13 november saint Artémides Zatti

13 november saint Artémides Zatti

聖アルテミデ・ザッティ修士
(一八八〇‐一九五一)

 イエスの同胞である尊者シモーネ・スルージの人生には、雑用係としての救霊のための数限りない活動の中に、聖性に達したサレジオ会の修道士の素晴らしい姿がうかがえる。一方、一生涯を病院で働き、貧しい人々に対する無欲の奉仕をもって聖人になったアルテミデ・ザッティも、ドン・ボスコが理想とした修道士の素晴らしい典型である。

少年時代
 アルテミデは一八八〇年十月十二日、南イタリアのレッジォ・エミリアのボレット村の貧しい家庭に生まれた。子供時代、ドン・ボスコの事を耳にしたことはなかったが、後にアルゼンチンでは、貧しい人のドン・ボスコと言われるようになった。ドン・ボスコ同様、年端のいかぬうちに働き始めなければならなかった。四才で既に自分のできる畑仕事をやり、九才のアルテミデは、年収二十五リラの日雇い労働者となっていた。朝は三時に起き、体のためには十分な量とは思えないポレンタ(とうもろこしの粉を練ったイタリアの食べ物)を持って、畑に出て働かなければならなかった。十六才まで畑仕事を手伝う仕事を続けたが、当時のアルテミデは、栄養不足でやつれた少年であった。当時、日雇い労働者がマラリア、ビタミン不足、肺結核などで次々と死んでいくその地方では、通常ならば、かれは二十才ぐらいの寿命であったが、神の御旨は別であった。
 こうした境遇を改善すべく、アルテミデの両親は南米に移住しようと思った。既にボレット村からアルゼンチンのバイア・ブランカに移住していった近親者もあり、「懸命に働く気さえあれば、この新世界ではしっかりした生活が容易にできる」という新世界から入ってくる情報は、非常に勇気づけられるものであった。
一方、イタリアでは農業危機と、求人率の低さから、一般の人々の生活がますます困窮し、当時多くのイタリア人はアメリカ大陸を目指した。一八九七年、ザッティ一家も八人の子を連れて、バイア・ブランカに向かって出発した。父親は先に移住していた叔父の援助で市場に屋台を出し、十七歳となっていたアルテミデはホテルに就職したが、ホテルの仕事は気にいらず、数日後にはタイル・煉瓦造りに転職した。

サレジオ会への道
 ザッティ一家の移住に先立つこと二十二年前に、サレジオ会はアルゼンチンに進出、一八九〇年にはバイア・ブランカで支部を開いた。アルテミデの家族が住み着いたのはその支部のすぐ近くだったので、若き日のアルテミデは暇さえあれば主任司祭のカルロ・カヴァルリ神父のところで時間を過ごし、教会で手伝い、病人見舞いの時にもついて行った。神父から渡されたドン・ボスコ伝を興味深く読み、「サレジオ会員になったらどうだろうか」と徐々に自問し始めた。当初は憧れに過ぎなかったが、程なくじっくりと真面目に考え、父親に相談した。父は「自分で決める年頃だから、神様がお召しになっていると思ったら、行ってもよい。しかし、最終的に決める前に、真剣に考えなさい」と言った。一九〇〇年、母親はアルテミデを(ブエノス・アイレスの近くにあるサレジオ会の志願院)ベルナルに連れて行き、支部の院長に紹介し、「神父様、私の息子です。良い子ですから、従うと思います。しかし、真面目にやらないときには、遠慮なく鞭を使ってください」と言った。
 イタリアでは小学校の四年生までしか通学しておらず、それも十年前のこと。二十歳になったアルテミデにとって教室に戻るのはつらいことだったが、強い意志で勉強に精を出した。
肺結核を患う若いサレジオ会員がベルナルに着いたとき、アルテミデは看病を頼まれた。病人は一九〇二年に亡くなり、間もなくアルテミデは咳をし始めて、肺結核に罹っているとの医師の最悪の診断が下ったのは二十二才の時であった。当時は、転地療養が通常の方法だったので、病人をアンデス山脈に送る手はずを整え、まず七百キロを汽車で行き、バイア・ブランカに着いた。そこで再会した元の主任神父は、ベルナル支部の職員と相談し、行き先をアンデス山脈ではなくて、ビエドマのサレジオ会の支部に変更した。そこの有能な医者と扶助者聖母会員の治療によって回復すると言われたのだ。
アルテミデは一九〇二年三月に到着、母親に出した手紙にこう書いた。「ここで非常に楽しい生活を送っています。うえ長上は親切だし、友達は明るくて、大多数がイタリア人です。お母さん、私のことを心配しないでください。エヴァジオ・ガルローネ先生(神父)は、一ヶ月以内に回復すると保証してくださいました」
 ビエドマは一八八九年に設立された宣教の最初の宣教地であった。その地方には初期の治療が可能な医療施設さえもなく、周辺の労働者、兵士、貧しい住民達は皆、独力で何とかしていかなければならなかった。そこで、カリエロ司教は、イタリア軍での介護員経験を持つ若いエヴァージオ・ガルローネ神父に、周辺住民のための医療を施すように依頼した。エヴァジオ神父は外来患者に供給できる医療が不足していることが判り、サレジオ会支部の院長と一緒に、司教のところに行って、「病院が必要です」と言った。ジェノバからの出発の折、ドン・ボスコが一行に「病気の人、若い人、貧しい人に対する特別な配慮をすれば、神と人々の好意が得られる」と語ったことを思い出した司教の返事は、「判りました。病院は無くてはならないものです」であった。牛小屋を掃除して消毒、シスターズが香水を振り掛けて悪臭を消し、初歩の病院と薬局とができた。
 近所の人々はエヴァジオ神父を「先生」と言って、病気にかかると、彼に治療を頼んだ。一九〇二年の三月にこのサレジオ会の病院に入院したアルテミデ志願者も「エヴァジオ先生」の指導下に置かれたが、神父は彼に「この病院で、病人のために一生涯を捧げることを約束すれば、扶助者聖母マリアの名によって、治ると約束しますよ」と語り、契約が結ばれた。ゆっくりと回復していったアルテミデは、他の病人の面倒を見ながら余生をそこで送くることになった。

