Cimatti Shinpu Kokoro

チマッティ神父のこころその教えと生き方に学ぶ 

はじめに
 イタリア生まれのヴィンチェンツォ・チマッティ神父は、音楽家、自然科学と哲学博士号の持ち主として知られていましたが、何よりも人間性の豊かな信仰の深い人でした。イタリア時代には、教え子たちから教育者の模範として慕われていましたが、46歳で宣教師として来日しました。
 日本で過ごしたのはいちばん難しい時代の戦前、戦中、戦後で、世界大恐慌、ナショナリズム、東京大空襲、敗戦、また再建の時代でした。これらの困難の中にあっても希望を失わず、ほほ笑みを絶やさず、人々に生きる勇気を与えていました。
 この本は、上下2巻1000ページほどの伝記「チマッティ神父本人が書かなかった自叙伝」を、より手軽にまとめたものです。ここで紹介する文章の大部分は、師の7000通以上の手紙とその日誌の長い文章から抜け取った結晶です。
文章の一つ一つは師の生の声、その心の動悸が聞こえる言葉です。
 書かれた手紙や日誌が年月日の順で並べられています。それは、彼が生きた環境の中に位置づけてわかりやすくするためです。同じ目的で、一年ごと、文書ごとに短い言葉で歴史的な背景を加えています。私たちは、チマッティ神父の言葉からだけではなく、その生きる姿勢からも学ぶことができます。
 一生の間、彼の生きる模範はイエス・キリストでした。その保護者は聖母マリアで、その生き方の先生は聖フランシスコ・サレジオと、サレジオ会の創立者聖ヨハネ・ボスコでした。文章中、随時その名前が出てきます。
 皆さんが一日一つずつお読みになれば、生きるエネルギーが湧いてくるでしょう。
ガエタノ・コンプリ神父 

目次
はじめに 
ヴィンチェンツォ・チマッティ神父 年譜 
1879年~1925年 イタリアでの日々 
1926年~1933年 日本へ 
1935年~1940年 教区長、管区長 
1941年~1945年 戦争の足音 
1946年~1949年 戦後の時代 
1950年~1957年 役職を持たないサレジオ会員 
1958年~1965年 よき死の練習 
あとがき

ヴィンチェンツォ・チマッティ神父 年譜
1879年7月15日 イタリア中部ファエンツァの貧しい家庭で、父ジャコモ、母ローザの6男として誕生
1882年4月4日  2歳の時、父ジャコモと死別5月14日ファエンツァを訪れたドン・ボスコを見る
1896年10月4日  サレジオ会入会、ヴァルサリチェ学院入学
1899年10月   トリノ大学自然科学農学部入学
1900年8月25日 パルマ音楽院卒業、高等学校音楽教師の資格「コーラスのマエストロ」のディプロマ取得
1903年7月16日  自然科学農学部の博士号取得、哲学部編入
1905年3月18日  司祭叙階(25歳)
1907年7月20日  トリノ大学哲学部卒業、教育学博士号取得
1912年9月    オラトリオ・サン・ルイジを担当する
1920年4月1日  ヴァルサリチェ学院の校長を務める(40歳)
1922年3月4日   母ローザと死別
10月15日     ヴァルサリチェ学院の院長を務める
1925年12月29日 サレジオ会初の日本への宣教師団が出発、団長を務める(46歳)
1926年2月8日  門司港に上陸、宮崎の教会で日本語を学ぶ
1927年2月1日  宮崎教会の主任司祭を務める
8月1日     サレジオ会日本準管区の初代準管区長を務める
1928年3月27日  宮崎県と大分県からなる独立宣教区の初代教区長を務める
1929年3月25日  総会とドン・ボスコの列福式のためイタリアへ帰国
1935年1月28日  独立宣教区が知牧区に昇格、初代教区長を務める
1937年3月3日  宮崎小神学校の校長を務める
8月15日     宮崎カリタス修道女会創立
1937年12月12日 サレジオ会日本管区誕生、初代管区長を務める
1940年10月16日  教区長を辞任
1941年12月20日 三河島教会の主任司祭を務める
1944年9月15日  三河島教会の主任司祭を辞任し、練馬サレジオ神学院に移る
1946年4月25日  日向学院落成、初代校長を務める
1947年4月19日  総会のためイタリアへ帰国
1949年…3…月24日… 日向学院校長を辞任
1949年11月…1…日… 管区長の任期を終了、
… … サレジオ神学院の図書館長・聴罪司祭・教師を務める(70歳)
1952年…8…月26日… 調布サレジオ神学院院長を務める
1955年…3…月19日… 叙階金祝を迎える(75歳)
1962年…3…月19日… 院長を辞任
1963年…5…月30日… 病床に就く
1965年10月…6…日… 午前6時15分、帰天(86歳)
1965年10月10日… 下井草教会で葬儀、府中カトリック墓地に埋葬
1967年10月…4…日… 遺体が調布サレジオ神学院の地下聖堂へ移される
1976年11月26日… 列福列聖調査開始
1977年11月18日… 東京大司教と調査員・医師団のもとで遺体の検案が行われる、
… … 腐敗していないことを確認
1978年…1…月22日… 日本における列福列聖調査終了、ローマへ資料が送られる
1978年…6…月…3…日… イタリアにおける列福列聖調査終了
1981年…6…月…3…日… 著書調査終了
1983年…9…月…2…日… 調布にチマッティ資料館落成
1991年12月21日… 教皇ヨハネ・パウロ2世より、「尊者」の称号を与えられる


1879年〜1895年
ファエンツァでの生い立ち
 ヴィンチェンツォ・チマッティ神父は1879年7月15日父ジャコモと母ローザ・パジの子としてイタリアのファエンツァで生まれた。6人兄弟中、長女サンティーナ、兄ルイジと末っ子のヴィンチェンツォ以外は夭逝。洗礼名はヴィンチェンツォ・エンリコ・ガスパレを与えられた。父親は日雇い労働者として働いていたが、1882年4月に亡くなった。数カ月後、聖ヨハネ・ボスコがファエンツァを訪れ、3歳のヴィンチェンツォはその顔を見ている。
 ヴィンチェンツォはロマーニャ地方特有のカッとなりやすい、率直で意志の強い性格だった。生涯、それを抑えるために努力した。子どものときにドン・ボスコが建てた日曜学校に通い、4年生からサレジオ会の小学校や中学校で学んだ。
16歳のときにピエモンテ地方で修道者の道を志してサレジオ会の修練院に入り、 17歳のときサレジオ会で終生誓願を立てた。その後、最後までサレジオ会員としての道を歩んだ。
* * *
1 ドン・ボスコとの出会い
(チマッティ神父の講演より 1934年4月29日)
 聖ヨハネ・ボスコが列聖された年に、チマッティ神父は東京で講演を行い、3 歳のときに母に抱かれてドン・ボスコを見たことを話した。ドン・ボスコを見習う 1882年5月14日、ドン・ボスコは(ことがその一生の目標であった。  )説教壇に立った。母は3歳の私を高く抱き
上げて言った、「坊や、ドン・ボスコをごらん」。そのとき以来、あの偉大なるドン・ボスコの面影は絶えず私の脳裏に去来し、私の希望、私の力、私の幸福となり、年と共にますます深く私の魂に刻まれていきました。

「1882年5月14日、ドン・ボスコに出会う」Pietro Lenzini画
2 母の教えの影響
(「カトリック教育」の記事より 1954年7月号)
 チマッティ神父は、戦後、カトリック学校の機関誌に頼まれて、子どものときに母から与えられた教えを書いた。それは毎日自分の務めを神のみ心として果たす 母が特に強調していたのは、「いつ(ことであり、彼の霊性の基本となった。)どこでも神への務めは第一。それにベストを尽くすこと。周りの人に左右されず、責任をもって行動し、犠牲があっても自分の務めを果たすこと。務めは第一、遊びはその次にすること。イタリアのことわざのとおり、「鶏の時間に寝て、雄鶏の時間に起きる」、つまり「早寝早起きのこと」。

13歳ごろ 中学生のヴィンチェンツォ・チマッティ

 
1895年〜1905年若いサレジオ会員
 1895年、サレジオ会に入るために修練期を開始。修練長はエウジェニオ・ビアンキ神父、補佐と哲学の先生は1930年中国で殉教した聖アロイジオ・ヴェルシリア神父だった。1896年10月4日、17歳で終生誓願を立てた。その後、トリノの名門校ヴァルサリチェ学院で高等学校を卒業し、教育実習(実地課程)のためにそこに残って、来日する直前の1925年までここで活躍した。ドン・ボスコの墓がそこにあり、学校では若いサレジオ会神学生が勉強し、外部の生徒も通っていた。
 1899年、教師の資格を得るために国立トリノ大学農学部に通い、1900年7月、同じ目的のため国立パルマ音楽大学院で検定試験を受けコーラスのマエストロのディプロマを修得。1903年自然科学の博士号を得、そのまま哲学教育学部にも編入し、1907年に哲学の博士号も修得した。同時に司祭職を目指して神学を勉強し、1905年3月19日司祭に叙階された。
* * *
3 若いときの彼の心にも戦いがあった
(ビアンキ・エウジェニオ神父へ 1896-1899年)
 チマッティ神学生も若者として成長期の不安と戦いを体験していた。そのために
 ときどき、否、しばしば悪魔が攻めて(自分の修練長にいくつかの手紙を書いた。)きて、私を悩ませています。そのとき、私はみ母マリアと愛するイエスのみ心へ避難し、何もかも直ちに落ち着きます。 また、イエスは十分に愛されていないと思うことがあります。しかも、私も十分に愛していません。この私はなんと傲慢な者なのでしょう。この点に関しても断じて譲るつもりはありません。イエスとマリアによりすがって成功を収めたいという決心を立てています。

1901年 兄ルイジとの別れ。兄ルイジは先にサレジオ会に入り、宣教師としてこの時点でメキシコ、のちにペルーへ派遣された
4 司祭になる
(ピシェッタ・ルイージ神父へ 1905年2月16日)
 1905年3月19日、同級生トネリ・アントニオと共にジョヴァンニ・カリエロ司教の手により司祭に叙階された。その後、二人は毎年その日を祝った。これはチマッ 院長さま、私は、イエスのみ心とよき母マリアへ(ティ神父が叙階のために書いた願書の一部である。)の計り知れない慈しみにまったく信頼して、司祭叙階を切にお願いいたします。
 主のおん恵みが私を助け、ふさわしい司祭にしてくださいますように祈ります。

1905年〜1919年
教育者チマッティ神父
 チマッティ神父は、ヴァルサリチェ学院で教育学、自然科学、音楽などを教え、あらゆる行事と活動の中心となり、教え子たちと深い友情関係を結び、理想の教師、模範の教育者、聖人と見なされた。この時期の作曲が目立つ。若い会員と学校の生徒を対象に宗教音楽、オペレッタ、あらゆる行事のための歌曲を作曲
した。現在、調布チマッティ資料館に900以上の曲が保存されている。
 1905年から1922年まで、ほとんど毎月「農業雑誌 Rivista di Agricultura」に農業関係の記事を寄稿し、453の記事を記載した。農家に役立つあらゆる内容を取り上げ、養蜂についての記事を集め、すばらしい指導書となった。
 ところが、厳しい規律を好む校長に気に入られず、1912年の秋、近くの聖ヨ
ハネ教会へ移動。そこから授業のために通いながら1919年まで教会付属オラトリオ・サン・ルイージ、また第一次世界大戦中、オラトリオ・サン・ジュゼッペも指導し、驚くほどの活動を成し遂げた。福祉活動のグループやボーイスカウトも設立し、先頭に立って戦時中の難民活動支援を指導した。
* * *
5 ヴァルサリチェの懐かしい時代
(ヴァルサリチェの卒業生へ 1958年7月)
 彼にとってヴァルサリチェ時代は忘れられなかった。一生の間当時の教え子たち
と文通を交わした。以下は卒業生に書いた思い出である。
 50年前の思い出が浮かんできます。仕事に追われていましたが、皆さんは自分なりに教会学校で協力し合い、私は聖歌隊と演劇を担当し、ピアノの前また舞台の上で仲間と一緒に演劇をしたり、人を楽しませたりしていました。そのころのことは今も目の前に浮かんできます。実に楽しい時代でした。快活で家庭的な雰囲気のあった時代でした。

1905年 司祭叙階後のヴァルサリチェの仲間たち。チマッティ神父は前列左から3番目
6 ドン・ボスコの教育法の効果
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1936年3月4日)
 教え子たちの一致した証言は、彼を慕い、命令されなくても従っていたこと。これがドン・ボスコの教育法の秘訣。チマッティ神父はその模範である。権威と規律を重んじる校長はこの態度を理解できず、聖ヨハネ学院に移動させた。
 私は一度も罰を使わないで要求することは何でも得ました。その結果、今も当時の生徒たちとよい関係を保っています。残念ながらドン・ボスコの教育法は十分に理解されていません。一般のやり方は便利であろうが、教育の基
礎は信仰です。それと人を救うための献身的な愛です。ドン・ボスコの教えは、この二つに尽きる。私はドン・ボスコと同じように教え子の善を望み、学校の
生徒、オラトリオの子たち、神学生、また職員から、頼むことをいつも得ることができたのです。

1925年 日本への出発前、高校生への挨拶
7 宣教師の心
(ブラーガ・カルロ神父へ 1919年8月10日)
 第一次世界大戦が終わったとき、協力者だったブラーガ神父が宣教師として中国に派遣された。自分も宣教地に憧れていたチマッティ神父は、彼に励ましの あなたは宣教(言葉を書いた。)師だ! 覚えておいてください! 宣教師になるのは、他人のためだけではなく、自分のためでもあります。否、より正確に言えば、他人を通して自分自身のためです!
 あなたに勧めます。あらゆる形で祈り、あらゆる形で活動し、快活でありなさい。これこそ、情熱に燃え、敏感であるあなたの心への良薬となります。困難においてドン・ボスコと聖母マリア、特に、常に案内してくださるイエスさまを思い出しましょう。

1920年〜1925年宣教師を志す
 1919年の秋、チマッティ神父はヴァルサリチェ学院に戻り、神学生から大歓迎された。1920年に校長が亡くなったので、彼は師範学校の校長となった。 1922年10月から修道院の院長も兼ねるようになった。この立場で神学生や通学生の霊的指導の責任を負い、このときの数多くの手紙がその指導のあり方を示している。しかし、彼は管理職に強い抵抗を感じていた。その理想は宣教師になることだった。
 1922年3月、年老いた母が神に召され、彼をイタリアに引き留めるものはなくなった。その年にリナルディ・フィリポ神父が総長になり、1923年7月、ローマの聖座からサレジオ会の本部に日本の宣教地の一部を引き受ける要請が届いた。
同じ年にチマッティ神父も宣教師になる願書を提出した。
* * *
1922年3月4日帰天の母ローザ
8 宣教師派遣の願い
(リナルディ・フィリポ総長へ 1923年11月9日)
 チマッティ神父は総長であるリナルディ神父を父のように慕っていた。彼に宛てた手紙は112通もある。聖座からの願いが総長に届いた数カ月後、チマッティ神父は次の手紙を総長に書いた。これが日本のための宣教師として選ばれるきっか リナルディ神父さま、(けとなったと思われる。)どうか私のためにお祈りください。そして、私が行ける宣教地として、より貧しく、より苦労の多い、より見捨てられた場所をお見つけください。
 どうも私には、居心地よい場所は(大したことではないにしても)合いません。どうか、今度こそ、私の願いをお聞き入れください。
9 学校教育の目的
(『教育者ドン・ボスコ Don Bosco educatore』 57 ‐ 59ページ)
 チマッティ神父は、師範学校の校長、哲学・教育学博士号をもっていた立場で『教育学の授業Lezioni di Pedagagia』3巻と『教育者ドン・ボスコ Don Bosco educatore』166ページを著した。これは1925年に出版され、ドン・ボスコの教育法について最初の研究書である。その中から次の言葉を抜粋する。

 最近の学校のプログラムを見ると、間違った哲学の影響があって、学校の中で知識の伝達と生活指導が遊離している。これでは、学校は真の人間教育の機関と言えないことになってしまう。
 本来、学校は基本的生活習慣を身に着けさせると共に、生徒がよき市民となり、他人の権利を尊重し、国の法律を守り、正しい良心に従って自分の努めを果たせるように導くべきである。さらに、生徒が社会の中に果たす役割に応じて知識を身に着け、学校生活を通して正しい人間関係を結ぶために兄弟愛、正義感、協調性、寛大さ、愛国心、人類愛を育むように導くべきである。これによって生徒は日常生活のすべての要求に応えることができるようになるのである。

10 信仰・道理・愛情に基づく教育
(『Don Bosco educatore 教育者ドン・ボスコ』 62 ‐ 115ページ抜粋)
 チマッティ神父はこの本の中でドン・ボスコの「予防教育法」の本質を説く。それは、Religione信仰、Ragione道理、Amorevolezza愛情に基づく手抜きのない、後始末が要らない教育である。Religioneは、宗教体制ではなく、生徒の心を形成される信仰、人生観・世界観である。Ragioneは、人間が備えている理性というより、人間としてのすべての価値を基礎付ける道理である。
Amorevolezzaは、ただの愛ではなく、愛情を意味する。愛には通じない愛もある。ドン・ボスコが言うには、「愛するだけでは足りない。子どもたちに愛されて
いることを感じさせる必要がある」と。次は本からの抜粋である。
 ドン・ボスコにとって教育者とは、委ねられた人のために献身し、その生き方の模範となり、恐れられるのではなく、愛されるようにする人である。その基本的な姿勢は「assistenza」すなわち「共にいること」である。警備員または管理者としてではなく、家庭的な雰囲気の中、経験ある者として共に行動し、必要があれば忠告を与え、励ましたり、教えたりする者である。これこそ、サレジオ会の教育の特徴。
その教育は、次の三つの言葉、Religione信仰、Ragione道理、Amorevolezza愛情に要約される。その中に、真の教育を実現するためのすべての条件が含まれている。それは、どんな年齢やどんな状態の人にも、また世界のどこでも、どんな人でも実行できるものである。
11 愛する心
(教え子トロイエロ・オスヴァルドへ 1925年4月24日) 
 ヴァルサリチェの院長としてのチマッティ神父が教え子たちに書いたいくつかの手紙を紹介する。どれほど一人ひとりに適した指導を与え、どれほど心が通じて 君は私に心をささげてくれると言う。(いたかわかる。その友情は一生続いた。)私はそれを神さまにささげましょう。私は、君の魂、勉強、彼女との付き合いも神さまが祝福してくださるように祈ります。彼女との付き合いは、オスヴァルド君にふさわしく、健全であることを私は信じます。 
 人生において、よいことをしてくれた人だけでなく、理解してくれない人も愛し、皆のために祈りなさい。キリストの愛をもって私たちの心の狭さを覆いましょう。祈るということは、神の愛のうちに皆を愛すること、体よりも魂を愛することです。
12 登山者の心
(教え子カルカーニョ・エットレへ 1925年4月28日)
 チマッティ神父はサン・ルイジのオラトリオで登山家クラブも作った。その団長
 登山ができること(から招待があった。)はうらやましい。仕事の関係で参加できないのは残念です。
私にも登山家の心があります。積極的にそれに参加する若者たちは多くのことを得ます。登山は身体だけでなく、精神にも役立ちます。そのために登山に際して、目、耳、心を開いて、常に自然を通して話しかけてくださる神の声を
聴く必要があるのです。願わくは、君がその声を悟り、神との一致を保ちますように。
13 泳ぐには水に飛び込むべきである
(ジョルダーノ・アントニオ神学生へ 1925年6月)
 君への勧め。手をこまねくことなく、やるべきこ( 宛先は、多くの手紙を受け取った神学生である。)と、できることをやりなさい。
結果を気にせず、祈って進みなさい。後のことは神に任せる。多くの心配のもとは、何でも知っているかのように話すこと。
 経験は、他人や本から得られない。自分で習得する。君は言うだろう、「そう言うのは簡単だ。困るのは私だ!」と。
 ドン・ボスコは答える。「泳げるようになるためには、水に飛び込むしかない!」
 信仰のない人、臆病な人、怠ける人、傲慢な人は叫ぶ、「もし溺れたら!」と。
 信頼ある積極的で熱心な人は、「主よ、助けてください。滅んでしまいます!」と言う。
 やがてやさしいイエスさまの声が聞こえるでしょう、「信仰の薄い者よ、なぜ疑うか」と。
14 宣教師任命の喜び
(グリゴレット・ジュセッぺ神学生へ 1925年10月15日)
 ついに日本へ派遣される任命が届いた。この教え子に、心の中に夢見る日本
 今日、夜12時(のことを描いた。)、院長の任期終了。
 これからは、新しい考え、新しい志。日出ずる国、桜の花、菊の花、びわ、柿、米、蚊、火山、地震、すばらしい自然の宝庫。喜びの涙が出る!
 今こそ、私は祈りを必要としています。東洋に向けて、人生の完全な方向転換です。多くの笑い、多くの喜びがあるでしょう。苦しみも多いでしょう。神に感謝!
15 教え子たちへの別れの挨拶
 これは、自分の写真と共に教え子たちに送った挨拶である。一枚が保存されて(教え子たちへ 1925年12月)  親愛(いる。)なる教え子の皆さん、日本の宣教地のためにしてくださったことに感謝いたします。神が十分に報いてくださいますように。感謝の気持ちで心から君たちを思い出します。
 言葉と行いにおいて、ドン・ボスコのふさわしい弟子であるように努めてください。
いつも君たちのヴィンチェンツォ・チマッティ神父。
16 親友への感謝
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神学生へ 1925年12月)
 この神学生へ送った手紙の中に特に親友関係を感じる。彼は後にローマのグレゴリオ大学で学び、サレジオ大学の学長となった。多くのすばらしい内容の手
 私たちほど互い(紙が残っている。)に深く理解し合い、イエスを愛するために助け合い、努力してきたか。覚えているでしょうか。どれほど多くのことを共に神のみ心に秘めたか。それは、私にとって真の慰めでした。
 私のために祈り、特に十字架と苦しみを願ってくれたことを感謝し、さらに辱めも付け加えてください。これによって、私たちは屈辱に満たされた主イエスに近づいていくでしょう。私が宣教生活を願ったことにより目指す目的をよき主がかなえてくださいますように。
17 お姉さんとのお別れ
(シスター・チマッティ・サンティーナ・ラファエラへ 1925年12月29日)
 姉サンティーナは、シスター・ラファエラとなっていた。出発の日、ジェノヴァから最後の挨拶を送った。思い出として亡くなった母と、自分の中学時代の写真を 親愛な(送った。)るお姉さん、片づけながら、お姉さんにとって思い出深い写真を見つけたので、お送りします。ジェノヴァから、心を込めてこの挨拶を送ります。私が少しでも人に役立ち、ふさわしい者となれますように、イエスさまのお恵みを祈ってください。皆、皆、皆によろしく。お姉さんを祝福します。
あなたのD. ヴィンチェンツォサンティ-ナへ (母親の写真の裏に書かれた言葉)
 あなたに贈る最もやさしい思い出。あなたのV.チマッティ神父より。
18 教皇さまのお言葉
 9人の宣教団の団長チマッティ神父はこれから「日誌」を書き始め、管区長の(チマッティ神父の日誌より)立場を降りた1949年12月3日まで続いた。貴重な情報源である。その中に教皇 皆さんは長上や善意の人々に祝福されて(ピオ11世の以下の謁見の言葉が書いてある。)出発しますが、私もその宣教を祝福します。
 皆さんが派遣される場所は、これからとても期待され、過去において多くの実りをもたらし、偉大な宣教師たちが蒔いた種の跡が残っているところです。どうぞ、この使命またこの宣教活動に要求される確固たる信念を抱きながら出発してください。
 皆さんが出発するのは、サレジオ会の最初の宣教師たちがアルゼンチンとパタゴニアへ派遣された輝かしい記念の年です。日本への派遣が同様に成果をもたらしますように祈ります。
 イエス・キリストによって派遣された使徒たちと同じように出発してください。彼らと同じ心と同じ姿勢をもって、委ねられた人々の心の中に神のみ国を広めるように働いてください」。


1926年
日本への旅― 日本語を学ぶ
 1925年12月29日、チマッティ神父は8名の仲間と一緒にジェノヴァ港を出て、途中でスエズ運河を通って、ポート・サイド、ペリム、コロンボ、シンガポール、香港、上海で停泊した。船上、ウィーン大学で中世史および社会学を専攻してから帰国する上原専禄という日本人に出会った。のちの一橋大学学長である。
彼は一行にとって最初の日本語の教師となった。
 1926年2月8日、ついに門司港に上陸した。上原専禄氏は、手続きを助けるために一緒に降りてくれた。当時、九州全体は長崎教区に属していたので、一
行はそのまま長崎の司教に挨拶しに行った。宮崎に着いたのは2月16日であった。
* * *

1926年1月 上原専録先生と共に
19 執着を断ち切って身をささげる
(リナルディ・フィリポ総長へ 1926年1月2日)
 私は、イエスに自分自身をささげ、与えられた能力( リナルディ神父に出発したときの自分の心情を告げた。)と善意を毎日ささげています。傲慢で何でも知っていると思いがちな私は、今述べたことしかできません。
 私は、イエスさまが任せてくださった人々を愛し、出発によって断ち切った執着から清められるように努力しています。イエスがこの奉献を受け入れてくださいますように。私の魂が救われ、神の恵みにより日本人の心が開かれますように。
20 純粋な心で人を愛したい
(リナルディ・フィリポ総長へ シンガポール1926年1月26日)
 心を込めて教え子たちを愛していた師は、その別れを強く感じた。
 私は、皆によい手本を示すように努力し、常に自分の傲慢と感受性をコントロールしないといけません。このためにも宣教師になることを願いました。私は、会員、神学生、師範学校の学生たちをあまりにも慕っていました。けれども、わが主イエスよ、あなたがこんな心を与えてくださったのです。私はどうすればよいのですか。完全にあなたのものでありたいと願っています!
21 植民地支配者への嫌悪
(リナルディ・フィリポ総長へ 船上で1926年1月28日)
 シンガポールにて。香港に着く前に宣教師の保護者聖フランシスコ・ザビエルが亡くなったサンシャン(上川)島の前を通ったとき、その取り次ぎを願った。
 シンガポールで支配者たちの傲慢な態度を見て、言い表しがたい嫌悪感と不愉快さに襲われました。支配者たちは、住民の経済的状態を改善すると言って、精神面、また道徳面で彼らをまったく無視しています。私は自分の傲慢な性格を見せ付けられたような気がしました。現地の住民は、支配者たちの物質的な贅沢を見て、同じような状態になりたくて神から離れてしまうのです。
 今、船はサンシャン(上川)島の前を通っています。聖フランシスコ・ザビ

1926年1月 上海での写真
エルのことが頭に浮かんできます。きっとこの聖人はほほ笑みをもって同じ名のフランシスコ・サレジオを保護者とする私たちを歓迎し、将来の活動のために神の豊かな祝福を願ってくださるでしょう!
22 日本への憧れ
(リナルディ・フィリポ総長へ 上海から1926年2月2日)
 香港で中国行きの仲間たちと別れてから上海に向かった。そこにいた元の教え子から大歓迎を受け、パリミッションの宣教師たちから日本についていろいろな 上海で、経験豊(情報を聞かされた。)かなパリミッションの事務所を訪れました。宣教師たちは、私たちが日本に向かっていると聞くと、「とても困難だ、非常に貧しい宣教地だ」と言って、日本の宣教について異口同音に最上級の「すごく、とても、大変だ」という形容ばかりを使うので、私は大きな慰めを心に覚えました。イエスさまは、ご自分の光栄を表すために私たちを日本の庭に派遣し、大きな慈愛を示してくださるでしょう。
23 教え子たちへの教訓
(ヴァルサリチェのコスタ神父と会員一同へ 1926年2月4日)
 ヴァルサリチェの教え子たちに途中で体験した状況を報告して、宣教生活に備
 旅の終わりが近(えるように勧めた。)づくにあたって、いくつかの結論を述べさせていただきます。
1) 若いうちにあらゆることに慣れ、何でも食べられるようにしなさい。
2) 外国語を学ぶようにしなさい。
3) どんなベッドにも慣れるようにしなさい。でないと大変、大変、大変苦労するだろう。
4) いつも神との一致を保つようにしなさい。でないと、困難と恥に耐えられないであろう。
5) あらゆる科目を勉強しなさい。東洋ではそれらが高く評価され、要求されるから。
6) よい習慣や聖徳を身につけなさい。他のことは補えるが、聖徳は欠かせない条件である。
 残念ながら、こう書く私自身に、これらの多くのことが不足している。補えるようにお祈りください。
24 日本の最初の印象
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1926年2月19日)
 門司港に上陸して、最初に自分の目で日本を見た感激を総長に報告する。
 神に感謝! 日本万歳! 希望、仕事、犠牲の場所に着いた私たちの心からこの叫びが出ました。
 2月8日朝8時、濃霧が瞬間的に太陽から照らされるすばらしい風景を遮ってきたが、まもなく霧が晴れ、うっとりと眺めている目の前に美しく輝く陸が見えた。言葉で描くよりも想像に任せます。太陽の光に輝き、雪に覆われてそびえ立つ真っ白な山々、生い茂った木々につつまれた島々、前方に広い湾に面した産業豊かな門司市、いくつもの煙突と山麓にまで延びている家並みの壮大な光景が現れてきました。
25 長崎の印象
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1926年2月19日)
 一行はそのまま長崎に向かい、大浦の司教館で司教に歓迎され、文語訳聖書
で有名なラゲ神父の案内で一週間キリシタンと日本の宗教などについて多くのこ
とを学んだ。大浦天主堂の信徒発見のマリア祭壇でもミサをささげた。
 カテドラルに着き、コンバーツ司教さまの客となり、博学な宣教師ラゲ神父の案内で大変有意義な日々を送ることができました。日本人は知識欲が旺盛
で、開かれた心をもち、活発です。子どもたちと青少年の数はとても多く、あらゆるスポーツ(特にテニス)や運動をこなし、信者の子どもは信心深く祈り、喜んでミサ仕えをし、両親の手本もあってよく歌っています。
 異教徒は、神仏に対してとても深い崇敬の念を表しています。カトリック信者が同じ尊敬の念をもっていれば、なんとすばらしいこと。人々の態度は、非常に真剣で、信仰の内容を別として、すばらしい手本を示していると思いました。
26 宮崎に着く
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1926年2月19日)
 ついに宮崎に着く。場所は当時の宮崎教会。司祭館は狭かったが、宣教師魂で適応するようにした。何回もリナルディ神父に日本の文化、自然、生活習慣 2月16日午前11時ごろ、宮(について詳しい報告を出した。)崎の教会に着き、夢を見ているような気がしました。天国から落ちてきたかのような気持ちでした。「感謝の賛歌」を歌ってから、日本の聖母、殉教者の元后、キリスト信者の助けの称号で尊ばれているマリアさまに身をささげました。故郷に帰った気がしています。
 早速県知事、市長、警察の長官に挨拶に行きました。皆丁寧に迎えて、県知事はお茶を出してくれて(日本のお茶は砂糖なし!)、どこでも同様にお辞

1926年2月 長崎の司教と共に大浦天主堂の階段での記念写真
儀やお礼の言葉が延々と続きました。私たちの訪問は喜ばれたようです。
27 日本語と日本文化への挑戦
(日誌より 3月)
 勉強が始まった。イタリア語を話すサレジオ会宣教師たちに、フランス語と日本語で話す二人の先生。チマッティ神父は日誌にその困難と進展をよく描いてい
る。一年で尋常小学校12巻の教科書をこなすという目標を立てた。
 第一年の目標。日本語の勉強と日本の生活に慣れること。
 教科書は、尋常小学校の教科書。午前中は、読み書き、午後は、会話と暗記のための書き取り。各自、自由に勉強の機会を増やし、能力があればより多く学ぶ。必死でやっているが、得手不得手がある。先生との相互理解は難しく、進み具合は遅く、誤解や間違いが多い。いちばん大きな犠牲は、話せない子どものようになったこと。勉強の魅力よりも義務感や意志に支えられている気持ち。宣教生活のすばらしさが強調されるが、この犠牲はあまり理解されていない。

1926年 宮崎教会の子どもたちと
28 理屈より実践を
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神学生へ 宮崎1926年5月2日)
 ローマでグレゴリオ大学の受験を目指す教え子は、聖人になりたいがいろいろ
な誘惑に悩んでいるとチマッティ神父に書いた。それに対する返事。
 書いてくれたことは当然のことだ。もし死ぬ5分前にその嫌な考えから解放されるなら神に感謝! 私たちは、自分が聖人になっているかどうかを知る必要はない。余計なことを考えないで働くことが大切だ!
 主は実践を望んでいます。でなければ、医者が死に瀕している病人を科学的に診察することと同じだ。実践、実践! 実践する人は間違うこともあるが、注意されれば改善できる。
 未来のことを心配するのは何に役立つか。5分後までまだ生きていられるかがわかっていないのに。もう少し謙虚になって、まっすぐ進みなさい。
29 懐かしい教え子たち
(ジョルダーノ・アントニオ神学生へ 宮崎1926年5月18日)
 チマッティ神父は、教え子たちのことを懐かしく思いながら、届く手紙にすぐに 昨日、最初の手紙(答えるようにしている。)が届いた。君は、思い出してほしいと言う。主はご存じです。思い出していますよ。君たちのために命をささげたことを主はご存じです。
慕いすぎて、そこに人間的な気持ちが入ったのかしらと心配しています。けれども、君たちの魂のためにしたことです。イエスさまもマリアさまもご存じです。君は私からの手紙が欲しいと言う。私は最後まで次の方針を守ります。すなわち、受けたらすぐに返事を書くと。わかりましたね。
30 涙が出るほどの感動
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1926年5月30日)
 祈りは私にとって命です。より確実にす( 総長に毎月自分の心の中を打ち明ける。)るために努力し、規則正しく祈るようにしていますが、意識的でなくても、しばしば気が散ることがあります。毎週決心を改め、マリアさまとイエスさまのみ手に委ねます。ときには、特に祝い、講話、心を込めてミサをささげるとき、涙が出ることもあります。そのとき、「イエスさま、こんな人間であるのに、なぜこんなことをしてくださるのですか」と自問します。心臓に悪いので、落ち着いて他のことを考えるようにします。傲慢な考えが浮かぶこともあります。
 もしかしたら神経質か、身体の弱さによるかも知りません。ともかく、そのとき天国のような喜びを味わいます。24日、扶助者聖母マリアの祝いのミサ後、マリアさまへの奉献の祈りを唱える前に一言を言おうとしたら、泣き出してしまった。特別なことだと思わないでください。残念ながら、私は聖徳からよほど遠い者です。でも、熱烈な憧れがあり、イエスさまが愛してくださることを確信しています。
31 日本語で最初の説教
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1926年5月30日)
 聖母月にあたり、司祭らはマリアさまを祝うために日本語で最初の説教をすることを決めた。この機会にチマッティ神父は聖母マリアへの最初の日本語の歌(553  言葉の勉強は(番)も作曲した。)一歩一歩進みます。私たちは練習のため、また恐れを吹っ飛ばしマリアさまをたたえ、その助けを求めるために、信者の前で9日間の短い説教をすることをしました。書いた文を直してもらいそれを暗記して、話してみました。皆、理解したと言っています。
 この機会に私は『聖母マリア日本国の元后、殉教者の元后、キリスト信者の助け、我等のために祈りたまえ』という言葉を作曲し歌ってもらいました。
 これで十分に話せるわけではありません。教会の中で雄弁家でも、外に出ると魚のように無口です。日本人の心の中を読み取るのは難しい。表情を変えないでこちらを見、笑えば彼らも笑うが、こちらを観察して評価します。私たちはどう評価されているのでしょうか。
32 音楽家の教え子への勧め
(アメリオ・フランコ神学生へ 宮崎1926年7月25日) 
 ヴァルサリチェでチマッティ神父の跡を継ぎ、コーラスを指導していた教え子は
作曲し始めた。自信がなくてチマッチ神父の指導を仰いだ。
 私の経験で言えば、音楽の指導において、数少ない曲をよく歌わせることは第一です。よいプログラムを上手にやること、これが大切です。
 君の作曲はすばらしいですが、傲慢にならないように。芸名は私の「ヘンリ」(エンリコ)を使ってもよい。私にとって名誉です。
 一般の人の音楽趣味について言えば、多くの人は、中身よりも作曲者名で評価する。音楽を聴くと、「誰の曲ですか」と聞く。そして有名人なら、「ああすばらしい」と言う。
 自分自身については「能力がない」と言わずに、知っていること、やれることをやって恐れることはない。自分の心についても同様です。その場で知っていること、できる方法で、神さまを愛するためにやりなさい。他はすべて誘

1926年9月末 3名の歌手 右二人目からリヴィアベッラ、チマッティ、マルジャリア惑です、無駄な計算。明るい気持ちで進みましょう。
33 不満を乗り越える秘訣
(ジョルダーノ・アントニオ神学生へ 1926年10月13日)
 教え子は新しい務めに不満であった。チマッティ神父はその不満を乗り越える 今回の君から(方法を教える。)の手紙は不平不満ばかりで、調子の悪いときに書いたのでしょう。気分発散のためであろうが、その中には愛徳を感じません。知っているとおり、私、否、主にとって愛徳はすべての根本です。もっと愛徳をもちなさい。
次は、チマッティ神父の考えです。
 私たち人間は皆間違うことがある。
 人は誰も自分の審判者になりえない。
 君はよいこともしたが、よくないこともした。
 ある人に九十九の悪い面があり、よい面一つだけあれば、その一面を取るべきである。
 それでも、よいところが一つもないチマッティ神父は、他人に教えようとしている。
 結論! 君は屈辱を受けたから文句を言う。自分から進んで謙虚にならないから、神はその機会を与えてくださった。君はそれを不満に思う。チマッティ神父は、君以上のことを忍んだ。そのときに助けてくれたのは、ドン・ボスコの次の言葉である。
 過ぎ去った水は水車を回さない。忘れる、忘れる、忘れるべきだ。
 未来は神のみ手にある。考えたり、心配したりすることは無駄だ。
 現在だけは君の手にある。瞬間にすぎないのだから、よく活用すべきである。
 もし神、自分、他人と平和を保ちたいならば、ドン・ボスコの次の言葉を聞きなさい。「明るい気持ちで善を行い、スズメが鳴くのをそのままにしてお1 瞬間ごとにこのことを実行しなさい。
く」。
34 幸せな結婚を祈る
(ヴァルルンガ・テレサ従姉妹へ 1926年10月31日)
 親愛なるわがテレサさん、お母さま( 婚約した従姉妹に対し勧めを書く。)から、神さまが望んでおられる結婚の日が近づいたと聞きました。これは私の勧め。
1-心から父母を愛しなさい。あなたの存在は、神さまの次にご両親によるものです。
2-心から主人を愛しなさい。彼は、すでに立派ですが、あなたの親切、忍耐、祈り、仕事によりいっそう立派になるでしょう。
3-神から賜る子どもたちに信仰を教えなさい。これは、あなたの務め、あなたの光栄になります。
4-もし神さまが何かの十字架を送ってくだされば、神さまへの愛のために忍耐強く忍びなさい。この世にはとげのないバラがないのです。心から皆さんを思い、祝福します。
1 Laetari et benefacere, e lasciar cantar le passere 人の言うことを気にしないということである。
35 結婚祝いの言葉
(ヴァルルンガ・テレサとモレリ・ジュゼッペへ 宮崎1926年11月25日)
 親愛なるわがテレサさん、あ( 結婚式のための祝いの言葉。)なたの幸せの大事な日です。あなたの夫を愛し、ご両親が教えてくださったように信仰深い母親になりなさい。そうすれば、いつまでも幸せになるでしょう。
 イエスさま、マリアさま、ヨゼフさまの苦しみを思い出しなさい。
                   
