Session 1 前日の振り返り
2026年9月27日の最初のセッションは、前日に学んだ第五版のRatioの内容を振り返り、それぞれが心に残った点や疑問を分かち合う時間となりました。さまざまな意見が出されましたが、その中で特に印象に残ったのは、Ratioの中にある「貧しい若者との生きた接触は、サレジオ会員とサレジオ共同体にとって恒久的な養成の源である」という考えです。養成は、養成支部や教室の中だけで行われるものではありません。とりわけ貧しく、助けを必要としている若者との実際の出会いが、私たち自身をサレジオ会員として養成していくということです。
このことから、「今日、私たちが言う『貧しい若者』とは誰なのか」という問いも出てきました。貧しさは物質的なものだけではなく、霊的、文化的、社会的な貧しさも含めて考える必要があることが確認されました。私たちが貧しい人々から離れてしまうならば、ドン・ボスコから受け継いだカリスマそのものからも離れてしまう危険があります。そのため、それぞれの管区や共同体が、自分たちは本当に貧しい若者のそばにいるのかを改めて問い直す必要があります。
また、Ratioの「socialization」という言葉についての質問もありました。ここでいうsocializationとは、Ratioを単に翻訳し、配布し、知ってもらうという意味だけではありません。Ratioを会員一人ひとりが理解し、自分のものとして受け取り、共同体や管区の生活の中で実際に生かしていくことです。Ratioが養成担当者や管区評議会だけが必要な時に開く文書になってしまってはいけません。すべての会員が基本的な内容を知り、それぞれの立場に応じて深め、日々の生活の中で生きていくことが求められています。言い換えれば、Ratioを「知る」ことから「自分のものにして生きる」ことへの移行が大切です。(知る → 理解する → 分かち合う → 自分のものにする → 実際に生きる)
さらに、養成における「自由」についても具体的な話し合いが行われました。特に、若い会員のインターネットやデジタル機器の使用をどのように考えるかという質問が出されました。ここで強調されたのは、単に禁止したり制限したりすることが養成の目的ではないということです。大切なのは、本人が自分の自由と意志を正しく、責任をもって使える人へと成長することです。そのために、サレジオ会の養成方法としてドン・ボスコ育法が重要になります。理性、宗教、愛情を通して、「いつ使うのか」「なぜ使うのか」「どのように使うのか」を本人が理解し、自由に、しかも責任をもって選択できるように教育する必要があります。
この問題は、現在の若い世代の養成を考えるうえで特に重要です。現在の候補者や若い会員は、デジタル環境の中で育った世代であり、以前のRatioが作成された時代とは大きく状況が異なっています。したがって、問題は単に「スマートフォンやインターネットを使わせるか、使わせないか」ではなく、デジタル文化の中でも、自分の自由を正しく用い、責任ある選択のできるサレジオ会員をどのように育てるかということです。AIを含む新しいデジタル環境も、これからの養成における重要な課題であることが指摘されました。
もう一つ大切な点は、養成と同伴は初期養成だけのものではないということです。同伴が修練期、修練期後、実地過程、終生誓願や叙階までで終わってしまうならば、それでは十分ではありません。むしろ責任が大きくなればなるほど、自分自身を振り返り、識別し、他者から同伴を受ける必要性も大きくなります。院長、管区長、評議員など、大きな責任を担う者ほど、自分一人の判断だけに頼らず、霊的同伴や識別を大切にする必要があるという指摘が印象に残りました。
この点と関連して、会憲119条にも触れられました。養成とは、ある特定の段階だけで行われるものではなく、人生の経験そのものから学び続けることです。日々自分に起こる出来事を振り返り、それを主への愛の応答における新しい一歩として受け止めていく姿勢が大切です。成功も失敗も、共同体生活も、若者との出会いも、新しい任務も、人生の困難も、信仰の目で読み直すならば、すべてが養成の機会となります。この姿勢は初期養成だけでなく、生涯を通して続けていく必要があります。
今回の振り返りを通して、新しいRatioを学ぶということは、単に新しい規則や養成制度を理解することではないと改めて感じました。Ratioが問いかけているのは、私たちがどのように若者、とりわけ貧しい若者のそばにいるのか、与えられた自由をどのように成熟して生きるのか、そして日々の経験からどのように学び続けるのかということです。
Session 2 養成の五つの次元
Session 2では、新しい『Ratio』が示す養成の五つの次元について説明がありました。以前のRatioでは、人間的・兄弟的次元、霊的次元、知的次元、教育的・司牧的次元という四つの次元が中心でしたが、新しいRatioでは、これらにカリスマ的次元が加えられ、五つの次元として示されています。大切なのは、この五つを別々に考えるのではなく、一人のサレジオ会員の中で互いに結びつけながら成長させていくことです。