立願、そして病院経営
 一九〇八年一月十一日にアルテミデはサレジオ会での一生涯の従順、清貧、貞潔を誓った。修錬直後期の養成中、病院長に約束したことを果たさなければならないと悟ったアルテミデは、上長との相談の上で勉強を止め、サレジオ会修道士としてその病院で生涯を病人に捧げることとなり、病院経営と薬局の仕事でエヴァジオ神父の片腕となった。仕事は難しくはなかったが、その状態は長続きしなかった。
 一九一一年一月八日にガルローネ神父が急逝。ザッティ修士は彼に代わって、一人で聖ヨセフ病院と聖フランシスコ薬局を経営しなければならなくなった。まずは予算の確保が急務であった。大部分の患者は貧困層であるために治療費が支払えない。わずかな人が分相応な寄付をした。法律に反しないよう、資格のある医者が責任者に任命されていたが、事実上はザッティ修士が病院を経営し、職員との雇用契約、給与の支払い、病人のために牛乳と野菜を買い入れ、料理と掃除を管理して、人手不足の折には、自ら医者、看護師、雑役夫として働いた。専門的な医学を学ばずとも、看護師たちが病院で毎日の勤めを果たすのを見て実用的知識を修得した。良いサマリア人の特徴が豊かに備わっていたザッティ修士は、その身を病人の福祉に捧げることにより、全面的且つ徹底的に主に対する奉仕を行なった。
 ザッティ修士の日課は大体次のとおりである。四時三十分起床。黙想とミサが済むと病院の各科を視察し、食堂へ行ってコーヒーを一杯。その後自転車に乗って町での往診。昼食後、回復期の患者とともに(イタリア式の) ボーリングをして、午後二時からはまた自転車に乗って往診を続け、おやつまでに帰院。それからもう一回、患者を視て、病院での雑務を片づけ、夜八時まで薬局で仕事を続け、夕食後もう一回重病の患者を診て、十一時まで医学書か霊的な本を読んだ。夜間も緊急呼び出しにいつでも応じ、呼び出したことを謝る患者たちに、「行くのは私の義務で、呼び出すのはあなたの義務です」と常に答えた。五十年間もこのような生活を送ったが、最後の四十一日は、寝たきりで休まなければならなかった。病院の評判があまりにも良く、一九一五年の記録によれば、当時の入院患者は一八九名であった。