 拝啓、モレリさま、まだお目にかかっていませんが、帰国のときにその機会
があるでしょう。美しいテレサさんがあなたの妻になると聞いて心から喜んでいます。聖ヨゼフがマリアさまに対してそうであったように、あなたも彼女にとって保護者となってください。そうすれば、神さまの祝福があなたたちの家庭に留まるでしょう。心からお祝い申し上げます。        
 あなたを敬愛するV.チマッティ神父
36 日本の生活への適応
(ゲッティ・ジョルジョ氏へ 宮崎1927年1月13日)
 生まれ故郷の友人である医師に、自分の心を打ち明ける。
 私のことは万事順調です。皆さんのお祈りのお陰で新しい環境に困難なく慣れました。暑さも寒さもあまり気にしません。小さいときから母から甘やかされなかったからです。
 食生活に関して他人の健康を預かっていますから、できるだけ洋食にします。庭には野菜を作り、鶏、ウサギも飼っています。ぶどう酒も牛乳も手に入り、パンを焼く設備も整えました。
 私独りなら、喜んで和食にします。大好きです。巡回宣教が始まったらそうします。ご飯、魚、野菜、いろいろな果物があり、日本のお茶を飲みます。日本人と一緒にいれば、当然そうしないといけません。最近、ぶどう酒の代わりにお茶を飲みます。お茶を飲めばとても元気です。ここの習慣ですからそれでいいのです。
37 泳ぐには水に飛び込むべき
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1927年1月30日)
 一行はたった一年の勉強で現場の責任を負うことになる。大変な勇気が必要 2月、正式に宮崎教会に入りました。準備不(だったが、言葉は本だけで学べないと彼は言う。)足ですが、日本語という大変な言葉を話せるようになるために水に飛び込むしかありません。でなければ、いつまでも泳げないのです。私たちとしては最善を尽くしたつもりです。行き届かないところは、扶助者聖母マリアとドン・ボスコが補うでしょう。
 20日まで尋常小学校の教科書第12巻を完了し、これで話すことと書くことの大切な手段を手に入れたことになります。足りないのは話す練習です。数カ月でこれもいくらか楽になるでしょう。1年間でこれらの本を勉強したことはよかったと思います。他の方法ならもっと話せたかも知りませんが、読むことができてこそ遠くへ進む鍵を得、将来の道が開かれます。もちろん、高ぶってはなりません。十分に日本語ができるには少なくともあと2年真剣に勉強する必要があります。でなければ、竹馬に乗った人のように、自信をもって歩けないでしょう。

1927年
主任司祭チマッティ神父
 チマッティ神父は、2月から主任司祭の生活を始めた。彼が言うとおり、泳ぐためには、水に飛び込む必要がある。一行は、わずか一年の日本語で、2月1日宮崎教会、2月20日中津教会、3月9日大分教会に入り、言葉の限界があっても宣教活動を始めた。
 第一の仕事は環境と信者を知ることであった。一人ひとりに接すること、迷った羊を探すこと、そして教会内で信徒をまとめ、活躍させるために信徒諸団体を組織することが必要だった。さらに、教会内外の人々と手を結ぶという基本方針も決めた。チマッティ神父がこの立場で働いたのは1929年3月までであった。
* * *
38 ドン・ボスコのようにする
(チマッティ神父の日誌より 1927年2月)
 一行はサレジオ会的なスタイルで信者に接することにした。ドン・ボスコのよう 今日、正式に宮崎教会の責任を受け継ぐ。長上の(に快活に信者と付き合い、特に若者を大切にすること。)決定によりチマッティ神父は主任司祭、カヴォリ神父は助任司祭。一般方針として、サレジオ会の精神に従って働き、ドン・ボスコの教えとその模範を目の前に置いて、彼ならどうするかを考えて実行する。まず自分自身の魂を大切にし、若者を世話し、宣教活動に役立つ知識を身につけ、協力できる人と手を組んで、主の名において
進む。変更する前に慎重に考える。司祭たちはスータンを着用する。知ってもらうためや縁を結ぶために遠慮なく家庭訪問する。
39 日本では明るくふるまうべきだ
(ジョルダーノ・アントニオ神学生へ 1927年2月6日)
 教え子の質問に答える。毎日、明るく当たり前の態度でふるまうようにすると言 君は、私(うのである。)が何をしているかを知りたいのですか。勉強したり、楽器を弾いたり、ノートを手にして説教をしたり、食べたり、笑ったりしています。日本で
は、心の中に嵐があっても、ほほ笑まないといけないのです。また子どもたちと相撲を取ったり、祈ったりして、夜は眠ります。よい生活ではありませんか。近いうちに探検も始めます。どこへでも回ってみたいのです。もし、火山などに落ちたと聞いても、びっくりしないでくださいね!
40 正しい信心生活を
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神学生へ 宮崎1927年2月上旬)
 何回も手紙を書いてくれた教え子は、実行したいことを打ち明けてきた。チマッティ神父は、信心生活について自然な態度でふるまうように教え、余計なところを
 まず(正す。)君は、日中、神に短い祈りを唱えていると言う。これは、大賛成です。だが、それを数える必要はない。大切なのは、神との一致を保つためにそれ

1927年2月22日 三つの教会に分かれる前の共同写真

1927年2月 宮崎教会の3人 右からグアスキーノ、チマッティ、カヴォリ
を唱えること。歳をとれば、なぜそう言うかわかるでしょう。
 生徒への愛着を感じることについては、聖フランシスコ・サレジオの言葉を思い出してください。「もし自分の心の一部だけでも神さまのためではないと気付いたら、それを切り捨てる」と。また、前進したいという決心はよろしい。ただし、進歩しているかどうかは、あまり考えないでください。結果にこだわるよりも、善意を保つことが大切です。結果は、主が見ておられます。 最後に、自分の魂のためにいくらやっても十分ではないのは確かです。しかし、常に神を思い出せないからだめだと思ってはいけません。大切なのは、正しい意向をもって行いをささげながら進むことです。
41 日本の怖いもの
(リナルディ・フィリポ総長へ 大分1927年4月5日)
神父さま、日本のことわざに( 総長に日本のことわざを教える。)「怖いのは、地震、火事、親父」ということがあります。
 最初の二つは、神に任せるしかありません。もし新聞で地震についてのニュースを読むなら、あまり心配しないでください。宮崎は、震源地から離れています。多少揺れますが、もう慣れてきました。むしろ、火災に気を付けないといけません。
 問題は親父です。家の中では王様です。よければ、幸いですが、悪ければ、暴君よりも悪い。その命令に対して皆「はい!」と答えないといけません。私
は、父親の会を作ってみたいのです。説明したうえで、使徒職などに協力してもらいたいからです。よい者やアメリカから戻って来た者もいます。近いうちに成功できると思います。
42 名誉職はごめん
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 鹿児島1927年10月28日)
 日本を視察したリカルドーネ副総長が、バチカン使節と相談して、チマッティ神父を教区長にすると話してきた。チマッティ神父は率直に自分の気持ちを打ち明け 親愛なる神父さま、チマッテ(る。名誉職もその衣装も断る。)ィ神父の未来について、私の魂、私たちの修道
会、人の救いのためにお願いです。私は儀礼的な役目ではなく、神が与えてくださったこの手足で、ほうきを持って働けるようにしておいてください。なぜ、このロバにリボンや彩の飾りを着けたいのですか。今日、聖フランシスコ・サレジオの本でも読んだところです。「ロバは、飾ってもいつまでもロバです」 と。私の場合さらに悪いのは、その役割に適さないこと。私はそのような者です。私たちを作ったのは神さまで、私たちではないからです。ドン・ボスコも私と同じ態度を取ったはずです。どうか、この私が神の子として自由に生きられるようにしておいてください。
43 サレジオ会の霊性
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神学生へ 1927年11月21日) 
 教え子は長い手紙で自分の決心を伝えてきた。チマッティ神父は項目ごとに答
えて返した。これは、チマッティ神父の霊性のまとめといえる。
 君の考えている完徳は、サレジオ会の日常生活からかけ離れている。たとえ、君によくても、見る人々には重苦しく、嫌になり、使徒である私たちにとってよくないものです。
 私は聖フランシスコ・サレジオの霊性を選びます。彼は人の心をよく理解していますが、向こうは頭を優先させています。私たちの霊性は、皆、特に若者に通じるものでなければなりません。これによって君は自分の心と魂により適した完徳を身につけることなるのです。
1928年〜1929年3月
宣教地の活動が活性化される
 この一年、福岡教区に属していたサレジオ会の大分・宮崎宣教地区が独立布教区となる(正式には1929年5月29日)。また中国管区からも独立しサレジオ会日本準管区とされ、チマッティ神父は教区長と準管区長となることに。これで全責任を負い、いっそう充実した活動ができるようになった。
 彼は、日本人にとって出版物は重要だと判断し、まず短い『ドン・ボスコ伝』を出版し、5月に宣教の手段として月刊誌『ドン・ボスコ』(現在の『カトリック生活』)を始めた。
 小教区内を活性化するために信徒の各グループが必要だと判断し、それを実現するようにした。また、邦人の人材の養成が緊急課題だと考え、長崎の小神学校に信徒の子どもたちが入るように呼びかけた。
 この年に関西や東京まで足を運び、コンサートの範囲を広げた。
 1929年にイタリアでサレジオ会の総会が開かれることになり、それに参加するために3月末に主任司祭としての役割を終え出発した。戻ってきたのは1930年1 月である。
* * *
44 聖人になりたいのですが
(リナルディ・フィリポ総長へ 1928年1月10日)
 チマッティ神父も人間関係の問題で悩んだ。元従軍司祭だったカヴォリ神父と 神父さま、私は聖人にな(性格が違っていたのである。)るために努力していますが、大した実りがなく、望みと実行は思うように一致しません。一つの心配は、聖なるカヴォリ神父がカッとなったりするということです。原因は私ではないかと思うことがあり、そうであれば、長上の皆さんはご遠慮なくお決めください。 私は長上が決めることに関して神の前でまったく無頓着です。このような態度はサレジオ会員としてどうかと思うこともありますが、これは聖フランシスコ・サレジオの教えだと思います。
 しばしば自分が傲慢で、感受性が強いと反省もします。自分はまだまだ聖徳から遠いと自覚します。自分としてはすべてを神に委ね、気にしないように努力しています。私のためにお祈りください。
45 最善は善の敵である
(宣教師への手紙より 宮崎1928年2月13日)
 来日2年のこの時点で、機関紙『ドン・ボスコ』の計画を立てた。毎月のことになるので仕事が増える。不十分であるが、完全なものを待てばいつまでもで
 宣教師の皆さん、ごらんの(きないであろうと考えていた。)とおり神のお恵みで仕事は不足しません。むしろ、ますます増えます。任務が重くなりますが、ドン・ボスコの名により次のことをお勧めします。
・仕事が増えれば増えるほど、祈りも増やしましょう。
・落ち着いて働きましょう。
・力がゆるす限り働き、健康を大切にしましょう。
・夜、働かないでください。
・従順に従って秩序を守りながら働き、「最善は善の敵だ」ということを念3 頭に置きましょう。
 神さまは、皆さんが善意、人々の救いのために働きたいという熱意をごらんになります。同時に自然に、落ち着いて、秩序を守って、信仰をもって、すべてを委ねながら働くようにしましょう。
46 自分の虚しさを感じる
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1928年2月28日)
 一生懸命にやっていても自分の限界を感じ、特に言葉の限界を感じていたが、
3 完全主義、潔癖主義は善を妨げるの意味。

1928年 宮崎教会の子どもたちと
 このごろ、自分の中に新しい現象を体験し、神さま(謙虚になるための試練と捉え、神の導きを感じていた。)の恵みであるように願っています。自分が無力な者だという自覚です。会員が皆よくやっているのに、自分は取るに足りないと感じます。これによってより深く自分の魂の貧しさを理解します。
 最近、「こうしなさい」という声を心の中に体験し、話すべき言葉を勧め、それに動かされているかような気がします。でもなぜか、ときにはそれに従うことはできない。原因は、私の怠慢、恐れ、傲慢でしょう。きっとそうです。そのために後悔します。より深く自分の責任を感じるようになったためでしょうか。願わくは神が私を照らし、よい勧めに従わせてくださるように祈ります。
47 長上であることの悩み
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1928年6月9日)
 総長へのこの長い手紙の中に、彼の一生の悩み、すなわち長上であることの悩みを訴えている。これは多くの手紙に出てくることである。
 私は目上職に向いていません。こう書いたら、神父さまから叱られますが、私の良心上の問題です。私には、生まれ故郷の革命的精神があるのでしょう。下の立場が好きです。だから必要があって長上になる人はかわいそうです。なお、それが私だと思うと、強い抵抗を感じます。だから文句を言うの
です。世の中、長上がいちばんかわいそうです。また閣下Monsignoreの称名の聖フィリポが枢機卿の帽子をもらったとき何をしたかご存じですね号とその衣装4は(暴言でしょうが)、私にとって芝居、喜劇です。神父さまの霊5。神父さまは、色鮮やかな服で着飾ったドン・ボスコやルア神父を想像できるのでしょうか。考えられませんね! 私も!
 神父さまは、きっと「信仰をもって十字架を担うべきだ」とおっしゃるでしょう。
もちろん決まったらそうしますが、拒んだ聖人もいます。拒否する権利があるのです。神父さまは、私の気持ちがおわかりですね。きっと、「従うことだけが
必要だ!」とおっしゃるから、私もそうします。それでも、主が命をくださる限り、このことを繰り返すつもりです。
48 清貧の精神
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1928年6月9日)
 さらに同じ手紙に、自分が一生の間守ってきた清貧の精神について述べている。
 私は財務にも向いていません。これも明らかです。経験はなく、私はお金があれば、必要のある人を見るとすぐにあげてしまう。だからいつも財布は空っぽです。私にとってお金のことは悩みです。自分の心を打ち明けましょう。私は貧しい家庭で生まれ、いつもドン・ボスコの初期の英雄的な生活を夢見ます。主から丈夫な体を頂き、特別な配慮は要りません。どこまで食べ物や建築に関しても、清貧の精神に基づいてどの程度までゆるされるか疑問に思い、心の中に常に戦いを感じます。トリノの本部などの建築や便宜を思うと、いつもドン・ボスコの生き方と比べます。法律の決まりや家庭での要求はわかりま
4 カトリック教会で司教などに対する敬語と彩の衣装。
5 送られた赤い帽子を窓から投げ捨てた。
すが、長上としての判断に迷います。私だけなら大した物は要りませんが、ここの会員はほとんど皆病弱で、ドン・ボスコが勧める待遇が必要です。神父さまは、「これについて会則に従えばよい」とおっしゃるのでしょう。当然、そうしますが、紙に書いてあることと現実は違います。ですから迷うのです。
49 出版を大切に
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1928年6月9日)
 宣教のためにチマッティ神父が大事にしたのは出版。5月24日、今の「カトリック生活」の前身である機関誌「ドン・ボスコ」を始めていた。皆で分担し、チマッティ神父は原則として巻頭言を書いていた。編集の責任者は大分教会のマ 今、ドン・ボスコ列(ルジャリア神父だった。)福に備えるためにより詳しい『ドン・ボスコ伝』を準備中です。翻訳の費用は使節閣下が負担してくださいます。印刷は東京の青年会がやってくださるが、お金がないので著作権を彼らに譲りました。またドン・ボスコが著した『ドメニコ・サヴィオ伝』の翻訳も完成したが、今資金がなく、年内に出版できると期待しています。さらに、宮崎・大分両県の信者をまとめるために機関誌『ドン・ボスコ』を始めました。月一回でも、離散の信者に印刷物を通してみ言葉を届けるためです。維持するためにどうすればよいかわ
かりませんが、宣教には必要です。異教の環境にいる信者は本当にかわいそうです! 大げさではありませんが、東洋を救う鍵を握るのは日本です。
50 修道者である神学生への勧め
(ソルド・アントニオ神学生へ 宮崎1928年8月26日)
 神学の勉強を始めたこの教え子は、長上のことで不満だった。チマッティ神父
 次は君へ(は答える。)の勧めです。
・神学の勉強に真剣に取り組みなさい。将来に後悔しないためには、これが土台となります。
・長上に関する君の評価を聞いて笑いました。君が問題を理解できないから、そういう疑問が起こる。下にいる私たちの務めは、長上を裁くことではなく、会憲に従って命令されたときに、実施することです。長上が間違っていても、君は正しく従いなさい。最後の報告のときに神があなたに問うのは、他人が何をしたかということではなく、君が何をやったかということです。 
・信頼には二つの面がある。一つは好き嫌い、気が合うかなどの自然な面。
もう一つは、意思による面である。必要なのは前者ではなく、後者です。
・ことわざには「洗濯する女は、自分の選んだ石に満足せず」とある。君も仕事が変わればうまくいくと思っています。修道者の幸せは、従順にあるのです。30年も修道生活を営んでいるチマッティ神父は、これについていくらかわかっているつもりです。
・最後に、生徒から慕われることで満足するな。これは感情です。主から愛されることが大切です。
51 愛徳を保つのはなんと難しい
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1929年2月28日)
 同僚であるカヴォリ神父との付き合いにおいて困難を感じていたが、愛徳を保 わが愛する神父さま、兄弟愛(つために一生懸命努力していた。)を保つのはなんと難しいこと! 私個人としては、神さまのお恵みにより愛徳を守るためなら皆の足の下になってもよいと思っています。愛であられる神さまの愛を得るために、自分はどうなってもよいのです。しかし、長上としての役目を果たせていないから、自分が愛だと思ってやっていることは、他人から見て弱さと思われる。神さまはご存じです。
 今、慰めてくださる神父さまのお手紙を目の前に置いてできるだけ実行してみます。実際、働いておられるのは神さまとマリアさまです。以前も書きましたが、自分が無に等しい者であることを悟らせてくださった神さまに感謝いたします。ご忠告ありがとうございます。自分もそれに気付き、会員も指摘してくださっています。明るい気持ちで進みます。 

1929年3月〜1930年1月
イタリアへ帰国と世界大恐慌
 1929年3月末、チマッティ神父はサレジオ会の総会とドン・ボスコの列福式に参加するためにイタリアへ発った。カヴォリ神父が代わりに宮崎教会の主任司祭になった。
 遠くにいたチマッティ神父は、心を日本に残し、遠くから手紙で会員を支えていた。資金を探し、新しい人材を募った。またドン・ボスコの列福式を祝ってから総会に参加した。
 その年の後半、世界大恐慌が勃発した。彼は、11月に扶助者聖母会の第一団6名、司祭2名や修道士1名を先に送り、自分は12月に若い神学生8名と一緒に日本に向かった。
 1931年1月日本に到着。日本には宣教師、シスター、新しい人材を養うための収入はなく、外国からの送金も減って、想像を絶する苦悩に直面した。それは第二次世界大戦後まで続いた。
* * *
52 福者ドン・ボスコの聖遺物
(サレジオ会の宣教師へ トリノ1929年7月18日)
 列福後、ドン・ボスコの遺体はヴァルサリチェの修道院から本部のあった扶助者マリア大聖堂に移された。検案が行われ、各支部のために小さな聖遺物が配 兄弟の(られた。)皆さん、総長さまは各支部のためにドン・ボスコの聖遺物を渡してくださいました。ドン・ボスコの心臓が保存されなかったのは、隣人愛により燃え尽きたためでしょうとおっしゃり、さらにすべての管区の重要な支部のために脳の大事な聖遺物を渡すにあたって、それは、私たちの間にあるべき信仰と活動の一致を考えさせ、愛徳を保つしるしとなるためだとおっしゃいました。6  長上は、月一回ドン・ボスコを記念する日にその聖遺物を顕示し、ドン・ボスコについて話が行われることを望んでいます。これによってドン・ボスコが全世界に派遣され、私たちは祈りと仕事を通してドン・ボスコを見習うようになるためです。
53 世界大恐慌勃発
(サレジオ会の宣教師へ トリノ1929年8月13日) 
 日本に派遣される神学生とシスターが内定したが、世界大恐慌が始まり、その影響でお金に困ったチマッティ神父は、今後ほとんどの手紙にもその問題に触れる。
 皆さん、神のみ摂理が生活費を送ってくださるように祈りましょう! 前途は明るくありません。長上からも人からも金銭を手に入れることは大変難しくなってきました。どうすればよいかさっぱりわかりません。けれども、もし働きながら自分の務めを誠実に果たし、自分も祈り他人も祈らせるならば、道が開かれるでしょう。皆さんの助け、勧め、協力が必要です。適切な節約もお願いいたします。わずかでも現地の資源を実らせ、一人ひとりは外国やイタリアの友だちから助けと献金を願いましょう。
 今度、日本に来るシスター方の住まいや神学校のために予算を立てる見通しはなく、その場しのぎの生活になるでしょう。しかし、信じてください。今の苦しい状況にあっては何も言えず、神しか直せない大変な危機です。兄弟愛をもって助け合い、祈りながら働くようにしましょう。
54 チマッティ神父の決心
(リナルディ・フィリポ総長へ 1929年9月4日)
 イタリアにいたチマッティ神父は総長に自分の心を打ち明け、特に自分の感受
性が強いこと、それに打ち勝つように努力していることを告白する。
 最近、6回も黙想会を指導し、自分の魂のためにいちばん落ち着いたときを選びました。決心としては、教会の祈りとミサを大切にし、毎晩糾明し、日
6 その脳の聖遺物は、現在、調布のサレジオ神学院に保存されている。 

1929年5月 ヴァルサリチェの教え子たちに会う
中神との一致を保つことにしました。
 私には、人の救いのための情熱が足りません! 宣教地の会員は自分の能力を発揮しすばらしい仕事をしていますが、神さまを愛していると思っている私には元気がなく、他人に勧めを与えても自分を指導できず、会員に説教しながら「医者よ、自分自身を治せ」と言われても仕方がないと思います。自愛心や感受性は以前ほど強くはないが、まだ強いです。コントロールするように努力はしますが、皆に対して愛着を感じます。天国のようなときがあると思えば、戦いのときもある。他人の行い、言葉、ふるまいについて悪く思ったりするのに、自分が聖人だと思いがちです。そう言ってくる愚かな者(すみません!)もいる。神のみ前でどうなるのでしょうか。
55 み摂理を頼って日本へ向かう
(リナルディ・フィリポ総長へ 1929年12月18日)
 若い神学生8名と共に日本に向かう船に乗ったときのチマッティ神父の気持ちがどうだったかわかる。皆に対していつものとおり明るくふるまっていたが、心の中は嵐だった。 親愛なる私のパパ、私はいつもと同じように善意いっぱいですが、委ねられた日本の宣教地と事業のために手段を探し求めても収穫はゼロです。教会からゼロ、国からゼロ、長上から人材と旅費を除けばゼロ。日本に持って行くのは未来に対する暗い展望、あいまいな指導、そしてみ摂理に対する大きな信頼。神学生やシスター方の住まいはなく、生活費はどうすればよいかはまったく見当がつかない。神のみ摂理と貧しさに万歳!
 神学生とシスターがパンを受けられるのは私からですが、私には明日まで彼らを養うためのお金がなく、日本に着くときには冬です。最初の必要なことに間に合うように少しでも資金を送ってくだされば、天からの恵みです。私の宣教活動は子らのためにパンを探すことです。恥ずかしいですが、すばらしい使徒職の実りを得ている兄弟たちと比べると、私は何もやっていません。毎日、神に委ねながら物質的な要求に駆られて、人に願ったり、手紙を書いたりしているだけです。
 神に感謝! これも神のみ心でしょう。神のみ心が行われますように! 

1930年
困難の中の人材の養成
 チマッティ神父より先に日本に着いたシスターたちが借家に住み、1月に着いた神学生たちも宮崎大淀の借家に住んだ。経済危機によりそれ以上できなかったのである。
 チマッティ神父のこれからの仕事は資金探し、そして、人材不足のために若い神学生の教師をやること。毎日、宮崎教会から大淀まで2キロ弱を行き来したのである。
 その状況にあっても、4月に中津教会で小神学校を開き、大分にドン・ボスコ社を始めた。その最初の出版物は「ドン・ボスコの教育法」の小冊子で、9月には『合併福音書』を出版した。
 11月に神学生が大淀から高鍋に移り、チマッティ神父はその院長を兼ねるようになった。
* * *
56 貧困状態の中
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 1930年年2月8日)
 宣教地全体を指導し宮崎教会に住んでいたチマッティ神父は、神学生に自然科学、教育学と音楽を教えるために大淀に通っていた。長上に状況を報告した。
 ここの状態についてより具体的に申し上げます。 
- 金庫は空っぽ、家族は倍増。助けが届くのを待っている。
- 善意に満ちたシスター方は借家にいて、私は彼女らも養わなければならない。
- 神学生の住む家は精神養成に役立つが、早く神学院に適した家を探すべきだ。
- 中津教会で邦人志願者のために鳥小屋を改造し、二つの小さな部屋を造った。
- 私は教会の修道院長を退き、神学院の授業の他に穴埋めをする。仕事に追われている仲間たちをうらやましく思い、世界の問題を解決できるかのように動き回っている。
 今年は、自分のミサ(司祭叙階)25周年。7月に死ぬかも知れませんが、7 もしその知らせがなければ、あと25年生きられると思います。
57 中国での二人の殉教者
(教皇庁使節ジャルディーニ・マリオ大司教へ 1930年3月14日)
 中国からの悲しい知らせ。2月29日、チマッティ神父と深いつながりあったアロイジオ・ヴェルシリア司教とカリスト・カラヴァリオ神父が、信者の女性を守るた
 閣下、私たちの悲し(め山賊に殺害された。)みと喜びに心を合わせてくださったことを感謝いたします。二人の殉教者は私と深い霊的な関係で結ばれていました。ヴェルシリア司教は、修練期に私に哲学を教えてくださった先生。カラヴァリオ神父は、私がサレジオ会に導いた人。私たちが彼らにふさわしい者となりますように神に祈ります。
58 司祭叙階25周年記念の心情
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1930年3月18日) 
 叙階25周年に際して、リナルディ総長に自分の心の状態を打ち明けた。これまで何回も長上職が辛いと訴えてきたが、これからは二度とこのことを言わないと約 今日、(束した。)私の司祭叙階25周年記念。準備するために9日間の祈りを行い、今日その締めくくりです。
 親愛なるお父さま、主はこの25年間についてご満足でしょうか。私が糾明するとき、いつも、最後の審判まで煉獄にいるだろうという結論が出ます。いつ主から召されるかわかりませんが、何回も主に自分の命をささげたが、このごろ、ささげる価値があるかと考えることがあります。自分の現実を見ると、口
7 ルア神父の約束に基づく発言のようである。

1930年3月4日 佐世保でのコンサートにて
先だけの奉献ではないかと抵抗を感じることがあります。それでも、ますます
神のみ手に自分を委ねます。どうか私が自分の魂を救い、よき死を遂げることができるようにお祈りください。
 自分にとってとても辛いのは、自分がいるべきではない立場にいることです。
決して、重荷を嫌っているわけではないし、反抗するつもりもない。私にとって大きな犠牲ですが、犠牲が伴うときこそ従順に価値がある! 葛藤の原因は長上職に向いていないこと、必要な知識もないことです。
 この不平が神父さまの心臓によくないので、これからはもうこの問題に触れないことにいたします。私を祝福しお祈りください。
59 タシナリ神学生への勧め
(タシナリ・クロドヴェオ神学生へ 宮崎1930年4月5日)
 タシナリ神学生は、来日三カ月で気が落ち込んでいた。手紙でチマッティ神父
に自分の気持ちを打ち明けたので、次の励ましの言葉を送った。
 わがクロドヴェオさん、私が君について考えていることをはっきりと申し上げます。君が自分の過去を思い起こすことは役立たない。主は、君の過去をその愛の火で焼き尽くしたのだ。なぜ、また思い起こすのか。今、君にとって大切なのは現在をよくすることです。
 私はよく見ている。君は私と同じように傲慢で、感じやすい人です。以前の君の過ちはこの性格から生まれたもの。これからは、その感じやすい性格を、人に対する広い心に変えなさい。その傲慢を、神の栄光を実現する自尊心、自分の務めをよく果たす名誉心、善を行うためのプライドに変えなさい。
 さあ、快活、勤勉、恐れない正直な心、神との一致、マリアさまへの愛、言われたことを実行する決意、これらが君にとって成功するための秘訣なのです。
 イエスさまはあなたを愛し、あなたの実行、その善意を待っておられるのです。 

1930年4月22日 熊本でのドン・ボスコ記念コンサート
60 長上から叱られたことへの答え
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 1930年4月9日)
 総会のとき、宣教地を助けるべきだという要求が出たが、具体策がなく、多くの宣教師たちから不満の声が出ていた。それが副総長のリカルドーネ神父の耳に 神父さま、心温まるお手紙(届き、お叱りの手紙が届いた。)や最後の厳しいお叱りありがとうございます。ごもっともです。チマッティ神父はそれ以上のことに値します。これにより、私が思っていたことをいっそう確信します。長上の皆さんも、災いのもとであるこの人を排除するための十分な理由をお見出しになったでしょう。
 ともかく、意図的ではなかったにしても、もし知らずに誰かに躓きを与えたとしたら、お詫びします。もしかしたら、私の言いたかったことは誤解されたの
でしょう。結論はこれです。今後、気を付けてこの問題について話しませんが、そのことは深く心に刻まれていて、また確信していることであるので(すみませんね!)。ぜひ解決すべき問題だと思います。 私は今日、習慣を破って、感じていることを率直に申し上げます。私には長上の理解が必要です。理解されないのはとても辛い。お叱りで傷ついても、はっきり言ってほしいのです。お世辞や誉れで心が痛みます。自分の考えを上
手に表せないことをよく知っています。今回、忍耐をもってお聞き願います。もう二度とこれについて触れませんから。総長さまにも約束しました。
 私が主に話すことを皆さんがお聞きくだされば! 主には自由に何でも言えるのです!
61 助けに来るトルクイスト神父
(リナルディ・フィリポ総長へ 1930年7月14日)
 本部の長上は、宣教地を助けるためにアルゼンチンの銀行の裕福な家庭生まれのサレジオ会員、トルクイスト神父を派遣したが、チマッティ神父はあまり期待していなかった。本人が着いたときに健康を害し、雲仙で休養せざるをえない状
 明日、私(態だった。)の51歳の誕生日。神父さまと心を一つにしてこの日を過ごします。 今、電報が届いてブラーガ神父と共にトルクイスト神父が長崎へ到着するという知らせを受けました。4月に着くはずなのに今7月16日。完璧な予定! ちょうど猛暑の季節、学校は夏休み中、日本の学校教育の特徴が見られない時期。日本の宣教活動の難しさ、助けの必要も理解できないでしょう。結構です! 私は長崎に迎えに行って大浦天主堂の信徒発見のマリアさまの祭壇でミサをささげます。マリアさまに何を話すかをご想像ください。私の魂が救われますように祈りをお願いします。私が聖人になり、他人も聖人にすることができますように。
 今後、さらに25年の命があるだろうと思います。私を祝福してください。
62 無味乾燥の精神状態
(リナルディ・フィリポ総長へ 熊本1930年8月29日)
 無理解と経済的な問題に加えて逆境が重なり、明るく生きようとしていたチマッ
 チマッティ神父はいつもと同じで(ティ神父にも落ち込むときがあった。)すが、ここ2週間、今まで体験したことのない無味乾燥の精神状態が続いています。自分のうちにあるすべての悪い傾向が生き返ったようです。どれほど私は不完全な者であるかわかりました! 信心業に元気がなく、気が散ってしまう。荘厳なときにも眠気がする。もしかしたら、会員との関係において自己満足を求め、しっかりと指導しなかったためでしょう。
人の信頼を得ようとして、また神へ導くためにその関係に感情が入ってくるでしょう。でも、わが神よ、あなたが私をこのような者にしてくださった。私はどうすればよいのでしょうか。
 先日、電報を打ったのは資金が底をつき、ローマからも、トリノからも何も答えがなかったからです。けれども、そのときにも神のみ摂理は不足せず、今も不足していません。お祈りください。
63 極限状態に落ちる
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1930年9月9日) 
 チマッティ神父はトルクイスト神父に対して不安を感じた。本人は新しい事業を
始めるように指示し、後で送金すると言って出発してしまった。
 主はまことに私たちを試しておられます! 愛してくださることのしるしでしょう。
 トルクイスト神父の来日により見通しは前より真っ暗になりました。その協力
があっても遠いことでしょう。何か新しいことを始めるなら、続けるのは大変でしょう。すべて閉鎖して戻ったほうがよいのではありませんか。あるいは、狂ってしまう前に少し騒いだほうがよいのでしょうか。
 私はみ摂理のご計画を知りませんが、もし長上のご協力はこの程度で、ローマが約束した助けも来なかったら、チマッティ神父はどうすればよいのでしょうか。私はすべてをみ摂理の手に委ねていますが、私が願うのは自分のためで
はなく、このかわいそうな会員のためです。彼らの大部分は戦争の生き残りで、すでに受けた影響が現れてきています。願わくは、もっと悲しいことが起こらないように! 神父さま、私たちの惨めな状態をご確認して、お助けください。
またすべての問題の原因であるこのチマッティ神父をご指導ください。
64 み心の恵みを願って聖体行列を決める
(サレジオ会の宣教師へ 1930年9月11日) 
 これほどの悩みがあっても神への信頼を失わず、無謀と思われる計画を立てた。
翌年5月宮崎市内で聖体行列を行うこと。準備として「聖体の年」を決め、宣 ご存じのとおり、より効果的に主(教地をイエスのみ心に奉献すると。)の祝福を得るため、またイエスのみ心に信仰のない人々を引きよせ、信者の信仰を強めるために、宮崎市街で聖体行列を行う計画を立てました。それを成功させるために一年間をご聖体の年とし、この大事な出来事を迎える信者の心を準備しましょう。秘跡をよく受け、ご聖体におけるイエスさまへの訪問を促進し、説教の中でもご聖体についてよく説
明し、皆がご聖体のイエスさまを知り、愛し、尊敬するように全力を尽くしましょう。個人としても社会人としても皆が態度を改善すれば、宣教地の上に主の祝福が得られるでしょう。
 私たちを試される神のみ摂理が賛美され、主のみ心の約束が実現され、ご聖体のイエスが私たちを治め、宣教地と世界の人々の心の中にお入りになり、祝福なさいますように願いましょう。
65 合併福音書の出版
(全国の宣教師への手紙 大分1930年9月24日)
 ドン・ボスコ社から最初の本格的な出版物、『我主イエズス・キリストの聖福に贈呈した。音』が発行された。チマッティ神父はフランス語の手紙を添えてすべての宣教師8  愛読者ならびに宣教師の皆さん、喜びをもって『我主イエズス・キリストの聖福音』という題の合併福音書が出版されたことをお知らせします。この小さな美しい出版物は、すでに昨年のうちに出版予定でしたが、残念なことにご期待に応えることができませんでした。宣教活動に携わっておられる兄弟の皆さんはこの本を高く評価し、その必要性と緊急性を感じておられました。これ 8 これは、イタリアの Anzini Abondio の『Vangelo unificato 合併福音書』を参照にしてマルジャリア神父が編集 ・ 翻訳し、戸塚神父が日本語に手を加えたもの。当時、画期的な口語訳聖書であった。を広めるために熱心に働いてくださることを感謝いたします。装丁はきれいで、文章はわかりやすく、信者に喜びを、求道者には光をもたらすでしょう。一般の学校、教会学校、研究会、仕事場、養護施設、病院や家庭に有益であり、道、真理、命であられる我らの主イエスさまをすべての人に思い起こさせるために役立つでしょう。心からご協力に感謝し、お礼申し上げます。

66 金持ちでなくてよかった!
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 1930年11月3日)
 トルクイスト神父の訪問後、チマッティ神父が心配していたことが起こった。本国アルゼンチンの銀行が破産し、始めた新事業を完成する負担がチマッティ神父 ついにトルクイスト神父は最(の肩にかかってきたのである。)終的な決定を知らせてきました。具体的な金額を決めていませんが、宣教地の現状を見たうえで必要に応じて助けると言いましたが、今は、他の場所に約束したので、一部だけの協力しかできないと。私は一つのことを主に感謝いたします。金持ちのサレジオ会員にしてくださらなかったこと。かわいそうなトルクイスト神父! 彼のために祈りましょう。うらやましく思いません。財産を執着することから主が私たちをお救いになります9 ように!
67 イエスのみ心への奉献
(宣教師への手紙より 1930年12月9日)
 困難の中のチマッティ神父は、その年の終わりにイエスのみ心に宣教地をささげた。すべての人を愛しておられるイエスを思い起こさせるため、またみ心に対し
 無原罪の聖母祭が終わ(て尊敬を表すためである。)って、今度は全力でクリスマスを準備しましょう。
 同時に約束したとおり、宣教地、支部、事業、信者、信仰のない人、迷っ 9 チマッティ神父がいちばん期待していた神学校への協力はゼロだった。11月4日、神学校は宮崎の大淀から、15キロメートル北にある高鍋の元病院に移り、三年間そこに留まることになった。人材不足のためチマッティ神父自身院長となり、病上がりのピアチェンツァ神父は副院長となった。土曜日午後、チマッティ神父は田野教会へ通い、主日のミサを立て信者の世話をしていた。彼は教区長、院長、教授、田野教会の担当者となったのである。

1931年8~9月 マカオでの仲間たち
ている人々をイエスのみ心にささげる準備をしましょう。この奉献により、私たちが必要とする多くの祝福をみ心から頂き、み心に対する愛に燃え、いっそう熱心にこの信心を広める力を願うようにしましょう。

