「わたしたち各自には果たすべき使命があります。あなたは、仕事ができるように健康に恵まれた。神は、わたしが苦しむように、健康を取り去ってくださった。われわれの修道会は苦しむ人を必要とします。わたしが自分の持ち場を離れないように祈ってください」。毎日、五時には起床し、何時間も祈りと勉強に過ごした。聖体の前で過ごした時間は、深い霊的喜びの時であったに違いない。ヴァルサリチェの最初の二年間は、ミサをドン・ボスコの墓に近い、「悲しみの聖母」のチャペルで捧げた。侍者を務めた修道士はこう証言している。

「非常に信心深く、言葉をはっきりと発音してミサを捧げていました。… 愛情こまやかなやさしさ、天使的な表情、わたしのちょっとした奉仕に対する温かい感謝など。彼のミサに奉仕することを特権と思うようになりました。聖人のミサに奉仕しているのだと感じました」。ベルトラーミ神父の信仰、希望、愛の豊かさは非常に心を打つものがあり、ある著名な修道者は言っている。「ベルトラーミ神父が聖人ですか?もちろん聖人だが、普通の聖人ではありません。偉大な聖人です」

リジューの聖テレーズはこう書いている。「神との一致に関して、すべてを行うのは謙遜である」。謙遜と神への委託への願いこそベルトラーミ神父の祈りの中心であったことは疑いない。「主よ、私を謙遜な者、真実に謙遜な者にしてください」。サレジオ会の会員名簿を手に入れて、総長から最も若い修練者にいたるまで皆のために祈った。同じように扶助者聖母会のすべての修道院、特に修練院のために祈った。

一八九五年十二月十五日に、愛なる聖霊の促しに導かれて、正式な書面で、全教会、教皇、司教、司祭、男女修道者、死に直面している人、煉獄の霊魂、異教人のために、いけにえとしておのれ自身を捧げた。さらに、それに加えて、「存在すれば、またあがないを必要とすれば、星に住む者のためにも」。彼の書き記したすべての祈りは、次の祈りで要約されるだろう。「主よ、あらゆる人々を救いたまえ。わたしアンドレアだけを打ちすえ給え」

神と人間との仲介者としての使命を担ったことが、次の日記の言葉からも判かる。「五時間聖櫃の前で罪人と異教の地の人々の回心のために祈った。イエスの慈しみ深い聖心を力ずくで襲って、皆の救いを奪い取り、ヤコブのように、神の正義と取り組んで、彼らのあがないかち取ろうと決心した」

最 期

一八九七年初頭、ベルトラーミ神父の体力の衰えが明らかになった。ヴァルドッコの扶助者聖母の大聖堂を訪れ、聖母の祭壇の前で長く祈り、「病気の恵み」を感謝した。

六月に、いつものような危機に陥った。大出血であったが、二・三日すると再び仕事に着手した。聖母被昇天の祝日にまた危機に陥ったが、今度はもう一つの問題、胃腸炎が加わった。その時ドン・ルアに手紙を出してこう書いている「これは聖母の贈り物です。痛みが激しくなればなるほど、主のために苦しむ望みが増していきます」。仕事と祈りとの時間割を忠実に守って、執筆と聖体訪問とを交互に行っていた。

バルベーリス神父は言っている。「ただ一人の救いのためでも、審判の日までこの苦しみ以上のものを喜んで耐え忍びます」。その時のことを、バルベーリス神父はこのように言っている。「特に印象に残ったのは、青ざめてやつれた顔に悲しみと喜びと平静さが、言葉に表せないほどの微妙なただよいを見せていたことだった」

一八九七年十二月三十日の朝、院長がベルトラーミ神父を見舞ったが、終りが近いと言う印象を受けなかったので、そのままごミサを捧げに行った。そのミサ中、聖変化の前に、アンドレア・ベルトラーミ神父は永眠したのであった。生前、次の祈りを唱えたことがあった。「主よ、あなたの十字架上で孤独な死を共にさせてください」。主はその祈りを聞き入れて、アンドレアは孤独のうちに亡くなった。臨終の聖体も、司祭の祝福も、最後の時に枕もとに跪いて慰める兄弟もいなかった。ただ激しい苦痛だけがあった。人間的、霊的慰めを感じることもなく、愛によるいけにえにふさわしい死であった。

聖なる司祭の遺体は、教会の最後の儀式を行うために神学校のチャペルに移された。皆の共通の印象は、神のもとに、もう一人の仲介者を得たということであった。家族の望みどおりに、遺体は故郷のオメーニャに運ばれ、受洗した教会に埋葬された。

列福に向けて

アンドレア・ベルトラーミ神父の列福調査は一九二〇年七月に正式に始まり、1966年、教皇はその徳の英雄性を承認する文書に署名し、「尊者」の称号を授与された。

年譜
一八七〇 イタリア・ノヴァーラの近くにあるオメーニャ町に生まれる
一八八三 ランツォのサレジオ会の学校へ
一八八七 終生誓願
一八九三 司祭叙階
一八九七 死去
一九二〇 列福調査が始まる
一九六六 尊者の宣言