最初は、人間的・兄弟的次元について説明されました。ここでは、身体的健康、心理的成熟、情緒的・性的成熟、人間関係を築く力、デジタル世界やAIと適切に関わる力などが含まれます。特に強調されたのは、人間的養成が他のすべての養成の土台であるということです。どれほど祈りや勉強、司牧活動に熱心であっても、人間的な土台が十分に育っていなければ、全体が不安定になってしまいます。建物にたとえるなら、人間的養成は基礎部分です。立派な建物を建てても、基礎が弱ければ、やがて崩れてしまいます。したがって、自分自身を受け入れ、感情を整え、他者と健全な関係を築き、困難があっても簡単に倒れない成熟した人間になることが、サレジオ会員の養成の基本であることが強調されました。
二つ目は、霊的次元です。これは、キリストとの関係を深め、神との一致の中で生きることです。個人と共同体の祈り、聖体、ゆるしの秘跡、みことば、そして清貧・貞潔・従順の誓願を通して、キリストに従う生き方を身につけていきます。ここでは、サレジオ会員が「聖霊における神秘家、兄弟愛の預言者、若者の奉仕者」として成長していくことが示されました。つまり、活動だけをする人ではなく、神との深い関係から若者への使命を生きる人になることが求められています。
三つ目は、知的次元です。ここでは、一般的な教養と、それぞれの使命に必要な専門的知識の両方が必要であることが説明されました。サレジオ会員は、現代の人々と対話できる十分な教養を持つと同時に、自分に任された使命に必要な専門性も身につける必要があります。しかし、学位や資格を取ること自体が目的ではありません。何を学ぶかは、常に召命と使命によって方向づけられるべきです。
この点について、ドン・ボスコの「9歳の夢」も紹介されました。夢の中でヨハネ少年が、あの荒々しい少年たちを変えることは不可能だと言ったとき、「従順と知識を身につけることによって成し遂げなさい」と示されます。このことからも、勉強や知識を身につけることは、サレジオ会員にとって使命の一部であることが分かります。勉強は自分の名誉や肩書きのためではなく、若者によりよく仕えるために行うものです。
四つ目は、教育的・司牧的次元です。ここでは、予防教育法を実際の経験を通して学ぶこと、教育と福音宣教を一つにすること、そして教育司牧共同体(EPC)の中で他の人々と協力して使命を担うことが大切だと説明されました。私たちは単に知識を教える教育者ではありません。若者が人間として成長し、神との出会いへと導かれるように同伴する教育者・司牧者です。そのため、若者と実際に関わり、その経験を振り返りながら、予防教育法を自分のものにしていく必要があります。
五つ目は、今回特に強調されたカリスマ的次元です。カリスマとは、聖霊が教会全体のために与えてくださる賜物です。サレジオ会の場合、それは聖霊がドン・ボスコに与え、私たちにも受け継がれている賜物です。その特徴は、若者、とりわけ貧しく見捨てられた若者を、サレジオ独自の方法で愛し、教育し、福音化することです。
ここで印象に残ったのは、ドン・ボスコの「若者が愛されるだけでは十分ではなく、自分が愛されていることを知るようにしなければならない」という考えです。サレジオの教育は、ただ授業を上手に行ったり、必要なことを教えたりするだけではありません。若者との関係をつくり、そばにいて、親しみと優しさをもって関わり、若者自身が「自分は大切にされている」と感じられるようにすることです。これがサレジオのカリスマの特徴であると説明されました。
さらに重要なのは、カリスマ的次元は、ほかの四つの次元すべてに浸透しているということです。人間的に成熟するのも、若者をよりよく愛し、仕えるためです。霊的生活を深めるのも、ドン・ボスコのように神と若者を愛するためです。勉強するのも、若者を理解し、よりよく教育するためです。そして教育的・司牧的能力を身につけるのも、若者、とりわけ貧しく見捨てられた若者に仕えるためです。したがって、カリスマ的次元は五番目に付け加えられた一項目というより、ほかの四つの次元にサレジオらしい方向を与えるものとして理解することができます。
説明の後、参加者はグループに分かれ、それぞれ一つの次元を担当してRatioの本文を読みました。そして、人間的・兄弟的次元は志願期、霊的次元は修練準備期、知的次元は修練期、教育的・司牧的次元は修練期後、カリスマ的次元は実地過程というように、それぞれの養成段階でその次元がどのように具体化されているかを確認し、分かち合いました。
セッションの最後には、養成における環境と模範の大切さについても触れられました。養成者ができる重要なことの一つは、若い会員が安心して自分自身を表し、信頼しながら成長できる良い環境をつくることです。規則や立派な講義があっても、共同体に信頼がなく、安心して自分を表せない雰囲気であれば、内面的な成長は難しくなります。