1931年
世界大恐慌中の事業の発展
 1931年はチマッティ神父にとって困難続きの年であった。
 世界大恐慌の影響が深刻になったうえ、新しい事業を実現する必要があったからである。大分には印刷学校、別府には新しい教会、中津には小神学校の拡張、宮崎には幼稚園、田野には司祭館の建設。さらに『カトリック講話集』も始められた。
 これらの事業の一部はトルクイスト神父の意志を尊重するためであったが、約束された送金が来なかった。さらに会員の病気も加わった。
 一年のいちばんの行事は、宮崎市内で行われた聖体行列であった。
 そして12月初めにリナルディ神父が帰天したことは、チマッティ神父にとっていちばん悲しかったであろう。彼は心の支えを失ったのである。
* * *
68 十字架が多い
(リナルディ・フィリポ総長へ 高鍋 1931年1月5日)
 年の初めに多くの十字架を予測した彼は、神が送ってくださる十字架なら拒ま
ないと言うが、司教の十字架だけは欲しくないと言っていた。
 ご存じのとおり、チマッティ神父は十字架を望んでいますが、黄金の十字架ではありません。そのような十字架なら私には無駄な飾りです! 私は、聖フランシスコ・ザビエルと共に、主に向かって、「もっと多く、もっと多く!」と願います。そして、主は送ってくださっています。それにしても、他人の十字架と比べれば、たいしたことはないと思います。
69 国民も苦しんでいる
(宣教師への手紙より 宮崎1931年2月16日)
 宣教師たちに、国民と共に苦しみを忍ぶようにと勧めている。
 今年、手がけている事業が多く、み摂理の特別な恵みが必要です。そのために要らない出費、後回しできる出費を避け、親戚、友人、恩人の助けを願いましょう。自分の生き方を改善して清貧を守れば、神の栄光が増し、目標が達成され、名誉を保てると、神の名により約束します。
 四旬節中、教会の掟は苦行を守り、欠点を正すようにしましょう。日本の場合、その掟はより寛大ですが、今、国民にとって経済状況が厳しく、病気が流行し、栄養が乏しいので考慮すべきです。私たちが信者のために苦行し、謙遜や忍耐をもって身体や精神の苦しみを忍びましょう。供え物として自分自身を主にささげるようにいたしましょう。
70 聖体行列の実施
 長い準備を経て、5月に宮崎市内で聖体行列が実施された。司式は大阪のカ(日誌より 1931年の終わり)スターニェ司教で、九州各地の宣教師や800人ほどの信者と信奉者が参列した。
市民は道を埋め尽くし、カヴォリ神父が準備した小冊子一万部も配られた。チ 5月17日、宮崎市内で聖体行列が実施(マッティ神父は日誌に次の言葉を書いた。)され、勝利の主として道を通られたイエスさまに栄光がありますように! 些細で無に等しい者であるこの私は、イエスさまに申し上げた。「イエスさま、この人々の魂を導き、救ってください。彼らは、あなたのものです。あなた自身が彼らを贖ってくださいました」。すべてを活かし、組織したカヴォリ神父、またいろいろな形で行事の成功のために協力してくれた人々に称賛がありますように。
71 日本とドン・ボスコの教育法
(中津支部への視察の記録より 1931年6月11日) 
 中津の教会で小神学校を視察し、支部の日誌においてドン・ボスコの「予防教育法」を実施するようにと勧めた。ドン・ボスコ社の最初の出版物もドン・ボ 今年の目標は「心を一つにして、委(スコの『予防教育法』の小冊子だった。)ねられた人々に対してドン・ボスコの教育法とその伝統を実施しましょう」とします。私は、日本とその国民を知れば知るほど、ドン・ボスコの教育法を忠実に実施すれば、すばらしい結果が得られると確信しています。日本の生活習慣を生徒の身に着けさせながらドン・ボスコの教育法を実施しましょう。これに基づいて人と付き合い、それを理解させ、正しく評価すれば、生徒の養成に大きな効き目がある。信仰を土台にし、規則を理解させ、決めたことを説明し納得させ愛情と忍耐を示せば、すばらしい実りが得られる。さらに愛に満ちた喜びを加えましょう。
72 求道者の指導
(宣教師への手紙より 宮崎1931年6月19日)
 求道の期間は、カトリックの教えを学び、キリス( 宣教師たちに、求道者の指導の大切さを説いた。)ト教的生活を身につけるためにとても大切です。洗礼によって神の恵みを与えるだけでなく、地域教会が堅固な土台の上に建てるためにも、求道者が十分な期間に渡ってキリスト教的な生活を公に営み、意識的に神の恵みに協力することが必要である。私たちは求道者を増やすために働き、教えを学ばせ、信者の務めを実行させ、この道を続けられる十分な確信を得たときに洗礼を授けるべきです。その後、個人指導や要理教育を続け、あらゆる手段で養成を深めさせるアフターケアが必要です。そのうえに多くの祈りも欠かせません。 
73 聖骸布の最初の紹介
(機関紙『ドン・ボスコ』1931年7月号より)
 1931年5月、トリノで33年ぶり聖骸布が公開され、師は7月号の機関紙『ドン・ボスコ』に「尊き屍衣(シンドネ)に写されたイエスの御顔」という記事を書いた。日本には聖骸布の最初の紹介である。当時、日本語に「聖骸布」という用語はなかった。参考にしたのは同級生トネリ神父が書いた本であろう。
 今年の5月、イタリアのトリノで33年ぶりの聖骸布が一般公開された。その写真の乾板が現像されたとき、等身大の美しい力強い人の姿が現れた。目を細めて精神を集中してあまり明るくないところで落ち着いて主を考えながら眺めると、はっきりした輪郭はないが、深い感慨に浸らざるを得ない。これこそ、主のみ顔の真の写真である。み顔の上の血の白斑は茨を思い起こさせる。
セム族系の鼻が高く、打たれて腫れている。御顔左右の打撲や、血と汗で固まった髪などが見える。
 我らが感激に堪えないのは、御父のみ旨に従って静かに苦しみをお受けになったこと、柔和な悲しみや温和の中にも権威が表れていることである。お目は閉じられてはいるが、死の感じを与えない。今から目覚めようとする者の目である。
 世の中に無数の画家がいても、筆ではとうてい真似できないような顔である。
その荘厳な御顔より神聖の光が放たれている。これは、私たちのために死んでくださったイエス・キリストの真の姿である。
74 出版物の力
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1931年8月)
 8月1日、ドン・ボスコ社から月刊「カトリック講話集」第一号として『カトリック教の基礎』54ページが出た。それは、1950年まで142号が出版された。チ 教皇さまから出されたカトリック・アクション(マッティ資料館にチラシと共に保存されている。)についての指針は日本で高く評価され、司教や各宣教地区の教区長も日本の社会に浸透するように力を入れて、週刊紙『カトリック新聞』も促進され、日本のカトリック日刊紙の夢も実現するかも知りません。
 サレジオ会は、神のみ摂理により今年小さな「ドン・ボスコ印刷学校」を設
立し、今度は『カトリック講話集』を始めます。ドン・ボスコに倣い、毎月カトリック信者やそうでない家庭にも神の言葉を届けるためです。10月からは、信者でない人のためにも毎月チラシも出す予定です。対象は特に中流階級の公務員、商人、教員、大学の若者です。この人たちは宗教に対する先入観が多く、接触も少ないのですが、いちばん実力のある人たちです。この企画は細かく研究され、各分野で会員や他の人も喜んで協力してくれています。
75 清貧が私たちの旗印
(リナルディ・フィリポ総長へ 高鍋1931年10月10日) 
 貧困の中の会計の方法はどんぶり勘定だった。この手紙で助けを送ってくださっ
たことを感謝しながらユーモアを交えながら借金の支払いを説明する。
 経済や人材面で助けてくださった長上の皆さんに感謝いたします。私も皆さんの困難がわかっています。主が報いてくだいますように!
 今、準管区長チマッティと教区長チマッティの間に対立はなく、会計に関しては共に借金ばかりの状態です。他に支払う方法がないので、教会からの寄付とサレジオ会からの寄付でサラダを作ります。経済的手段を見つけるために毎
日働き、主は貧しさの幸いを味わわせてくださいます。アシジの聖フランシスコと同じように、私たちも清貧を旗印にしています。
76 26聖人の映画
(リナルディ・フィリポ総長へ 宮崎1931年10月15日)
 当時完成された「日本二十六聖人」という映画が国際的に評判だった。無声で語り部が付いていて、チマッティも何回も上映中ピアノに座って音楽を加えて この(いた。)ごろ、帝国の大都会の映画館ですばらしい映画が出回っています。それは、日本の教会に対する迫害時代の興味深い「日本二十六聖人」の映画です。その反響からみて、観衆に深い感銘を与え、偏見を正し、信仰を強め、広める価値があると感じています。紹介されるのは、現在の日本人が好む過去の叙事詩で慮っているキリシタンの文化と宣教師たちの生活です。その中に、聖ペトロ大聖堂で殉教者が列聖された場面、またイタリアも紹介され、政府も技術面で全面的に協力しました。日本人と宣教師が共に信仰のために命をささげ、世界の国々と民族が皆兄弟であることを示しています。
77 大切なのはお金ではなく主だけです
(リナルディ・フィリポ総長へ 1931年12月2日)
 リナルディ神父への最後の手紙。いつものとおり親しみと信頼にあふれるが、リナルディ神父は12月5日神に召され、これを読めなかった。1990年4月29日ヨハ 主は、私を十字架に張り付けてく(ネ・パウロ二世により福者とされた。)ださっています。私たちは完全にそのみ手
にあるが、もし、ローマからも助けが来なければ、人間的に言って希望はなく、奇跡を待つだけです。去年のトルクイストの協力により、今の私たちは借金に溺れている。これも経験、経験です! これで主はお金ではなく、大切なのは主だけであることを悟らせてくださいます。思えば、一年前借金がなかったのに、今は五十万リラの赤字になっています。わが主よ、お助けください!

  
1932年
世界大恐慌中の生存のための戦い
 1932年7月、リナルディ神父の後継者としてピエトロ・リカルドーネ神父が総長に選ばれ、1951年までサレジオ会を指導した。
 世界の経済状態が悪化し、本部もいっそう困難に陥った。借金を返すためにチマッティ神父は銀行からお金を借りるしかなかった。
 日本ではナショナリズムが激しくなり、教会も次第に敵と見なされるようになった。
 これらの困難の中、チマッティ神父はイタリアの聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会の協力を求め、貧しい人を助けるために慈善事業の必要を感じて宮崎の「救護院」を建設するようになった。また、東京への進出も決めた。
* * *
78 リナルディ神父の思い出
 (サレジオ会員への手紙より 1932年1月15日)
 リナルディ神父の最期の思いは日本のことだった。二人の心はぴったりと合って 今日届いた(いたのである。)リカルドーネ神父の手紙から、帰天した総長リナルディ神父がいかに最期まで私たちの宣教地を愛していたかわかります。神父さまは、私たちが困窮の中でも任せられている人々のために尽くしていることをよく存じていた。
私たちのことを気遣い、「そちらで一日が始まる深夜12時から2時まで皆さんのことを思い、共に祈っている」と書いていました。
 次はリカルドーネ神父の言葉。「師はどれほどあなたと兄弟たちを愛していたかご存じでしょう。ご病気のとき、その心のいちばん大きな苦しみは皆さんの状態でした。こちらも大変ですが、助けられないことを苦にして、しばしばそちらのことを口にし、助けられるときを待望していた。ローマが助けてくれたこと聞いて安心し、最期まで皆さんを思い、愛情の中心にしていた」と書いています。
79 歴史を大事にすること
(サレジオ会員の宣教師たちへ 高鍋1932年1月26日) 
 サレジオ会の各支部では日誌を書くことが決まっている。チマッティ神父自身が書いたものがいくつも残っている。彼が勧めるとおり、具体的で模範的である。
 宣教地の歴史のために資料が必要です。だから支部の日誌を大事にするようにお願いします。自分たちのいる地域の歴史の資料を集め(書籍や出版物、写真、珍しいことなど)、何よりも支部と会員の出来事について記録しましょう。
ただ今日会議があった、というような書き方ではなく、どういう出来事があったか、人々はどういう困難に出合ったか、どんな方法がよかったか、人の葛藤
など、宣教地での生きた歴史を記すべきです。そうしないと、私たちの活動のよいところや失敗が忘れられ、将来の人は同じ間違い、同じ無駄なことを繰り返すことになるのです。
80 困難の中にも明るさを失わず
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 1932年2月4日)
 チマッティ神父の特徴は快活さであった。コンサートのときにそれが目立っていた。この1月中、中津、日田、高鍋で10回もコンサートを開催し、それにテノー 私の幸せは、負っている(ル島田龍之介も参加した。)責任をもたないことですが、神のみ心が行われますように! 
 それにしても、食欲、明るさ、落ち着きを失っていると思わないでください。私はいつも陽気です。特にコンサートで暴れるとき、大変陽気です。1月には
10回もコンサートをやりました。
 気になるのは、他人が苦しむこと。ある人は「食べなくてもよいが、宣教活動は止めたくない」と言っています。主は、必要なものを欠かせることはないでしょう。きっとそうなるはずです。

1932年4月17日 夙川教会献堂式で
81 極限の困窮の中S.O.S.
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 1932年3月10日)
 経済状態は最悪になった。どこに頼んでも援助が来ない。最後の希望は、本 神父さま、大変な状態です。困窮で(部の長上だった。もし可能であれば…。)危機が頂点に達し、神のみ摂理の助けがとても必要です。ここは毎日死活問題です。長上の皆さんから「できない」と、イタリア政府からも、教皇さまからも返事がない。信仰が足りないわけではないし、やる気持ちはあって、手がけた事業も減らしたくない、むしろ増やしたいぐらいです。熱心に祈っています、主も求道者を送ってくださっています。
どうか神父さま、お祈りとご指導をください。またもし可能であれば・・・。長上の皆さんも同じ状態でしょうが、ここは葬儀場になりそうです。この手紙を書いたのはそのためです。S.O.S. !
82 神父は、心の父であるべきです
(サレジオ会の宣教師たちへ 宮崎1932年4月12日)
 チマッティ神父は教区長として全国の司教会議に参加し、その場で経済問題と神社参拝の問題が話し合われた。実際、事件が起こっていたのである。また神 皆さんは、人の自尊心が傷つきやすい(父が取るべき態度についても指摘された。)ことをご存じです。きつい言葉で人を叱ったり、特に公に注意したりすると、人の魂を勝ち取ることはできません。神父は、心の医者だけでなく、心の父でもあります。病を治すために明確なことを述べる必要もありますが、日本人の親切な表現を使い、命令するよりも諭すようにすべきです。信者の務めを説明するとき、「しなさい」と言うよりも「しましょう」と言いましょう。共に歩んでいることを示すためです。皆をキリストへ
導くために日本人の礼儀作法を身につけ、できるだけ日本人になるようにしましょう。
83 日本人の宗教心
(リカルドーネ・ピエトロ副総長へ 1932年5月1日)
 イタリアのサレジオ会ニュース1932年9月号には日本の宗教についての文書が 日本人が信(記載された。)仰をもっているかというのは興味深い問題である。日本には、どこにも寺院、神々の像、礼拝所、巡礼所が見られ、各家庭に神棚や仏壇があり、家庭や寺院でも儀式が行われる。月ごとや年ごとにいろいろな祭りが祝われ、宗教は自由に広められる。
 私が思うには、その信仰は私たちが言う神に身をささげることではなく、他人に信仰を伝えることでもない。神々についての教えは伝統による、教義もはっきりしない。信仰は、理性ではなく、想像と感情を中心とする。日本人は、確信を得るところまで信じないし、否定するところまでもいかない。自然そのものを神とし、神道はそれを善と見なす。仏教はそれを無や苦と見なす。あまり疑わず、余計な研究もしない。感情と想像を誘う単純な儀式を行う。平凡で軽い宗教的な雰囲気の中に生きる。小滝、形の変わった岩、壮大な松の木のもとに神を飾り、家のそばの実った田畑の中に何気なく案山子も置く。この

1932年7月 高鍋にて
素朴な信仰の表現と共に壮大な寺院と厳かな儀式を組み合わせるのである。 
84 若者の生き方
(タシナリ・クロドヴェオ神学生へ 1932年6月10日)
 タシナリ神学生は実地課程のために大分教会にいて、同僚との付き合いに困難を感じていた。また若者として心の中の戦いも体験していた。以下はチマッティ あなたは自(神父の勧め。)分の周りは暗い、仕事の結果が見られない、指導が足りないと言うが、ある意味でそうであろうと思います。あなたの経験のために主がこのような困難をおゆるしになります。人間には、理論と現実があって、しばしば一致しない。私たちは、あるべき姿ではなく、あるがままに人を受け入れるべきです。一人ひとり、神の前で自分を改善し、兄弟が改善できるようにも協力もします。
 あなたが感じる誘惑は、一生の間続くでしょう。傾向は自然です。イエスさまに学びなさい。主にも友人がいて慕っていたのではありませんか。あなたは主に自分を委ねなさい。自分はイエスさまの愛にふさわしくないと思うな。そ
れは傲慢です。イエスさまと親しく感じるように、家族や友人にも親しく感じるようにしなさい。あなたが心の中に体験している戦いは珍しくない。それは、成長のために主がゆるされるものです。あなたのような若者は、皆、真面目に生きるためにその戦いを体験しています。快活で安心して進みなさい。
85 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会始まる
(聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会会長へ 宮崎1932年7月14日)
 イタリアのボローニャにある聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会の会長宛。宮崎に
はその会の精神に従って社会福祉活動を始めていた女性の小さなグループがあり、その団体に加盟されるように願っていた。そこから後にイエスのカリタス修道会が 拝啓。設(生まれた。)立してまだ年数が浅いこの宮崎の宣教地は、身寄りのない年寄りのための養老院を企画し、その実現のためにご協力を願いたいと思っています。
私たちは、皆の協力を必要としています。以前から小さな聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会を開始し、キリスト教でない環境に信仰を浸透させるようにしています。異教徒は難しい理論がわかりませんが、貧しさ、病気、日常生活の困難を助ける教えがあれば、その教えに感心し、受け入れる気持ちになります。
 ここは貧しい人が多く、彼らは訪問して助けてくれる人の信じる神がよい神であると信じ、数多くの神の中でその神を受け入れる気持ちになります。養老
院は物質面だけでなく、その信仰も育て、人生の最期に彼らを救いへ導きます。
そのよい結果は、家族にも、社会の有力者にも影響を与えます。
 今度実現される救護院によって、私たちはキリスト教の無償の愛を証します。日本人は、国のために尽くすすべての運動を歓迎しますが、皆さんは、この経済危機の中にいるたしたちの貧しさをお助けになることによって、神さまの栄光を実現できることになるのです。
86 日本はいつカトリックになるのであろうか
(イタリアのサレジオ会ニュースに 1932年9月15日)
 イタリアのサレジオ会ニュースに記載するために書かれた。
 日本におけるカトリックの立場を理解するために、ローマ時代の異教徒と初代教会の関係を考えればよい。当時、信仰と国益の関係を理解できなかった。
 日本も、カトリックの信仰が外国のものではなく、普遍的で、先祖や国家に対する愛と尊敬を排除せず、むしろそれを清め、活かすものであることがわかる必要がある。よい日本人であってこそ、よいカトリック信者になれると。そのとき、この国民は進んでカトリックに向かうであろう。私はたゆまず次のことを繰り返す。宣教師たちは、特に若者に力を入れるべきだ。今、若者たちは科
学主義の教育に対してもの足りないと感じて、より高い理想を探し求めている。それを見いだせるのは、カトリックの教えの中である。そのために仕事、仕事、大変な仕事が私たちを待っているのである。
87 人材を頼む、特定の人を頼まない
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 高鍋1932年9月27日) 
 この手紙は、5月に総長に選ばれたリカルドーネ神への最初の手紙。その中か
 親愛なるリカルドーネ神父さま、総(ら人材に関する部分だけを紹介する。)長としての最初のお手紙への答えです。
 今年、新人材が派遣されないとは残念です。宣教地にとって大きな打撃です。
将来のため期待しますが、私はことわざのとおり、「明日の鶏より、今日の卵がよい」という考えです。
 将来派遣される人についての個人的な情報を送ってくださるようお願いします。私は、特定の人ではなく人材を頼みます。皆さんは、派遣なさる人についての情報をおもちでしょう。願うのは、性格や内面のことではありません。欠点は、私をはじめ、皆もっています。宣教地で働く人についての理想はありますが、現実の人はあるべき姿ではなく、あるがままの人です。宣教活動のために献身的に働くことだけが、私たちにとっての喜びです。
 経済に関しては、今ぶどう酒が高いので止めることにしています。おやつは去年から止めています。今度は、一日おきの食事にしようかなあ! さあ、喜びましょう! 主が計らってくださるでしょう。
 親愛なるお父さま、ご助言、お祈り、またできれば資金をもってお助けください。
88 宣教師が守るべきこと
(サレジオ会の宣教師たちへ 宮崎1932年10月1日)
 別府教会のカテキスタを務めていた信徒の発言により、チマッティ神父は宣教師たちと日本人信徒との関係を考えさせられた。次は宣教活動と土着化を考える
 黙想会中話し合っ(ための助言である。)たこと、また外から得た情報をお伝えします。
 私たちについて言われるのは、日本人部下に対して態度がきつい、忠告が多い、早急であること。人がやることに対して不満を示し、いつも叱っている印象を与える、と。ときどき個人の欠点を一般化し、日本人全体の欠点とすること。ときには悲観的で、行き過ぎた判断をしている。
 日本語を勉強し、歴史を学び、少なくとも自分の住んでいる地域の名所、習慣を知るようにし、地域の祭りや日常の出来事に参加し見学することが役立ちます。
 教会学校に関しては、家庭や学校とのつながりを深め、時間割を通知すること。子どもたちに教会が好きになるように親切に付き合い、信者でない子に対して信仰を押し付けないで、まず教会の友、シンパにすること。友だちになったら、知りたい好奇心が生まれたら、神の恵みが働くようになるでしょう。
 人からの忠告を受け入れ、自分自身を改善するようにしましょう。
89 チマッティ神父は同僚を守る
(ティローネ・ピエトロ神父へ 高鍋1932年11月4日)
 新しい最高表議員の霊的指導担当者は、軽いてんかんを患っていたリヴィアベッラ神父のことを問題にした。医学に詳しいチマッティ神父は、この立派な同僚 神父さまはリヴィア(を毅然として守った。)ベッラ神父のてんかんのことを気になさっていますが、私の考えでは軽い程度のものであり、てんかんよりも(その症状があっても)神経症的な部類のものです。したがって、私はこのためにミサを停止させる必要はないと判断します。教会法では、「司教は賢明な判断」に基づいてミサを立てる許可を与える権限があると定めています。この場合、それは私です。私はこのままでよいと判断します。
 もし、神父さまが「これは間違いだ、違反だ」とおっしゃるのなら、長上として本人を帰国させ、責任を取ればよい。私は7年間も毎月長上に報告してきましたが、今までは教会法を持ち出したのは神父さまだけです。私の考えでは、もし本人がてんかんではないなら、このような命令で本当にてんかんになってしまうのでしょう。
90 東京への進出が決まる
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1932年12月7日)
 事態の急な展開により東京の新事業が決まった。扶助者聖母修道女会の本部から宮崎の幼稚園を購入する代金が届いたことが大きい。経済的困難は、一時 よいニュー(解消された。)スがあります。イタリアのことわざのとおり、「バラなら咲く」10のです。東京の司教は、三河島教会を任せたい、と言ってきました。承諾しないと、司教、教皇庁使節、東京の多くの友人との関係はだめになります。東京への進出は必要です。来年、そこに印刷学校も始められます。マルジャリア神父はアメリカから戻ってきて、そこで着任する予定です。引き受けるために長上
の皆さんの承認を必要とします。資金は願いません。司教は何年も待っていて、
「チマッティ神父、会員を派遣することを恐れずに、手続きを完了させるから早く始めましょう」と急いでいます。神父さまが「上京しなさい」とおっしゃれば、私たちは神武天皇のように勇んで宮崎から上京します。
91 「救護院」の落成式と新事業
 12月18日、宮崎の「救護院」の一期工事が落成された。指導者としては、(日誌より 1932年12月18日) 
10  良い木ならいつか実るという意味。
後に宮崎カリタス修道女会の初代総長となったマリア長舟タキが決まった。彼女
 今日、救護院の落成式。飾りなどの準(の息子は中津小神学校の志願者だった。)備は全体的に貧しい。招待者200人、貧しい人100人、教会の信徒とサレジオ会員も参加し、市当局から満足に満ちたお祝いと絶賛の言葉。これからは実行。
 トリノの本部から、東京三河島教会の許可が届いた。都城にも教会を開設する。
 私たちが受けた物的霊的賜物にふさわしくなるように、主よ、お助けください!
 仕事が増え、大きな犠牲が必要となる。どんな犠牲を払っても獲得した場所を失ってはならない。

1933年
世界大恐慌の中の事業の発展
 1月にチマッティ神父は、経済的困難にもかかわらず、宣教の発展を図るために東京の三河島教会に進出し、宮崎県では都城にも教会を始めた。
 同時に救護院に最初の老人を迎えた。7月にはその中に幼年部も併設された。 3月27日、満州撤兵勧告を不服とした日本は国際連盟を脱退。軍部が力を増し、ナショナリズムはますます強まってきた。
 5月に宮崎で待望の小神学校が着工され、11月に中津にいた志願生が移動してきた。同時に高鍋にいた神学生も宮崎に移り、高鍋には教会を始めた。
 7月末、実地課程を終えた神学生は、神学の勉強のために香港へ送られた。
 10月にカヴォリ神父が資金集めのためにイタリアへ帰国し、1年半不在になった。
同じときに東京で職業学校の工事も始まった。人材不足でチマッティ神父は大幅に仕事を引き受けざるを得なかった。
* * *
92 宣教師は他人の幸せを喜ぶ
(タシナリ・ヴァスコ神学生へ 1933年1月6日)
 チマッティ神父の教え子で、タシナリ・クロドヴェオの兄ヴァスコ神学生は、日本へ派遣されなかったことを気にして手紙を書いた。これはチマッティ神父の返事。
 ご安心しなさい。宣教師は、自分の任地よりも他の場所に手段、人材、実りが多くても妬みません。私たちは、イエスさまとその栄光、また自分と人々の救いを考えるべきです。長上は、私たちの困難をよくご存じであるにもかかわらず今回人材を送ってくれませんでした。それでも、東京と都城に新しい事業が始まり、おそらく小神学校も始めることができます。別府ではマリアさまへの聖堂も計画中です。ああ、私たちにもっと信仰があって、聖人になっていれば! 聖人にならないなら、イエスさまから厳しく裁かれることになるでしょう。

1933年1月31日 東京のシャンボン司教と共に 三河島教会で
93 私は貧しいが、忙しくない
(カヴィリア・アルベルト神父へ 1933年4月26日)
 ドン・ボスコ研究で有名で、チマッティ神父の親友であったカヴィリア神父は、
友人が貧しく、仕事に追われていることを心配していた。
 神父さまはこちらの貧しさをおっしゃるが、周りの人と比べれば、私たちは金持ちです。チマッティ神父は「何も持たずに、すべてを持っている」という聖パウロの言葉のとおりです。大変な危機にあったときも「何を食べようか」を心配したことはありません。心配したことがあるとすれば、「何を食べさせようか」を考えたことですが、そのときもイエスさまがおっしゃった「何よりも神の国を求めなさい」という言葉を信じて、信頼を失ったことはありません。そしてイエスさまは私を見放しませんでした。ああ、イエスさまの教える信仰があったら! 私は子どものようにみ手に身を委ねる、いつも助けられました。これで金持ちと言えるではありませんか。
 ご安心ください。私には「忙しい!」という言葉は理解できません。無意味です。たくさんの仕事がある人はその言葉を使いません! 仕事があるからと言って、愛徳の業が不要だと思わないでください。私にとって神父さまの手紙は安らぎとなります。
94 神の計らいを信じる
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1933年5月15日)
 本部の長上は新しい事業を始めたチマッティ神父が無理をしていると心配した。
 神父さま、ご安心ください。私は無(彼は自分の信念を理解させようとした。)理をしません。計画を立てることと、実
行することは別です。皆さんがおっしゃるとおり、チマッティ神父は断ることを知りません。可能なことなら、また会則の精神に反しないことなら私は断りません。私に辛いのは、日本が明治時代から70年だけで有力な国になったのに、十字架にかけられたイエスがまだ知られていないことです。私たちが長上の指示に従っているのに、何が問題でしょうか。救護院のことか。現在38名を養っていますが、神のみ摂理がすべてを計らってくださっています。私は、ドン・ボスコを信頼しています。農学で言う「硬い種はいつか芽生える」という理論
はそうです。私たちのモットーは、「蒔きましょう、蒔きましょう。何かなるでしょう」ということです。困難は、貧しい者であるということですか。そのほうがよいでしょう。もしドン・ボスコの精神から離れれば、災いです。私は、貧しい者である限り、何も恐れません。イエスさまがすべてを与えてくださるからです。
 
95 ついに宮崎小神学校の着工
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 33 年6月11日)
 チマッティ神父は邦人人材の養成が死活問題だと信じて中津で臨時小神学校を始めたが、ついに宮崎で本格的な小神学校の工事が始まった。それに未来が
 5月24日、雨の中、(かかっていたのである。)新しい小神学校の起工式が行われました。神に感謝! 
5年間の努力が実って、暁が見えてきたのです。今年の9月、青空の日に落成式ができることを希望しています。
 東京の三河島教会の認可も下りて、教会学校の生徒は400名、夜間学校は 80名になっています。万歳! 将来、あなたが日本で働けるようになったら幸せです! かわいそうなチマッティ神父はいつもテーブルに座って手紙を書く仕事だけです。み心のままに!
96 神学生が香港へ派遣される
 日本と中国が対立していたにもかかわらず、本部の決定で来日した6人の神学(神学生A・Bへ 1933年9月6日)生が神学の勉強のために香港へ送られた。懸念していたとおり、最終的に3人だ お手紙ありがとう(けが日本に戻った。)。主は、勉強したい決心、何よりも生活を改善したい決心を受け入れてくださっています。あなたには、自分に打ち勝つことがとても必要です。特によく現れるその悪い性格、怒りっぽい、批判的、思うようにいかないと憎しみを抱くという態度。それを改善しないといけないのです。
 出発するときに後悔もノスタルジーの涙もなかったと言う。仲間たちもそうだったと君は言う。若者たちは、場所が変わればよりよくなると思い、目的が近づいたので喜ぶが、もし、心の中に日本のノスタルジーを感じないなら、神
が委ねてくださる働き場を愛していないことのしるしです。これは、よくないことです。そうならば、日本に戻らないほうがよい。わが子よ、考え直しなさい。
日本を離れるのは、神のみ心を行うためだと言いなさい。そうすれば、チマッティ神父も十点満点を与えましょう。お元気で、勉強の困難を乗り越えるようにしましょう。
97 カヴォリ神父は募金のためにイタリアへ帰国
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1933年9月23日)
 救護院が始まったばかりで責任者だったカヴォリ神父が募金のためにイタリアに戻り、一年半、リヴィアベッラ神父とチマッティ神父が全責任を負い、勤めていた 健康の理由でカヴォ(女性たちを指導した。)リ神父に一時帰国を許可します。10月10日出発、11月 3日ヴェネツィア到着の予定。同神父は、7年間宮崎教会の重荷を背負って心臓を患い、神経もいらだち、人間関係が難しくなることがよくあります。性格が強く、熱心です。いろいろな問題を解決し、新しい事業も始め、もしこれが
定着すれば、将来、立派な実りが期待されます。心臓病のため彼は不眠になり、生活全体が落ち着かなくなります。今回の帰国は宣教地の経済的な困難を助けるためになるでしょう。特に始めたばかりの救護院と孤児院の土台を固
めるためになるでしょう。カヴォリ神父は、この事業に向いていて、よくやれると思います。長上の皆さんのご協力をお願いいたします。神に感謝! これから神がお計らいになりますように!
98 職業学校の着工
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1933年10月3日)
 この時点で、東京の職業学校の計画が固まり、募金のためにアメリカに行っていたマルジャリア神父が戻ってきた。現在の下井草教会隣接の土地が購入され、
 東京の司教は、三河島に職業学校を併設するこ(大分の印刷学校がそこに移転する計画が固まった。)とは無理だと判断し、事業の将来と発展のため違う案を提示するように勧めています。今、妥当な価格の用地に目をつけ、2、3年したらその土地は大変値上がりすると言われています。まず、大分の印刷学校を東京に移転させることを提案します。これはいちばん実践的で緊急なこと。宣教の保護者幼いイエスの聖テレジアの取り次ぎに計画を委ねます。
99 小神学校を宮崎に移転する
 中津教会にいた小神学校生が現在の日向学院の場所に移転。近くに救護院(日誌より1933年11月4日)があった。チマッティ神父直筆の名簿によるとそこに合計105名が養成された。
 今日、聖カルロの祝いに、中津から志願者が宮崎の新しい小神学校に入った。未完成の建物なので少し不便であろうが、皆が犠牲の精神に慣れることは大切である。駅へ迎えに行く。
100 人材不足を補う
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1933年11月18日)
 イタリアから4人の若い神学生来日。期待より少ない。本部の不手際で税関で高い金額を請求された。宣教地で人材が最小限になって、チマッティ神父は仕 無事に神学生が(事に追われている。)着きました。何とかして小神学校に泊めることにしました。昨日、使徒職へ出かけるために宮崎支部からお金を借りました。これが現状です! 予定しなかった出費がかさんだからです。
 長上が各支部の人数を強化するようにとおっしゃるから、人材が足りないので田野を閉め、高鍋の神学校を宮崎小神学校に移しました。正直に言って教区長として良心の呵責を感じます。毎日授業をする責任もありますが、他の務めが重なるとき授業は中途半端になります。どうすればよいのでしょうか。全
部閉めましょうか! 決して失望してはいませんが、責任を感じます。信者のことを世話するために土曜日は使徒職に出かけ、日曜日は不在になるので神学生の養成を神に任せます。私よりよくやってくださるでしょう! 何回も長上に現状を訴えましたが、すべてが整っている他の宣教地を見るとうらやましく思います。こちらも人間です。
 チマッティ神父は十分に頼まなかったのでしょうか。トリノに手紙がある。書きすぎるとも言われます。これは私の務めです。今後もそうします。お願いです。
教える人を送ってください。始めた事業を支えるために助けてください。とがめるべきところがあれば、おっしゃってください。なお、私が良心上賛成できないこの状態から解放してください。
101 貴重な標本が届く
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1933年11月21日)
 来日した神学生に託してグリゴレット神父が貴重な標本を送ってくれた。チマッティ神父は小神学校の教材として使った。今その多くはチマッティ資料館に展示さ 神父さま(れている。)、神がいらっしゃるから宣教地のことで心配しないでください。多くの人は宣教の大切さがわかりません。彼らはドン・ボスコも教会史も知らない
1934年
ドン・ボスコの列聖 収穫は多いが働き手は少ない
 1934年、世界恐慌の他に北海道、東北地方の大凶作が起こり、労働争議、農村の小作争議が続いた。また日本陸軍(関東軍)は満州を軍事占領し、6 月1日文部省に思想局が設定され、国粋主義的な傾向が強まった。12月に南九州の軍部の扇動によりフランシスコ会が鹿児島と奄美大島から追放された。
 1月28日、小神学校の正式落成式が行われた。
 4月1日にローマでドン・ボスコが列聖され、日本各地でその祝いが行われた。
 9月10日より、チマッティ神父とマルジャリア神父はコンサートのために満州と韓国を訪問。
 12月8日、東京で職業学校の建築が完成され、大分の印刷学校が移転した。 このあわただしい状態の中に事業が増え、働き手不足はいっそう感じられるようになった。
 チマッティ神父は宣教師、神学生、志願者、救護院職員の生活費などのことでいっそう困窮状態に陥った。
* * *
103 ドン・ボスコ列聖の祝い
(チマッティ神父の講演より 1934年4月29日)
 4月1日、ローマでドン・ボスコが列聖された。東京の関口教会カテドラル聖堂で荘厳なミサが行われ、夕方、東京時事新報講堂の式典でチマッティ神父、田中幸太郎氏、マレラ大司教の行った講演が「カトリック講話集」41号に記載 ドン・ボスコは良識の人であった。労働に道徳(された。チマッティ神父の講話の一部を紹介する。)を導入し、教育の基礎として
キリスト教思想を置き、人間関係にキリスト教的兄弟愛を入れた。彼は、貧しく見放された青少年の救済と教育に尽くす団体を創設し、教会の活性化のた

