Ratio FSDB II

午後の部
Ratio 第10章~第12章について
― 召命識別・基準・受け入れ ―361-467
午後のセッションでは、Ratio第10章から第12章までについて説明がありました。この三つの章は、それまでの養成についての原理や考え方を、実際の召命識別と具体的な決定へとつなげる部分です。単なる「すべきこと、してはいけないこと」の規則集ではなく、長い養成の歩みの中で、一人の人が本当にサレジオ召命へ呼ばれているのか、どのように成長しているのか、そして次の段階へ進む準備ができているのかを識別するための具体的な助けとなっています。
第10章では、初期養成における召命識別について扱われています。召命識別は、修練期や終生誓願の前など、特別な時だけに行うものではありません。召命を生きる限り続いていくものであり、何か大きな決断をする時だけではなく、日々の生活の中で続けられる態度でもあります。(日々の態度、願いや望み、意向と動機、人との関わり方、現実への向き合い方、日常の出来事への対応、困難に直面し、それを乗り越える力、兄弟的共同生活、共通の使命への参加、日々の祈りなど….)また、識別は本人と霊的指導者だけの一対一の関係で行われるものでもありません。養成者、共同体、若者、使徒的環境など、さまざまな人や経験がその人の召命を明らかにする助けとなります。養成の各段階において同伴を受けながら、一歩ずつ識別し、新しい成熟へと進んでいきます。
講師はこれを「音楽」にたとえて説明しました。最初に問われるのは、「私は本当にこの音楽が好きなのか」ということです。つまり、「私は本当にサレジオ召命に惹かれ、それを自分の人生として生きたいのか」という問いです。しかし、音楽が好きなだけでは演奏家にはなれません。その音楽が本当に自分の道なのか、自分にはそれを生きる力と適性があるのかを、時間をかけて識別していく必要があります。
この識別において、講師が特に強調したことの一つが守秘義務(confidentiality)です。養成には信頼関係が不可欠ですが、信頼を築くには長い時間がかかる一方、それを壊すのは一瞬です。若い会員が養成者や霊的指導者に非常に個人的なことを打ち明けたのに、それが別のところで話されたり、本人の知らないところで評価材料として使われたりすれば、その後、本人は心を開かなくなる可能性があります。特にRendicontoなど、個人的な分かち合いの中で聞いたことを守ることは、ドン・ボスコの時代から非常に大切にされてきました。養成者には、聞く力だけでなく、聞いたことを守る力も必要です。
もう一つ重要なのは、定期的な個人評価、いわゆるScrutinyです。3か月ごとのScrutinyは、正しく行われれば本人の成長を助ける非常に有益な道具になります。しかし、単なる欠点探しや成績表のようになれば、本人にとって苦しいものになります。特に、定期的な養成評価と、次の段階への受け入れを決定する法的な判断とは区別する必要があります。Scrutinyは基本的に本人の成長を助けるためのものであり、Admissionは次の段階への受け入れを判断する行為です。この二つを混同しないことが大切です。
続く第11章では、実際に何を見て召命を識別するのかという「基準としるし」が示されています。ここでは、その人の人生の中に現れている肯定的なしるしと、困難や逆徴候の両方を見ます。
講師はこれを、画家カラヴァッジョの明暗法になぞらえて説明しました。絵は明るい部分だけでも、暗い部分だけでも、本当の姿を十分に表すことができません。光と影の両方があるからこそ、その人物の姿がはっきりと見えてきます。召命識別も同じです。その人の長所や良いところだけを見るのでもなく、弱さや問題だけを見るのでもありません。光と影の両方を見ながら、その人全体を見ることが必要です。
また、これらの基準は養成者だけが知っている「秘密の基準」であってはなりません。被養成者自身も、「サレジオ会員として何が求められているのか」「自分のどこが成長しているのか」「どこにさらに成長が必要なのか」を知る必要があります。その意味で第11章は、養成者の評価基準であるだけでなく、本人が自分自身を見るための鏡としても使うことができます。
識別では、人間的・兄弟的、霊的、知的、教育的・司牧的、カリスマ的というさまざまな次元から、その人全体を見ます。人間的成熟や感情、人間関係、共同体生活、祈り、福音的勧告、知的能力、学ぶ姿勢、若者との関係、ドン・ボスコ教育法、サレジオ的使命への情熱などが、その中に含まれます。また、サレジオ修道士、サレジオ司祭、宣教師召命についても、それぞれ固有のしるしを識別する必要があります。