その具体例として、ある修練院で、修練長自身が当番表に従って若い修練者たちと一緒に皿洗いをしていた話が紹介されました。非常に小さな行為ですが、こうした日常の模範が信頼と家庭的な雰囲気をつくります。養成者は、言葉で教えるだけではなく、自分の生き方によって養成することが大切です。「私たちは、語ること以上に、自分が実際に行っていることによって人の人生に影響を与えることができる」という点が印象に残りました。
今回のSession 2を通して、養成とは一つの分野だけを強くすることではなく、人間性、霊性、知性、教育・司牧、そしてサレジオのカリスマという五つの次元を、一人の人間の中で調和させていく歩みであることを改めて学びました。
そして、この五つの中心には常に若者がいます。健康になることも、祈ることも、勉強することも、教育者として成長することも、最終的には、ドン・ボスコのように若者、とりわけ貧しく見捨てられた若者を愛し、教育し、福音を伝えるためです。



午後の部
Ratio 第10章~第12章について
― 召命識別・基準・受け入れ ―361-467
午後のセッションでは、Ratio第10章から第12章までについて説明がありました。この三つの章は、それまでの養成についての原理や考え方を、実際の召命識別と具体的な決定へとつなげる部分です。単なる「すべきこと、してはいけないこと」の規則集ではなく、長い養成の歩みの中で、一人の人が本当にサレジオ召命へ呼ばれているのか、どのように成長しているのか、そして次の段階へ進む準備ができているのかを識別するための具体的な助けとなっています。
第10章では、初期養成における召命識別について扱われています。召命識別は、修練期や終生誓願の前など、特別な時だけに行うものではありません。召命を生きる限り続いていくものであり、何か大きな決断をする時だけではなく、日々の生活の中で続けられる態度でもあります。(日々の態度、願いや望み、意向と動機、人との関わり方、現実への向き合い方、日常の出来事への対応、困難に直面し、それを乗り越える力、兄弟的共同生活、共通の使命への参加、日々の祈りなど….)また、識別は本人と霊的指導者だけの一対一の関係で行われるものでもありません。養成者、共同体、若者、使徒的環境など、さまざまな人や経験がその人の召命を明らかにする助けとなります。養成の各段階において同伴を受けながら、一歩ずつ識別し、新しい成熟へと進んでいきます。
講師はこれを「音楽」にたとえて説明しました。最初に問われるのは、「私は本当にこの音楽が好きなのか」ということです。つまり、「私は本当にサレジオ召命に惹かれ、それを自分の人生として生きたいのか」という問いです。しかし、音楽が好きなだけでは演奏家にはなれません。その音楽が本当に自分の道なのか、自分にはそれを生きる力と適性があるのかを、時間をかけて識別していく必要があります。
この識別において、講師が特に強調したことの一つが守秘義務(confidentiality)です。養成には信頼関係が不可欠ですが、信頼を築くには長い時間がかかる一方、それを壊すのは一瞬です。若い会員が養成者や霊的指導者に非常に個人的なことを打ち明けたのに、それが別のところで話されたり、本人の知らないところで評価材料として使われたりすれば、その後、本人は心を開かなくなる可能性があります。特にRendicontoなど、個人的な分かち合いの中で聞いたことを守ることは、ドン・ボスコの時代から非常に大切にされてきました。養成者には、聞く力だけでなく、聞いたことを守る力も必要です。
もう一つ重要なのは、定期的な個人評価、いわゆるScrutinyです。3か月ごとのScrutinyは、正しく行われれば本人の成長を助ける非常に有益な道具になります。しかし、単なる欠点探しや成績表のようになれば、本人にとって苦しいものになります。特に、定期的な養成評価と、次の段階への受け入れを決定する法的な判断とは区別する必要があります。Scrutinyは基本的に本人の成長を助けるためのものであり、Admissionは次の段階への受け入れを判断する行為です。この二つを混同しないことが大切です。
続く第11章では、実際に何を見て召命を識別するのかという「基準としるし」が示されています。ここでは、その人の人生の中に現れている肯定的なしるしと、困難や逆徴候の両方を見ます。
講師はこれを、画家カラヴァッジョの明暗法になぞらえて説明しました。絵は明るい部分だけでも、暗い部分だけでも、本当の姿を十分に表すことができません。光と影の両方があるからこそ、その人物の姿がはっきりと見えてきます。召命識別も同じです。その人の長所や良いところだけを見るのでもなく、弱さや問題だけを見るのでもありません。光と影の両方を見ながら、その人全体を見ることが必要です。
また、これらの基準は養成者だけが知っている「秘密の基準」であってはなりません。被養成者自身も、「サレジオ会員として何が求められているのか」「自分のどこが成長しているのか」「どこにさらに成長が必要なのか」を知る必要があります。その意味で第11章は、養成者の評価基準であるだけでなく、本人が自分自身を見るための鏡としても使うことができます。