1934年8月 苦労で次第に髭が白くなるチマッティ神父
めに信徒のカトリック運動を起こした。……
 社会を改革するには二つの方法がある。一つは不良分子を根絶すること。もう一つは善良な要素を育て強めること。ドン・ボスコは、決して、第一の野蛮な方法を採らず、第二の方法に命をかけ、善によって悪に勝つようにしたのである。破壊する人ではなく、建設する人であった。使った武器は愛である。善を求めるがゆえに悪を憎んだが、人間を憎まず、必要なときに敵も助けた。常に進歩を目指し、現実を踏まえながら理想を目指した。大胆で冒険的だった。躊躇せず、冷静に確実な足取りで進み、目的を目指した。ある人から無謀だと非難されたが、彼は世間の噂を気にせず計画達成のために進んだ。 ドン・ボスコは熱心に働き全力を投棄し、「少し休んで、休日を取りなさい」と勧められたとき、「天国で休もう。悪魔が霊魂を滅ぼす仕事を止めれば、ドン・ボスコも休む」と答えていたのである。
104 ドン・ボスコは教育者である
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1934年6月1日)
 チマッティ神父は、あらゆる方法で教育者ドン・ボスコを紹介するようにした。
 キリスト信者でない人が「聖人」ドン・ボスコという名前を聞けば、「どのような神さまですか」と聞くかも知りません。日本という特殊な環境で、ドン・ボスコを理解してもらうためには、教育者として紹介すればいちばんよいと思います。教育は、国の発展の原動力となる基本的な問題です。ドン・ボスコを現代の優れた教育者として紹介すれば、日本人にはよくわかります。青少年のために献身的に尽くした人なら、日本人には魅力的です。特に教育理論だけでなく、教育に実績をあげた人は皆から尊敬されるのです。
105 教区長の辞職を願う
 この時点で、日本のサレジオ会の準管区長と大分・宮崎布教区の教区長を(宣教聖省へ 1934年7月24日)重ねていたチマッティ神父は、聖座に教区長の辞職願を提出したが、教皇庁使
節マレラ大司教が修道会の長上と話した結果その願いは却下された。
 閣下、私は以前から自分の心情を打ち明けたいと思っていました。健康は神のお恵みにより良好ですが、もっと活用できる状態であれば、さらによくな
ると思います。そのため、教区長の任務から解放されて、部下として働かせてくださるよう切にお願いいたします。日本でも、貧しい宣教地でも、犠牲を要する場所ならどこでも結構です。長上としてではなく、神の愛のために働ける立場をお願いします。それは、この任務の犠牲を避けるためではなく、むしろ、神の前でこの長上職に向いていないと確信しているからです。これこそ、私の良心上の悩みです。私が思うには、ここの宣教師は誰でも、私より上手に働きます。私がこの手紙を書くのは、指導力がなく、経済や経営の経験もないからです。
106 満州でのコンサートへ
 難しい状況の中にあったメリノール会の満州教会は、チマッティ神父にコンサー(日誌より 1934年9月11日)トを頼んだ。政府が旅の便宜を図り、二人で訪れて満州の主な町を回った。
 満州のカトリック教会の責任者たちから招待を受けたので、マルジャリア神父と一緒にコンサートを開催するためその国を訪れた。現地のカトリック教会に注目を集めるためであった。今、教会は新体制により教育、宗教、行政面での改革に直面し、準備がない宣教師たちはデリケートな立場に直面している。私たちは、いろいろな人との関係が結べるように助ける。音楽は満州にも喜ばれ、他の方法で宣教師に開かれない門が音楽によって開かれる。教会は難しい状況にあって、今まで自由に行動ができたのに、新しい法律により規制され、自由に行動できなくなる危険がある。実際、すでにそうなっている! 主が私たちを祝福し、その栄光のためになりますように! 
107 北朝鮮でのコンサート
 日誌から当時の北朝鮮の教会の情報も知ることができる。教会は盛んで、若(日誌より 1934年9月27日)者が多く、よく協力していた。コンサートのポスターとプログラムも残っている。  私たちは、広州との境にある新義州を訪問した。メリノール会の宣教師が若者のために立派に働いている。要理教育のために昼も夜も学校がにぎわい、日本で考えられないような風景である。日曜日はちょうど韓国の殉教者の記念日。教会の集会に韓国人の信者が多く、数少ない日本人信者も参加し、このイベントに喜んでいた。人々は我先にコンサートのプログラムにサインを求めてきた。 
 今、平壌のモリス司教のもとにいる。若いメリノール会の宣教師たちが精力的に働き、よい実りを得ている。日本と同じように神社参拝の問題が感じられ
る。実りが少ないと嘆いていた宣教師に、若者のためや福祉事業のために働くように勧めた。コンサートは大成功で宣教師は大満足。これにより宣教師は市当局、また教会に顔を出していなかった数少ない日本人のカトリック信者と関係を結ぶことができた。
108 韓国でのコンサート
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1934年9月29日)
 ソウルでのコンサートは満席。青年会が準備し、利益は教区の福祉事業にあてられた。大邱でもコンサートをやったが、大雨の中で100人程度の出席者だけ
 今、韓(だった。)国にいます。宣教師と修道者はびっくりするほどドン・ボスコを愛し、近いうちに韓国語のドン・ボスコ伝が出るそうです。私たちにとって大喜び。キリスト教が深く根ざしているこの国には、ドン・ボスコが私たちより先に入り、サレジオ会の事業も遠くない日に入れるでしょう。
 韓国にキリスト教が入った経緯は教会史に例がないほどの不思議です。直接に宣教師によってではなく、神の計らいにより信者がもたらしたものです。そ
の後、過酷な迫害によっても消されませんでした。私たちは、神学校を見学し、その中の秩序、若い神学生の信心深さと明るい姿に感心しました。韓国のカトリック教会の明るい将来を考えて希望と喜びに満たされました。宣教師たちは、教えるためにカテキスタをよく活用していて豊かな収穫を得ています。4カ所でコンサートを開催しました。豊かな実りがあることを祈ります。
109 目の前に重なる困難
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1934年11月14日)
 軍部支配下のナショナリズムが強まり、カヴォリ神父不在が伸びてチマッティ神父の仕事も経済的負担も重なり、布教区の将来を保証するために邦人修道女会 政府は軍部に屈し、(が必要だと強く感じた。)その圧力により鹿児島のある村の信者が宣教師を追い出す要求に署名した。カナダ系フランシスコ会が手を引き、代わりに日本人司祭が入る。宮崎にも影響する可能性がある。
 カヴォリ神父は長上の許可を得て健康の理由でイタリア滞在を延期し、本人も自分の難しい性格を認め、チマッティ神父との関係も、救護院の問題についても長上に話したと言う。
 チマッティ神父はNo! と言えない人。よいこと、積極的に働く人を見ればそれを促進する人です。これは指導のよい方法ではないかも知れませんが、私には他の方法がありません。だからこそ、長上が私の願いを受け入れてくださるように願いました。現在「救護院」にいる75人の老人中、20名は市役所が、残りは布教区が生活費を負担しています。家の仕事や看護に従事する 15になるかも知りません。名の若い女性も皆布教区が負担しています。彼女らは、将来、邦人修道女11その他に貧しい子どもたちがいて、彼らも皆布教区から生活費を受けています。これが私たちの今の状態です。
110 職業学校もできた!
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1934年12月1日)
 12月8日東京練馬区にできた職業学校にサレジオ会員が入る。開校は4月。名前は育英工芸科学校とされた。12同じ敷地に修練院と神学校、また戦後カト 近日、マルジャリア神父(リック下井草教会もできた。)は東京の新しい職業学校の建物に移転します。正式の落成式は1月31日の予定です。その後、すぐに「修練院」の着工、続いて、主が資金を送ってくだされば、神学校の工事も始まるでしょう。ところが、職業学校を開校することによって、布教区はさらに3人を失います。布教区の人材は最低限になるのです。主はこの状態をご存じですから、助けてくださるでしょう。
111 教会に潜む危機
 政治の問題に関して、チマッティ神父はドン・ボスコがサレジオ会員に与えた(日誌より 1934年12月20日)指示、すなわち、「天におられる私たちの父」の政治に従うようにと勧めた。
 今日、鹿児島に駆けつけた。そこには迫害にいたる危険があり、非常にデ
11 チマッティチ神父はすでにこの時点でその可能性を見ていた。
12 そこから現在のサレジオ工業高等専門学校が生まれた。
リケートな状態になっている。論点は、アメリカからの外国人が国防に重要な地域にいることだけではなく、「宣教師たちが国民の精神を歪める」と言われることである。これは、フランシスコ会員にとって大変な訴えであるが、他の宣教師についても言われる危険がある。そうなれば、どういう結果になるか明らかである。サレジオ会員は、ドン・ボスコの教え、また私たちの伝統に従うべきである。
112 市民としての務めを果たすこと
(宣教師へ 1934年12月21日)
 皆さんは、今、南九州に起こった悲( この機会に会員に次の指示も与えた。)しい出来事を念頭に置いて次の大事なことを守りましょう。
- 話す、書く、写真機を持って出かけるとき、最高の慎重さを用いること。
- 異性との付き合いについて同様に注意を払うこと。
- 地域に権威ある方々と一致を保つこと。
- 国の行事、歴史の記念、お祭り、慈善事業、学校のいろいろな行事に参加すること。
- 説教、講演などにおいて忘れずに信者に対してカトリックの立場から国民としての務めを説くこと。
- 国旗掲揚など、愛国心のいろいろな行事に個人として参加し協力すること。
- 私たち自身、歴史、文化、社会習慣などをと通して日本の精神を勉強すること。
 もし積極的にこの道を歩めば、主の恵みによりすべては何とかなるでしょう。

のです。私は大した宣教はできませんが、学校で教えながら宣教のために働
いているつもりです。主はごらんになっています。イエスさまのために働きましょう。それに対して何かを言う人がいれば、そのまま言わせておきましょう。
 今、税関で調べられた物を梱包から出し始めました。私が立ち会っていたので2、3個だけで済みました。鉱物はすばらしい! 梱包も完璧! 今度はきれいな棚を作り展示します。お返しとして何かを送りましょうか。助けてくれたサンドリーノ君を褒めてください。
102 日本の子どもたち
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1933年12月31日)
 毎月イタリアのサレジオ会の機関誌にこのようなニュースを送っていた。
 日本では、子どもは家庭の王様。美しい彩りの着物を着せられて、皆から可愛がられている。邪魔しても、物を破っても、礼儀を守らなくても、すべてゆるされる。今、保育を助けるために幼稚園や保育園もできています。義務ではありませんが、子どもは数多く通っています。
 救護院の幼児部の保育は若い女性たちの指導のもとで家庭的に行われています。彼女らは、献身的な気持ちでこの愛徳の業に従事しています。今、30 名ほどの子どもたちがいます。
 クリスマスのお祝いにあたり、主は天皇陛下にも待望の御世継ぎをお送りになりました。日本の国民を喜ばせてくださったのです。天皇家と全国民の喜びを想像してみてください。今月29日、古事記の伝統に従ってお子さまの命名式が行われました。「明仁」というお名前です。全国民のためにすべての意味で明るい未来をもたらしますように祈ります。


1935年
チマッティ神父「知牧区」の教区長
 1935年1月、チマッティ神父、「知牧区」となった宣教地の 「教区長」 となった。
 来日した6人の神学生が教会近くの家に住み、チマッティ神父はその院長となった。
 4月1日、東京育英工芸学校が正式に落成し、新入生を迎えた。
 同12日、カヴォリ神父がイタリアから戻って救護院の拡張工事が始まった。
 同25日、聖座の同意を得たので、司教会議が神社参拝を容認した。
 6月4日、41歳のピアチェンツァ神父が帰天。人材不足いっそう深刻になった。
 9月29日、救護院の第二期工事が落成された。
 11月11日、宮崎にいた神学生が東京に移転し、東京の大神学校に通うようになった。
 12月27日、東京で最初の邦人5人が修練期を始めた。
* * *
113 名誉職の衣装はごめんだ!
(教皇庁使節マレラ・パウロ大司教へ 1935年2月11日)
 ついに宮崎・大分の布教区が「地牧区」、準教区となり、チマッティ神父はその教区長となったが、本人はその職の飾りを拒否する。名称も使わず、使ってほ お便りに対し(しくないと言う。)てどのように感謝を表せばよいのでしょうか。私はローマにも長上にもその意味の手紙を書きました。同時に、任命されたことに対して遺
憾の意を表明し、良心に従って言うべきことを申し上げました。使節閣下はどうして私を推薦なさったか、ローマの宣教聖省はなぜそれに応じたか、私の長上はなぜそれに賛成したか(もし関係したなら)、それを判断することは私

1935年1月11日 神戸についた新しい人材。右から3人目の黒い髭の人物はバルバロ神学生
の立場ではありません。いずれにしても、チマッティ神父はどんなことがあってもそういう役職の飾りを身につけません。文書にサインするときもMonsignore (閣下)という名称を使うつもりはありません。私は、今後も今のままです。変わることはできないのです。もし、その名称で呼んでくれる神学生がいたら、私が笑いながらするように、蹴っ飛ばします。それは正当防衛ではありませんか! 私は仕事を倍にして、今までのとおり進みます。 
114 日本の教会の未来を懸念する
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1935年3月6日)
 日本の教会は非常に危機的な時代に向かっ( 日本のナショナリズムのことを懸念すると言う。)ています。うまくいけばよいが、でなければ予期せぬことも起こりえます。外国人に対して嵐がますます激しくなりそうです。特に気になるのは、カトリックの宣教師が日本の精神を歪めると言われること。これでどうなるかおわかりでしょう。 一応、静観するようにしましょう。今のところ、私たちは祈りながら、ドン・ボスコの勧めに従って仕事を続けます。すべて書けませんが、もっと大変な困難がありうるのです。
115 神学生への励まし
(タシナリ・クロドヴェオ神学生へ 1935年3月27日)
 香港で勉強中の神学生の間に長上に対する不満が募り、院長が移動になり、日本から行っていた神学生3人がイタリアに帰った。チマッティ神父にとって大きな 親愛なるクロ(打撃となった。)ドヴェオさん、皆さんの状態がよくわかりました。君もチマッティ神父もその状態を望んだことではなく、私は次のとおり考えます。もし自分の務めを果たしたうえで自分の意思によらない何か正しくないことが起こるなら、それは神のみ摂理がおゆるしになったことであり、信仰、犠牲の精神でそれを受け入れるのであれば、私たちにとって功徳になります。君は、以上述べた原理に従って行動し、人の言うことを気にせず、自分の道を歩みなさい。また祈りなさい。勉強に打ち込み、余計なことを考えないで、チマッティ神父の言うとおりにしなさい。そうすれば、すべてはうまくいくでしょう。
 君たちがチマッティ神父と長上をあまり信頼しないと言っているのは、意外です。元気を出して聖人になるようにして、イエスさまがあなたを自分のものにしてくださるようにと願いなさい。
116 人材を育てることは死活問題
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1935年4月28日)
 東京の職業学校敷地内に修練院が着工。サレジオ会にとって邦人会員が誕生することが死活問題であった。人材と養成の問題でチマッティ神父が悩んでい よい知らせ! (るときであった。)今日、修練院の着工式が行われます。ドン・ボスコと残りたい志願者が増えています。神に感謝! 主はこの面で私たちを祝福してくださっていますが、他の面では十字架があります。ピアチェンツァ神父の具合はよくありません。ご昇天祭後、入院することになっています。 もっと辛いとげは、哲学生や神学生に対して十分に世話できないこと。香港において、このままではうまくいきません。多くの召し出しが損なわれます。こう言えば、神父さまは「チマッティ神父の文句はいつ終わるでしょうか」とおっしゃるでしょう。天国に入るときです。神父さま、これは死活問題です。人の魂を救うためです。
117 ピアチェンツァ神父が帰天
(ベルーティ・ピエトロ副総長 1935年6月5日)
 三河島教会最初の主任司祭ピアチェンツァ神父は、41歳で東京の聖母病院で神に召された。チマッティ神父にとって大変な打撃だった。彼は後にイタリア語 聖なるピアチェンツ(でその伝記を書いた。)ァ神父の帰天を電報で知らされました。神のみ心が行われますように! 私にとって本当の友人、兄弟でした。取り返しがつかない、誰も補えない損失です。神のみ旨を受け入れます。彼によって私たちの修道会を祝福してくださったのです。
 神父さまにお願いです。早く人材を送ってください。ここはごらんのとおりの状態。穴埋めをするためにチマッティ神父は神学校、田野教会、小神学校の授業などを背負っています。人材は最低限の状態です。助けてください、助けてください! 数名の会員は疲れていて、苦しんでいます。
 悲しみにくれる私のために祈って、祈ってください。完全に神に身を委ねます。
118 模範的な宣教師だった
(サレジオ会の宣教師たちへ1935年6月5日)
 ピアチェンツァ神父は1894年イタリアで生まれ、ヴァルサリチェ学院でチマッティ神父の教え子だった。一緒に来日し、その死により多くの計画を練り直す必要が 永遠の生命(生じてきた。 )に召されたピエトロ・ピアチェンツァ神父は管区財務、三河島教会の主任司祭を務め、日本で亡くなった最初のサレジオ会員です。私たちは天において立派な保護者を得ました。彼はいつどこでも熱意に燃えていた司祭、人を愛し、人の救いのために献身的に働く宣教師。サレジオ会員としてドン・ボスコのように聖体のイエス、マリア、教皇への信心を広め、ドン・ボスコを知らせ、召し出しのために尽くし、教会学校の組織に全力を注いでいました。子どもたちに囲まれて幸せでした。私たちがピアチェンツァ神父のようなサレジオ会員になれるように祈りましょう!
119 今、私は独りぼっちである!
(カヴィリア・アルベルト神父へ 1935年7月19日)
 友人に心を打ち明ける。神学生の院長、授業の担当者であり、田野教会の司牧で多忙。香港の神学生の計画が崩れて、近くに心を打ち明けるできる人が 寛大な協(いないと。)力者だった神父さまに感謝し、祈りと犠牲をささげます。いちばん大きな犠牲はピアチェンツァ神父を失ったことです。今、私は独りです。神父さまならこの言葉の意味がわかるでしょう。主が望まれるのは、主のみを頼りにすること。他の協力者、聖なる者も、やはり人間です。すべてを行われるのは主です。主はそのことを悟らせたいのでしょう。主よ、感謝いたします! しかしながら、人間ですから感じます。神父さまのためにこの犠牲をささげます。
み心が行われますように!
 わが親愛なる神父さま、飾りの衣装の話は、やめましょう。過ぎ去っていくこの世のものです。
120 神さまは共におられる!
(ブラーガ・カルロ神父へ 1935年8月25日)
 ブラーガ神父は昔の友人で中国の管区長。アッリ神学生は勉強のために香港 親愛なるブラーガ神父さま(に行って肺結核にかかった。)、アッリ神学生の病状を承知しました。み心のままに! ここにもとげが多く、私の計画や希望はすべて崩れてしまいます。修練院に入る間際に二人が去り、香港の神学生も次々と消えていく。人材が足りなくて、独りになっています。神父さまなら、この言葉がわかるでしょう。あなたもそうなっている。でも、私は独りではない。イエスさまが共におられます! 神に感謝! 明るく生きるようにしましょう! 神父さまを抱きしめます。
121 希望を取り戻そう
(タシナリ・クロドヴェオ神学生へ 1935年9月13日)
 タシナリ神学生から2通の手紙が届く。他の神学生を代表して香港での状態に失望していると。結果的に6人中3人だけ残った。チマッティ神父は彼らを元気づ
け、正しい道に戻るように励ます。手紙全体に心がこもっている。
 わがクロドヴェオ、その心の危機を見ても驚きません。君に願う。自分自身
にも神にも立ち直りなさいと。そのために二つの手段、祈りと謙遜が必要です。
神に対しても長上に対しても。「もう希望がない!」と言ってはいけません。こ
れは、傲慢による言葉。そして「神は高ぶる人に逆らう」と聖書に書いてあります。
 わがクロドヴェオ、私に詫びることはない。私に対して失礼なことは何もない。
率直に話しただけです。安心しなさい。私は君をよく知っている。私に対してどんな言葉を使ってもよい。必要なら、私はもっと悪い言葉を教えてあげよう。それ以上のことに値するから。その手紙は過去のこと。ドン・ボスコは、「大
切なのは現在だ。未来は神の手にある」と言っています。過去は、夢だったと思いなさい。今必要なのは、今ゆるすこと! 神にも人にもゆるしを願うこと。
これなしに建て直しはないのです。
 チマッティ神父は皆さんに対して全然変わりません。いつも同じです。むしろ、皆さんが遠いからもっと強い絆で結ばれている。私が望むのは、聖パウロと聖フランシスコ・サレジオと共に、「泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。皆のためにすべてになる」ことです。このことを実行します。皆さんも落ち着いて、謙虚な気持ちで進み、自分の人生の新しいページを書くようにしましょう。
122 愛徳の業は大事
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1935年10月1日)
 救護院二期工事の落成式にあたりイタリアのサレジオ会ニュースに、3年後創立される「宮崎カリタス修道女会」(現イエスのカリタス会)の名と基本理念を書いている。直接体験に基づく内容である。
 “Carità! Carità! Carità!”(愛徳! 愛徳! 愛徳!) 身寄りのないお年寄りや身放された子たちのために建てられた宮崎の救護院が完成され、9月29 日荘厳に落成されました。この機会にオザナム氏の、「神がいちばん好み、イエスが福音宣教のときにいちばん大事にし、私たちがいちばんすべきことは、貧しい人を世話することである」という言葉が私の耳に響きました。私たちサレジオ会員もドン・ボスコが宣教師への勧めの中に書いた、「病人、児童、老人、貧しい人を特別に世話しなさい。そうすれば、神の祝福と人々の信頼が得られる」という言葉を実行し、それに従うようにしています。 
 今回完成された施設の中心に聖堂があり、その上にイエスのみ心のご像が
そびえ立っています。そこからアンジェラスの鐘が聖母マリアに挨拶し、「ここは、イエスさまと共に苦しんでいる兄弟たちのために働く場所である」と人々に告げ知らせている気がします。この精神は、この聖なる運動の推進者カヴォリ神父とその忠実な協力者リヴィアベッラ神父からよく理解され、実行されています。
最初からこの実り多い畑を開拓してきた聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会のメンバーたちもこの方針に従い、この慈善事業に生涯をささげている「愛子会」の日本人女性たちも、この精神で養成されてきています。
123 やっと将来の希望
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1935年12月29日)
 この日に最初の5人の日本人、秋元保夫、西村四帰児、立石此吉(途中で二人辞めた)が修練期を始めた。一緒に5人のイタリア人もいた。それに先立っ ごらんのとおり、この手(て神学校も始まっていた。)紙は東京からです。10年前、同じ12月29日、第1グループのサレジオ会員がジェノヴァ港を旅立った。今日、東京で10名の修練者、
5人は日本人、5人はイタリア人、ドン・ボスコの名において修練期を始めました。日本のサレジオ会にとって最高の喜びの日です。宮崎の小神学校と合わ
せて、日本に根を下したと言えます。これから、よい土地からよい種が芽生え、青少年に対するドン・ボスコの愛を理解する多くの若者が、その教えに従って祖国の発展のために働くようになると期待しています。修練院の隣に、サレジオ会の神学校の哲学部と神学部も完成しています。12月8日、東京のシャンボン大司教により、それも荘厳に祝別されたのです。このことのために神に感謝し、この夢の実現を可能にしてくださった長上と恩人の皆さんに感謝いたします。

1936年
最初の司祭、最初のサレジオ会員
 この1年、軍部の圧力で教会の立場が次第にいっそう難しくなり、イタリアがエチオピアを占領し経済制裁を受けることになったことによって本部からのチマッティ神父への送金が減ってきた。
 経済状態が深刻になったうえで、人材不足のためにも教区長でありながら、田野、高鍋、都城の3教会の司牧も引き受けざるを得なかった。
 7月に香港から神学生が戻ってきて、東京大神学校に通うようになった。
 11月8日、最初の3名が宮崎で司祭に叙階された。
 12月末に最初の日本人会員3名も誕生した。
* * *
124 人材が足りない
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1936年1月16日)
 私に関して相変わらずです。問題はやるべき( 新年の初めに長上に宣教地の状態を報告する。)仕事に手が回らないこと。カヴォリ神父も黄疸にかかり、長く患うことでしょう。私は三つの教会(高鍋、田野、都城)の世話をせざるをえなくなり、それぞれに巡回宣教所もあります。
少なくとも月一回信者にミサを与えたいのです。
 東京の新しい事業のために九州の人材が取られ、宣教師は不足しています。
命をかけて自分の務めを果たすようにしますが、東京の事業に力を入れたら布教区の活動が不可能になります。とても辛い選択です。邦人の人材養成に全力を入れる必要があります。主よ、いつその実りが現れるのでしょうか。

1936年 香港から戻ってきた4人の神学生と
125 お金を頼むのは簡単です
(チェケッティ・アルバノ神父へ 1936年2月26日)
1931年に来日したチェケッティ神父は別府教会の主任になるが、経験が浅いので、生活の苦労をまだ知らない。出費が多く、困ってしまいチマッティ神父に増額を願う。 神父さまは、数カ月前から借金を返せない状態だとおっしゃる。チマッティ神父は、何年前からもそうなっています。神父さまは、「私は頼むべきだ。長上は与えるべきだ」と言うが、頼むのは簡単ですが、与えることは難しいです。
私は、別府の支部を助けるためにできるだけのことをやったつもりです。もし神父が言われたことを守っていたら、主は不足をさせなかったでしょう。チマッティ神父が消え、あなたがその代わりになったら、バラが咲くと思いますか。
すべては主のみ心のままに!
126 自然を愛する
(植物自然分類一覧1936年 動物自然分類一覧1941年)
 4月に宮崎県の「植物自然分類一覧 PLANTARUM COLLECTIO」41 ページ、1941年に「動物自然分類一覧」38ページを、著者は自然科学博士チマッティで、序文と植物・動物の科学名をラテン語と日本語で、職業学校印 この小冊子を書(刷所から出した。)いた目的は、植物の研究により自然の知識、医学その他の学問の進歩に貢献し、豊で美しい自然を有する第二の祖国である日本に対して私の愛着と尊敬を表すためです。
127 邦人人材の準備は急務
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1936年5月28日)
 チマッティ神父は、外国人に対し風当たりが強くなり、未来が不透明であった
状況の中、邦人の人材を準備することが急務であると感じていた。
 私の頭にいつも浮かび、速やかに実現したいのは、日本人のしっかりした聖職者とカトリック・アクションの信徒の養成です。主が多くの邦人の召し出しを送ってくださるように! 早く、早く、早く必要です。そのために切に祈っています。日本人がしっかりしていれば、私たちが追放されてもすべてはうまくいくでしょう。
 神の栄光と人の救いのために働きましょう。他は煙、散ってしまう煙、また
虚栄にすぎない。神はこのチマッティ神父についてどう思っておられるのでしょうか。これは私が常に黙想することです。どうか、主が私の霊魂の救いのために助けてくださいますように。 
128 また辞職を願う
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1936年9月17日)
 ついにいろいろな困難に出合い、自分の周りに信頼が崩れていくことで限界を感じたチマッティ神父は、長上に辞職願を提出した。しかし長上は受理しなかっ 今(た。)回、黙想会中、祈りながら反省し、会員が特に指導的な立場にいる人が私の指導について不満であり、一致させようと思ってもかえって分裂を引き起こしてしまうことを見て、以前も願ったことですが、今、良心的に言って私はこの立場にいられません。解任してくださるようにお願いいたします。
 わがリカルドーネ神父さま、ご存じのとおり、私は長上役に向いていません。
教えること、土を耕すこと、ほうきで掃除することなら何でもできますが、主の
名において辞めさせてください。まだ元気ですから、仕事はいくらでもできます。
アフリカの原始林でも、エチオピアでも、どこまでも結構です。人の救いや私の救いのためにお願いです。解任してください。お願い、お願いです。神父さまにも多くの試練があって、この願いはお気に入らないでしょうが、私のせいで人が滅びていくことは黙って見ることはできません。
129 新しい宣教師の心構え
(日本へ向かう途中の宣教師たちへ 1936年10月19日)
 日本に向かっていた新しい宣教師たちに次の手紙を送った。
 皆さんが神に祝福されますように! 私たちは大喜びで皆さんをお待ちしています。
 主が皆さんに約束してくださるのは、地上の幸せや物質的な富ではなく、貧しさと犠牲です。皆さんに要求されるのは、聖徳、清い心、従順です。私たちのためにお祈りください。
 こちらの人材不足を補ってくださることを感謝いたします。喜びをもって仕事に備えてください。
130 新司祭の生きる目標
(タシナリ・クロドヴェオ神学生へ1936年11月6日)
 ついに日本で育った最初の3人の司祭、タシナリ、ブラジョン、ベルナルディ神父が宮崎教会で叙階され、幾分か人材不足を補うことができるようになる。次は
 タシナリ神父(お祝いの言葉。)への初ミサの記念
 私は…イエスと…同じです!
 聖体への信心は:

  1. キリスト信者の信心生活の中心
  2. 完徳へいたるための糧
  3. 教育活動の土台、その環境、それを支える力
     主よ、卑しめてくださったことは私によいこと
     生きるのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる
     神のみ心が行われますように。
    131 独りで苦しんだほうがまし
    (リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1936年11月15日)
     チマッティ神父は、厳しい社会状況の中、宣教活動が困難であり、特に地方
    において心を打ち明けて相談できる人はいなかったと長上に書いている。
     極東の宣教活動は本当に大変です。日本にはどこでも十分な仕事はなく、人を一本釣りです。共同体が複数であれば仕事が不十分であり、独りであればまた別の問題が起こる。
     今私は独りぼっちです。理解してくれる人、心を打ち明けられるのはタンギー神父ぐらいです。しかし、彼も気を落としやすいので遠慮せざるを得ません。他の人とは業務的なことしか話せません。皆立派な会員ですが、100以上の理由で親しく話せません。わが身を完全に委ねられるのは神さまだけです。この状態はとても辛いですが、人を苦しませるよりも独りで苦しんだほうがましです。他の人たちは病気や困難を抱えていて、十分に苦しんでいるのです。
    132 極限な経済状態
    (リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1936年12月9日)
     養成中の若者が増え、イタリアから送金が減り、極限状態に陥った。同じサレジオ学校に通ったムッソリーニにも援助を願い、有名な38巻の「百科事典 Enciclopedia Trecani」を神学校のために送ってくれた。現在チマッティ資料館
     今月末、宣教地(に展示されている。)の事業、宣教師、修練者、神学生の生活費は一銭もなく、これは私にとって死を意味し、皆にとって不名誉です。現地のあらゆるところに頼んでも答えはゼロ! 何回も手紙を出しても、ローマや長上から得たのはわずかな支援だけです。涙をもってお願いします。至急に10万リラを送ってくださらなければ、生きるための道はありません。生活費と借金を払うためです。
    12月、宣教師たちに生活費を送ることができない状態です。この不幸な私のためにお祈りください。
    133 最初の邦人サレジオ会員が生まれる
    (リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1936年12月31日)
     ついに最初の邦人会員が生まれた。秋元保夫、西村四帰児、立石此吉の3 人。後に二人は戦死し、秋元保夫だけが残ったが、司祭になるまでにさらに何 親愛なる神父さま(年もかかるのである。)、29日、私たちの最初の修練者が誓願を立てました。日本のサレジオ会にとって意味深い、忘れられない日です。私たちの未来のために計り知れない価値のある出来事です。長上の皆さん、またこのために協力してくださった方々、一緒に喜んでください。三人の邦人のうち、二人は神学生、一人は修道士です。聖フランシスコ・ザビエルのように多くの人が彼らに続くことを祈ります。なお、同じ日に新しい3人が修練期を始めました。親愛なる神父さま、この新しい子たちを受け入れ、若枝のように祝福し、マリアさまとドン・ボスコにささげてください。

1937年
試練の多い年、特別視察、邦人修道女会の創立
 この年は記念すべき年。チマッティ神父が長年望んできた日本カリタス修道女
会(現在のイエスのカリタス修道女会)が誕生した年。同時に苦悩の多い年でもあり、経済面では極限の困難に出合った。
 3月に小神学校の院長が帰国したので、チマッティ神父はその役目も受け継いだ。
 7月7日、日本は日中戦争に突入し、若い会員や志願者何名も徴兵され、戦場に送られた。
 8月15日、日本カリタス修道女会の誕生の日に、沼津でフィリッパ・クラウディオ神学生が溺死してしまった。
 そして、本部から特別視察者二人が派遣されたが、問題の解決に役立たなかった。
 9月に「日独伊三国」の条約が結ばれ、イタリアからの友好団が来日した。
 12月2日、日本のサレジオ管区が誕生し、チマッティ神父は管区長とされた。
 同13日、南京占領で日本軍が国際的な非難を浴び、宣教師にいっそう慎重な言動を要求された。
* * *
134 神に報告するのは自分の行いのことである
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1937年2月16日)
 11月に叙階されたばかりの新司祭に次の勧めを与えた。
 私に手紙を書くとき、敬語や大げさな言葉を使わないでください。
 神父さまにお願いします。直接間接にしろ、どんなときでも愛徳を傷つけないようにしてください。私たちが神に報告するとき、他人の行いについてではなく、自分の行いについて報告するように。よく覚えておいてください。この世には完全な人はいない。聖人も不完全です。他人について話すとき、いつも愛をもって話しましょう。聖フランシスコ・サレジオ、否、主イエスを思い出してください。「自分がしてほしいと思うことを、あなたも他人にしなさい」と。あなたは言う、「10をくれれば10を、20をくれれば20を実行する」。そうではなく、「必要があれば、できるだけやる」と言うように。
135 新修道女会創立の手続き開始
(宣教聖省フマソーニ・ビオンディ枢機卿へ 1937年2月17日)
 この文書は現在のイエスのカリタス修道女会を創立する許可を願う手続きの始まり。13その後、いくつもの手続きが必要となり、大変な状況のチマッティ神父が
女子修道会を開(すべてを行った。)始するお願い
 日本の宮崎知牧区のサレジオ会員は過去10年間、神の恵みにより、教皇の指示に従って邦人女子修道会になりうる愛徳の業に従事する女子グループを養成しています。今回、教会法492条の1項に基づいて、その修道会を開始する許可を閣下にお願いいたします。その修道会は宮崎知牧区所属になります。別紙の覚書において修道会の目的と、これまでの経緯を簡単にご説明申し上げます。
 尊敬をもって  宮崎の知牧区の教区長  チマッティ神父、サレジオ会員
136 傲慢は、自然に反する態度
(バルバロ・フェデリコ神学生へ 1937年2月)
 チマッティ神父は、仲間に哲学を教えていたバルバロ神学生に謙遜を説いて あな(いる。)たの理屈っぽい手紙を読み、まさにあなただと感じました。今生きている環境について言っていることは正しいが、それを作っているのはあなたたちです。そしてそこから逃れないが、主はいつも共におられ、守護の天使も、
13 この手続きを始める前にカヴォリ神父の賛成が必要だった。本人が自叙伝で書いているとおり、自分は救護院の女性奉仕者を在俗会にしたかった。女子修道会にするためにチマッティ神父は3回も説得に来た。3回目、従順に反対しないために賛成したと言う。その後、師はこの手続きを始めたのである。二人とも創立者とされている。
良心の声も、他人の手本も、戒めを与えてくれる長上も一緒にいます。
 他人に説教するのは私にとっても簡単です。鐘楼の鐘のように人に呼びかけ、自分はそのままに残る。大切なのは目標を目指して進むこと。そのために不完全である自然のすべてのものも目標を目指しています。これは自然界の法則です。成長する傾向、愛する傾向もそれです。自分が完全だと思う人は、傲慢であり、自然に反します。
 わがフェデリコ、無関心や目立とうとする態度を避けなさい。痛くても毎日一突きを加えて人生の彫刻を仕上げましょう。早く天に行きたい私のためにも祈ってください。私もあなたのために祈ります。
137 人材は一人減る
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1937年3月2日)
 仕事と経済的な負担に追われていたチマッティ神父は、個人的な事情のある
一人の会員を失い、小神学校の院長の役目も引き受けざるを得なかった。
 明日3月3日、船でC神父が帰国し、神父さまのお心に委ねます。これは本人の霊魂のためになるでしょう。私は小神学校の院長となり、できるだけそこにいるようにします。助けてもらうために、ボヴィオ神父を呼びます。私のためにもお祈りください。視察者が来るのを待っています。
138 日本の習慣に従う
(特別視察カンデラ・アントニオ神父への報告 1937年6月20日)
 このとき、本部から二人の視察者が来ることになっていたが遅れていた。チマッティ神父は、日本の現状を理解していただくために前もって報告書を準備した。
 私たちは必死で毎日耐えていますが、思い切って改革しなければ滅びてしまいます。「進歩しないことは後退する」と言われますが、日本の場合、それは死を意味します。宣教師もサレジオ会員も日本でよいことをしたいなら、日本人のようにすべきです。感情、親切、活動を大事にし、言葉を少なくし、実行は多く。これによって私たちは拡張し、実りを得ました。そうしないと停滞するのです。
 日本に必要なのは、膨大な資金、聖徳と学識の優れた人。日本の精神を身につける人。私たちは、その目標からよほど遠いです。ドン・ボスコの方法を実行するためにはドン・ボスコの心をもっている人が必要です。でなければ
引き上げたほうがよい。私は自分の会員を愛し尊敬し高く評価しています。多くの会員は疲労のために病気になっています。私は一人ひとりをその能力に応じて活かすように努力します。皆が私よりよく働き、私は自分の権限の範囲内そのイニシアティブを励まし、一人ひとりが自分の仕事の実りを見て喜ぶようにしています。大切なのは、善が行われるようにすること。そのためにも私はいつも無一文です…。神のみ摂理が助けてくださいますように!
139 死ぬ5分前までに成功すればよい
(クレヴァコーレ・アルフォンソ修練者へ 1937年6月)
 来日してすぐに修練者になった若者に次の勧めを書いた。
 毎日一歩一歩進みなさい。川、湖、海は、皆水一滴一滴からなり、塵が積もれば山になります。人間もそうです。私の修練長は、「死ぬ5分前まで重要な欠点に勝てば、それでよい」と言っていました。あなたも、もし死ぬ5分前自分に勝てるならそれでよい。何があっても恐れることはない。私はサレジオ会員になって50年経っても、まだ自分に勝てないのです。
140 イエスのカリタス修道女会の創立文書
 当時、教区に属する新修道会で「日本カリタス修道女会」と呼ばれた新しい(1937年8月15日)会の創立文書。現在は教皇庁直轄の「イエスのカリタス修道女会」で、サレジ  宣教聖省が1937年6月(オ家族のメンバーである。)16日当宮崎知牧区において邦人のカリタス修女会を創立する許可を与えたことに基づいて、また、何年も前から孤児や年寄りの救護院において共同生活を送っている女性たちの宗教的養成を担当している14評議会の意見を聞いたうえで、私は、教会法カヴォリ神父の願いがあって、
14  チマッティ神父は「カヴォリ神父の願いがあって」と書いたが、前述のとおり、カヴォリ神父に賛成を願ったのはチマッティ神父だった。しかし、彼はいつも会員を立てるようにするのである。
492条の1項に従って、自分の権限で、教区立修道会として宮崎在住の日本カリタス修道女会を正式に設立する。福岡の訪問童貞会での修練期に関する手続きを、同アントニオ・カヴォリ神父に一任する。
ヴィンチェンツォ・チマッティ神父 宮崎知牧区の教区長
141 日本の場合、止まることは死ぬことだ
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1937年9月8日)
 視察を終えた二人が言うには、各教会に司祭独りでいるのはよくない。チマッティ神父はそれ以上人材がなく、地方の教会には複数の人なら十分な仕事がない。
 あまりにも短い視察(無理な命令だと言う。)をどう感謝すればよいでしょうか。私にも皆にも役立ちましたが、その結果を見て心に激しい痛みを感じます。長上の皆さんは、会員の修道生活が損なわれるから宣教師が地域を歩き回るような生活は好ましくな
いとおっしゃるが、それはイエスの使徒的生活だった! 私はイエスにも長上にも叫びます。もしそうなら、なぜ教会は修道者に宣教地を引き受けることを命令するのですか。正直に言って、なぜ実行できない務めがあるのか私には理解できない。前も理解できなかったし、今、視察者のお勧めとご意向を聞いてから、なおさらわかりません。長上の望みを実行したくても、人の霊魂が失われることを見ると「進歩しないことは後退することだ」と言わざるを得ません。
数を見たいと言う教会の方向にも進まなくなります。
 まあ、空回りしましょう! 主が、み心のままにすべてを補ってくださるでしょう。そうなりますように!
 長上の皆さんもここの人材をご存じです。お二人は慰めのお言葉をくださったが、それは励ましではなく、かえってブレーキとなります。日本の場合、止まることは死ぬことです。
142 長上への叫び
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1937年9月15日)
 視察者が出発してから、もう一度自分の考えを表す。現地の状態を理解できなかった長上に対する自分の良心の叫びである。チマッティ神父にとっていちばん難 私としては、自分の(しいときだったであろう。)務めですから仕事を続けますが、皆さんは私の悩みをご存じです。何をお決めになっても、神のみ前に私の責任ではありません。辞職願は出しませんが、言うべきことを申し上げたうえで、信仰と忍耐をもって長上の決定を待ちます。私は確信しています。もしドン・ボスコがここにいたならば、私たちと同じことを行ったはずです。
 インクの無駄ですから、経済の問題について言わないことにします。今までのとおり神のみ摂理に身を委ねます。今まで私の宣教活動は手紙を書くこと、願うこと、借金を作って支払うこと、物質的な問題を取り扱うことでした。それ以外、何もしませんでした。そうそう、学校で教えたり、コンサートで暴れん坊をしたりもしています。万歳! 私のためにお祈りください。唯一の望みは、神のみ心を行うこと。それができますようにお助けください。ご返事はそれで十分です。
143 耐える限界になった
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1937年11月4日)
 視察者は中国に現金を忘れてしまい、チマッティ神父に滞在費も負担させた。
 神のみ摂理に対する信頼は不足していませんが(経済問題を解決するために何の手も打たなかった。)、経済の状態は最悪。11月に残金はゼロ。任せられた人たちの12月の生活費をどうすればよいかわかりません。以前もお助けを願いしましたが、返事はなく、視察者の話はきれい事だけでした! 11月からゼロになります。長上の皆さん、できる限り助けてくださることをお願いいたします。ぜひ、助けてください。
 神父さまは、この貧しい宣教地を助ける寛大な心の人を動かしてくださるようにマリアさまとドン・ボスコに祈ってください。でなければ、これ以上耐えられません、耐えられません、と叫ばざるを得ないのです。
144 本部の教え子に心を打ち明ける
(ジジョッティ・レナート神父へ 1937年11月15日)
 本部の教育事業顧問が死去し、代行としてチマッティ神父の教え子ジジョッティ 親愛なる神父さま、疲れや失望、とんで(神父が任命された。強力な話し相手になる。)もないこと! 考えてみてください。最近、小神学校の院長にもなった。哲学、ラテン語、宗教、自然科学の授業 19時間も引き受けています。58歳になって昔のような働きはできないが、まだ脚立を運び、釘を打ったりする。おかげさまで神経もしっかりしています。むしろ、落ち着きすぎているでしょう。日本では、神経質になってはいけませんから。
 私の問題は、自分に向いていない仕事をやっていることです。親愛なる長上の皆さん、チマッティ神父に指導の立場ではなく、ピアノやオルガンを弾く、学校で教える、畑を耕すことなどをさせてください。
 失望していません。ただ心の中に感じるのは、私の不賢明さで人が滅びること。まあ、日本のことはあまり知られていない。神はご存じです! お祈りください。また「閣下」という敬称をやめてください。でなければ、昔の教え子だから、最高評議員であってもひどい目に遭わせるのです。
145 狂ってしまいそうです!
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1937年11月22日)
 この手紙で叫びは頂点に立つ。日本において収入源はなく、本部と聖座、ま
た恩人の援助に頼る状態である。送金が遅れると生きられないのである。
 昨夜、大分から戻ってきました。そこで二つのコンサートを開催しました。
 先日手紙を出したばかりですが、今は困窮の状態です。月給を払って、金庫は空っぽ。これからは7カ月の必要な経費を得るためにどうすればよいかわかりません。神の助けを期待しますが、人間的に言って気が狂ってしまいそうです。
 すでにお父さまにお願いましたが、今、もう一度お願いします。耐えられない状態です。もはや力がなく、打つ手もない。長上の皆さん、超人的な努力をしてくださるようにお願いします。皆さんも大変でしょうが、少なくとも2,3カ月分をお助けください。後は、どうすればよいかをまた考えましょう。
146 日本の文化を受け入れること
 宣教師たちの努力に対する実りが少ないことをみて、チマッティ神父は自問した(日誌より 1937年12月15日)
であろう。この一年が終わるにあたって、自分の日誌にこう書いた。
 キリスト教が日本の精神に反すると言われる偏見を取り除くために、教会が積極的に働きだしたのは最近のことである。そのしるしは、神社参拝や民間習慣への参加についての新しい規定を出したことだと言える。
 宣教師がより完全に日本に適応し、できるだけ日本人のようになって、ドン・ボスコの精神に基づいて広い心をもつようになれば、日本人の心をイエスさまに引きよせることができると思う。ああ、聖パウロが言う「すべての人にすべてとなる」という精神がわかれば! 
 東京の新しい大司教ペトロ土井辰雄は私たちの事業をよく理解し、愛してくださっている。