(リオ・ネグロ)州の刑務所の病人がザッティ修士の病院に送られた。見張りは警察の責任であったが、囚人が夜間逃亡すると、ビエドマの反聖職者たちがすぐに病院経営者を怠慢で告発し、ザッティ修士は投獄された。巡査たちが彼を刑務所に連行していくのを見て市民たちは驚き、留置場への行進が始まった。先ず、サレジオ会員、病院の看護師、学校の生徒、生徒達は学校のブラス・バンドを先頭に行進して注目を集めた。皆が「愛する医者、友人」を見舞いに行った。大部分の者はザッティ修士の正確な名前は知らず、ある者は「アルテミロ」、「アルテンシオ」、「アルキメーデ」と思っていたし、姓は「ザテズ」か「サテス」、それとも「ドンザーティ」と思っていた。
 三日後、ザッティ修士が裁判所に出頭する際には、町では感動的な場面が繰り広げられた。巡査たちがピストルを抜き容疑者を警護するところを見ようと街に繰り出した人々に、無抵抗のザッティ修士はロザリオを手にし、祈りながら微笑んだ。帰路にも、このこっけいな場面が繰り返されたが、人出は更に多かった。五日間の投獄の後、帰院(凱旋)すると、「休息は非常に必要であった」と冗談まじりに語った。

純真な募金活動
 「ザッティさんは奇跡を行う」と人は言う。「お金も無いのに、病院であれほどの慈善事業ができる」と。ザッティ修士の心配の種は、病院の日常の経費をどうひねり出すかであり、その上新築のような例外的な出費もあった。白衣を着て、自転車に乗り、義援金を募った。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門を叩きなさい。そうすれば開かれる(マタ、7・7、8)」というイエスのみ言葉をしっかり信じて、「主に、お金を送ってくださいとは言いません。ただ、どこで手に入るかだけ、おっしゃってくだされば私が取りに行きます」と。金持ちも、貧しい人も、男も、女も、子供たちも皆、医者になったサレジオ会修道士を信用し、ザッティ修士は神を信用した。病人の大半が貧しく支払いはできない、殆ど収入のない病院経営は簡単なことではなかった。ザッティ修士はいつも借金していた。よく自転車に乗り、市内の数少ない金持ちに施しを請いに回った。「ドン・ペドロ」と語りかけ、「主に五千ペソスを貸してくださらないか」と金持ちに頼む。「主に?」と驚いて問い返すと、「はい、主に。病人に対して行なうことは、ご自分に対して行なうことだと主がおっしゃったではありませんか。主にお金を貸すのはいい商売ですよ」 
間もなく、国立銀行がヴィエドマに支店を開店すると、ザッティ修士は口座を開いたが、その口座番号は226であった。ある日銀行にローンを申し込んだが、動産や不動産を抵当にしないと貸付はできないと言われた。そこで、全財産の目録に、「四十人の入院患者が私の財産です」と書いた。患者のある者は看護師の助けが無ければ何もできない、まさしく「不動」だったのである。今度こそ、ザッティ修士は彼の財産の保証でローンを組むことができたので、病院に戻ると、「銀行でさえ、患者は勘定に入っている」と勝ち誇って言った。
 ザッティ修士の素晴らしい慈善事業を知ったある人たちは、その資力に応じて援助した。死後、書類の中からあらゆる階層の人から受け取った手紙が見つかった。時には、貧しい農場労働者が無料で受けられた入院治療を感謝し、二ペソスを送ってきた。時には、大統領夫人が感謝状を送り、五千ペソスの小切手を同封してきた。善良なる修道士はいつも、当座預金の通帳から残高以上のお金を引き出し、赤字を出していた。借金が余りにもかさんだので、ある日銀行当局は彼を呼び出して、すぐに払わないと、提訴して病院を差し押さえると脅かした。お金はなく、他にも借金を抱えた修道士は途方にくれて、支配人の前で泣き出した。銀行に居合わせたひとりの人が気の毒に思って、司教に電話し、司教はなんとかしましょうと言った。総代理を呼んで、「銀行から電話があり、ザッティ修士が、莫大な借金を抱え、支払うことができないので泣いています。手持ちのお金はどれ程ありますか」と聞いた。

「次号の教区新聞を出す金額しかありません」
「それを持って銀行に行き、ザッティ修士を助けなさい」と司教は言った。 善良なる修道士は呟いた。
「銀行は主にお金を貸してくれません。悪いのは銀行です。私ではありません」
 ザッティ修士が施しを請いに出向くとき、神々しい後光のようなものが全身を包んだという噂がある。ある金持ちの家で、その家の主人が無礼でそっけない応対をし、修道士を手ぶらで帰した。その打ちひしがれて去っていく姿を見て、主人はあまりにも感動し、召使を呼んで、「追っかけて呼び戻せ」と命じ、彼が戻ると、依頼しただけの金額を渡した。あるとき、だれかがザッティ修士に、あの金持ちからもらう金はいかがわしいと言うと、こう答えた。「心配しないでください。私は兄弟愛のるつぼに入れて浄化します。愛徳はすべてを浄化する火です」