識別では、人間的・兄弟的、霊的、知的、教育的・司牧的、カリスマ的というさまざまな次元から、その人全体を見ます。人間的成熟や感情、人間関係、共同体生活、祈り、福音的勧告、知的能力、学ぶ姿勢、若者との関係、ドン・ボスコ教育法、サレジオ的使命への情熱などが、その中に含まれます。また、サレジオ修道士、サレジオ司祭、宣教師召命についても、それぞれ固有のしるしを識別する必要があります。
その中でも特に重要なのが、「正しい意向(right intention)」です。いろいろな能力や才能があっても、「なぜ私はサレジオ会員になりたいのか」という根本的な動機がなければなりません。講師はこれを「エンジン」にたとえました。車の外側がどれほど立派でも、エンジンがなければ走ることはできません。同じように、能力や知識があっても、神に自分をささげ、サレジオ召命を通して若者に仕えたいという根本的な意向がなければ、召命の歩みを続けることはできません。
また、Ratioでは、カリスマ的次元がより明確にされています。私たちが養成を受けるのは、単に良い人、良い修道者、良い司祭になるためだけではなく、ドン・ボスコのサレジオ会員になるためです。したがって、若者への関心、共同体への帰属、ドン・ボスコ教育法、ドン・ボスコの精神など、サレジオ的アイデンティティが本人の中で本当に育っているかを見る必要があります。カリスマ的次元は、他のすべての養成の次元にサレジオ的な特徴を与える大切な要素です。
第12章では、こうした長い識別の歩みを踏まえた受け入れ(Admission)について扱われています。識別はいつまでも「たぶん」「もしかしたら」と続けるだけではありません。ある時点では、それまでの歩みを総合し、責任をもって決定しなければなりません。
ここでも講師は音楽のたとえを使いました。第10章では「私は本当にこの音楽が好きなのか」、第11章では「私はこの音楽を演奏する適性があり、自分に合った楽器を演奏できるのか」を見ます。そして第12章では、「私は実際にコンサートに出る準備ができているのか」を判断します。つまり、識別してきたことを具体的な決定へと結びつける段階です。
この決定において特に重要なのが、本人の自由です。願書に「私は自由に願います」と書くだけでは十分ではありません。外面的にも内面的にも、本当に自由でなければなりません。共同体や養成者からの圧力、周囲の期待、これまで長く養成を受けてきたから今さら戻れないという気持ちなどによって決断するのではなく、本人自身が神の前で自由に「はい」と言えることが必要です。自由がなければ、本当の奉献も召命上の約束も成立しません。
また、Admissionでは、法的な条件や手続きだけを見るのではなく、まず本人の態度(attitudes)を見ることが大切だと強調されました。必要な年数が終わった、書類がそろった、必要な学科を修了したというだけでは十分ではありません。その人自身が本当に次の段階を生きる準備ができているのか、召命にふさわしい態度が成熟しているのかを見る必要があります。その上で、教会法や会憲上の条件を確認します。
このように、第10章から第12章には一つの明確な流れがあります。第10章では、召命をどのように識別していくか、第11章では、その識別のために何を見なければならないか、第12章では、その識別をどのように具体的な決定へと結びつけるかが示されています。
そして、この三つの章は養成担当者だけのためにあるのではありません。被養成者本人にとっても、自分の召命を振り返り、自分がどのように成長しているのかを確認するための大切な道具になります。基準を知ることによって、自分自身の光と影を見つめ、「私はどこへ向かっているのか」「私は本当にドン・ボスコのサレジオ会員として成長しているのか」を考えることができます。
今回の説明を通して特に印象に残ったのは、Ratioを単なる規則集として読んではならないということです。Ratioは本棚に置いておくための文書ではなく、個人的同伴、Scrutiny、共同体での分かち合い、養成計画、そして各段階への受け入れなど、実際の養成の中で使うための文書です。
講師の「音楽」のたとえを使えば、Ratioを読むだけではなく、その音楽を実際に演奏することが求められています。最終的に問われているのは、規則をどれほど知っているかではなく、本人の中にサレジオ召命が本当に育ち、自由と成熟をもって、ドン・ボスコの心で若者のために自分の人生をささげる準備ができているか、ということだと思います。
2026年9月27日ー流れ
6:30 Mass with Lauds
Breakfast
8:30 Session 1
10:00 Tea Break
10:30 Session 2
12:00 Lunch
14:30 Session 3
16:00 Tea Break
16:30 Session 4
18:00 Evening Prayer /Rosary / Good Night
18:45 Supper
20:00 Personal Reading