1938年
チマッティ神父管区長、総会に参加する
 1月16日、日本政府は中国と全面戦争に入り、一部の都市を占領し、鉄道を死守し、長期戦に備えた。軍部が圧力を拡大して、4月1日国家総動員法公布した。
 1月に日本のサレジオ会が「管区」に昇格し、チマッティ神父は初代「管区長」となった。
 2月13日、東京教区でペトロ土井辰雄大司教が叙階された。
 5月10日、チマッティ神父は管区長として総会に参加するためにイタリアへ出発した。
 6月下旬から総会に参加し、宣教師への援助についてはまた不満が残った。
 8月3日、教皇ピオ11世の謁見を受けた。
 滞在中、日本を宣伝して募金のために150回ほど講演を行い、手紙をもって日本の会員との連絡を保つようにした。
 11月20日、マリア・ドメニカ・マザレロの列福式に列席。
 12月7日、ヴェネツィアから日本に向かった。
* * *
147 土井辰雄大司教の任命を喜ぶ
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1938年1月31日)
 東京大司教として土井大司教が任命されたことは、教会の責任が次第に邦人 ただいま、土井辰雄大司教の叙階式にあ(に移行されることの大事なステップであった。)ずかるために東京にいます。邦人がこの大役に任命されたことは、日本にとって歴史的な出来事。教皇庁使節マレラ大司教は次の言葉でその意味を強調しました。
 「この大司教の叙階は、100年に渡る宣教師の英雄的な活動の実りです。長年の犠牲を払った先駆者たちや祈りと犠牲をもって彼らに協力した数多くの恩人はこの光栄の日に立ち会っていませんが、彼らの理想を受け継ぐ宣教師や数多くの日本の友人がその働きの証人となっています。教会は謙虚な気持ちで共に福音を発展させることができることを神に感謝します」。 
 この出来事に感激しながら立ち会った私たちは、いっそう邦人の召し出しのために働き、神が実らせてくださるように豊かに種を蒔きましょう。 
148 管区長に任命される
(サレジオ会の宣教師たちへ 1938年2月22日)
 日本のサレジオ会が「管区」に昇格し、チマッティ神父は1949年まで管区長
 1月29日のトリノからの通達により日本のサレジオ会が(となった。3月29日神戸で最初の管区会議が開かれた。)「管区」に昇格され、私は「管区長」に任命されました。皆さんは、もうしばらくこの立場で私を受け入れて、務めを果たせるようにご協力をお願いします。
 これからのプログラムは、よいサレジオ会員であるために兄弟的に助け合うようにしましょう。
 私は皆さんのご協力を確信しています。長上は、管区長が最初の決定として管区会議を招集し、総会へ送る管区代表者を選ぶことだと言っています。
149 病者の会
(サレジオ会の宣教師たちへ 1938年4月4日)
 病人アッリ神父の活動は、自分が立ち上げた「病者の会」の指導であった。
 皆さんに、別府で始まった「病者の会」への協力をお願いいたします。この会は、アッリ神父の努力により正式に国際組織に加盟し、その運営は簡単です。目的は、加盟したい病人は自分の苦しみを人の回心と救いのために神
にささげるということです。連絡の機関は、事務局が毎月出す手紙です。とても有意義な活動で、負担もなく、教皇さまから勧められていて、魂を助けるための使徒職の手段として私たちに委ねられています。どうかお心にかけてくださいますようお願いいたします。

1938年 イタリアでの写真
150 私の貧困は公になった
(司教マレラ・パオロ教皇庁使節へ 1938年4月28日)
 チマッティ神父の貧困のゆえに大神学校に通っていた神学生の学費、またカトリック新聞の購買費は未納だった。このことについて日本の教区長会議で批判さ 閣下(れた。)、東京大神学校やカトリック新聞に対する私の借金について親切なお言葉をおっしゃってくださったことを感謝いたします。公で行われたその発言は私にとって大打撃でした。今支払うためのお金を探しています。このことが多くの人に知られて、私個人ではなく修道会の名誉に傷がつきました。チマッティ神父が公で暴れん坊(コンサートのこと)を演ずるとき、心の中にあるこの痛みは外に現れません。一応、相手の正当な理由に対して黙っておきましたが、私の貧困状態を知っている数名の友人が今月分を支払ってくれました。これも借金です。新聞の部数を減らすのは残念ですが、み摂理が助けてくださるときまで他に道がありません。
 大神学校に関しては安心していました。宣教地の召し出しを支える「聖ペトロ事業団」が払ってくれると思っていましたが、今、そうではないことがわかりました。司教たちはその協力で神学校の月謝だけでなく、余分な分ももらえます。教区長として泊まる部屋もないチマッティ神父は願いましたが、無駄でした。
 どうしましょうか。私を売りに出しても、買ってくれる人はいないでしょう。
151 不満な人を増やさないために
(ボヴィオ・フェリーチェ神父へ 1938年7月8日)
 5月10日チマッティ神父はタンギー神父と共に総会に参加するためにイタリアへ発った。そこから手紙で日本と連絡を保っていた。代行だったボヴィオ神父が修 返事が遅くなってす(練長にもなっていた。)みません。総会が終わったら少し時間ができるでしょう。
 書いてくれたことについて次のことを理解してください。私たちは、世の中
のこと、また人に対して、あるべき姿ではなく、あるがままの姿で扱うようにしなければなりません。人の中によくないことを見るとき、まず自分自身が正しいことを実行するようにすべきです。そして、広い心で問題の人に対処するように努める。でなければ、自分に対しても他人に対しても文句ばかりが募り、ついに世の中、不満だらけの人を増やすことになります。
152 聖人になるように
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1938年7月9日)
 タシナリ神父は、チマッティ神父の代わりに宮崎の小神学校を担当した。神父 よい便りとあまりよく(になって二年目だった。)ない便りをありがとうございます。しかし、人間の目ではなく、信仰の目で見れば、よくないものはないはずです。
 では、もし自分が知っている限り、できる限り自分の務めを果たし、毎日神が与えてくださる手段をよく使えば、あなたは聖人になれます。しかし、自分が望むままではなく、神が望まれるとおりです。神が望まれるとおり実行しなさい。ああ、私たちが知っている限り、できる限りを神の導きに身を委ねれば! 心の平安が生まれるのは、従順をもって与えられた役目を果たすことからです。恐れないといけないのは、罪だけ。否、ある意味で、それも恐れなくてよい。
ただ、それに対してあらゆる方法で戦えばよいのです。
 会員に伝えてください。仕事を恐れないようにと。それはドン・ボスコの望みです。そうしなければ中途半端なサレジオ会員です。ただし、秩序をもって、従順に従って、力がゆるす限り、働くようにと伝えてください。
153 教皇ピオ11世の謁見
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1938年8月3日)
 ローマを訪れたチマッティ神父は教皇ピオ11世から特別謁見を受けた。教皇
は日本での活動について前もって情報が伝えられていたようだ。
 私は教皇さまから迎えられ、挨拶の後、宣教地やサレジオ会の事業の現状を説明し、十分に話したと思ったら、教皇さまは、「植物を採集し、音楽を作曲し、コンサートを開催したりすること、また小神学校を建て、邦人女子修道会も設立したことも言ってくれないか。このような手段は、ときには使徒職の直接宣教より効果的です」とおっしゃいました。私が「植物自然分類一覧」の小冊子を献上したら、ページをめくってごらんになり、またマレガ神父のイタリア語訳「古事記」のコピーをお渡したら、喜んでそれを受け取り、ページを繰って翻訳者のために特別な祝福をくださり、バチカン図書館に保管するとおっしゃいました。
 その後、小神学校、サレジオ会員、社会福祉事業のために記念のお言葉をお願いしました。
 教皇さまは、小神学校の学生のために「日本の偉大な国民が過去においてカトリックの信仰を堅固な土台の上に立てたように、将来もそうなることを期待していますと伝えてください」と。
 サレジオ会員のために、「ドン・ボスコの精神をもって献身的に働くように」と。
 また9月に誓願を立てる新しい修道女会のために、「愛徳は、真理への道であることを確信してください。人間の物的霊的貧しさを知れば知るほど、それを助けるためには愛徳しかないことがわかります。この分野で働く人々を大いに祝福します」とおしゃいました。最後に祝福を頂いてお別れしました。
154 神はすべてをよしとされた
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神学生へ 1938年9月23日)
 17歳ぐらいで誓願を立てた若いサレジオ会員は悩みを手紙で書いた。これは
 あなたの手(返事である。)紙を読み、よく理解したうえでの私の答えです。
 あなたの感じていることは自然であり、男性なら皆その道を通る。感じることと、望んでいることは違う。あなたの年齢なら、こういうことを感じるのは当然です。あなたの長上もあなたの仲間も皆同じように体験しています。ですから、悪いことは何もないのです。
 また今見ていること、今後見ることは、それ自体悪いことではない。見ることと眺めることは違う。主は、見るために目を、眺めるために知性と自由意志をお与えになった。よい目的のためなら、何も恐れることはない。あなたにおいて、人において見ることは、すべて神がお造りになったもの。その中に悪があるわけではない。私たちを造られたのは主です。もし何かを見て心が乱れるなら、「主よ、あなたはすべてをよしとされました。主よ、私が見ている人と私の魂をお救いください」と言えばよいのです。ときがくれば、私の言うことがすべてわかるでしょう。毎日明るく、余計なことを考えないでください。
155 正しい友情について
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神父へ 1938年)
 教え子ヴァレンティーニは神学の博士号を得て、トリノのサレジオ神学院で教え
ていた。手紙に月日がないが、このときのものだと思われる。
 わがエウジェニオ神父さま、安心するために私が友情について考えている基準を述べましょう。
 友情には、聖なる友情であっても、人間的な要素が必ず伴います。イエスの友情もそうでした。イエスも友人ラザロの死のために泣き、子どもを可愛がった。そのようなことを禁じたことはありません。でなければ、人間ではなくなるのです。身体がない天国でも霊的な喜びがあるはずです。
 では、地上の霊的な友情に間違いがありうるのでしょうか。はい、ありえます。
身体の表現にあると同じように、霊的な友情にも間違いがありうる。正しい友情なら、善意があるべきです。友人をよくしたいと同時に自分自身もよくした
いということです。友情から喜びを排除する理由はない。私が思うには、聖フランシスコ・サレジオもドン・ボスコも私と同じ意見だったはずです。
156 自給自足!
(サレジオ会の宣教師たちへ 1938年10月10日)
 総会が終わり、宣教地のために協力を求めながらイタリア150カ所も回ったが、国際制裁中だったので、イタリアも「自給自足」を呼びかけていた状態だった。
 早く皆さんのところに帰りたいが、今、愛情のしるしとして、朝、昼、晩、皆さんのために祈り、心をもって共にいるようにしています。帰国が遅れたのは、私たちの問題を片付けるためです。残念ながらローマもトリノも時間がかかります。全国を回り、多くの扉を叩き、恩人、親族、友人を訪問し、協力できる方との縁を結び、友人を増やすようにしています。長上が必要な人材を十分に与えられないので、補うために養成に力を入れる必要があります。邦人の召し出しを育てることは死活問題です。心と考えを一つにして今流行っている「自給自足」を実現する必要があります。召し出しを探し育てるために物心両面のご協力をお願いします。経済面で節約し、地区ごとに工夫して緊急
でない工事を延期し、外国のご家族、恩人、友人の協力を得るようにしましょう。祈りながら会憲を守れば、神のみ摂理が助けてくださるでしょう。
157 教育学について
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ シンガポール1938年12月24日)
 12月7日ヴェネツィアから日本に向かい、途中で総長に「教育者ドン・ボスコ Don Bosco educatore」の改定原稿を送り、その教育を理解することの大切さ この旅行中、以前に出した教(を強調したが再版されなかった。)育学の授業を改訂し、よりサレジオ的なものにしようとしました。
 ドン・ボスコの教育を理解するために、イタリアのルネサンス時代とカトリック伝統の教育を知る必要があります。フランス、ドイツ、イギリスも皆そこから学んできたのです。今、彼らは物事の名前を変え、体育、知育などの側面をより深く研究し、聖トマスの教えを捨ててしまいました。現代の教育学も同じ間違いを犯しています。
 残念ながら私たちの会員もドン・ボスコをあまり理解していません。聖フランシスコ・サレジオも知りません。また偉大な教育者が学んだ過去のクラシックの名著も知りません。世界の皆がそこから学んだのに、今は、自分たちが発見したかのように、理解しにくい変な用語を付けて教育学を勉強しています。
 私が改訂した原稿をお送りします。この道の専門家に見せて、ご自由にしてください。
 なお、私としてお願いしたいのは、イタリアの養成支部のためになさるように、宣教地の養成支部も助けてくださること。また私の借金を心がけてくださることです。
 私のために、また日本の会員のためにお祈りください。真心から祝福してください。

1939年
嵐の前で
 1939年、世界情勢が急激に暗くなった。日本は満州と中国の戦争中で、ヨーロッパは戦争準備中。アメリカは日米間の自由貿易を停止し日米通商航海条約破棄を通告した。
 1月3日、チマッティ神父は日本に到着。
 同31日、日本カリタス修道女会の最初の二人のシスターが初誓願を立てた。
 2月10日、平和を呼びかけた教皇ピオ11世が帰天し、3月2日教皇ピオ12世が選出された。
 3月19日、宮崎小神学校出身の最初の司祭ペトロ向井有吉神父が叙階された。
 同21日、日本の新宗教法が承認され、施行令は12月23日発表され、施行は1940年4月1日から。宣教師の立場を危惧され、邦人の人材養成がいっそう急務となった。
 8月、独ソが不可侵条約結び、ドイツがポーランドに侵攻し、英・仏が宣戦をした。
 9月、ヨーロッパ全土を巻き込んだ第2次世界大戦が始まった。
 12月27日、戦前最後の宣教師が来日した。
* * *
158 カリタス会のシスターの誓願
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1939年1月31日)
 2年前に修練期を始めた最初の二人の日本カリタス修道女会のシスターが誓願
を立て、チマッティ神父は総長にその喜ばしいニュースを知らせた。
 1月31日、私たちの父ドン・ボスコの祝日に新しい邦人修道女会、日本カリタス修道女会の最初の修練者二人が誓願を立てました。この日を選んだ理由がおわかりでしょう。会の発想やその養成を担当したのはサレジオ会員、発祥

1939年6月17日 守衛で病人への堅信式
もサレジオ会に任せられている事業、土台になった使徒的精神もサレジオ会的です。主イエスが、新しい修道会を守り、成長させ、助けるためにみ心の中に隠してくださいますように! 
 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会から生まれたこの特別な使徒職について、教会にもたらす利益を見込んだ教皇さまもいろいろな機会に大変に喜んでくださいました。生まれたばかりの修道会のためにお祈りを願います。
159 新司祭への言葉
(ダルフィオール・ルイジ神父へ 1939年4月6日)
 音楽でよく活躍したダルフィオール神父の叙階に際しての祝いの言葉。
もし主との一致を保てば(主において歌いなさい。)、仕事は永久の歌となります。
音符、言葉、息、心臓の鼓動ごとに、愛のしるしとなりますように!わがルイジ、落ち着いて、快活に生きるようにしなさい!司教の按手により与えられた神の恵みを、強めるようにしなさい。
160 悪口という悪徳
(コロンバラ・ヴィンチェンツォ神父へ  1939年6月9日)
 手紙に出てくるロベルト・ボスコ神父はヴァルサリチェ学院時代の教え子。後に恩師の音楽を整理した人。チマッティ神父はこの手紙で悪口に対してとても厳
 親愛なるロベルト・ボ(しい言葉を述べている。)スコ神父への伝言。すばらしい音楽を頂き感謝します。
天国の音楽に至るまでより高くがんばるように祈りますと。
 悪口のこと。これは修道院の伝染病、否、風土病です。免れる修道院は少ないでしょう。私の意見では、悪口を言う人は修道院にいてはならない。悪口を言う、批判する修道者は、壊すだけで、建てない最悪の人です。神の前や人の前でその価値は皆無。傲慢で、神と人々に嫌われる人です。
161 人間関係を大切に
(サレジオ会の宣教師たちへ 1939年6月14日)
 チマッティ神父も不親切な宣教師の態度を見て苦しんだことがある。宣教師の
集まりでよく親切さについて強調していた。
 先日の集会で話し合ったことをまとめます。
- 協働者、部下、信者、出会う人、皆に対して言動において親切、忍耐、愛徳を示すこと。その徳の不足のために私たちから離れた人がいます。腹を立てて怒鳴ることはサレジオ会の精神に反することです。
- 教会やサレジオ会の事業への理解者を増やすために人間関係を大切にすること。私たちには皆の協力が必要です。日本の場合、網ではなく、一人ひとり一本釣りです。
- できるだけ日本の習慣に慣れるようにしましょう。
- 愛情をもって新しい信者を世話し、その信仰を強めるために勉強を続ける必要があります。洗礼の準備を急ぎ、洗礼後放任すること。これは失敗のもとです。
162 日本での信仰教育
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1939年7月31日)
 サレジオ会の総長が起こした要理教育運動に応えて、会員の中にもそうする必要があると感じた。なお、日本における宗教教育の難しさを総長に説いた。
 公教要理(カテキズム)は宣教師の日常のパン、要理教育は宣教活動の根本ですが、宣教地の場合、いろいろな事情で思うようにいきません。学校で最新の教授法を活用する日本の場合、宗教教育においてもそうすべきです。日本人は進歩した文化環境の中に高い教養を身につけていますが、抽象的な理論よりも具体的な内容、教義よりも道徳に引かれます。真理を探究しない土壌に育った彼らは、人生哲学の必要を感じるのでしょうか。
 彼らはそれに縛られることを恐れて、信仰や道徳に関してあいまいさに傾きます。折衷主義を好み、宗教の問題で悩まずに、自分に都合のいいように生きます。とはいえ、大和魂はカトリックの崇高な道徳観に魅力を感じています。その中に自分たちがすでに実行している多くの価値を見いだすからです。たとえば、権威への畏敬、家庭生活の重視、子どもへの愛情、愛国心、日常生活の献身、美的感覚、儀式の美しさ、礼儀など。そのために、信仰にたどり着く人は真剣に信仰を学び、求道者となり、寛大に神の恵みに応えます。
 日本には宗教に対する大衆的な運動が不可能です。大がかりな講演よりも個人的な家庭的な話し合い、信徒のためのよい出版物、何よりも実践を通して教えを証する宣教師の聖なる生き方が効果的です。
163 学ぶための秘訣
(サレジオ会の神学生へ 1939年9月12日)
 長年教えてきたチマッティ神父は、若い神学生に勉強のための正しい姿勢を教
 新学(えた。)期の初めにあたって一言を申し上げましょう。
 まず、自習や授業の時間をよく活用しなさい。「消化は口から始まる」と言われるとおり、学問の消化も、授業で集中することから始まります。そして、疑問点について話し合うことが大切です。
 さらに上からの助けも必要です。マリアさまの取り次ぎによってそれを願うようにしましょう。
 最後に、ドン・ボスコの次の言葉を思い出してください。「傲慢な学生は、愚かで無知な者」。乱暴に聞こえる言葉でしょうが、ドン・ボスコはこのような者に対してのみこの言葉を使いました。私たちにとってもこれは意味深い言葉だと思います。
164 戦争の情報が入ってくる
(サレジオ会の宣教師たちへ 1939年9月13日)
 ドイツとソビエトはポーランドを侵略し第二次世界大戦が始まり、デュポン神父もフランスの従軍司祭として招集された。これから不安になる宣教師たちを支える 皆さんはデュポン神父の招集のニュースをお(役割を果たしていく。神学生数名も戦場にいた。)聞きになったと思います。一緒
に他の宣教師も招集されました。出回っているニュースを聞いて大変苦しいでしょうが、慌てないで、落ち着くようにしましょう。ことわざにあるとおり、「怪
我する前に頭に包帯するな!」(余計な心配をするな、という意味)。信頼をもって主の手に身を委ね、マリアさまとドン・ボスコの保護を願いましょう。何かの命令が出たら、そのときにどうするかを考えましょう。今は落ち着いて平静を保ち、祈りましょう。
 兵役中の会員は皆元気のようです。西村神学生は小倉の病院にいます。
165 二人の主人に仕えている気がする
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1939年10月4日)
 教区長と管区長を兼ねて、交通困難のゆえに九州と東京にある事業を同時に
見ることに難しさを感じる。ますますそれが難しくなるであろう。
 神父さま、今日は私の誓願の記念日。最後まで忠実であるように祈りをお願いします。
 健康に関しては、死が近づいてくると思うときがありますが、気を取り直して通常のとおり仕事します。別に何もないと思いますが、人間の体を勉強し説明してきた私は、自分の体の回転がわからなくなるときがあります。歳のせいでしょう。ともかく、命がある限り、主が望まれるときまで働きたいと思います。ただ、疲れるほどの仕事がないことは残念です。これは私のせいではありません。
 宮崎と東京が遠くて、福音書にあるとおり、私は二人の主人(教区長と管区長)に仕えているような気がします。幸いに二人とも主につながっていますが、私がやれることをやっても、二人共満足しません。それはやるべきことをやれないからです。主が満足してくださるようにいっそう努力します。
166 教会にも新体制のときが来た
 日本の教会の歩む道が決まった。邦人聖職者に指導権を渡すと。だが、宮崎(宣教師たちへ 1939年12月1日)知牧区の邦人司祭はただ一人、サレジオ会日本人会員は数名。皆若く、体の弱い者を除いてほとんど兵役中。外国人の宣教師大部分も養成中。第二次世 皆さん、あらゆる意味で困難な時代(界大戦をこの状態で迎えることになる。)になり、よく祈り、罪を避け、模範的に生き、少なくとも忍耐をもって当局から要求される犠牲を忍びましょう。神の祝福を得るために今の状況を自覚し、適応するように最善を尽くしましょう。聖座から、教会存続に関わる問題を提示され、次はその通知が来ました。
 「日本の教会の指導は邦人聖職者に委ねる必要があります。邦人を上に置き、できるだけ早く日本の教会に日本的な姿を与える必要がある。この大事なことにおいて賢明さと正しい判断が必要です。宣教聖省は、男子や女子の修道会にも、その経営する事業にも、できるだけ早く責任と内部の運営を邦人のメンバーに譲れるように期待しています」。
 親愛なる会員の皆さん、この状況において私たちが派遣されている国を愛し、いっそう日本人の精神を理解し、環境に適応しながら同化するようにしましょう。でなければ、はっきりと申し上げますが、ここで生きるのは悩みのもととなり、何の実りもないことになるでしょう。あらゆる方法で邦人の召し出しのために働きましょう。新しいことがあればお知らせします。
167 一年の決算、新年への希望
 チマッティ神父は日誌の中に一年の感想をまとめた。前途は暗いが、いっそう(日誌より 1939年12月31日)神の手にすべてを委ねる。まず、1月3日「紀元2600年記念」の行事への出演 イエスよ、この(が決まっていた。)一年のお恵みを感謝いたします。大きな慰めも、苦しみも不足しませんでした。また実りは停滞し、減少したところもあります。失われた人、傷ついた人もいますが、どこまで私たちの責任であったのかは、主よ、あなたはご存じです。紀元2600年記念の祝いで始まる新年を主にお委ねします。それを迎えるにあたり、より忠実に自分の務めを果たすことを決心いたします。
 マリアさまとドン・ボスコが日本とその子らを守ってくださいますように。

1940年
教区長を辞職するチマッティ神父
 1940年、ヨーロッパは戦時中、日本は戦争の準備の年。新宗教法が施行され、外国人教区長は辞職させられる。チマッティ神父は1番に辞職願を出し、平静をもって代行の人を迎えた。
 1月3日、宮崎NHK放送局からピアノソナタ「国の肇を讃えて」を生中継で全国へ放送した。
 1月25-26日、東京の日比谷公会堂でオペラ「細川ガラシア」を上演された。
 1月31日、神学生がドン・ボスコが夢で日本の「メアコ」を見たことを発表。
 3月末、タシナリ神父が修練長となり上京。
 5月21-23日、大阪の朝日会館でオペラ「細川ガラシア」が上演された。
 6月10日、イタリアが戦争に入った。
 9月4日、新しい宗教法が施行。9月27日、日独伊三国同盟が締結。
 10月、宮崎の「八紘一宇の塔」落成式のためにピアノソナタを作曲した。
 10月16日、宮崎の教区長の退職願を提出した。
 12月2日、フランシスコ出口一太郎神父が教区長代行に任命された。
* * *
168 紀元2600年記念のピアノソナタ
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年1月1日)
 チマッティ神父は国民の祝いに参加し、1月3日正午ニュースの後NHKから神話に基づく『国の肇を讃えて』のピアノソナタを演奏した。後に何回も演奏され、
 今年、この(印刷もされた。)偉大な国の紀元2600年記念です。歴史的事実を別にして、この国が長い歴史において神から多くの祝福を受けたことは事実です。私は自分の新しい祖国に対して愛と尊敬を示すために幻想曲のピアノソナタを作曲し、 1月3日、ラジオの生中継で全国に放送し挨拶も述べました。三部からなるこのソナタの第一楽章は「天孫降臨」、神々から送られた最初の天皇が九州に下りる。第二楽章は「御東征」、国をまとめるために舟で全国へ旅する。第三楽章は「御即位」、神武天皇の戴冠式を表します。
 イタリア音楽と日本音楽を調和させた背景に日本の過去と現代の歌がこだまする味わいやすい曲で、好意的に受け入れられ、新聞にも高く評価されました。
169 すべてを神にささげる
(タシナリ・ヴァスコ神学生へ 1940年1月3日)
 宣教師として来日できなかったタシナリ神父の弟への勧め。兄は音痴で有名だった。チマッティ神父は、笑うためにときどき彼に歌わせてから「音痴!」と叫
 何よりも(んでいた。)考え、言葉、行いにおいて神との一致を保ちなさい。すべて、考え、言葉、行いを神において、神のために、神と共に実行する。さらに聖パウロが言うとおり、「愛をもって心を広げなさい!」 世の中の人はしばしばあまり愛さない、また正しく愛していないのです。
 先日、あなたのお兄さんのクロドヴェオ神父に頼まれて神学生にピアノソナタを聞かせました。彼が説明して、途中でテーマを歌いだした。恐ろしいこと! これでも地上に楽しむことができることによって天国の道が開かれるのです。
170 『細川ガラシア』のオペラ15
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年1月31日)
 オペラ『細川ガラシア』は1月24日、25日比谷公会堂で上演され、5月21、
22、23日は大阪の朝日会館でも上演された。日本の最初のオペラとして歴史に15  このオ(残るもの。)ペラはチマッティ神父の一番大きな作曲。当時2幕だったが、戦後完成され3幕にした。当時の主な役は、細川越中忠興は片岡右衛門、細川夫人は今泉威子、家老は坂東彌
三郎、家臣は市川光男と松本徳二、侍女マリアは藤間清枝、神父セスペデスは神宮寺雄三郎。
(カタログ22番)。戦後何回も上演され、2016年10月15日、調布のグリーンホールで上演された時の DVD が販売されている。

1940年1月3日 宮崎のNHKで2600年記念のピアノソナタを放送する
 ことわざにあるとおり、「狼は毛を変えても習性を変えない」。私も音楽でそうです。しかも、今回は簡単なものではなく、『細川ガラシア』という本格的な歌劇です。
 その主人公は、キリシタン時代のヒロイン、夫への忠誠と堅固な信仰の模範、細川ガラシア。上智大学学長ホイヴェルス神父が作詞し、東京のいちばん美しい会堂において二晩連続大成功で上演されました。出演は、東宝劇団と国民歌劇、東京グレゴリオ聖歌会。オーケストレーションは山本直忠によります。東京総合婦人会と新聞社の後援が成功に貢献しました。音楽は純粋にイタリア的で、日本の特徴を活かすメロディーを加味し、日本にまだ存在しないヨーロッパ風のオペラの試みと言えます。上演は興味深く鑑賞され、高く評価されました。自分を褒めないためにこれで終わります。
171 ドン・ボスコは夢で日本を見た
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年1月31日)
 ドン・ボスコは多くの不思議な夢を見た。その叙階100周年に際してバルバロ神学生は、1885年の夢の中に「メアコ」が出ていて、ドン・ボスコが日本を見
たと発表した。チマッティ神父は本部の長上にそのことを知らせた。
 1885年7月、ドン・ボスコが予言的な夢の中でサレジオ会の未来を見、私
たちは日本を見たと信じています。彼はチリから出発して最後に北京を見てから(ここは大事!)マカオを見たと書いてあります。その話を記したレモエン神
父は、「ドン・ボスコはマカオの代わりにいつもメアコ」と言っていたと書いた。
「歳をとって地名を忘れていたのだ」と彼は言います。ところが、ドン・ボスコは間違えていません。「メアコ」は日本の首都を意味するからです。マカオは宣教の歴史で有名で、東方の宣教活動の中心でした。歴史や地理に詳しいドン・ボスコがマカオの発音を間違えるわけはありません。「その前に果てしない海があり、背景に高くそびえ立つ山がある」と言っています。これはマカオに当てはまらない。かえって、日本の首都に当てはまります。メアコまたはミアコは、日本語で天皇陛下が住まわれる町を意味します。ザビエルの時代には京都でしたが、今は東京です。東京なら、その前に太平洋があり、背景に東洋一の有名な山、富士山がある。その頂上から中国は見えませんが、ド16 ン・ボスコは夢で見ていたのです。
172 悲しい復活祭
(ベルッティ・ピエトロ副総長へ 1940年3月25日)
 3月に救護院の男子が卒業し、受け入れる場所が必要だった。チマッティ神父はそのために「更正院」という事業を始めようとしたが、本部に許可を願ったが
 昨日、復(断られた。)活祭にお手紙を頂きました。午前中は喜び、午後は苦しみ。悩み
16  ドン・ボスコは生存中「東京」や「京都」の名を聞いたことはなかったであろうが1871 年改訂した『教会史』の中にキリシタンの迫害を紹介し26聖人一人ひとりの略伝を加えた。その中に7回「メアコ」が出てくる。富士山の位置も知らなかったはずであるが、夢では何でも見える。

1940年度の修練者と修練長タシナリ神父。左はボヴィオ神父
というのは、カヴォリ神父と彼に対するマレガ神父の不満、そして東京へ出発
するタシナリ神父。さらに神父さまのお手紙のショック! まあ、我慢しましょう。
もう慣れています。箇条書きで問題を説明します。
 宮崎には視察のときにお褒めになった救護院(収容者140名)がある。
 管区長チマッティは、教区長チマッティに次の悩みを打ち明ける。
 「卒業する子どもたちを引き受けてくれませんか」。
 管区長は答える。「これは、私たちの精神にかなっている事業だ」。
 それで、子どもたちを放り出さないために、教区長と管区長は本部の長上に許可を願った。
 神父さまのお答え。「別府のシスターに司祭が与えられないのに新しい事業を始めるのか」と。私たちの犠牲をごらんになった神父さまのお答えはとても
悲しい! これ以上申しません。でなければ、長上を悲しませることになります。17 この状態で何とかして進むようにしましょう。
17  正式の支部としてではなく、救護院の付属事業として戦争が終わるまで「更正院」をやることにした。
173 仕事を切に望む
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1940年5月10日)
 タシナリ神父は宮崎を離れて東京の修練長になり、しばしばチマッティ神父の
意見を求めた。チマッティ神父は彼に自分の心情をよく打ち明けていた。
 私の仕事のことについてご安心ください。仕事を切に望んでいても大した仕事がない。本当のことを言うと、今まで自分の人生において日本ほど仕事の少ないことはなかった。疲れるほどの仕事がなく、自分に合わない教区長と管区長の飾り役の仕事、良心の呵責を感じる時間つぶしの無駄な会議である。
それが必要であることがわかるが、私には合わない。仕様がないことだからそのままでいきますが、殉教者聖イグナチオの言葉を言いたくなります。「わが子たちよ、私に何が必要であるかよくわかっていらっしゃるでしょう。皆さんの愛徳で私を止めないでください」。
 まあ、働きながら前進しましょう。主のため、主において、主と共に。周りは何を言っても結構です。
174 戦時に備えるべきだ
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年9月18日)
 新宗教法の施行が進む中、チマッティ神父は教会のために嵐が近づいてくると 世界や日本の状況について詳しく書けません。(感じていた。それに備えるべきだと長上に書いた。)日本は、ドイツの考え方とやり方に倣い、自分たちに適応しながらもナチスとまったく同じ精神になり(おわかりですね)、外国人を排除しようとしています。
 何が起こるかわりませんが、目的達成は早いでしょう。司教たちは聖座に特別な権限を願い、教区を再編成し、日本人司祭に委ねている。私たちは前線ではなく、第二第三線で働くようになるでしょう。私はフリーになったら東京へ移転し、サレジオ会員として働くようにします。これ以上要求されるかは主のみご存じです。大勢の立派な日本人会員がいたら問題は簡単に解決できますが、養成は一日ではできません。よい人材が戦争にとられ、遅れることになります。
新人材の派遣は中止です。日本人神学生の養成期間を短縮する許可を願います。でなければ、すべてを失う危険があります。やむをえない場合、教会が与えるように、いろいろな権限をお願いいたします。
175 賢明な態度を呼びかける
(サレジオ会の宣教師へ 1940年9月25日)
 皆に同じ危機は迫っていて、宣教師たちに賢明にふるまうように呼びかけた。
 「新体制」に対して取るべき態度について長上の指示を忠実に守りましょう。落ち着いて明るい気持ちで自分の仕事に従事しましょう。いっそう日本の精神を身につけて、聖書の言葉どおり「自分が小さくなるべき」謙遜と尊敬の気持ちを身につけるようにしましょう。
 祈る、常に祈る、熱心に祈る。自分自身とすべてのことをマリアさまとドン・ボスコの保護に任せる。
 特に罪を避け、主の名において進むようにしましょう。
 話す、書くことにおいて賢明であるように。すべての書類の写しを保存すること。
 私たちの政治は、「天の父の政治」であることを念頭に置きましょう。
176 辞職願を提出したときの心情
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年10月18日)
 よく考え、祈った結果、使節閣下の勧めもあ( ついに教区長の辞職願を皆より早く提出した。)って教区長の辞職願を提出しました。ここの難しい状況は一種の病気です。体全体を救うために緊急に薬を施し、神のみ手に委ねるしかありません。
 日本人の上に外国の権威があってはならないという原理を立てれば(外国からの資金にも適用される)、どうなるか神父さまもおわかりでしょう。未来は、神のみご存じです。私たちは前もって手を打ちます。いつかそうすべきだったが、今、決断しました。ほほ笑みみながら、精神的に大変な苦しみです。
 11月23日、東京の大きなホールで「紀元2600年のピアノソナタ」を演奏し18私の頭の中に「笑え道化師よ! Ridi Pagliaccio!」という歌が浮かます。
18  11月23日のコンサートは東京の軍人会館で行われ、バイオリニスト江藤俊哉、妹玲子、
んできます。これはこの世の中のことです。神の手には、善のもとになるでしょう。すべてにおいて、み心が行われますように!
177 代行が決まったことを喜ぶ
(教皇庁使節マレラ・パオロ大司教へ 1940年12月2日)
 教皇庁使節は11月25日、福岡の司教を説得するようにチマッティ神父に願った。
30日に会って、「火の中にいるような気持ちで教会の将来について不安だった」と書いた。この手紙で自分の代行として、鹿児島の代行を兼ねていた出口神父が決まったことを喜んでいると書くが、果たしてその後うまくいくのであろうか。
 閣下、お手紙を福岡の司教に渡しました。辞職願を出すと言いましたが、郵便の検閲があってローマへの意見が出せないことを残念がっていました。私は今の状態を説明してみたが、納得せず、教区長退職で問題が解決しないと言っていました。
 今日、速達が届いて、代行が決まったことを大きな慰めで受け取りました。早速各教会に知らせ、お祝いの言葉を書き、祈りを約束しました。神学生にも知らせて、日本殉教者の歌を歌いました。私としては大喜びです。この決定は大いに教会に役立つでしょう。15年も長上の立場にいました。これで15歳若返りします。できるだけ早く(代行の)出口閣下ににお目にかかりたいと思います。