彼の経済感覚
 ザッティ修士はちょっと変わった経済感覚を持っていた。それは経済学の教授たちには受け入れられないものだが、神の前では全くもって健全なものであった。要約すればこうである。
「危機は、お金が貯蔵され、国民の間に流通させられない時に起きる。神は富を皆のためにお造りになったのに、人間が流通を中止すると、持てる者と、持てない者とに分かれる。貧しい人々がわずかな富で満足し、金持ちが貧しい人に施しをし、富をよく使えば、万事好都合である。お金は流通するためであり、次々と人手に渡れば、皆の利益になる」
 病院会計に関し、複式簿記をつけないといけないと言われると、「既にそうしています。 右のポケットにもらったお金を貯め、左のポケットに未払いの請求書を貯めています。他には何が必要ですか」と言った。
 病院経営の当初から、老朽化した建物の建て替えがどうしても必要なことが分かっており、貧しい患者のために新しい病院を建てたかった。一九一三年に新築の基礎が据えられたが、まず一階を計画して、予算が手に入り次第、二・三階と増築ができるように頑丈なものにした。
 ある日、街に出て施しを請うていると、すぐにもブエノス・アイレスへ出かけなければならないのに、お金がない貧しい人に出会ったので、ザッティ修士はポケットの中をまさぐり、あっちから札一枚、こっちから硬貨数個を引き出し、ようやく必要な金額をかき集めることができ、その貧しい人は非常に喜んだ。少しすると一人の人が近づき、紙幣を数枚渡したのでそれを数えてみると、あの貧しい人に上げた金額プラス五ペソスであった。「割増金はみ摂理が無料でくださったチップだ」。 病人を見舞う際、非常に貧しい人には、ナイト・テーブルの上の薬の傍らにお金も置いた。
 あるとき代金が五百ペソスした新しい殺菌装置が入り、ザッティ修士はその新しい機械を自慢していたが、職員の不注意でタンクに水を入れ忘れ、機械が焼けて使えなくなった。皆がザッティ修士はその職員を首にすると思ったが、叱りもしなかった。「主は与え、また奪われた。主のみ名は祝されよ(ヨブ 1・21)」。神の僕は困難や苦しみに直面しても、幸せで明るかった。
 ザッティ修士は親切で有能な看護師であった。長年一緒に働いた医者の一人はこう言った。「ザッティ修士は病人の面倒をよく見て投薬することにたけていただけではなく、彼自身が妙薬であり、居合わすだけでも治療薬となった。その存在、声、冗談、鼻歌により病気を治した」
 病人のささやかな望みまでもかなえてあげようと努めた。「何が食べたいですか」と時々尋ねては、市場で手に入れてきたが、ある者にとって、それがこの世での最後の楽しみになるだろうと判っていたからである。病棟が満床と分かると、病人を自分の部屋に連れてきて自分の寝床に寝かせ、その夜の寝床は地面となった。
 病気を恥じる病人には、特別な個人的取り扱いを施し、癌のような、膿が出る患者の傷は自ら治療して、他の人には体拭きなどを許さなかった。「ザッティさん、黴菌が怖くないのですか」とだれかが聞くと、「全く怖くありません。私の体の中には黴菌がいて、外から入ってきたものをがつがつ食べてしまうのですよ」と答えた。
 医学的知識よりも、ザッティ修士は人間の心を深く理解していた。「薬は効き目があるけれども、体が反応しなければ、医者は奇跡を行うことができない」と良く言っていた。
 扶助者聖母会員は自分たちの住居に、死に瀕した数人の老婦人たちを泊めていた。ザッティ修士は彼女たちの医者となり、優しさから薬の代わりに砂糖水をよく飲ませたが、それを信じて飲んだ彼女たちはとても喜び、そして翌朝その内の一人は親切な看護師に感謝して、「ザッティ先生、あの薬は素晴らしかった。よく効きました」と言った。
 ある晩一人の患者が亡くなり、遺体を運び出さねばならなくなったので、親切な修道士は遺体を担いで、安置所に運び始めたが、そこが満杯だと判ると、自分の部屋に運び込みベッドの上に置いた。翌日「ザッティ先生、昨夜は怖くなかったのですか」と誰かが尋ねると「どうして。二人とも眠っていました。死んだ人ではなく、生きている人こそ恐れなければなりません。死人は鼾もかきませんし」と答えた。
ある晩、修士の部屋で寝た病人が一晩中、いびきをかき続け、その部屋の主が一睡もできなかったということがあったのだ。その時もザッティ修士は冗談で「いびきを聞いて嬉しかったです。まだ生きていると分かったから」と言った。
 ある時、病院のピエトラフランカ先生が急病になり、ザッティ修士の部屋に収容されたが、間もなく亡くなった。