その中でも特に重要なのが、「正しい意向(right intention)」です。いろいろな能力や才能があっても、「なぜ私はサレジオ会員になりたいのか」という根本的な動機がなければなりません。講師はこれを「エンジン」にたとえました。車の外側がどれほど立派でも、エンジンがなければ走ることはできません。同じように、能力や知識があっても、神に自分をささげ、サレジオ召命を通して若者に仕えたいという根本的な意向がなければ、召命の歩みを続けることはできません。
また、Ratioでは、カリスマ的次元がより明確にされています。私たちが養成を受けるのは、単に良い人、良い修道者、良い司祭になるためだけではなく、ドン・ボスコのサレジオ会員になるためです。したがって、若者への関心、共同体への帰属、ドン・ボスコ教育法、ドン・ボスコの精神など、サレジオ的アイデンティティが本人の中で本当に育っているかを見る必要があります。カリスマ的次元は、他のすべての養成の次元にサレジオ的な特徴を与える大切な要素です。
第12章では、こうした長い識別の歩みを踏まえた受け入れ(Admission)について扱われています。識別はいつまでも「たぶん」「もしかしたら」と続けるだけではありません。ある時点では、それまでの歩みを総合し、責任をもって決定しなければなりません。
ここでも講師は音楽のたとえを使いました。第10章では「私は本当にこの音楽が好きなのか」、第11章では「私はこの音楽を演奏する適性があり、自分に合った楽器を演奏できるのか」を見ます。そして第12章では、「私は実際にコンサートに出る準備ができているのか」を判断します。つまり、識別してきたことを具体的な決定へと結びつける段階です。
この決定において特に重要なのが、本人の自由です。願書に「私は自由に願います」と書くだけでは十分ではありません。外面的にも内面的にも、本当に自由でなければなりません。共同体や養成者からの圧力、周囲の期待、これまで長く養成を受けてきたから今さら戻れないという気持ちなどによって決断するのではなく、本人自身が神の前で自由に「はい」と言えることが必要です。自由がなければ、本当の奉献も召命上の約束も成立しません。
また、Admissionでは、法的な条件や手続きだけを見るのではなく、まず本人の態度(attitudes)を見ることが大切だと強調されました。必要な年数が終わった、書類がそろった、必要な学科を修了したというだけでは十分ではありません。その人自身が本当に次の段階を生きる準備ができているのか、召命にふさわしい態度が成熟しているのかを見る必要があります。その上で、教会法や会憲上の条件を確認します。
このように、第10章から第12章には一つの明確な流れがあります。第10章では、召命をどのように識別していくか、第11章では、その識別のために何を見なければならないか、第12章では、その識別をどのように具体的な決定へと結びつけるかが示されています。
そして、この三つの章は養成担当者だけのためにあるのではありません。被養成者本人にとっても、自分の召命を振り返り、自分がどのように成長しているのかを確認するための大切な道具になります。基準を知ることによって、自分自身の光と影を見つめ、「私はどこへ向かっているのか」「私は本当にドン・ボスコのサレジオ会員として成長しているのか」を考えることができます。
今回の説明を通して特に印象に残ったのは、Ratioを単なる規則集として読んではならないということです。Ratioは本棚に置いておくための文書ではなく、個人的同伴、Scrutiny、共同体での分かち合い、養成計画、そして各段階への受け入れなど、実際の養成の中で使うための文書です。
講師の「音楽」のたとえを使えば、Ratioを読むだけではなく、その音楽を実際に演奏することが求められています。最終的に問われているのは、規則をどれほど知っているかではなく、本人の中にサレジオ召命が本当に育ち、自由と成熟をもって、ドン・ボスコの心で若者のために自分の人生をささげる準備ができているか、ということだと思います。

2026年9月27日ー流れ
6:30 Mass with Lauds
Breakfast
8:30 Session 1
10:00 Tea Break
10:30 Session 2
12:00 Lunch
14:30 Session 3
16:00 Tea Break
16:30 Session 4
18:00 Evening Prayer /Rosary / Good Night
18:45 Supper
20:00 Personal Reading