テノール藤原義江、ソプラノ三上孝子の一流歌手も出演した。目的は、サレジオ会の新しい学校を助けることだった。


1941年
戦争が近づく
 この1年、日本は軍備を進めていく。6月に同盟国ドイツとイタリアがロシアに侵攻し、12月8日、日本も真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入する。
 チマッティ神父はイタリアの本部との連絡が不可能になって孤立し、1946年までこの状態が続く。日本人の神学生は次々と徴兵されるようになった。
 5月3日、新宗教法が施行され、カトリック教会は「日本天主教公教団」として認可され、東京大司教の土井辰雄が統理者となった。宗教団体は文部省から指示を受け、戦争のために利用されるようになった。
 5月末、チマッティ神父は宮崎を離れて東京の練馬の神学院へ移転した。九州を訪れるために毎度警察の許可が必要となり、簡単に得られなかった。
 開戦の日から出口一太郎新教区長の態度が硬化し、終戦までチマッティ神父の苦悩が続いた。
 12月末、三河島教会の主任となった。
* * *
178 新教区長の着任を祝う
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1941年2月28日)
 出口一太郎新教区長は荘厳に着任した。チマッティ神父は尊敬を表し、信者に紹介し、オルガンを弾いた。そして自分は宮崎教会の信者たちとお別れした。
 2月23日日曜日、新教区長フランシスコ出口閣下は宮崎でその役目にふさわしい衣装を着て、教会の入り口で宣教師たちに迎えられ、喜びあふれるコーラスの歌の中、祝福しながら祭壇へ進みました。私は、この恵みのために感
謝の歌を歌わせ、信徒と宣教師たちに紹介し、忠誠、従順、協力を約束した。
そして、宣教師たちはその座に進んでその手に接吻し、私も教皇さまの代理者として感謝と無条件の従順を表明しました。 ミサ後、ドン・ボスコホールで各信徒団体が教区長に歓迎の言葉を述べました。
 私は、信者たちへの最後の思い出として、「主よ、私に魂をください。仕事と祈り、ご聖体のイエスへの愛、扶助者聖マリアと教皇への愛をください」という言葉を残しました。
179 キリシタン屋敷の研究
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1941年3月31日)
 東京にいたタシナリ神父はキリシタン屋敷跡を調査し『最後の殉教者シドー
ティ神父』を発表した。19チマッティ神父も興味をもっていた。
 最近、タシナリ神父は東京の過去の宣教師たちについて研究し、「キリシタン屋敷」の現地を調査した。そこは何名かの宣教師が幽閉されて死に、1643 年に上陸したキアラ神父もその中に含まれています。小石川地区にまだその場所が見られ、当時の井戸が残っています。20  その後、シドーティ神父も四年間その中に幽閉された。彼の証言に基づいて新井白石が『西洋紀聞』を書いた。初めは穏やかな待遇を受けたが、その後、召し使いの夫婦、長助と春が神父の態度に打たれて洗礼を受けたので、庭に掘ってあった狭い、暗い地下牢に閉じ込められ、湿気、寒さ、病気で死にました。タシナリ神父はその地下牢を訪れました。
 現在、キリシタン屋敷は個人の住宅に占められているが、真ん中に売地があり、私が東京で建てたい小神学校に適している。殉教者の苦しみによって聖とされたこの場所を手に入れるために協力してくださる方を探しています。
19 現在、切支丹屋敷は住宅地となり跡形もない。当時の状態を紹介するこの本は専門家に高く評価され、チマッティ資料館にコピーがあり、タシナリ神父の100歳の記念に現代用語にしてドン・ボスコ社により再販された。その後、シドーティ神父の遺骨が発見され、生まれ故郷のパレルモ大司教の主催、共に亡くなった長介と春についても殉教者としての列福運動が進められている。
20 1943年タシナリ神父はキアラ神父の墓碑を手に入れ、現在、チマッティ資料館の庭に保尊されている。
180 私は、偉人か犯罪人か
(サレジオ会員へ 1941年4月24日)
 東京から九州へ行く許可をもらったら、チマッティ神父は毎度汽車の中で憲兵 昨日、王子であ(に監視されていた。)るかのように、または犯罪人であるかのように、憲兵に守られて無事に九州に着きました。心の中に思った。犯罪人なら、聖書が言う「犯罪人の間に加えられた」ということになる。(しかし、彼らは私より真面目だった!)。安全に守るためなら、「眠る番人を与えられた」ということになる。(彼らは私と同じようにぐっすり眠っていた!) ともかく、無事に着いて、み心なら無事に帰れる。大切なのは混乱している世の中、神の栄光と人の救いを実現し、マリアさまにすべてを委ね、その助けを熱心に願うことです。
181 毎日、できるだけのこと
(サレジオ会員へ 1941年5月3日)
 5月23日チマッティ神父は新教区長に配慮して東京に転居した。救護院は新修道女会に委ねた。小神学校の指導はサレジオ会が受け持った。九州の会員
と連絡を保つために原則として月2回手紙を書くことにした。
 5月はマリアさまの月。私たちが置かれている状況の中、天のお母さまの特別な保護が必要です。世の中は不透明、未来は不確実、できることについては不安です。それでも、仕事から手を引かず、今日できることを後回しにしないで今日のうちに実行しましょう。毎日、今日私は自分の魂のため、任せられた人たちのため、信仰のない人々のために何を行ったかを自問自答しましょう。
182 ジャガイモの説教
(練馬神学院の日誌より 1941年8月24日)
 チマッティ神父は、ボヴィオ神父が院長だった練馬の神学院に住んだ。支部の 今日、日曜日、黙想会を前(日誌にこんな話が記されている。)日にジャガイモを収穫する必要が生じた。歌ミサ中の説教をチマッティ神父がすることになり、院長ボヴィオ神父は、「ジャガイモを収穫することについて一言願えませんか」と言ったら、チマッティ神父はこう話してくれた。
 「ジャガイモは、土の中に隠れていればよく熟しますが、もし表に姿を出せば、緑色になって毒を含むようになります。私たちも、謙虚で隠れていれば永遠の生命のための実を結びますが、傲慢になれば自分にも他人にも害をもたらします」。
183 病人としての生き方
(アッリ・カルロ神父へ 1941年10月10日)
 別府教会にいたアッリ神父が結核のため光の園に入院していた。熱意があり、
病気であっても活動したかったが、チマッティ神父からこの手紙が届いた。
 わがカルロ神父さま、あなたの健康は神のみ手にあります。先生が言うには、もし医師の指導に従えば回復の可能性があります。あなたは、病院の担当司祭ではなく、病人です。医師の指示と病院の規則に従ってください。あなたの病気は伝染します。あちこち出歩いたりしてはいけません。主からこの犠牲を頼まれていますが、自分のときはまだ来ていないと言えます。神のみ心であれば、マリアさまが健康の回復を取り次いでくださるように祈りしましょう。あなたを抱きしめて祝福します。
184 第二次世界大戦開始
 日誌は戦争開始をわずかな言葉で記している。無原罪の聖母の祝い中だった(日誌より 1941年12月8日)土井大司教と他の客はすぐに帰った。宮崎の場合、食事中だった教区長の態度は急に変わった。また敵国や中立国の外国人の一部が追放され、日本人会員は次々と兵役に呼ばれた。なお、チマッティ神父は、1943年9月まで三河島教
会の主任となり、教えるために神学校に通うようになった。
 今日、マリアさまの無原罪の祝日。神学生数名の誓願更新があり、午後の楽しい行事の後、戦争開始のニュースが入った。合同写真を撮ってから皆散ってしまった。皆緊張している。落ち着きを保ち、祈るようにと呼びかけた。
  (宮崎支部の日誌から)
 今日、宮崎の小神学校の食事中、出口教区長は不適切な話をした。皆の

1941年 タシナリ神父と修練生たちと
前で「外国人は日本の精神がわからず、日本の風呂を使わない」と発言した。
場所と時期に合わない話で、皆に悪い印象を残した。
185 大和魂をもって励みなさい
(マルチノ秋元保夫神学生へ 1941年12月20日)
 秋元神学生は神学1年で奉仕者になった。仲間が徴兵されたが、体が弱かったので彼は免除され、日本人会員としてサレジオ会の社団の理事長にされた。
 主が、永遠にあなたの(次は彼への励ましの言葉。)遺産となるように。
 神への奉仕と人々の救いのためなら、曲げられることがあっても折れることはない。
 救いは、日の出る所から来る。
 大和魂をもって務めを尽くすために励みなさい。

1942年
生き残りのための苦労
 日本は、戦争のために総力を結集し、宗教団体も協力を要請された。1月2日、日本軍はマニラを、15日シンガポールを占領した。
 6月5日、ミッドウェー海戦が始まり、8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸。戦場は東南アジア全域に広がり、死傷者も多数出た。サレジオ会の神学生も巻き込まれた。
 2月8日、全国教区長会議が開かれ、外国人宣教師に援助を出さないことを決めた。生活物資の配給制度も始まり、いっそう苦しい状態になった。
 サレジオ会はいっそう困難になり、食料確保のために畑を耕し、あらゆる仕事をするようになった。
 いちばん大きな苦しみは、出口教区長が宮崎の小神学校が不要と決めたこと。
サレジオ会と対立するようになり、チマッティ神父は2回だけ九州を訪れることを許されたが、会うことはできなかった。
 3月21日、新司祭6人叙階されたこと、4月14日、4人が誓願を立てたことは慰めとなった。
* * *
186 希望をもって生きよう
(日誌より 1942年1月1日)
 孤立したサレジオ会員にとって外国からも国内からも収入がなく、生きるために 新年の初め、完全に孤立の(仕事を探し求めるようになった。)状態。資金も底をついた。よりいっそう神のみ摂理を頼らないといけない状態である。そのためにあらゆる道を探してみたが、目上は簡単に助けることができるのに固く戸を閉ざしている。九州の宣教師たちは節約し、東京の私たちはどこか生きる道を探している。今、イタリア大使館、教皇庁使節、土井大司教、各修道会、外務省の寺崎氏に仕事がない
かと尋ねてみた。もしかしたら卒業生か、あるいは協力者会が助けてくださる。
でなければ、ドン・ボスコのように施しを願おう。きっと、務めを果たして清
貧を守れば、今まで助けてくださったように、主は今後も助けてくださるでしょう。信頼をもって進もう。
187 戦時中もできるだけのこと
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1942年1月)
 チマッティ神父は、外国に出すことができなくても、この手紙のとおり戦中でも総長への手紙を書き続けた。戦後まとめて提出した。これらは、戦中の貴重な どこでも同じ状(記録となっている。)態ですが、私たちはキリスト教の国と違って、やむをえず宣教活動を停止せざるを得ません。人の心は別な所へ向いています。外国人の私たちの活動がさらに制限されて、生きるためにできるだけのことをやるしかありません。ドン・ボスコが言うとおり、「実行するために困難に出会うと、多くの修道者は手を引くが、これは大間違いだ。私たちは、虚栄や他人の言うことを気にしないで、完全なことができない場合、その一分だけでも満足して実行すること」。
 これは日本のサレジオ会員のプログラムでもあります。おかげさまで今もいろいろな仕事を手がけてよい結果を得ています。神に感謝! 制限があっても仕事と祈りはやめません。
188 外国人宣教師は飾りであるか
(チェケッティ・アルバノ神父へ 1942年2月14日)
 8日から教区長会議があり、出口教区長はチマッティ神父に会おうとしなかった。
気が小さい別府教会のチェケッティ神父は毎日のように手紙を書き、師は毎度答
 私たちの(えていた。)出口教区長は顔を合わせずに手紙を書いただけ。残念です! 
 教皇庁使節は助けることができないと言い、教会当局を動かすために大砲を撃たないといけないようです。全体の雰囲気から見て、外国人は歓迎されない。日本には邦人の人材が必要です。将来のために、これが唯一の道。外国人は飾りとなります。以前のように重要な役割は果たせません。私たちはこのことを悟って、これに従って行動すべきです。
 これは神がゆるされることですから、私たちはできる限り進むようにしましょう。
もちろん、書くのは簡単ですが、何ができるか、どこまで耐えられるかわかりません。最善を尽くしてより熱心に祈りましょう。今の緊急課題は、どこまで仕事が得られるかということです。 189 当局は宣教師を助けない
(教皇庁使節マレラ・パオロ大司教へ 1942年2月21日)
 教区長会議の情報がカトリック新聞から師の手に入った。早速教皇大使に手 私たちの教(紙を書いた。)区長は直接に話す勇気がなく、教区長会議の決議を知ったのはカトリック新聞からです。結局、私たちは自分で生きる道を探し、見つからないなら否応でもあの世に行けばよいと言うことのようです。立派な慰め! 言うのは簡単です。幸いにサレジオ会員はこのような貧困に慣れています。貧困は
私たちの全財産です。驚きはしません。宣教活動に関係のない道を探しましょう。どうしようもないとき、あらゆる道を試してみます。
 今、見放された者の保護者聖ヨセフの祝いを準備中です。私たちもその数に入れてくださるでしょう。閣下も私たちのためにお祈りください。
190 サレジオ会員の取るべき態度
(サレジオ会員へ 1942年3月24日)
 ついに正式な教区長会議の文書が手に入り、サレジオ会員に以下の指示を出 皆さん(してきた。)、私たちと会の事業を存続させるためにいくつか基本的指針をお知らせします。
1.日本の教会当局が出す指示や勧めを忠実に守ること。今、神と教会の前で彼らが全責任者です。宮崎の教区長に対しても敬意を表してください。
2.言葉や行いで抵抗したり、訴えたり、いらだったりする印象を与えないこと。でなければすべては崩れてしまいます。
3.今は、制限する、縮小することは至上命令です。沈黙して目立たないようにし、可能な限りよいことを実行しましょう。
4.当局に対して礼儀正しくふるまい、神経と言葉をコントロールすること。あらゆる面で批判されることがないようにしましょう。
5.神のみ摂理や扶助者聖マリアの保護を信頼し、すべてを委ねましょう。縮小を要求されても、すべてにおいてよい修道者として自分の仕事を続けましょう。
191 海軍大将山本信次郎の恩
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1942年3月)
 山本信次郎師の帰天が大きな悲しみとなった。カトリック・アクションの会長だった山本師はチマッティ神父によく協力し、田野教会に海の星のマリアの絵を贈呈し、福者ドン・ボスコ伝も印刷した。彼について総長に長い記事を書いた。 今回、海軍大将山本信次郎をご紹介します。キリスト信者、サレジオ会の協力者として模範的な方でした。1877年12月22日生まれ、東京の暁星学園で
学んで信仰に関心を抱き、1893年受洗しステファノの洗礼名を授けられました。
カトリック教会の難しい時代にその模範は多くの若者に影響しました。ローマの日本大使館所属として第一次世界大戦後の平和条約会議に参加し、皇太子の外国訪問に随行員として同行し、教皇レオ13世、ピオ10世、ベネディクト
15世、ピオ11世の謁見を受け、カトリック教会内外で広い範囲で活躍しました。
長く日本の青年会の会長を務め、1941年に病気にかかり、1942年2月28日に帰天しました。どんなときでも教会、祖国、正当な権威者に対して愛と忠誠を示し、謙虚さと犠牲の精神の模範としてたたえられています。
192 小神学校を救いたい
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1942年6月10日)
 出口教区長はチマッティ神父が大変な苦労をして建てた宮崎の小神学校が不要と考え、売却する計画を立てた。これに対してサレジオ会は賛成できないと伝 神父(えた。)さま、私は教区長に、宮崎の小神学校をサレジオ会の事業として認めてくださるように提案し、今その返事を待っています。
 教区長は、閉鎖したいと言っています。私たちは、縮小か移転ならよいが、修道会の召し出しが育つ場を閉鎖することに絶対反対だと答えました。神のみ摂理に信頼して、召し出しのために働くことが理解できない彼は、「皆さんは貧しい、お金がないから閉めなさい!」と言いました。会員一同は「絶対反対です!」と答えました。天国も震えたことでしょう!
 ドン・ボスコの精神が日本の子らの中に生きていることを、私は自慢しています。
193 「鉄砲の歌」と「使節帰る」
(サレジオ会員へ 1942年10月28日)
 10月後半、チマッティ神父は鉄砲伝来記念のために鹿児島県から招かれて九州を訪れた。宮崎で天正遣欧少年使節の一人、伊藤マンショの記念も祝い、
 九州に行って、ほとん(会員に会うこともできた。)どすべての会員に会うことができました。皆、物心両
面の大変な状況の中で働いています。その犠牲は神から大いに報いられるでしょう。きっとそうなさるでしょう。私たちは、できる限り、小さなことも大きなことも天国のため、霊魂の救いのため自分の務めを果たしましょう。この旅行中、鹿児島では「鉄砲の歌」、宮崎では「使節帰る」というオペレッタを上演して記念行事に参加しました。神の恵みにふさわしいものとなるように感謝しましょう。
194 「サレジオ」社団名変更
(印刷したハガキ 1942年12月2日)
 文部省が「サレジオ神学院」や社団の「サレジオ」の名を変更するように指示したので、サレジオ会は聖ベネディクトの「ora et labora 祈りと仕事」に因んで「日本天主公教祈祷勤労奉仕会員社団」、神学院は「住吉学院」とした。理事長は秋元保夫神学生、理事は若いサレジオ会員がなった。以下の文
 出身者・協力者へ。大東亜聖戦の初夏を(書は管区長名だが、彼が書いたのではない。)迎えまして、わが日本におけるサレジオ学院の出身者、協力者でおられる貴堂益々御清栄の事と慶賀奉ります。 わが日本におけるサレジオ会が「日本天主公教祈祷勤労奉仕会員社団」として文部省より認可せられ、今やその理事5名(秋元、牧、西村、宮原、岩下)も皆邦人サレジオ会員と成るに至りました。今後日本におけるサレジオ会事業に関する事項に対しての御問合せはすべて新社団の事務所なる東京都板橋区田中町21番地「住吉学院」になされん事を。
管区長 

1943年
戦火急変の中
 1943年の間、第二次世界大戦の流れが大きく変わった。2月1日、日本軍はガダルカナル島で大敗し、何万人も戦死した。同2月に、ドイツ軍とイタリア軍もロシアのスターリングラードで大敗した。6月に連合軍が南イタリアに上陸し、9月
8日イタリアは降伏した。
 全国に緊迫が広がり、外国人に対する締め付けが厳しくなり、いっそう制限が加えられるようになったのである。
 6月25日、日本に学徒戦時動員体制確立要綱の決定が発表された。中学校以上の学生や生徒も徴兵され、工場での労働のために徴用された。いろいろな教育施設も軍のために没収されるようになり、宮崎の出口一太郎教区長は外国人を追い出すために小神学校を売却しようとした。
 9月8日以降イタリアが降伏してからイタリア人が1カ月軟禁され、教区長もいっそう過激な態度を取った。
 12月24日、ついにサレジオ会は小神学校を閉鎖したが、その中に住むことにした。
* * *
195 サレジオ会の墓を購入
(サレジオ会員へ 1943年3月9日)
 戦時中、サレジオ会に墓地が必要となった。そのときチマッティ神父は、現在、
府中のカトリック墓地にあるサレジオ会の墓場を購入することにした。
 先日神に召された志願者パウロ戸村正一の永遠の安息のために祈りましょう。
その最期はまことに聖人のようでした。皆は、その忍耐、神のみ心に身をささげる姿勢を見て感心しました。死ぬ前に誓願を立てました。
 今日3月10日、東京カトリック墓地にサレジオ会のための用地を購入し契約します。多くの会員の切実な願いでした。修道会専用の区域にあり、戸村正一が最初ですが、ピアチェンツァ神父とフィリッパ神学生のご遺骨もそこに移動させます。次は、誰でしょうか。その人のために祈りましょう。
196 「神が助けてくれるから、自分も協力しなさい」
(リカルドーネ・ピエトロ神父総長へ 1943年3月)
 当時、配給だけでは足りなくなってきたので、東京でも宮崎でも運動場を畑に このごろ(してきた。)、各支部は、市や教会当局の要請に従ってできるだけ土地を耕し、神学生も運動場に野菜とジャガイモを植えています。主はその仕事を祝福し、ジャガイモ、トマト、サラダ菜、ほうれん草、キャベツ、かぼちゃなどが立派にできます。新聞でも評判です。人々は「カトリックの神さまはすごいね」と言っています。この野菜をもって近所も助けています。
 今月は古いピアノを売って牛を買い、共同体のための牛乳を得ています。やはり、ことわざのとおり、「詩や音楽だけでは生きられない」し、また「日常のパンをお与えください」と祈って「神が助けてくれるから協力しなさい 
Aiutati ché Dio t’ aiuta」と言われるとおり一生懸命に働いています。
197 神に召された最初の日本人会員
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1943年4月)
 宮崎県出身の立石此吉が兵役中戦場で負傷し結核にかかり、松本の病院で 愛する人の死が悲しいです。最初の日本人会員(神に召された。チマッティ神父はその伝記を書いた。)修道士グレゴリオ立石此吉は、4月13日神に召されました。彼は、修道生活の模範で見習うべき立派なサレジオ会員でした。3年間戦場で兵役を果たしてから、神が忠実な僕に約束されておられる報いを受けました。私たちは、その最期を看取ることを許されませんでした。小さいときに自分の子をマリアさまにささげたお母さんが最期まで付き添ってきました。彼は秘跡を受け、誓願を更新し、サレジオ会の発展と神の国の実現のために命を神にささげました。
198 私たちはいつでもサレジオ会宣教師
(サレジオ会員へ 1943年8月16日)
 必要によりあらゆる仕事を行っても、サレジオ会宣教師であることを忘れない。 兄弟の皆さん、今、生きるためにまた事業を維持するためにあらゆる仕事をやらざるを得ませんが、委ねられた人々の救いのための霊的な仕事を忘れないようにしましょう。私たちはいつまでも宣教師、サレジオ会の宣教師です。ドン・ボスコが言うとおり、10まで許されれば10までやる。1だけ許されるならその1を果たす。どの状況にあっても、教会や当局の要求に従って犠牲をもって善を行いましょう。何よりも、心を込めて神のみ手に身を委ね、何が起ころうとも神の導きに従うようにしましょう。
199 イタリアが降伏したとき
 9月8日イタリアが降伏した。イタリア人は皆自宅軟禁となったが、一カ月で済(日誌より 1943年9月9日)
 イタリアの政治急変により軟禁され、互いにま(んだ。チマッティ神父の日誌にこう記されている。)た外部との連絡が禁止された。
普通なら私有財産が没収されるが、修道者、特にサレジオ会員の場合、貧困以外私有財産はなかった。孤立した生活も修道者にとって難しくないはずである。残念なのは、務めが果たせないことだけ。神さまが代わりになさるでしょう。監視と取り調べは親切だった。信者に対する公の儀式が許され、扶助者聖母会(現サレジアン・シスターズ)のための毎日のミサも行った。
 九州の宣教師はより厳しく扱われているようである。
 社団の理事が日本人なので、所有物は安全である。職業学校の校長も日本人である。
 日本人会員は本当に兄弟のようにふるまって仕事を続けた。教会の委員、カテキスタ、信者たちも皆協力してくれた。
200 アッリ神父が召される
(チェケッティ・アルバノ神父へ 1943年10月23日)
 アッリ神父が神に召されたという知らせが別府教会から届いた。チマッティ神父は葬儀への参加を許されなかった。その後その伝記を書いた。
 神父さま、カルロ・アッリ神父の死去お悔やみ申し上げます。
その美しい魂のために祈りをささげますが、残念ながら葬儀への参加は許されませんでした。
 最期の病気の経過の情報ありがとうございます。皆心を合わせています。
主治医に手紙を書きます。看病してくださった女性にも感謝してください。
201 宮崎の小神学校閉鎖
 ついに宮崎の小神学校が閉鎖され、チマッティ神父は、その中に養成を受け(日誌より 1943年12月24日) た合計105名の名簿を残し、その中に中退者、戦死者、サレジオ会員、また教区や他の修道会に入った者が記されている。閉鎖後、サレジオ会に入りたい者は東京に送られた。12月25日教区長は宮崎支部のサレジオ会司祭に対して聖
務停止命令を出した。チマッティ神父に知らせなかった。
 今日、宮崎で小神学校の先生たちの別れが行われたことは、召し出しのための養成学校の死を意味する。それは、日本の召し出しに対する、致命的な無理解の結果である。私たちは、神と教会の前でその重大な責任を負うことはない。
202 一年の悲しい決算
(日誌より 1943年12月31日)
 一年の日誌の締めくくりは悲しい総決算である。それでも神への感謝で終わる。 多くの出来事があった一年。アッリ神父、立石修道士、戸村志願者が神に召され、多くの日本人会員は兵役中、西村神学生はマニラへ、職業学校の生徒が工場で働いている。小神学校の召し出しを救うために戦ってきた。外国人の仕事が減っても、主は仕事を欠かせなかった。日本の貧しいサレジオ会員のための必要な糧もあった、多くの霊的な慰めもあった。神に感謝!
 主よ、あわれんでください。私たちはあなたをたたえます。あなたを愛し、あなたと共に、あなたのために、あなたにおいて働くように努めます。
 来年の目標は「祈り、活動、犠牲」とします。
 

1944年
近づいてくる危機のさなかで
 この1年、戦争が激化し、太平洋での日本軍が窮境に追い込まれた。
 2月1日、米軍がマーシャル諸島に上陸し、2月16日九州の空襲が始まった。
 2月25日、日本政府が決戦非常措置要綱を発表し、3月30日大都市の学童集団疎開を決定した。
 10月10日米軍の機動部隊が沖縄攻撃を始めた。
 11月24日最初の東京空襲。日本国内は最悪に備えた。
 ヨーロッパで連合軍がフランスに上陸しパリに入り、イタリアでは内戦が泥沼状態になった。
 サレジオ会員は閉鎖された宮崎小神学校の建物の一部を使用し、残りは県が借り上げた。
 チマッティ神父は2月に一度九州を訪れることを許された。教区長に連絡したが会ってくれなかった。サレジオ会員の聖務停止はそのまま一年続いた。
 東京大神学校の大部分神学生が徴兵されたので機能しなくなった。4月からサレジオ会は独自の神学院を開始し、9月にチマッティ神父が三河島から神学院に戻った。
 11月24日に東京で空襲が始まり、神学生を疎開させる場所を探し始めた。
* * *
203 新年を迎える心構え
(日誌より 正月)
 チマッティ神父は日誌に新年の見通しを書いた。宮崎の会員の聖務停止を聞いて、皆それに驚いた。教皇庁使節、東京大司教、大阪の司教に相談した。
 皆によい年を祈るが、多くの十字架が予想される。神のみ心が行われますように! 宮崎の十字架が続くのはなぜであろうか。話し合えば簡単なのに! 

1944年1月
小神学校が閉鎖されたから問題が終わったはずだ。
 残ってくれる者の召し出しを救うために志願院を東京に移す。
204 それでも困難にくじけない
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1944年2月6日)
 2月1日から8日まで一度だけ九州を訪れる許可を得た。出口教区長との問題を片づけるためだったが、会ってくれなかった。都城教会を引き上げようとしたベ お目にかかる恵みを頂なくて残念(ルナルディ神父に留まるように願った。)。み心のままに! 神父さまが精神的に疲れていることがよくわかります。人の救いのために働きたい人にとって殉教のときです。私たちは邦人の聖職者によい手本を示すためにも自分の場所に留まりましょう。外部の仕事が減って、内的な仕事に力を入れましょう。私は、仕事が足りない会員たちに何かを翻訳するように勧めます。将来出版できるため、また邦人会員に役立つためです。今、東京で志願院を始めています。8 名います。今日、その保護聖人、日本の殉教者の祝い。停止された事業が始まった日を思い起こします。いつまでこの状態が続くのでしょうか。日本の教会、日本のサレジオ会のためになるようにすべてをささげましょう。
205 時間を有効に使う
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年2月)
 本部に送れない手紙は、将来の人に戦時中の宣教師たちの状況を伝えるためである。このときにチマッティ神父は「一年間の毎日の黙想」という資料を準備 神父(した。)さま、日本の子らはできる限り宣教活動を続け、空いている時間を有効に研究に充てています。これによって各分野の専門家と接し、友好関係を増やしています。 マレガ神父は大分のキリシタン関係の文書を多く発見し、印刷する予定です。21 ロマーニ神父やタシナリ神父も同じ分野でそうしています。バルバロ神父は数十冊の出版物を出し、特に福音書の注解が注目されています。この世界的混乱が終わるとき、力を蓄えて生き残る人々は宣教のために働けるでしょう。今は、沈黙と希望のうちに備えるときです。悪をたくらんで全力を尽くす人がいるこのとき、善のために働く私たちは何もしないでいるわけではありません。私たちも精一杯働き、昨日も、今日も、いつまでも生きておられるイエス・キリストのものでありたいのです。
206 新司祭の叙階にあたって
(マルチノ秋元保夫神父へ 1944年3月20日)
 マルチノ秋元保夫の叙階式が行われた。サレジオ会来日から18年経って、初
めて邦人司祭が生まれた歴史的な日。そのお祝いの言葉。
 親愛なるマルチノ神父さま、的は目の前にある。
 考え、言葉、行いにおいて
 完徳を目指す仕事を通して
 完全に神のみ心に自分を委ね
 いっそうイエスに近づくようにしてください。
あなたのヴィンチェンツォ・チマッティ神父
21  マレガ神父は1942年「豊後切支丹資料、1946年「続・豊後切支丹資料」を出版した。
207 サレジオ会の最初の邦人司祭
(リカルドーネ・ピエトロ神父総長へ 1944年3月末)
 この手紙から最初の司祭叙階、また6人が誓願を立てたことの喜びが伺われる。
残念ながら終生誓願の牧神学生は再度徴兵され戦死した。
 今月は、25日に最初の邦人司祭を含む3人の司祭叙階、また26日に6人が誓願を立てたことは最高の慰めです。敬虔な信者であるマルチノ秋元神父のご両親と姉妹たちが叙階式に参加し、長男を司祭にしてくださった神さまに感謝をささげました。日本の社会を知っている人なら、いかにこれは大きな犠牲であるかわかるでしょう。息子からご聖体を頂くご両親と家族の喜びに満ちた姿を見て、私たちは感激しました。この機会のためにデルコル神学生が歌を作詞し、私はそれを作曲しました。
 26日の初ミサの喜びに合わせて、兵役から戻ってきた牧神学生の終生誓願22この恵みのために心から神に感と6人の修練者の初誓願式が行われました。
謝いたします! ドン・ボスコの旗印に従う日本人会員の小さなグループが次第に膨らみます。困難や犠牲の中で育った召し出しはより明るい未来を期待させます。神がその栄光のために彼らを見守り、増やしてくださいますように!
208 サレジオ神学院の誕生
 このとき、練馬サレジオ神学院が誕生した。それまで神学生は石神井の東京(日誌より 1944年3月31日)大神学校に通っていたが、戦争のため学生が不足し閉鎖された。サレジオ会は 今日、東京教区の大神学院の院長(独自で神学と哲学を教えることにした。)が来て、大神学校の人数が少なくなったのでサレジオ会員も通えなくなると告げてきた。これで自分たちの所で勉強をせざるを得ないことになる。これによって多くの問題も解決される。通う危険も23 なくなるし、靴も節約できる、また養成もよりよくできるのであろう。
22 この時に初誓願を立てたのは阿部英雄、金子賢之介、山頭源太郎、赤波江博、池田貞夫、岩波倭雄。
23 戦後、1950年に神学校は調布に移転した。
209 院長になったタシナリ神父へ
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1944年4月5日)
 タシナリ神父は新しい神学院の院長に任命された。次は、励ましの手紙である。
 神父さま、長く祈って考えて相談した結果、神の栄光と皆の利益のために私たちの神学院(神学生、哲学生、志願者とその担当者)の院長に任命します。重い十字架を肩に載せることになりますが、示された神のみ心によってよい実を結び、功徳を積むことにもなるでしょう。恐れることはない。会員も神学生も神父さまを支持し、チマッティ神父もすべてにおいて助けます。
 物質的な問題は気にしないでください。主が助けてくださるでしょう。あなたは霊的な面を考えなさい。基本は、会憲、会則、サレジオ会の伝統です。それを通してドン・ボスコが私たちのうちに、私たちの間に生きるようになります。復活祭に際してもっとよいプレゼントをしたかったが、主が喜ばれるこれを受け取ってください。ペトロのように、「主よ、お言葉のとおり網を降ろします」と言いなさい。
210 気を落とさずに進もう
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1944年4月8日)
 都城は東京からずいぶん遠い。孤独なベルナルディ神父を励ます必要があった。
 わがアンジェロ神父さま、その犠牲がわかります。仕事がないことはいちばん辛いのです! 辛くても祈りながらできるだけのことをやれば、主は喜び、ときがくれば報いてくださるでしょう。お母さんのことを心配せずに扶助者聖マリアに委ねましょう。私は人々にいつもそう言います。できるだけのことをやれば、主はよいほうを図ってくださいます。運命主義者でない私を信じてください。起こることは、ためになるから主がおゆるしになる。自分の都合に合わせようと思っても、主が望まれるままになります。よいお父さんである主が定めてくださることを受け入れて、元気よく進むようにしましょう。快活で、いつも善意をもって働き、恐れずによいと思うことを実行しましょう。
211 戦死した教え子を思う
 宮崎県高鍋出身のタルチジオ甲斐成大が、1943年11月1日フィリピンで戦死(日誌より 1944年4月30日)した知らせが届いた。チマッティ神父は大きな期待をかけていたこの教え子の伝
 今日、タル(記を書いた。)チジオ甲斐神学生が死去した悲しい知らせがその両親から届いた。
主が与え、主がお取りくださった。み名が祝されますように! わが主よ、あなたは美しい花を摘み、実りのないこの役立たない私を、この枯れた枝をお
残しになります。イエスさまよ、群れをお残しになり、羊飼いをお取りください! 
 タルチジオ甲斐は、素直で正しい、偽りのない、すべてにおいて神のみ心24だった。人間的に言って大きな損失である。
と一致していた本物のタルチジオみ心が行われますように!
212 チマッティ神父、神学院に戻る
 3年間三河島教会の主任を務めたチマッティ神父は、タッサン神父に任務を譲(日誌より 1944年9月15日)
り、練馬の神学院に移動した。これからは、神学院がその住まいになる。
 今日、私は練馬の神学院に移ってきた。会員も教会当局もそのことを願っていた。もし軟禁されるなら、私がここにいるのはいろいろな意味で役立つ、と
言う。私としては、戦場を退いた兵隊のような気がするが、後を継ぐ人がよりよくやるから、三河島の信者にとって有益である。日本人は若い人の活発さ、変化のある指導を好む。私は秤で量られて、あらゆる意味で不足していることがわかった。今回も主に向かって、「主よ、辱めてくださったことは、私にとってよいことです」と歌うべきだ。
 主は聖人になるための最後の機会を与えてくださる。神学院の仕事に戻って、私にとっては前よりやりやすい。学生にも役立つであろう。
24  若い聖タルチジオは、ローマの迫害の時に御聖体を守るために殉教した。

1944年 練馬に移ったチマッティ神父
213 戦時中も音楽を活用する
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年10月)
 チマッティ神父がそばにいれば音楽がある。当時の神学院でもそうだった。若者のコーラスが少なかった戦時中、サレジオ神学院のコーラスが有名だった。
 戦時中のいちばん厳しいときにサレジオ神学院のコーラスが東京でいちばん有名でした。カテドラルや他の教会で葬儀と荘厳ミサ、聖週間、クリスマス、復活祭、特にそれらの式がラジオで放送されるとき、私たちが招待されます。放送局は機械を持ち込み、レコードを録音し、その後放送します。サレジオ会員にとって名誉、宣伝、収入源となり、日本人の心とつなぐ機会にもなるのです。皆芸術の喜びを味わい、より優れた演出ができるようになります。私が作曲し、マルジャリア神父が歌った童謡を録音したときを思い出します。「ストップ! やり直し!」と叫ばれました。これまで音楽を教えてきた長い年月よりも多くを学ぶ機会となりました。自分は歌手だと思い込む会員が舞台に上ります。
見栄のためであってもよい目的だから恐れることはありません。「さあ、全国民が聞くんだよ」と言えば緊張します。試しレコードを聞かせると「ストップ! やり直しだ!」となれば、「歌手の生活はきついなあ」と言って気まぐれの人は消えていきます。これにより次第にすばらしい演奏ができるようになるのです。
 
214 オラトリオ「よき牧者 Pastor bonus」と「一年の黙想」
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年11月)
 タシナリ院長の祝いのためにチマッティ神父は新しいオラトリオと黙想の原稿をプレゼントした。両方の原本が資料館に保存されている。黙想の分量が多く、
 サレジオ会の伝統には、会員(一部だけデジタル化されている。)の霊名を祝う習慣があり、その日に祈り、祝いの言葉、またその人の特徴を強調する何かを演ずるようにします。これは家庭的な精神を培うために役立ちます。院長の場合、特別な形で祝います。今
年は、デルコル神学生が作詞し、私は作曲した福音書によるラテン語のオラトリオ「よき牧者 Pastor bonus」をソロとコーラスで上演しました。そしてプレゼントとして私がまとめた聖フランシスコ・サレジオとドン・ボスコの著書に基づく「一年間のためのサレジオ会の黙想」を院長と神学生に渡した。それは、一度体験してから、ドン・ボスコに近づくため、サレジオ会に公にしてもよいと思います。
215 聖母マリアに教会建設を約束する
 11月に東京空襲が始まった。毎度サイレンが鳴り、皆防空壕に入る。チマッ(日誌より 1944年12月)ティ神父だけ外に残ってロザリオを唱える。そのとき、聖母マリアの名前で教会を 12月3日 空襲の爆弾(建てるという約束をした。)が学校の左右に落ちたが、マリアさまは明らかに守ってくださった。神に感謝!
 12月5日 今日、無原罪の聖母祭の前に防空壕を作るために皆忙しい。短い話の後、掘った防空壕を祝福した。近ごろの出来事のために皆神経がいらだつ。疎開する場所を探す提案が出た。当局にも相談したが、外国人であり、食料調達も困難があると言われた。
 12月8日 マリアさま万歳! 昨夜2時、また昼12時警報が鳴ったが、予定どおり朝のミサから夕食までプログラムを成し遂げた。私は、無原罪・扶助者聖マリアをたたえるために教会を建てることを約束した。25マリアよ、私たちの体と心、私たちの事業を守り、遠い方々もお守りださい。
216 珍しいマリアへのソナタ
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年12月)
 この手紙では、聖母マリアをたたえるために作曲した変わったソナタを紹介する。
 先日上演したマリアさまをたたえるカンタータは、変わった出来事から生まれてきたものです。というのは、紀元2600年のとき、私は日本の神話と歴史を基にして「国の肇を讃えて」というピアノソナタを作曲し、NHKのラジオが全国へそれを放送し、高く評価されました。私は、宣教師としてその出来事を祝う国民に心を合わせるために作ったのですが、ある人は、私が神話に賛成してそれをたたえたと誤解しているのです。
 そのため今回、私はマリアさまの名でそのソナタを聖なるものにしました。コーラス、ソリスト、ピアノ、ハルモニウム、バイオリンのためにその3部を編曲し、マリアのカンタータとなったのです。わが詩人デルコル神学生は、私の趣旨をよく理解して立派に作詞してくれました。そして、ラジオの放送局が来てレコードを録音し、どこかで放送したと思います。
 マリアさま万歳! 私たちにも万歳! 私自身にもおめでとう、と言いたくなります。
217 危機の中の幸い
 困窮の中のみ摂理の助けが届いた。これで疎開の場所を手に入れる資金がで(日誌より 12月9日)きた。なお、このころNHKで多くの録音ができた。見つけたら貴重なものである。
 次々と警戒警報が鳴る。周りに火災も相次ぐ。私たちは無事である。
 今日、上海から寄付金が届いた。どなたがみ摂理の使者であるか不明だ。
25  その教会は、1956年に建てられた下井草教会である。
神に感謝!
 12月17日午後2時、ラジオ局の担当者が来て、クリスマスのためのレコードを録音に来た。ラテン語とイタリア語の賛美歌の他に、1940年、紀元2600年のために作曲したピアノとバイオリンのソナタを録音し、すべて立派にできた。
神に感謝!
218 一年の感謝
(日誌より 1944年12月31日)
 今年も日誌は祈りと感謝で終わる。チマッティ神父の常の心であった。
 疎開する場所を探しているところである。戦争の不安の中、今年も終わる。主よ、戦争から私たちを解放してください。すべてのために感謝いたします。無に等しいこの私のことを思えば、これほどの恵みに値しません。わが主イエスよ、私のためでなく、私の子らのためです! これからはいっそう働くようにします。み心が行われますようにすべてを委ねます。キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに! マリアのマントの下に、またドン・ボスコの保護の下に!