宣教師魂
 薬を投与すると同時に、ザッティ修士は病人を神に近づけようと努めた。ビエドマ市在住の運転手ナザリオ・コンティンは腸チフスにかかり、ザッティ修士は二ヶ月間その家に通って治療した。コンティンは病が癒えると「ブラザー、いくらお払いすればいいですか」と聞いた。「いくら払えますか。何も払えませんか」、「何かお支払いしなければ」、「それなら、告解をして聖体拝領をすれば清算されます」
 ある時、ザッティ修士は手術の間に外科医の助手を務めたが、部屋に入る時、扉を閉めるのを忘れた。医者は大声で「ザッティ、後生だから(その国の言語では、『神の名にかけて』という祈願となる)戸を閉めて」と言った。彼はすぐに戸を閉めたが、手術が終わってから、こう釈明した。「先生、ご承知のように私が戸を閉め忘れなかったなら、先生は神様のみ名を口にしなかったでしょう」。またある時ザッティ修士が注射をしようとすると、その針は曲がっていたので、医者が「ザッティ、そんなに曲がった針で注射ができるものか」と怒鳴りつけると、「水はこの針よりも曲がりくねった小川を流れるのではありませんか」と答えた。
 ある日、ぼろを着た非常に貧しい病人が病院にやってきて、ザッティ修士が面倒を見て程なく全快したものの、あの汚いぼろ切れしか着るものがなくて退院ができない。ザッティ修士は近所に住む家族を訪れ、「イエス様に貸してくれる洋服はないでしょうか」と頼んだ。使い古したものが出されると、「もっといいのはありませんか。主には最もいいものではなくてはだめです」と言った。
 足の不自由な年老いた先住民が病院に入ってきた時、ザッティ修士は看護師のシスターを呼び、「イエス様にベッドを準備してください」と言った。 ぼろぼろの服を身にまとった汚い少年が来たときには、シスターに「シスター、十歳ぐらいのイエス様のために、熱いスープと小さい服はないでしょうか」と尋ねた。
 病院の医師の中に一人の無神論者がいたが、ある時こう言った「ザッティさんの前では、私の不信仰がぐらつく。この世に聖人がいるなら、ザッティさんはそのうちの一人のはずだ。仕事をしようとメスを手にした私が、ロザリオを手にするザッティさんに出会うと、病院が全体超自然に満たされているという気がする」
 ある病人をしばしば往診した。だれが「医者」かは、病人には全然分からなかったが、こんなにも親切に、無料で治療してくれることに感動し、最後の日に、「先生、どうも、ありがとうございました。奥様にもご挨拶をいたしたいのですが、存じ上げません」と言った。「私も」とザッティ修士は答え、自転車に乗り去って行った。
 病院の向かいに、有資格の薬剤師が薬局を開いた。法律により、資格ある薬剤師がいない病院の薬局を閉鎖しなければならなくなった。だが、ザッティ修士はその人が皆に高額な金を現金で要求すると判っており、その場合には、貧しい人は薬を手に入れることができなくなる。それで、もう若くもないのに、ザッティ修士は夜に勉強して、薬学の試験を受ける準備を整え、ラ・ブラータ市へ行って試験を受け、合格して免状をもらうと、薬局を再開して貧しい人を助ける仕事を続けた。後には看護学の試験も受けて合格した。