1945年
敗戦と再建の始まり
 この1年、日本国民にとって最悪の年。日本軍が次々と大敗し、大都市への無差別爆撃が行われた。
 3月9-10日、東京大空襲
 4月1日、米軍が沖縄本島上陸。およそ19万人の死者。都市部の児童たちが地方へ疎開。
 4月下旬、サレジオ神学生が野尻湖へ疎開。チマッティ神父は東京に残る。
 5月7日、ドイツ軍が無条件降伏。
 7月、九州の宣教師たちが熊本県栃木温泉に監禁。
 7月17日、ポツダム会議で世界の新体制が決まる。
 8月6日、広島の原爆、8日、ソ連軍が日本に宣戦布告、9日、長崎の原爆。
 8月14日、御前会議で日本政府がポツダム宣言を受諾。
 8月15日、天皇陛下の玉音放送があり、連合軍へ無条件降伏。チマッティ神父は東京に残っていた。終戦の時点、別府を除いて、九州の事業がほとんど全壊。すべてを再建する課題に直面する。出口神父に変わって、福岡の深堀司教が宮崎・大分の教区長代行になる。
 10月7日、チマッティ神父、九州を訪れることができた。
 11月末、東京で全国教区長会議に元教区長も参加。教会の新方針が決まる。
 12月28日、国会で以前の宗教団体法を廃止し、宗教法人令が公布施行され、宣教の新時代が始まる。
* * *
219 新年の挨拶
(サレジオ会員へ 1944年12月27日)
 これは年末に出した新年挨拶。戦時中の雰囲気が漂っている。
 新年おめでとう! 皆さんにあらゆる意味で幸せな年でありますように! そのためにも私は毎日の祈りと犠牲を主にささげます。他にプレゼントはなく、代わりに私自身、私のできること、主のお望みであれば命も差し上げます。
 「新しい年、新しい生活!」というとおり、今置かれている状況の中、もし主がお召しになるならば、真の新しい生活が始められる状態でいるようにしましょう。東京の場合、これほどの「よき死の練習」を真剣に行ったことはありません。これも神の恵み! 神のみ心であれば、その栄光のため、私たち自身、委ねられた人々の救いのため、より長く働けるように残してくださることを祈ります。ドン・ボスコが言うとおり、私たちの命はよいお父さんであられる主のみ手にあります。いつまで生きるか主はご存じです。天国に入るためにいつ死ぬかを知る必要はありません。よく準備することだけが大切です。
220 避雷針になる聖母マリア
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1945年1月29日)
 この手紙に出てくる聖母マリアの額は、現在、下井草教会の後ろの壁に飾られ 戦争の(ている。)状況はいっそう深刻になっています。危険が迫ってきています。そのため私たちは森の中に二つの「避雷針」を取り付けることにしました。
 一つは、掘った防空壕の近くにかけた扶助者聖マリアの額です。もう一つは、職業学校の上に取り付けたマリアさまのご像です。荘厳にそれらを祝福し、危険なときにそれに目を向けて祈ることにしています。
221 「パンと仕事と天国」
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1945年2月)
 東京の学徒が疎開され、サレジオ会も神学生のために疎開場所を探していた。
 日本に戦争が迫り、大都会、特に東京から住民が疎開し、扶助者聖母会のシスターたちも富士山麓の山中湖に避難しました。私たちも最悪に備えて神学生が勉強を続け、宣教に備えるように安全な場所を探しています。聖ヨセフの取り次ぎを願って神のみ摂理が助けてくださることを確信しています。
 大都会の子どもたちは疎開し、若者と元気な人は兵役中、または工場で勤労奉仕しています。私たちは彼らのために祈り、手紙で連絡を保ち、必要な物資や本を送り、入院中の者をお見舞いしています。演劇、コンサートなどで慰めるようにもします。ドン・ボスコがサレジオ会員に約束した「パンと仕事と天国」のとおり、恩人の協力によりパンと仕事は不足しません。天国は、お望みのときに主がくださるでしょう。
222 三つの仕事
(野尻湖のサレジオの神学生へ 1945年5月5日)
 ついに長野県の野尻湖に疎開場所が手に入り、神学生がそこに疎開した。チマッティ神父は東京に残り、院長であるタシナリ神父を通して彼らに次の目標を与
 皆さ(えた。)ん、特に二つのことを確認したい。
 1.マリアの月にあたり、マリアを通して、マリアと共に思い、言葉、行いをイエスさまにささげること。
 2.仕事、仕事、仕事 という目標です。
 まず、心のための仕事。中途半端なサレジオ会員なら、仕事の実りは半分以下になる。しっかりした一貫性のあるサレジオ会員なら、ドン・ボスコのように広く深く働くことができるようになります。
 次は、学ぶという仕事。今、その手段が不足していますが、人類の学問の土台は本がなかった時代に置かれました。毎日、長上との付き合いを通して学んでください。彼らに自分の疑問をぶつけてください。形式的な授業よりも、自然な学び方が効果的です。
 三番目は、生活を支える仕事。喜んで参加しましょう。怠け者、つぶやく人がいないように。皆快く、力に応じて協力しましょう。
 私は「疎開しないか」とよく聞かますが、まず、学校と三河島教会に問題がないようにしたいのです。
 死なないなら、後でそのことを考えましょう。死ぬのなら、よい死を遂げるように私のためにお祈りください。
223 どんなときでも「み心のままに!」
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1945年6月2日)
 この手紙は心配していた野尻湖にいる神学生に宛てられた。チマッティ神父の 最後の空襲で横浜の教会、(信仰がよく現れる手紙である。 )大森の教会、川崎の教会も「かつてあったもの」になりました。
 私たちは神の手にあるので、心配せずに祈りましょう。自分の務めを果たせば、主は守ってくださるでしょう(もちろん、自分の協力が必要です!)。これ
は、予言ではなく現実です。たとえ、物質面で自分の思ったとおりにいかなくても、皆と同じようになっても、自分や全体のためにそれでよいのです。自
分が望むとおりでなくても、主は父です。次のとおり祈るように勧めてください。
「主よ、み心のままに!」神さまに自分の望みを言わなくてよい。「しかし」「もしも」という言葉は要りません。「主よ、み心のままに!」だけ。自分にとっても、皆にとってもそれでよい。祈るときに信仰をもってイエスを通して祈れば、何でも得られる。残念ながら、私たちが祈るとき、自分の小さな利益を願う(大したことでもないのに)、そしていちばん大事なことを願わないか、あるいははっきりと言わない。しかし、聖書には、具体的なこと(日常のパン、罪のゆるし、悪からの救い)の前に、「み心が行われますように!」と書いてあります。
224 窮乏の中にも神に感謝!
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1945年7月23日)
 戦争の終わりが近づいていた。野尻湖にも生活物資の不足が極限に達した。日本人会員が余る物を運んでいたが、汽車の切符が手に入らず、途中でなくして 切符2枚が手に(しまうこともあった。)入った。できるだけ物を送ります。神に感謝! ところが、私たちが助けたくても、頼まれた物を送れないことがある。物がない、また送る方法がないのです。私たちが皆さんに意地悪をするとは、とんでもない! 互いに愛徳と忍耐があれば、主は祝福してくださるでしょう。 ある人は、東京の神学院に物が有り余っていると思っている。そうではない! 以前は苦労して手に入った物も、今はお金を高く払っても手に入らない。今、人数分の配給しかなく、三河島の福祉事業さえもそうです。貧しい人はとても苦しんでいます。私たちもその数に入っている。当然、影響を感じていますが、我慢せざるをえません。神のみ心としてこれを受け入れて、ささげるようにしましょう。
225 思い込みの病人の扱い
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1945年7月31日)
 野尻湖の異常事態の中、精神的な病気にかかる人もいた。その精神的な病
 悩んでいるMさんについて、あまり心配要りません(気の扱いについてチマッティ神父は以下のように勧めた。)。思い込みによる病は、他人に理解されないが、本人にとっては大変苦しい。これに対して、浮かんでくる心配を忘れさせるために同調を示しながらも、心配を見せないで仕事や人との交わりを勧め、明るく、落ち着いた雰囲気に生きることが必要です。
 F神父の場合は、あまり熱を測らないように勧めなさい。その行動は病気よりも重い病気だ。測ることを禁じた医師からもそう言われた。ここでも、励ますこと、明るく、親切に付き合うことが必要です。目に見えない病気だから他人から信じてもらえない、否定されることは本人にとって大変苦しみです。
226 終戦の日
(日誌より 1945年8月15日)
 今日、黙想会の締めくく( ついに終戦の日が来た。)り、マリアさまの祝いに、平和のプレゼント。神をたたえよう、神に感謝! これ以上のプレゼントがあろうか。主よ、私の願いはご存じです。国民の悲しみに心を合わせながら、天皇陛下が国民をよい方向へ導いてくださいますように! 戦争開始は12月8日無原罪の聖母の祭日、終戦は8月15日聖母被昇天の祭日、天の母の日。そして、ドン・ボスコの誕生の前日。神に感謝! 
 これから神の栄光のため、国のため、霊魂の救いのために再建、拡張、強化の仕事を手がけましょう。
227 再建の基本方針
(サレジオ会員へ 1945年9月2日)
 戦争が終わっても、動けない状態だった。交通網が破壊され、家に帰る帰国者があふれ、数カ月混沌した状況が続いた。チマッティ神父が九州を訪れたの 最近の出来事によって喜びで満た(は10月7日だった。大変な旅だった。)されていますが、これから人材と事業を点検し、全力投球で新しい情熱をもって再建に着手しましょう。言葉より実行、過去を嘆くより現実に立ち向かい、未来を夢見るよりドン・ボスコの精神に従って神の栄光と霊魂の救いのために力を合わせましょう。個人としては、会憲を順守すること、事業に関しては各自自分の立場で落ち着いて、明るい気持ちで仕事に取り組むこと。
 まず、信徒の信仰生活の再建。信仰教育とその実践を強調し、治すべき状態を正し、特に見放された若者のために愛と献身を尽くして教会学校を再建すること。
 熊本の栃木温泉にいる宣教師たちは10日ごろ帰れるようです。皆元気ですが、弱っているでしょう。必要な休息と栄養を取りましょう。私はできるだけ協力します。この試練をおゆるしになった主は私たちを見放すことはありません。世の中の状態を考えれば、主は不純なことから清めてくださったのです。神に感謝! み手からすべてを受け入れて生活を改善し、互いの協力を深め、み名によりあらゆる困難に打ち勝ち、善意をもって生きるようにしましょう。
228 田中幸太郎の話
(サレジオ会員へ 1945年12月3日)
 11月末、全国教区長会議が開催され、戦前の元教区長たちも招かれた。そこで教会の基本的方針が決められた。チマッティ神父は、カトリック信者で、当時文部省学校教育局長であった田中幸太郎の教会再建のための言葉を記録した。
 全国教区長会議は、明るい穏やかな雰囲気、相互理解にあふれた会議でした。田中幸太郎氏は次のように述べました。

1945年 野尻湖
 悲しい戦時中、信者たちは特に祈りをもって宣教師たちのそばにいました。極端な国粋主義に導かれた日本は、カトリック教会にのみ正しい道を示す力があることを理解できず、今のような結果になりました。今から、キリスト教の精神を培うためにあらゆる手段を活用し、カトリックの教えを広めるようにすべきです。成功するために戦いも必要でしょうが、驚くことはありません。教会は、どこでも、どんな時代でも、いつもそうでした。今は日本人も外国人も団結し、それぞれの可能性を活かすべきです。外国人は長い経験に基づくキリスト教の精神をもっているが、日本の教会の歴史は浅い。私たち日本人は、宣教師たちが日本のためになさったことを、決して、忘れることはありません。国民性の立場からではなく、カトリックの立場から物事を見るべきです。


1946年〜1947年4月戦後の再建
 日本の民主主義が誕生。
 まず、1945年12月31日から学校で修身・日本史・地理の授業が停止された。
 1946年1月1日天皇の「人間宣言」。そして、宗教団体は「教団」から「宗教法人」に変わった。
 1946年から1947年4月までチマッティ神父は宮崎に籍を移し、必要のある所へ駆けつけ、事業再建を指導した。その期間中、中津と東京に新しい養護施設、宮崎に日向学院中学校が設立され、初代校長となった。サレジオ会小神学校もそこに再開された。
 米軍のカトリック信者は、いろいろな形で戦災孤児や教会事業の再建に協力した。
 1947年3月31日、教育基本法・学校教育法が公布され、4月1日から6・3 制が実施されるようになった。
 4月19日、チマッティ神父は総会に参加するためにイタリアへ旅立ち、戻ってきたのは1948年7月。
 そして1949年11月末までまだ管区長の立場であった。
* * *
229 東京の浮浪児の事業
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1946年6月17日)
 戦後、東京に親を失った戦災孤児があふれ、チマッティ神父が九州からタシナリ神父にその世話を命じた。東京の成増で始まった事業は、現在の東京サレ 皆さん、ご苦労さま! 子ど(ジオ学園の養護施設となった。)もたちを救うために汗を流していること、神に感謝! 神父さまは私の許可を願っているが、私はすでに許可を与えました。ここから皆さんのために祈り、お勧めを願ったら書いてあげましょう。お金のことは、評議員に探してくれるようにと指示しました。そのために神に祈りましょう。きっと送ってくださるでしょう。聖人であれば、神のみ摂理の奇跡を見るでしょう。
 神よ、あなたのいちばん貧しい子たちを世話しているタシナリ神父をお助けください。50万円があればすべてが解決される。誰か持っている人が助けてくれるように祈ります!
230 肉体労働も必要だ
(デランジェラ・ステファノ神学生へ 1946年8月29日)
 チマッティ神父は叙階に近いこの若い神学生に身体労働の意味を教えている。 お手紙ありがとう! お気持ちがわかります、肉体労働をしなければならないことは。それは、あなただけでなく、会員皆もそうです。特に戦中戦後、そ
れは避けられないことでした。皆、あなたと同じこと、もしかしたらあなたよりも感じています。あなたが安心するために、聖人たちのことを考えてみてください。特に同じような使命を与えられた聖人、否、イエスご自身のこと。イエスは30年間も労働し、その状態でおん父との一致を失いませんでした。私たちもそうすべきです。なぜなら、そうさせてくださるのは神のみ摂理ですから。主が「心の貧しい人は幸いである」と言われ、日本の私たちサレジオ会員は実際にそうです。
231 お姉さんの帰天
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1946年9月28日)
 本部との文通が再開されたとき、最初の知らせはお姉さんの帰天のことであった。そして、その返事の中の最初の願いは、管区長の役職から解放してくれるこ  8月24日と(とであった。)28日のアメリカ経由のお手紙を頂き、姉の帰天を知らせ、ありがとうございます! 神のみ心が行われますように! 主は私が家族の絆から解かれることをお望みになったのです。これほどお別れを感じるとは思いませんでした。ついに残ったのは私独りです。より強く主に結ばれるためでしょう。神に感謝!26
 長上の皆さんが日本を愛しておられるなら、イタリアから新しい管区長を送ってください。皆の利益のためです。私は、皆さんがおっしゃる所、どこへでも行きます。会員にこのよい手本を見せたいのです。長上の皆さん、ぜひ聞き入れてください。苦労は拒みません。その証拠として、今、宮崎で志願者と哲学生の授業を再開しています。
232 新司祭への言葉
(1946年12月21日)
 戦後の新司祭へのお祝いの言葉である。
 カスティリオーニ・アルベルト神父へ
 1.主は、若いあなたの喜び。感謝しなさい!
 2.主は、あなたのもの。あなたと任せられた人々の救いを願いなさい。
 3.すべてにおいて、キリストのようにふるまいなさい。
 デランジェラ・ステファノ神父へ
 1.谷川の水を求める鹿のように、主を慕い求めなさい。
 2.霊的なものや、物的なもののために心配するな。
 3.困難なときに星(マリア)を見なさい。
233 日向学院が生まれる
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1947年3月)
 総長への手紙には日向学院の誕生を報告し、「日向」が「イエスに向かう」ことを思い起こさせると説明した。生まれ変わったドン・ボスコ社にも期待を寄せ 神父さま、戦(ていると言った。)時中、宮崎の小神学校が問題になりましたが、今はそこにもう一度サレジオ会の志願院が戻っています。また、県の願いがあって、中学 26  チマッティ神父の姉シスター・マリア・ラファエラ・チマッティが所属していた修道女会の総長からの手紙に対する返事である。帰天したのは1945年6月23日、知らせは1年以上かかった。彼女は1996 年5月12日に教会から福者とされた

1946年 バイオリニスト江藤俊哉氏とその家族と
校も認可されました。学校の名前は、この地方に因んで「日向」としました。
しますようにお祈りください。それには「日に向かう」という象徴的な意味があります。本当にそれが実現27
234 イタリア出発前の挨拶
(サレジオ会員へ 1947年4月8日)
 戦後、久しぶりサレジオ会の総会が開かれ、チマッティ神父とロマーニ神父が参加した。東南アジアの道が開通していないのでアメリカ経由で行った。出発に 皆さん、イタリアへ旅立つ前に(あたり会員に次の挨拶を書いた。)、宣教活動の苦しみと喜びを共に分かち合った私は、改めて無条件の愛情と祈りを約束します。皆さんが教会、サレジオ会、人々の救いのために献身的に働き、皆さんの霊魂の友であるこの年老いた私
27  西洋の言葉で「東・西」は「Oriente・Occidente 日が昇る・日が落ちる場所」と言う。
西洋教会で「救いは東から来る・イエスは東から生まれる」と言って聖堂の中で東に向かって祈ることになっていた。
に示してくださった愛情のことを心から感謝し、ご期待に十分に応えられなかったことをお詫びいたします。
 神の名により皆さんに次のことを約束します。もし、忠実に会憲を守り、堅固な信心生活と仕事に基づいて生きるならば、私たちは聖人となり、修道生活の物的・霊的な困難に打ち勝つことができると約束します。でなければ、責任を負いません。
 管区長不在中、ボヴィオ神父が代行してくださいます。

1947年4月〜1948年6月総会のためイタリアへ帰国
 1947年4月、総会に参加するためにアメリカ経由でイタリアへ向かった。総会は8月後半であった。
 その前後の長い期間イタリアを回り、日本のことを紹介し、協力を願い、250 回以上の講演をした。
 管区長の交代も期待したが、1949年の終わりまでそのまま続くことになった。
 12月12日、ピオ12世教皇の謁見があった。
 アメリカ経由の日本への帰国は1948年7月になった。
 この期間中日誌を書かなかったが、原則として日本の会員に月二回報告の手紙を書いた。
* * *
235 管区長の交代を願う
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1947年5月17日)
 イタリアに着いたチマッティ神父は、早速、副総長に管区長の交代を願い、戦時中に書いた数多くの文書を長上に渡した。それらはサレジオ会本部の資料 神父さま、以前、(室に保存されている。)何回も長上の皆さんに私の交代をお願いしました。おかげさまでまだ元気です。苦労をいといません。日本では、宣教地も修道会も土台が据えられ、今は事業や会員を強化すべきときです。そのために、若くて強い指導者が必要です。
 チマッティ神父は、必要があればどこでも再出発できます。第二次的なポストでよいです。何にも執着がなく、そのために功徳もないのではないかと恐れています。20年もこの立場にいたので、交代をもって会員によい手本を示すべきです。神の栄光と人々の救いのためにお願いいたします。ある会員は、ヨーロッパからの新人がよいと言っていますが、日本にも私より立派にやれる人がいます。霊的な面で会員の進歩を図るためにこれがいちばんよい提案だと神の前に信じます。
236 イタリアでの活動報告
(アチェルビ・フランコ神学生へ 1947年7月18日)
 友だちの代表者として手紙を書いた神学生にイタリアでの活動報告と予定を知 皆さん(らせる。)、ご安心ください、チマッティ神父はアメリカを通ってもアメリカニズムの影響を受けていません。むしろ、以前より自分の考え方を強めてきました。
戻れるならば、お聞かせしましょう。
 では、今まで何をやってきたかをお知らせします。
・長上と話して、皆さんについてできるだけよいことを話し、よくないことをあわれんで隠すようにしました。それは、「罪のない人は、先に石を投げなさい」と言われないためです。
・会計その他を報告し、これからの計画を示し、保存してきた書類を渡してきました。
・養成支部、学校、卒業生の集会で講演し、会社と折衝し、新聞のインタビューにも答えました。
・いくつもの支部で黙想会を指導してきました。
・多くのシスターの修道院で説教や講話をしました。
・もちろん、いつも歌と演奏も伴いました。
・トリノ近辺の支部や宣教師の家庭を訪問し、8月、黙想会の後、総会に参加する予定です。
 皆さんに感謝し、毎日祈りの中で思い出します。主が皆さんに望んでおられるのは、快活でよく働くこと、また聖なるサレジオ会員になることです。
237 懐かしい生まれ故郷へ
(日本の神学生へ 1947年8月6日)
 何年かぶりファエンツァを訪れたら、どこでも戦争の傷跡を見た。自分の生まれ

1947年 総会のためイタリアへ帰国時に。ドン・ボスコが育った家の前で作曲した歌「父の家」を教える
 生まれ故郷ファエ(た家も消えていた。)ンツァを訪問しました。戦中、故郷を流れるラモーネ川が戦線となり、生まれ育った地区は大損害を受けました。橋を渡って友だちの家を探そうと思ったけれど、勇気がありませんでした。私の生まれた家も存在しなくなった! 記念に取っておこうと思った人は残念がるでしょう! 
 イタリアには生活必要品は何でもありますが、皆不満です。分裂のもとは政治です。国民の利益を考えずに政党は争い、互いを食い尽くすばかりです。
 皆さんについて情報を欲しがる人にはできるだけよいことを話しています。よい材料はいくらでもあるから。おかげさまで、皆日本のサレジオ会や宣教地に対して好感を抱いています。
238 マリアはイエス中心に生きた
(イタリアでの説教より 1947年8月21日)
 イタリア滞在中多くの教会と修道院で説教し、自分がマリアに対して抱いていた深い信心を示す説教のヒントを残してきた。 ドン・ボスコは、「マリアは本当に愛してくださっています」と人々に教え、多くの形でマリアの物的また精神的な面での愛を示してきました。
 ある人は「マリアへの信心はイエス中心ではない」と言うが、それは本当なのでしょうか。
 マリアの生活の中心は、イエスだったではありませんか。マリアは、「彼の言うとおりにしなさい」と言ったではありませんか。イエスも「見よ、あなたの母です」、そして「見よ、あなたの子です」とおっしゃったではありませんか。天使もマリアに現れたとき、救い主としてイエスを告げ、マリアはイエスを産み、その苦しみに参加したではありませんか。
 もし私たちは信仰に生きているならば、聖人のようにマリアを愛し、その信仰を見習うべきです。彼女は、エリサベトから「信じた方は幸いだ」と言われました。私たちも、マリアと同じような信仰をもって生き、マリアを知らせるようにしましょう。
239 善はできるだけやればよい
(デルコル・ルイジ神父へ 1948年4月5日)
 チマッティ神父が出版の分野で大活躍したデルコル神父に書いた勧め。これは、
ドン・ボスコの知恵である。完璧主義は徳ではないと。
 神父さま、手がけているラテン語の教材についてできるだけのことをやればよいです。
 カファッソ神父は、若いドン・ボスコに、「善は、よくやるべきだ」と言いました。だが、ドン・ボスコは、「善は、できるだけやればよい」と言います。将来、神のみ心であれば、神父さまに多くの務めが任せられるでしょう。そのとき、今の言葉を忘れないでください。
240 イエスさま、あなたの出番
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年5月2日)
 イタリア滞在一年間が終わるころ、チマッティ神父は総長に次の手紙を書いた。
 私は管区長交代を期待していましたが、長上(管区長交代はもう少し待つことになったのである。)の皆さんは、「延長されることは、拒否されたのではない」とおっしゃる。私は、再建中の日本サレジオ会のために今はいちばんよいときだと思っていました。この延長は私が行ったことの償いのためになるでしょう。「主よ、私を辱めてくださったことはよいことです」と言いましょう。この言葉を音楽にしましょうか。
 日本で今まで実現されたよいことは、私ではなく、主と会員が行ってくれました。これからも主と会員が私の愚かさを補うでしょう。不在中も彼らは立派に働いてくれました。
 悩みがあっても私は落ち着いて平安です。言うべきことは長上に申し上げましたから。これからは、「イエスさま、あなたの出番です」と言いましょう。
241 今後の仕事に備える
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年6月5日)
 帰り道はまたアメリカ経由だった。船から長上に別れの手紙を書いた。
 ニューヨークに近づいて、日本語を復習しています。日本の仕事に専念することを主が望んでおられるからです。大した仕事はできないが、私のために何がよいか主はご存じです。み手に身を委ねます。いかに辛いか、主はおわ
かりです。今後の仕事のために心を準備します。兄弟たちは助けてくださるでしょう。主は、私が彼らの仕事を壊さないように助けてくださるでしょう。
 船の上にサレジオ会員6名、乗客2000人、司祭は私独り。善意は不足しま
せん。神との一致を保つようにし、祈ったり、読んだり、書いたり、話したりしています。私のためにお祈りください。
242 これが私の十字架
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1948年6月21日)
 アメリカの神学校で元教え子に会うことができた。そこで撮った写真も残っている。アメリカ大陸を横断してサン・フランシスコから本部にこの手紙を書いた。
 太平洋を渡る前の最後の挨拶です。アメリカでの歓迎は紳士的で明るい雰囲気の中でした。
 ある友だちは、自分の管区長が年老いてよく忘れる、決断できない、という悩みを打ち明けてきた。日本の会員は、私についてそれ以上のことを言うでしょう。私は彼らをよく知っています。長上の皆さんに申し上げたことは、一
つも取り消しません。主は、これをもって私をお試しになります。今日、ゆるしの秘跡を受け、聴罪司祭は、十字架を受け入れて愛するように、と勧めてくれました。きっと、イエスの声でした。自分がわからなくても、主が決められることに対して「み心のままに!」と言いましょう。
 20年も前から何回も管区長の交代を願ってきましたが、今、どんな立場になっても日本に残してくださるようにお願いします。主にこの恵みを願いましょう。

1948年7月〜12月
管区長としての最後の苦労
 1948年7月、チマッティ神父は一年ぶりに日本に戻り、1949年11月末まで管区長を務めた。東京と九州の間を行き来しながら忙しい1年半を過ごした。
 そのとき、日本は戦後の再建に必死だった。民主主義の新しい体制も次第に定着していた。
 国際社会においては5月にイスラエル国家が成立し、8月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義共和国が成立した。 12月に中国で宣教師たちの追放が始まった。
国連総会では世界人権宣言が行われた。
 宣教活動の可能性を見込んで新修道会が次々と来日し、数年で数々のカトリック教育・福祉事業を開始された。サレジオ会も事業を固め、将来の発展の土台を築いた。
 1948年7月に目黒碑文谷の支部が設立され、同じ月にリヴィアベッラ神父が満州から戻ってきた。
 12月8日に国分寺のサレジオ学園の落成式が荘厳に祝われた。
 
* * *
243 碑文谷サレジオ事業の始まり
(ダルフィオール・ルイジ神父へ 1948年7月16日)
 チマッティ神父が戻ったとき、碑文谷のサレジオ教会の土地が購入されていて、ダルフィオール神父がこの手紙でこの事業に派遣された。彼は50年以上もその事 神父さまにゆっくり(業で働くようになった。)話すことができず、手紙を書きます。ご存じのとおり、目黒に新事業を始める必要があります。まず、オラトリオ(教会学校)から始めましょう。子どもたちはすでに運動場になる畑で遊んでいます。長上は、始めるためにダルフィオール神父が最適だと判断しました。必要なのは、人間関係を結び、正しい態度を見せること。それは、神父さまならできることです。
 当然、すべてゼロからの出発。貧しい質素な状態で始まります。今、大き
な助けはできませんが、次第によくなるでしょう。神父さまが賛成してくださると確信しています。新しい事業なので、家などをあまり気にしないで、全力を注げば何とかなります。日本のことわざのとおり「なせば成る」と。主の恵みにより、ドン・ボスコのときのように最初のオラトリオが出来上がるでしょう。 
244 戦後の日本はどんな道を歩むか
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年7月中旬)
 事業は発展していたが、日本のキリスト教に対してチマッティ神父は疑問を抱い
 過去一(ていた。)年、会員たちは神の恵みにより奇跡のような仕事を成し遂げました。育英の職業学校の拡張、養護施設(150名収容)の国分寺へ移転、目黒支部の新しいオラトリオの始まり。また九州の各支部の再建、サレジアン・シスターズと宮崎カリタス会の事業の発展。今は、福祉事業の時代だから、私たちは、ドン・ボスコの精神に忠実に歩めば幸いです。
 国民のキリスト教に対する目覚めが目立ち、会員も大活躍していますが、日本に対する神のご計画は予測できません。私は、あまりバラ色ではないと思います。何世紀も固まった伝統がそう簡単に消えないでしょう。家族制度や宗教に対する人々の態度は変わっていません。敗戦後、慣れていない民主主義に適応しようとしていますが、生活のために苦労しながら労働者や農家の権利を獲得する運動、住宅の再建、以前世界を支配していた商業や工業の立て直しなどは、地震、台風、洪水のように社会を揺さぶっています。日本はまだ安定した土台を見いだしていません。宗教に関しても不安定な状態です。神の呼びかけを拒否しないように、信仰の道を見いだすように祈りましょう。
245 カトリック学校の特徴
 新年度から日向学院に高等学校ができた。チマッティ神父は、ミッションスクー(日誌より 1948年7月26日)ルの土台としてカトリックの教えを置くべきだと説いた。 宮崎の日向学院を訪問してきた。見事な本館が完成し、高等学校も準備中
である。新教育法により私立学校の経済的負担が大きく、黒字にするのは難しいことであろう。
 学校のカトリック性格を明確にすべきである。幸いに私たちの学校にサレジオ会員の他に何名かの模範的なカトリックの教師がいる。私が強調してきたのは、キリスト教の教えに基づくこと。カテキズムは適当なときに教えられるが、キリスト教の教えがとても効果的である。自由な研究会を大事にすべきだ。学校の公の名称が「カトリック・ミッション・スクール」であることを忘れてはならない。
 私たちの志願者もこの学校で丈夫な木に育ち、次第によい実を結ぶようになることを期待している。
246 洗濯は自分の家ですべきだ
(サレジオ会員へ 1948年10月1日)
 チマッティ神父はすべての支部を訪問し、会員たちに感謝の言葉と具体的な勧 皆さんと共(めを与えた。)に今月を過ごし、その善意と仕事の熱意を確かめ、嬉しく思いました。神の祝福がありますように! 私たちの生き方のすべての根本は、祈り、犠牲、会憲の順守であることを思い出しましょう。
 気を付けていただきたいことがある。他の教会を訪問するとき、主任司祭について不満不平を打ち明けてくる信者がいる。そのような話を打ち切って、よい信者であるように勧めてください。「もし神父さまが主任司祭だったら、日
本人の気持ちがよくわかります!」というような話を信じないでください。このような不満は、言うべき人に話せばよい。私たちも、「自分の洗濯は自分の家で!」ということわざを思い出しましょう。
247 潤滑油が必要だ
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1948年10月11日)
 人それぞれ自分の性格があるが、人を相手に働く者はどういう態度を身に着けるべきかを、チマッティ神父が教えている。 神父さまのために一言。まず、ここまで助けてくださったことや今後も助けてくださることを心から感謝いたします。ところが、神父さまは人々から何を言われているか、どう思われているかご存じでしょう。それは、潤滑油、言葉と態度に潤滑油が必要である、と。皆に対して、信者、シスター、協力者、身内の人に対しても。また、訪れる人、お客、会員、シスター、要理を教える人に対して寛大なもてなしをすべきこと。
 公にも人を褒め、小さなプレゼントをすること。これによって損することはない。
 さらに、会員との関係を大事にしてください。互いに協力し、愛し合って、互いのために祈りましょう。
248 間違った情報を植え付ける危険性がある
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年10月)
 教育学の博士号をもっていたチマッティ神父は、戦後の日本の教育プログラムを見て、特に歴史と哲学に関して反キリスト教的な内容があることに気付いた。
 以前にも申し上げましたとおり、今、日本には信仰の自由が認められ、学びたい人が増え、宣教師たちの時間の大部分が教えることに充てられます。
 学びに来る人の大部分は純粋な気持ちで来ますが、ただ議論するため、流行っている唯物論、観念論、相対主義の考え方をひけらかすために来る人もいます。これらの考え方は、今、日本を毒しています。新しい教育制度に基づく学校のプログラムの教科書が刷新されてきたが、残念ながらその内容はまだ以前の影響を受けています。特に歴史の内容はプロテスタントの影響を受けている、また哲学や科学は唯物論の精神に染まっています。あまり批判せずその教えを吸収する人は悪い影響を受けます。私たちは、学校の教えの中身をよく吟味する必要があるのです。

1949年
管区長の使命を全うする
 チマッティ神父管区長の最後の1年。10月まで通常のとおり任務を果たし、支部を視察し、人事を決め、後任への引き渡しを準備した。大阪の新しい支部が設立され、管区の本部、ドン・ボスコ社、神学校の移転も計画された。下井草教会も小教区として承認された。
 3月末、日向学院の校長として最後の挨拶をした。
 5月に、聖フランシスコ・ザビエル来日400周年のため腕の聖遺物が来日し、音楽をもって協力した。
 10月4日、特別視察者が来日し、タシナリ神父が後任者として任命され、11 月末に発表された。
 12月3日、チマッティ神父管区長としての日誌を終了した。
 12月末、師の新しい任務が発表された。サレジオ神学院の図書館長になることであった。
* * *
249 新年の見通し
(日誌より 1949年1月)
 日誌の中に新しい一年の課題を記す。管区長として最後だと感じていたであろ 主(う。)は新しい年を与えてくださる。すべてにおいてみ心のままに! 「すべてを新しくする」とおっしゃった主のお言葉が実現しますように! 
 主よ、私の不足をおゆるしください。日本に戻ったときの私の心はご存じです。「私の考えはあなたたちの考えと違う」とおっしゃった主よ、起こることがわからなくても、主において、主とともに、主のために生きるようにしたい。ドン・ボスコのように、人の何倍も働きたい。ところが、私は力不足です。しかも、戦後の異教の国でおまけに外国人です。それは日本では大変なこと! できるだけのことをやります。主が導いてくださいますように! 
250 離脱を始める
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1949年1月3日)
 元教え子のジジョッティ神父が副総長となり、とても心強く思う。最近、コンサートの機会もほとんどなく、役割が終わったと感じて、身の回りを整理し音楽と お忙しいところで心苦し(著作の原稿を送り始めた。)く思います。今回、私の音楽の原稿や以前師範学校で教えていた教育学の未完成の原稿をお送りします。当時、折をみて教えながら書いたものですが、誰かに役立つかも知りません。私の音楽の研究が 1900年ごろにさかのぼるので48年も経ちました。音楽にはその後も進歩したでしょうが、それほどではないと思います。とにかく、当時、私のわかっていたことを書いただけです。
251 日向学院卒業生への話
(日向学院卒業式での話 1949年3月24日)
 日向学院中学校校長として一期生を送る最後の挨拶の一部。
 今日、皆さんが待ち望んできた卒業式の日です。農家が自分の労苦の実りを喜ぶように皆さんも自分の働いたことの実りを喜んでいます。多く蒔き多く働
いた人は多く収穫します。少なく蒔き少なく働いた人はその結果を見るでしょう。
私は、皆さんが自分の努力の実りを見ることができたこの日、一つの約束をしてほしい。3年前、入学のとき、私は皆さんの霊的成長のために一つの目標を示しました。それを覚えているでしょう。「己を知り、己に勝て」ということでした。
 今日、偉いお客様、先生方、そして神の前に皆さんはその目標をどこまで達成できたかを自問してみてください。先生方は皆さんを助けるために自分の務めをよく果たしました。皆さんは、成功するためにどこまで善意を尽くし協力したのでしょうか。
 次の約束をしてもらいたい。すなわち、神がくださったタレントをよく活用し、

1948年11月21日 叙階された4人の新司祭と共に
先生方の努力に応えて自分の性格に勝ち、よく学び、祖国が必要とする立派な人になるために一生懸命に努力するという約束をしてもらいたいのです。
252 また音楽作品を送る
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1949年6月15日)
 再度自分の原稿を送る。処分してしてもよいと言いながら、本当は大事にして また離脱(もらいたい。)するために楽譜をお送りします。もはや自分に役立ちません。神父さまの管轄ですから、誰かに参考になれば自由に使ってくだい。個人や団体
に役立たないなら、ストーブに入れて暖房にでも役立てばよいです。けれども、私はそうは思いません。まあ、私のことをご心配しないでください。私に代わってお母さん(マリア)とドン・ボスコに挨拶してください。
 (1949年7月14日)
 近いうちにまた楽譜を送ります。今度は、古きよき時代のもの。よく覚えてください。これらのものを送るのは、高く評価して印刷し上演するためではない。
役立てば、皆さんが自由に使うためです。役立たぬなら、ご自由に処分してください。やはり、人生の最期の一歩手前になれば、心配することがないため、また他人に心配をかけないために、今のうちに離脱したほうがよいのです。
以前に役立ったものがまだ役立てば、自由にお使いください。私のためにお祈りください。心から抱きしめます。28
253 自分はまだ聖人になっていない!
(中国の管区長ブラーガ・カルロ神父へ 1949年9月24日)
 本部からの視察者が日本に着き、タシナリ神父が後継者になる。公にされてい おかげさまでここは仕事が有り余り、不足して(なくても皆知っていた。手紙の調子からもわかる。)いるのは働き手です。何名か病気で、十字架も少なくない。私は、少しびっこを引いていますが、神の恵みにより肩も足もいくらか丈夫です。
 わがカルロ神父さま、聖人であればよいのですが、まだそうなっていなくて目標からよほど遠いです。70歳になってもまだなっていないなら、主が残してくださる未知の時間のうちになれるのでしょうか。
 まあ、もう帆を降ろして、頭で考えるよりも行動すべきです。神父さまのお祈りで助けてください。神の手に身を委ねます。主がご自分のものにしてくださいますように。
254 後継者の任命への感謝
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1949年11月22日)
 新管区長としてタシナリ神父が公表され、チマッティ神父はその任命を総長に 長上の皆(感謝する。)さんが決定なさったことは管区や霊魂の救いのためにとてもよいです。神に感謝! 
 私にではなく、すべてを成し遂げた会員たちに感謝すべきです。皆さんは、
私の能力を過剰評価なさっています。自分としては務めをできるだけ果たすように努めたつもりですが、間違いが多く、神に対する背き、また霊魂の損失を
28  チマッティ神父のこれらの資料はイタリアで手を懸けずままに残ってしまい、列福列聖調査が始まった時に調布のチマッティ資料館に戻ってきた。