ドン・ボスコの列聖式に (一九三四年)
 管区では会員代表として、司祭一人と修道士一人をドン・ボスコの列聖式に合わせローマに送ることにした。ザッティ修士は理想的な代表と目された。旅行にふさわしい洋服はなかったが、自分にお金を出費したくなかったので、一人の医者から洋服を借り、死の床にある宣教師の鞄を利用、一九〇七年に亡くなった人の帽子を使った。ザッティ家は一八九七年にアルゼンチンに移住したので、今回の帰国は、三十七年ぶりのこと、列聖式に参加するだけでなく、これを機会にローマや、トリノの上長、生まれ故郷のボレット村も訪れた。ビエドマへの帰還はまさに凱旋であった。「先生」の帰宅には皆が喜び、歩ける患者は皆病院の玄関に並んで、ザッティ修士が玄関を入ると歓声を上げた。不思議なことに、その時まで口が利けなかった一人のお婆さんは力を振り絞り、彼を指差し「アッティ」と叫んだ。正しい名前の発音まであと一息だった。ザッティ修士は洋服と帽子を返すと、白衣を着て再び病院で仕事に戻った。
 上長が中古車を買い与えたが、医者のため以外には使わず、自分は古い自転車を使いつづけた。車を使いたくないのならば、「自転車に小さなモーターを付けなさい」と勧められたが、返事はまたしても「ノー」であった。「モーターが必要ということは、注射をしたり、病人の面倒を見たりすることまでもできないということを意味する」。施しを請うために良いペダルのついた古い自転車を使いつづけた。なぜザッティ修士はこんなにも熱意を持って、長年その重労働ができたのか。その答はその信心にある。仕事の量がいくら重くても、黙想の本を自分で読み、ロドリゲスからの霊的読書をするなど、いつも信心業にきちんと参加し、欠かすことはなかった。毎週規則正しくゆるしの秘跡を受けた。
 多くの犠牲を払ってザッティ修士が病院を建築したのは一九一三年のこと、一九二二年には別の病棟を増築、一九三三年にも女性患者用病棟を建てた。しかし一九四一年、敷地にビエドマの新教区の司教館を建てる計画があり、その全部が取り壊さなければならなくなった。彼はとても悲しみ、病院移転阻止に努めたが、それは無駄であった。計画どおりに病院は取り壊され、ザッティ修士は悔し涙を流しながら祈り、神のみ旨に身をゆだねた。郊外にあったサレジオ会の農業学校が、彼の病人のための新たな場所となり、この受け入れがたい移転に深く落胆はしてはいたものの、何時もの熱意をもって仕事を続けた。「キャベツを見なさい」と周りの人々に言った。「移植しないと、良く育たない。病院もそうだ」。困難もあったが、施設は元通りに繁栄し、ビエドマ市の他のところで支部を開かなければならないほどであった。

病気と死去
 一九五〇年七月十九日、病院の屋上にある水槽が壊されて緊急修理が必要となり、七十歳となっていたザッティ修士は雨をものともせず、梯子を使って修理をしようと屋上に向かったが、途中で足を滑らし地面に落ちて怪我をした。頭に傷ができ、体中あざだらけになったが、周囲に心配かけまいとして「何ともない」と言ったものの、それがうそであることは見抜かれていた。一ヶ月もすると、ザッティ修士はどうにかしてまた自転車に乗り、仕事に復帰したいとの思いで、再び共同体に戻ってきた。だが、間もなく寄る年波には勝てず、寝込まねばならない事態に陥った。左の脇腹に絶え間ない痛みを自覚、医学知識がある彼は、自分が重病であることが判っており、「膵臓の腫瘍に過ぎません。心配はしないで下さい。効く薬はありません」と言った。進んで塗油の秘跡を頼み、洗礼の約束と誓願を更新し、だれかが「いかがですか」と聞いてみると、「あがりです」と言って、天を仰いだ。亡くなったのは一九五一年三月十五日。アルテミデ・ザッティ修士の葬儀には、リオ・ネグロの両はしからの住民が参加し、集った群集の規模は先例のないほどであった。死後、政府は市の中央部の通りにその名を付け、また名声を永くとどめるために、ビエドマ市内の主要なところに記念碑を建てた。

列聖に向けて
 列福調査は一九八〇年三 月二十三日に始まり、一九八四年十二月十四日に成功のうちに終わった。一九九七年七月七日に尊者と認められた。
 二〇〇二年四月十四日。教皇ヨハネ・パウロ二世が列福の式を行った。
二〇二二年十月九日。教皇フランシスコが列聖の式を行った。

年譜
一八八〇年 南イタリアのボレット村に生まれる
一八九七年 両親に伴われて、アルゼンチンへ移住する
一九〇〇年 ブエノス・アイレスの近くのベルナルで志願者になる
一九〇八年 初誓願
一九一一年 ビエドマの病院の経営者
一九一二年 新しい病院を建てる
一九五〇年 梯子から落ちる
一九五一年 死去 (三月十五日)
一九五二年 列福調査が始まる
一九九七年 尊者の宣言
二〇〇二年  列福式 (四月十四日)
二〇二二年 列聖(十月九日)