1949年12月
防ぐことができませんでした。長上のご指導にも十分に従わず、ご期待に添えませんでした。タシナリ神父へ譲る遺産はあらゆる意味でよくないのです。
 私が日本に残ることは、皆さんの明らかなお望みです。私としては、どこへでも行く用意があり、やれることがあれば何でも喜んでやります。役立つ所があれば、長上のお望みは主のお望みです。
 これで私の公式の文書が終わりです。何年も私の命を日本の親愛なる会員、総長さま、教皇さまのためにささげました。特に日本に清貧、純潔、愛徳、平和があることを祈ります。 
 神父さまを抱きしめて、祝福をお願いいたします。 
255 日誌の結び
 神学院の食堂で元管区長への祝いと挨拶が行われた。引き継ぎを行うために(日誌より 1949年11月)チマッティ神父は書類などを整え、11月末に部屋も渡す準備をして、12月3日、 11月17日。サレジオ神(管区長の日誌を終了した。)学院の食堂で元管区長への挨拶が行われた。神に感謝! 
 次は私の答え。「これで事業の土台が据えられました。これからは、ドン・ボスコの精神に従って神の栄光と霊魂の救いのために完成しなければなりません。私のためにお祈りください」ということでした。
 私は、会憲において現役で亡くなる長上のために定められている特別な祈りを全部失うことになります。
 12月3日。11月末、親愛なる新管区長とその秘書に部屋を引き渡した。これから始まる新しい生活において、神の栄光と人々の霊魂の救い、特に私の霊魂の救いを実現するために、よい死を準備することができるために、主が助けてくださいますように!
1949年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、よき死の練習の日に


1950年
失業のチマッティ神父
 1950年から1953年まで朝鮮戦争が勃発し、日本にも大きな影響を与えた。
 チマッティ神父は役職を持たないサレジオ会員となった。本人は教会で働けると期待していたが、新管区長は休ませる必要があると思い、神学院の図書係とした。これからは長上へ報告、会員への回書、日誌もなく、彼の心を知ることができるのは本人が個人に書いた手紙を通してである。管区長、教え子、グリゴレット神父、副総長ジジョッティ神父への手紙が目立つ。
 1月に神学院が調布へ移転することが決まった。
 4月から引っ越しの準備が始まり、チマッティ神父が移ったのは9月である。
 夏休み中、黙想会を指導するために中国に呼ばれた。
 9月5日、調布に入り、元工場の建物で住むようになった。新校舎の工事も始まった。
 彼は図書館の荷造りを見守り、頼まれる仕事をやり、神学生に数時間教えていた。
* * *
256 沈黙と希望のうちに
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1950年1月28日)
 副総長になった教え子ジジョッティ神父に書いた手紙から、期待していた仕事を与えられなかったチマッティ神父の悩みと神のみ心に従いたい姿勢が伺われる。
 神父さまが思い出してくださることを感謝します。新しい立場になってよく悟りました。自分が空の手であるということ。天国へ行くために主の前にもっと宝を積まなければならないこと。長上が決めたことは、私の傲慢を砕くための主の恵みです。それを受け入れて、喜びをもって進むようにします。
 神父さまがおっしゃるには、昔のヴァルサリチェの生活に戻ったと。私は今、

1950年 学校の教師とバッジョ、フェデリコ、チマッティ神父
仕事を与られることを待ちながら少し穴埋めをしています。ときどきサッカーボールも蹴り、教えるのは少しの音楽、少しの宗教、少しの教育学の古い内容です(今は、ギリシア語の名前が流行っている!)。しかし、これだけでは私にとって仕事とは言えません。ヴァルサリチェのときに仕事の中に生きていて、心身とも元気でした。今は、「沈黙と希望のうちに」役立つように努力しています。私のためにお祈りください。マリアさまのマントを引っ張って、私がすべてにおいて神のみ心を行うことができますように。ああ、何の疑問も抱かずその導きに従うことはなんと美しいことでしょう! さあ、喜びましょう。天国では間違うことも、人を煩わすこともないでしょう。
 近いうちにもう少しの楽譜をお送りしましょう。ご自由に使ってください。もはや公式の文書を書く必要はありません。主はこのことからも解放してくださいました。神のみ心が行われますように! 
257 失業同様の状態
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1950年3月4日)
 グリゴレット神父に打ち明ける悩みから、仕事がなく、定年になって人たちの心 わがジュセッペ(理状態がわかる。)神父さま、今の立場は、神が望まれるから私にとってよいですが、失業者同様であって、霊的には大きな損失です。以前は、多くの仕事とその功徳があった。教区長、管区長、院長のために多くの人が祈ってくれていた。今、残るのはイエスさまだけ。そのあわれみにより私の不足と落ち度がゆるされることを願っています。祈りで何でも得られるから、今、私はより熱心に祈れるようになりました。
 今、ヴァルサリチェの神学生のような生活です。任せられたことを行うだけ。長上が私の願いを受け入れてくださったことはよかった。25年間で犯した間違いを祈りで償って、近づいてくる最期の報告を準備します。後継者を妨げたくないために指一本も動かず、一言も言わず、邪魔にならないように姿を消したい。主に願っているのは、仕事を与えてくれること。週15時間の授業と15人のピアニストに教えるだけでは、失業同様です。これから仕事が増えると言われたので、見ましょう。神のみ心が行われますように! 
 春になれば標本の採集もできる。移転により図書館の整理もある。また作曲もできる。イタリアから戻ってから多くの作曲をしました。私が滅びないようにお祈りください。
258 仕事をお願いします
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1950年5月29日)
 神父さま、仕事をお願いします。骨を日本に埋めさ( チマッティ神父は、新しい管区長に切に仕事を願う。)せてくださるように主に願っていますが、皆さんは、チマッティ神父は歳だ、失敗以外何もできないと思っていらっしゃるようです。私が何かの功徳を積むことができるように仕事をさせてください。愛してくださる主が置いてくださったこの状態を上手に活用しないならば、なんと大きな負い目になるでしょう! 何かよいことができるようにしてください。夏休み中、休む必要のある会員がいれば、彼らを補うために私を使ってください。どんな仕事でも喜んでやります。
259 今の状態なら過労死はしない
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1950年6月26日)
 以前チマッティ神父が毎月宣教地の記事を書いていたように、グリゴレット神父は、今も書くように頼んだが、本人は、別な担当者がいるから、自分の仕事 ご存じのとおり、(ではないと答えた。)私には決定権がなく、頼まれることをするだけ。宣伝係は
デルコル神父です。彼と連絡を取ってください。今の私の状態がおわかりでしょう。下っぱの立場を与えられたからそれをやります。任せられたこと以外のことには直接に関わらないようにしています。今の状態で過労死はしません。これが私の悩みです。仕事が足りなくて、心身とも病みます。自分が無に等しい
者であることを悟るために主がこうお定めになったでしょう。これは科学実験より有意義な体験です。今まで得たものは何もなく、宣教師としても失敗でした。主と教会、またサレジオ会もゆるしてくださいますように。主が与えてくださる残りの時間がそのための償いとなります。「沈黙と希望のうちに」永遠のために何かを貯めるように。残り時間は短く、私の魂は貧しい。貧しく生まれ、貧しく生きた。今は霊的にも貧しい。お互いのために祈りましょう。
260 中国での黙想会
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1950年8月17日)
 この時期に、中国のサレジオ会員に黙想会の指導を頼まれた。これは、この一年の最大の喜びとなった。気晴らしにもなり、多くの友だちと教え子に会うことも 香港でお手紙を頂きました。今、マカオで黙想会(できた。日本に戻ってから調布に住むようになった。 )を指導中、次は香港で三回も続けて指導します。問題がなければ、9月5日東京に帰れる。四回も黙想を指導する機会を与えてくださった主は、本当に私を愛してくださっています。
霊的に大きな喜びとなりました。
 これからも自分の力を尽くすほどの仕事を期待します。でなければ、うまくいきません。けれども、そう望んでも、「過去を見てきた人々はお前を警戒するだろう。お前は何ができるのか」と考えてしまいます。神に感謝! 結論は、自分のできるわずかなことを行い、祈りの中に主と一致すればよいのです。 261 私がよき死を準備するとき
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1950年9月10日)
 調布に着いてから長上であるタシナリ神父への率直な報告である。宣教活動ができると期待していたのに、年寄りだと見なされて休む状態に置かれたと言う。
 健康は良好です。仕事に関しては、やらせてくださることをやり、ないときに自分で探します。
 私は、トリノのヴァルサリチェで30年間も働いた。最後に役職に就き、自分の傲慢の風船が膨らみ始めた。その後、宣教地で25年間も準管区長、教区長、管区長を経て、総会で本部の評議員に選ばれそうになり、風船がさらに膨らんだ。今度は、日本に戻ったら苦しみが始まった。言葉や文書で「早く戻りなさい」と言われ、「デリケートなことだから後で話す!」とも言われ、特別視察
者からも「日本に残ることは長上の望みだ」と言われ、ついに「年寄りだから休みなさい」と言われてしまった。主は、破れそうだった私の風船に小さな穴を開け、風船がしぼみ、私は自分の最期を考えるようになった。でなければ、どうなったかわかりません。長上の皆さんは私がもう役立たないとご判断なさり、私はよき死を準備するために主が与えてくださるこの機会を有効に使いたいと思っています。神父さまも、私がよき死を準備するようにお助けください。神に感謝! 
 愛徳に関しては、傲慢と共にそこに私の弱点があります。というのは、私は壊れやすいガラスでできていて、人に対する私の心の表し方を慎む必要があると思います。けれども、会員に対して愛徳を表すために尽くしてきたことを、決して悔やむつもりはありません。

1951年
仕事を願うチマッティ神父
 この1年、チマッティ神父の生活はそのまま続いた。
 9月に建築中の本館が落成された。チマッティ神父は図書館の事務室に閉じこもり、本の整理と目録の作成を本格的に始めた。資料館にある手書きの目録を見ると、プリントされたわら半紙の裏面を使い1.2000冊の本が登録されている。忍耐のいる孤独な仕事! その他に授業と自然科学の標本の収集と整理、さらに神学生を助けるための恩人探し、外国から神学院の必要な備品の注文をしていた。
 しかし、もっと役立ちたい気持ちが表れる。その最も大きな実りは「サレジオ会
来日25周年の歴史」である。それはまずプリントとして出され、1953年、タシナリ神父から手を加えられてからイタリアで“Nell’Impero del Sol Levante”という題で印刷された。さらに多くの作曲も残っている。
* * *
262 力が有り余る
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1951年1月9日)
 教え子だった副総長ジジョッティ神父な、恩師が手紙を書かないことを気遣っ
て手紙を書いてくれた。チマッティ神父は率直に自分の状態を伝えた。
 親愛なるジジョッティ神父さま、私が手紙をあまり書かないとおっしゃる。何を書けばよいのですか。公のことを書く理由はないし、個人的なことを書く必要もない。なお経済的な理由でお祝いの言葉を控えるようにと言われます。毎日、重い責任を背負っている神父さまのことを主において目の前に置いています。これがいちばん役立つでしょう、またこれで十分でしょう。
 私の情報と言えば、健康は良好で、笹の根のように強い。と言っても、これは私のせいではありません。もっと仕事があればもっと元気になれますが、長上は与えてくれないのは、これ以上できないからでしょう!今、ヴァルサリチェの神学生時代に戻っています。少しの音楽、ちょっとした自然科学(石、動植物)、少しの教育学、少々の宗教学と修徳倫理神学、そして聴罪司祭の務め。ヴァルサリチェのとき、病人の世話もしていました。どう見ても、この私の力を使い尽くすためにこれではとても足りません。
 今は図書館に閉じこもり、整理しています。主がこうお定めになったのは、自分の魂の救いを考えて最期を準備するためでしょう。神に感謝!
263 よい行いを、永遠の生命のため
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1951年1月12日)
 いつものとおりグリゴレット神父に心のこもった返事を書く。この手紙には、いろ
いろなことについて世から離脱をするという強い気持ちが感じられる。
 神父さま、今、私の唯一の望みは永遠の生命のためによい行いを実行すること。与えられた機会を活用しなければ、ゆるしがたいことです。福音書の中から何か作曲できるようによい歌詞を書いてくれませんか。他の仕事がないときに音楽を通して少しでもよいことができるようにしたいのです。
 今まで、私はブルネル氏が描いた聖骸布のイエスの顔を各支部に配ったり、洗礼、霊名日などの思い出にして、ドン・ボスコ社やサンパウロの店にも置いたりしましたが、今、商品としてあまり人気がないようです。やはり商売のことであれば、直接店に任せるべきです。私が知っているのは、商売の道ではなく、ドン・ボスコの道、善を行うためにみ摂理に頼る道です。次第にすべてから、人からも離脱していきます。しかし、あまりにも愛しているので心は離れません。
264 多くのことをやりたかったのに…
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1951年6月12日)
 72歳のチマッティ神父は病気を患ったことなく、歳を感じてもいない。年寄り
扱いとされるのはとても辛い。この手紙でそのことを訴えている。
 神父さまの秘書ゼルビーノ神父にも書いたことですが、皆さんは、私を年寄りだと見ています。結論は明らかです。博物館行きの骨董品だから大事にすべきだ、と。日本の会員も「年寄りだから疲れる」、また「私たちの太祖だ É il nostro patriarca!」と言う。そのとおりだから、早く天国へ行けるので神に感謝します! 神父さま、喜びましょうよ。主は、長上の決定を通してみ心
(老齢ではなく)を喜ばせてくださる主のもとへ行きましょう」を示してくださいました。謙虚と痛悔の心をもって、毎日のミサで唱える「若さ29という言葉を実行します。多くのことをやりたかったのに、主はこの状態にいるように望んでおられます。私が望むとおりではなく、主が望まれるままに! 
265 天に憧れる
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1951年6月12日)
 ゼルビーノ神父はジジョッティ神父の秘書。「自分に知らせることなく死んではならない」、また「老後は大事にすべきだ」と書いていたことへの返事である。
 神父さま、死が呼んでくれるとき、否、主が呼んでくださるとき、あなたの賛成は要りません。私は、完全に主に身を委ねています。ここにはすることがあまりないので、自由に天に憧れることができる状態です。その日はあまり遠くないと思っています。み心のままに!
 なお、「老後を大事にすべきだ」という神父さまのご意見に対してあまり賛成できません。それは、決して、ドン・ボスコとその後継者たちの考えではないと確信しています。

29  この言葉は、当時のミサの初めに唱えられていた詩篇の言葉。
1952年
イタリアへ最後の旅
 5月まで、チマッティ神父はそのままの生活を送る。
 この年、イタリアでサレジオ会の総会が開催されることになった。それに管区長と管区の会員代表者一人が参加することになっていて、この会員代表者は管区会議で選ばれる。
 チマッティ神父は、まず管区会議に参加することを辞退した。ところが、その席で彼が会員代表者として選ばれた。再度辞退したが、三回目また満場一致で選ばれたのでついに同意し、5月にイタリアへ行くことになった。旅は往復とも初めて飛行機を使い、南アジア周りだった。これが最後の帰国である。
 総会において本部の最高評議員に選ばれそうになったが、本人は上手に逃れた。心は日本にあったからである。滞在中、空いた時間を利用して生まれ故郷と全国を回り、恩人や知人に会って日本を宣伝することに尽力した。
 祖国を離れるとき、別れを強く感じた。大事なプレゼントを携えて日本に。新しい生活が始まった。
* * *
266 明るく生きましょう
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1952年1月1日)
 新しい年が始まり、孤独なチマッティ神父は教え子に手紙を書いて自分の気持 神父さま、(ちを表した。)今年の最初の手紙はあなたのため。すべてのよいこと、すべての聖なることをあなたのために祈ります。神父さまも私を忘れないでください。「わが友よ、少なくともあなたが私をあわれんでください!」と聖書に書いてあるとおりです。
 私は文通ができないほど仕事に追われていません。喜んで手紙で神父さまに協力します。もし、すべてのサレジオ会員が今の私のようにだけ働いてい
ればあわれです! 主が私のためにこうお定めになったから、み心のままに! 今までの私の間違いを見れば、当然の結果だと思います。
 さあ、明るく生きましょう。私を慰めてくださるのは、無限である主のあわれみです。それを頼りにする人は受け入れられるから。私もその中の一人です。
267 修道生活講話の手引き
(ロマーニ・ウルデリコ神父へ 1952年3月末)
 院長の祝いの日に彼が提出したのは「修道生活講話の手引き Appunti di Conferenze religiose」であった。30彼が書いた趣旨の中にその使い方がわかる。そのまま読むのではなく、参考にしながら心のままに話していたのである。
 管区長のお望みに応えて私が黙想会で取り上げている課題の内容をまとめ、院長さまに提出します。
 次のことを念頭に置いてくださるようにお願いいたします。
1.文章は、私が話すとおりに書けません。話すとき、毎度書いたメモを目の前において、神が勧めてくださるまま、また聴く相手の状況に合わせて話します。 
2.引用文の出展は、手元にあるものだけを記しました。説教の準備中、その都度、探したりすることもあり、サレジオ会の出典ならできるだけそれを記すことにしましたが、全部示すのは不可能です。
3.エピソードや個人的な思い出はより刺激になりますが、合う相手と合わない相手とがあります。
4.ここに書いた私の講話のまとめは状況により変わったりする、また変えないといけないときもあります。話を短くしたり、伸ばしたりすることもよくあります。 できるだけ長上のお望みに応えるように努めましたが、不十分なところをおゆるしください。他にご希望があれば、おっしゃってください。私のこの文書をご自由にお使いください。
30  それは1954年にプリントの形で公にされた。残念ながらまだ日本語訳はない。

1952年 イタリア・ボルカにて化石の標本を見る
268 評議員にならないための芝居
(タシナリ神父の証言)
 次は、一緒に総会に参加したタシナリ神父の証言。総会のメンバーの中にチマッティ神父の教え子、信奉者が多かった。彼は本部の最高評議員に選ばれる チマッティ神父は、総会中、最高評議員に(可能性があると聞いて、避ける方法を考えた。)選ばれる噂があると聞いて、それを避けるために変わった行動をし始めた。まず、いつも散髪をやらせてくれて
いたが、数日前から、時間がないと言ってそれを拒んできた。そして、老いさらばえた人のように体を曲げて足を引きずりながら歩き始めたのである。
 総会中、評議員を選ぶための投票が行われ、開票するときにチマッティの名前がよく読まれていた。その度にチマッティ神父の体が震えていた。結果的にわずかな数票の差で選ばれなかった。
 会場を出たときに、私に向かって、「いつひげを剃ってくれるか」と言った。
そして、元気な姿でサッサと歩けるようになった。
269 院長への報告
(ロマーニ・ウルデリコ神父へ 1952年10月3日)
 チマッティ神父は、外国にいても、毎月自分の生活の報告を院長に手紙で行っ 今日、(ていた。)宣教師の保護者、幼いイエスの聖テレジアの日によき死の練習を行い、9月の報告で閉めます。
 健康はおかげさまで相変わらずです。
 仕事については、ただでパンを食べないように、頼まれることがあれば仕事します。もちろん、どこでも説教、講話、話し合いなどをして、興味のある人がいれば日本の「万歳!」を教えます。
 何か必要なことがあれば、至急にお知らせください。
 日本に対して皆好感を示し、これは将来実るものでしょう。数が多い恩人のためにお祈りください。
 管区長が与えてくださった任務は調布支部のために働くことです。できるだけのことをやっています。み心であれば、早く帰れますようにお祈りください。
270 イタリアとの別れ
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1952年10月9日)
 今回、イタリアとの別れ、特に長年協力してくれたグリゴレット神父との別れは

タシナリ神父に散髪をしてもらう
 出発は26日ロー(辛かったであろう。)マからの予定です。滞在中、務めを果たせるように助けてくださったことを心から感謝します。主は、神父さまのなさったことを記録してくださっています。神に感謝! 
 神父さまを抱いて、心を込めて祝福します。
 主は、私が切に願った立場に残してくださった。「主よ、私を辱めてくださったことは、私にとってよいことです」と言いましょう。
 謙虚と痛悔の気持ちのうちに、美しい永遠の命の希望をもって生きるようにしましょう。もし私が、わが唯一の愛であられる神の元に先に呼ばれるなら、神父さまは私の安息のためにお祈りください。

1952年11月〜1953年和を培うチマッティ神父
 73歳のチマッティ神父は、サレジオ神学院の院長として戻ってきて若返った。
 神学院の中に修練者、哲学生、神学生が3グループに分かれていた。各グループは、聖堂と食堂を除いて別区域で生活し、それぞれ担当者がいた。院長は全体を調整し、活性化を図り、全体の責任を負って霊的指導を行っていた。当時、日本人25名、外国人25名がいた。スポーツ、行事、演劇などが盛んで、典礼、特に司祭叙階、誓願式は荘厳に行われていた。夏休みは、一時野尻湖の山の家で過ごしてから、各事業に協力していた。
 チマッティ神父は共同生活、祈り、食事、遊びに参加し、皆を励まし、言葉と手本をもって道を示していた。当然、音楽も担当していた。彼がピアノに座ると雰囲気が盛り上がる。権威を重く感じさせず、誰とでも気楽に一緒に話をした。他の支部の会員も彼に手紙を書いたり、祝いのときに喜んで訪れたりして家庭的な雰囲気を楽しんでいた。ときどき近所の聖職者と修道者も招き、彼らも会うことを楽しみにしていた。
 1953年1月から近所の子どもたちのためにオラトリオ(後にユース・センターと呼んだ)も正式に始まり、神学生の司牧の場となっていた。初めはチマッティ神父自身が会長となり、必ず日曜日に子どもたちの中に姿を見せていた。
 次第に、近辺のカトリック信者も集まり、そこからカトリック調布教会が生まれてきたのである。
* * *
271 金子神父への勧め
(ドミニコ金子賢之介神学生へ 1952年12月21日)
 院長になったとき、早速叙階式があった。日本人の会員に書いた言葉が残っている。

1953年 4人の若いサレジオ会員と
 親愛なるわがドメニコさん、主は、あなたに愛の新たなしるしを示し、祭壇に奉仕するようにとそばに置いてくださり、洗礼を授け、説教することにより、霊魂の救いの協力者としてくださいます。神に感謝! 神がいかに愛してくださっているかを考えなさい! 主はあなたに言われます。
- 過去も未来も心配するな。やるべきことをやりなさい。
- 修道者と助祭としての務めを果たすには最善を尽くしなさい。
- 聖なる喜びをもって、常に明るく勤勉に働きなさい。
 あなたの霊名の聖人が模範になりますように。
272 サレジアン・シスターズへの勧め
(コンテ・ジョヴァンナシスターへ 1953年1月17日)
 同じサレジオ家族であるサレジアン・シスターズのための言葉もよく書いている。
 姉妹たちのための一言。
- 聖フランシスコ・サレジオの言葉「頼まず、拒まず!」。その意味は、子どものように神のみ摂理に身を委ねること。
- ドン・ボスコの言葉「何も恐れるな!」。その意味は、過去も未来も心配せずに、主が今望まれることをよく実行すること。お互いのために祈りましょう。 273 管区長への報告
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1953 年6 月4 日)
 院長になったチマッティ神父は、毎月、自分の管区長に報告していた。
 今月の私の報告です。
1.健康に関しては、相変わらず。左目が少し弱っているので治療しています。
2.勉強と仕事に関しては、いろいろな科目を教え、空いた所を補っています。
以前ほど頭は敏感ではなく、専門家ではないことを承知しています。もっと勤勉でなければなりません。
3.信心業に関しては規則正しく行っています。これについても前述と同じです。
4.誓願や会憲の順守に関しても同様です。
5.愛徳に関しては、ご存じのとおり私の弱点は感受性です。皆好きになります。何も問題ありませんが、しっかりするようにお祈りください。
 私が最後まで自分の務めを果たせるように主とマリアさまのおん助けを祈ってください。
274 野尻湖の神学生への勧め
(カントーネ・カルロ神父へ 1953年7月6日)
 夏休み中、神学生は野尻湖へ行っていた。手紙で必ず彼らと連絡を取ってい 東(た。)京で雨なら、野尻湖は寒い! 天気なら、野尻湖で皆さんは泳いだり、遠足したりすると私たちは考える。おかげさまで、ここも変わったことなし、皆元気です。皆さんしっかりして主を愛しているでしょう。
 帰ってきたら、経済の問題について話すつもりです。皆さんもこちらの心配と清貧の務めを理解し、私たちに対する神のみ摂理の計らいを知るべきだからです。
 明るい気持ちで進み、悪魔に隙を与えずに、神との一致を保ちましょう。
 誓願式の日が近づいている修練者のためにお祈りください。皆本当に立派です。皆さんに勝るとは言いませんが、少なくとも皆さんと同じぐらいです。 275 進歩する秘訣
(シモンチェリ・カルメロ神学生へ 1953年7月15日)
 次は、シモンチェリ神学生が文書で自分の報告をしたことへの返事。
 今日、私の洗礼の記念日にあたって、私たちの考え、言葉、行いの審判者、またよいお父さんでもあられる神のそばに快く一日を過ごします。
 報告はよろしい。すべてのために神に感謝! 以前もイエスさまに代わって申し上げたことを繰り返します。
1.すべての行いについて良心の究明をする習慣を身に着けなさい。数秒で十分です。その後イエスさまに自分の愛を訴え、次の行いをよくする決心を立てなさい。
2.私が「置き換え方法」と呼ぶやり方に慣れるようにしなさい。何か不完全なことがあれば、気が付いたときに意図的に善を置き換えること。善を行わなければ、悪を避けるだけで大した進歩がないから。否定的なことに対して肯定的なことを置き換える(これは自然の法則でもある)…。いくらゼロを並
べても、プラスになることはない。毎日、隠れた小さな仕事を大事にしましょう。小さいことだから疲れない、また気が付かないうちに積もる。海や川の静かな蓄積と、台風、火山、地震と比べれば、言うことがわかるでしょう。

1954年
霊父チマッティ神父
 この1年に注目すべきこと。1854年無原罪の聖母の教義が宣言された100周年にあたって、教会は「マリアの年」と定めた。チマッティ神父は、自分のミサ 50周年を準備する一年とし、この二つの出来事を意識しながら一年を過ごし、その間に聖イグナチオの「霊操」も個人的に行った。
 サレジオ会にとってこの一年の大事な出来事は、5月に目黒の碑文谷サレジオ教会が落成されたこと、また6月に聖ドメニコ・サヴィオが列聖され、7月に韓国でサレジオ会の事業が始められたことである。
 国際的な出来事は、ベトナム共和国が誕生したことである。
* * *
276 シスターへの勧め
(ボニ・リタシスターへ 1954年3月24日)
 チマッティ神父は、頼む人のためにご絵の裏にその人に合った勧めを書いてい
た。特に黙想会の機会にそうしていた。
 次のことをお勧めします。
1.落ち着いて、明るく生きること。主は、善意と完徳を望んでいるあなたの心をごらんになり満足しておられます。その決意を新たにしてください。
2.他人に対する好き嫌いに打ち勝つためには、その人のために祈りなさい。祈りの中にその名前を言ってください。ドン・ボスコは特にミサの聖変化のときにその人のために祈るようにと勧めていた。
3.正しくない行動を取ったなら、何か償いを決めなさい。たとえば、嫌いな人なら、その人に近づくこと。好きな人なら、自分の気持ちを抑えること。
4.良心の究明を大事にしなさい。
277 長上への報告
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1954年4月6日)
 長上への次の報告から、その生き方と努力目標がわかる。
 私の報告です。
- 健康に関して、変わったことなし。よく働けば元気になる。国分寺でコンサートをやったのちに調子が最高だった。これは、年寄りを大事にすべき、仕事をさせると疲れると言う人への教訓になる。
- 勉強と仕事に関しては、教授陣が不足していて何もないより不完全なものがよいという原理に基づいて、準備不足でも神学生、哲学生、修練者に授業をすることがある。不足分は主が補ってくださるでしょう。
- 私は「ボナ・ノッテ(共同体への晩の短い言葉)」の効果を信じています。
そのために、試しとして夕の祈りを団体別にしてみている。特別なときに合同でやる。
278 マリアさまへの祈りを頼む
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1954年5月12日)
 サレジオ会員にとっては、トリノにあるドン・ボスコが建てた扶助者聖マリア大聖堂が親しまれていて、チマッティ神父は、5月24日の祝いのためにその祭壇の お願いがあります。お母さんである(前で祈ってくれるようによく願っていた。)マリアさまの祝いに際して、私に代わってその祭壇の前に行って、調布の共同体やその日に着衣する修練者のためにこう言ってください。
 「マリアさま、あなたをもっと愛したい私たちは、自分の務めをよく果たし、よい死を迎えることができるようにお助けください」と。
 私もあなたのために、遠い日本からマリアさまに向かってこう言いましょう。
 「我らの母と教師、我らの愛、喜びであるマリアさまに、万歳! マリアさまを愛しているピエトロ神父にも、万歳!」
279 30日間の黙想会の決心
 師はこのとき、来年のミサ50周年を準備するために個人的に「聖イグナチオの(1954年6月末) 霊操」を行った。夏休みの前だったと思われる。その記録が残っていて、最後1.大罪を忌み嫌い、深く恐(にその決心が記されている。)れること。特に修道者と司祭は罪に対して戦いを挑むべきである。どんな犠牲を払っても、罪を避けなければならない。「主よ、すべての罪から私を解放してください」。
2.イエスを見習うこと。少しだけでもその徳、特に財産や名声からの離脱(清貧、謙遜)を見習いたい。「これは、私の愛する子」。「あなたの行かれる所、あなたに従う」。
3.イエスの愛のために進んで苦しみを受け入れること。「苦しむ、軽視されること、これが私の名誉、私の得である」。
4.神のみ心と一致すること。「主よ、私の自由を受け入れてください。み心のままに!」
 主よ、お恵みと共にあなたの愛をください、それが私にとって十分です、それ以上頼みません。
 神に感謝! すべての恵みを取り次いでくださるマリアにも、感謝!
280 野尻湖の神学生への勧め
 今年も神学生は野尻湖で一時期を過ごし、チマッティ神父は離れている彼らを(1954年7月14日)
 皆無事に着いて(心にかけていた。)、夏休み中、心身共に健全に過ごしたい決意があるでしょう。
皆さんに次のことを繰り返し申し上げます。
 1.私たちの心から罪を遠ざけるようにしましょう。
 2.喜びのうちに主に仕えましょう。
 3.会憲に書いてあるとおり、共同生活を大事にしましょう。
私たちは、愛徳と誓願に従うことによって神を愛し、神に仕えるために互いに心を一つにしましょう。

1954年12月8日に叙階された新司祭たちと共に
ドン・ボスコが言うとおり、「同じ場所、同じ精神、同じ一つの目的を目指して」と。
281 自然を楽しむ
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1954年8月2日)
 チマッティ神父の一つの楽しみは自然の研究。野尻湖へ行くときによく標本を 短い期間、神学生を見るために野尻湖へ行っ(採集していた。資料館に多くのものが残っている。)ていますが、私の足と肺にとって、もはや団体との遠足や登山は無理です。私独り、また一緒行ってくれる人がいれば、何とかしてシダ類、苔類などの植物を収集してきます。他の活動ができないとき、集めた資料を整理します。
282 年齢を気にしないように
(フェドリゴッティ・アルビーノ神父へ 1954年10月19日)
 戦前日本を視察したこの長上は、チマッティ神父に、体力が衰えたかと尋ねて
 神父(きた。)さま、確かに昔のように遠足はできませんが、もし立っている所にボールが転がってくれば、まだ蹴ることができる。年齢と具合のことをあまり考えないほうがよい。それは、皆にあることです。気にすれば、かえって重くなります。すべてを天の父のみ手に委ねましょう。心配は要りません。
 天の父が呼んでくださるとき、愛する子、愛されている子としてすぐに答えられるように私のためにお祈りください。天で会いましょう。そこでの音楽は、なんとすばらしいことでしょう! 
 私は機会があれば、今も、ヴァルサリチェで若かったときのように楽器と歌ではしゃいでいます。

1955年
チマッティ神父司祭叙階50 周年を祝う
 1955年は特に二つの出来事で思い出される。
 2月15日の夜、練馬区の職業学校で原因不明の火災があり、二人の若い会員が命を失ったこと。
 1カ月後、チマッティ神父の叙階50周年にあたり、教え子の総長ジジョッティ神父が来日したこと。
 彼は日本の事業を視察した後、調布で恩師の司祭叙階50周年を祝ってから、
4月11日に日本を発った。初めての総長の日本訪問であった。
 もう一つの出来事は、ダルクマン神父が、任期満了の管区長タシナリ神父の後任となったこと。彼が10年後、チマッティ神父の最期を看取ることになる。
* * *
283 音符ごとに愛のしるし
(教え子ボスコ・ロベルト神父へ 1955年5月25日)
 叙階50周年の多くの祝いの言葉の中、特にボスコ・ロベルト神父の言葉が嬉しかった。彼は有能な音楽家でヴァルサリチェ時代にチマッティ神父の元で学び、
後に師の音楽を集め、伴奏を付けて大きく貢献した人である。
 今日、期待しなかったお手紙が届き、喜びのためにすぐに航空便で返信します。思い出してくれて、またサン・カリストのカタコンベの音楽家たちも一緒に祈ってくれて感謝します。
 サン・カリストの偉い音楽家諸君、ありがとう。ロベルト神父に教わる皆さんは幸せ! 名前もドン・ボスコを思い起こさせるし、音楽家としても優れています。ぜひ、喜んで努力し、心を込めて学んでください。これは、人に役立つために効果的ですばらしい手段です。次のことを念頭に置きましょう。歌ったり、曲を弾いたりすることは祈ることです。音符ごと、主のため、主と共に

1955年3月19日 司祭叙階50周年ミサ後に
愛のしるしとなるように。皆さんもマリアさまを愛しているから、マリアさまにもそのしるしとなりますように。これを実行すれば、あまり価値のない私の音楽も、聴く人にとってすばらしい効果があるでしょう。
 親愛なるわがロベルト神父さま、説教してしまってすみません。60年間も神
学生と一緒にいるので、ついそうなってしまう。私の宣教師30年、誓願60年、ミサ50年の祝いは、親愛なる総長の来日で飾られました。正直に言って、どうしてこんなに祝うか理解できません。皆「長生きしますように!」と言ってくれるが、私が永遠に生きるのは死んでからです。最期の試験のことを思い起こしますので私のためにお祈りください。
284 ある先生への勧め
(タルチジオ土屋茂明神学生へ 1955年5月30日)
 タルチジオさんのために喜んで時間を( 当時、教育実習中の神学生への勧め。)割きます。あなたのニュースは私を喜

1955年3月19日チマッティ神父司祭叙階50周年にオペレッタ“La Croce sul colle”『丘の上の十字架』が上演されたばせてくれました。
 ドン・ボスコの勧めを思い出しなさい。
- 心配するな! 主を愛する人にとってすべては益となる。
- 神に対して、自分に対して、隣人に対して、できる限り務めをよく果たすこと。
- さらに、任せられた生徒のために祈りなさい。特にいちばん困らせる生徒のため。もしかしたら、彼らのための祈りが足りないかも知りません。
 快活で、いつも落ち着いて行動しなさい。イエスとマリアの心の中に!
285 整理整頓を守ること
(野尻湖にいるサレジオの神学生へ 1955年7月14日)
 院長として若い神学生の生活面も指導していた。これは一例である。
 皆さんが出発する前にそれぞれの場所や個人の物を整理するように注意しました。毎月の静修のとき確認する習慣を身につけるようにと言われていて、一般によく守っているが、特に寝室には散らかっている手ぬぐいなどがあり、洋服箪笥の中はだいたいきれいだが、小机の中に、空箱、使った剃刀、要ら
ない物が何でも入っている。皆さんもいつかこのことを生徒に教えるでしょうが、もし自分たちが守らないなら生徒に何を言うのであろうか。いちばん散らかっている場所は食堂の引き出しです。小瓶、本、空っぽや半分になったお菓子の箱、ご絵、使える物や期限切れのもの等々があります。やはり、整理は不十分です。
 今から、毎月整理する決心を立てましょう。これは秩序と清貧の問題です、またドン・ボスコの教えでもあります。毎月の静修に際して物質的な面でも整理するようにしましょう。今日はこれだけ。快活、勤勉で、主との一致を保ちましょう。
286 心は主にささげる
(ドナーティ・ヴィンチェンツォ神父へ 1955年12月)
 ドナーティ神父は、詩をもってチマッティ神父に心をささげると書いた。これはチ
 私の詩は、あなた(マッティ神父の答え。)の詩ほどきれいではないが、受け取ってください。
わがヴィンチェンツォ、もし忠実であれば、
主が与えてくださるものはなんとすばらしい! ところが、Monsignore という惨めな者にではなく、心は、主に与えるべきものだ。
この返事を読んだら、ひざまずきなさい。心をもって人や世に愛着すべからず、と。

1956年 ‐ 1957年3月
全力を尽くすチマッティ神父
 この間の大きな出来事は、エジプトの独立戦争によりスエズ運河に船が沈められ、東南アジア経由のヨーロッパからの定期便が消え、代わりに航空便が盛んになったこと。
 日本も国連に加盟し、国際的に発言が強くなってきた。
 調布の信者数が増え、日曜学校の活動も軌道に乗り、チマッティ神父は専用の聖堂を造ろうとしたが、資金が足りなかった。神学院の生活に目立ったことなく人数も変わらなかったが、来日する宣教師が減ってきた。
 3月にタシナリ神父が修練長になった。
 9月にチマッティ神父が戦時中に約束したマリアさまへの下井草教会の落成式が行われた。
 ところが、1957年の3月、チマッティ神父の健康に急変が起こった。
* * *
287 教師である卒業生への励まし
(教え子カンドッティ・ファウストへ 1956年1月12日)
 大きな喜びをもたらしてくれたお手紙を読( 昔の教え子への手紙に以下のように書いた。)んでキスをしました。あなたも私
の返事で喜ぶでしょう。ドン・ボスコのよい卒業生のヴァルサリチェ時代のわがファウスト君、日常生活の煩わしさが心配を増やすでしょうが、あなたはより積
極的に信仰生活を生き、主を信頼し、よく祈ればすべてを乗り越えられるでしょう。
 手紙の中で触れている聖職者の問題。わがファウスト君、彼らがそうなっているのは非常に残念です。それは司祭のあるべき姿ではない。幸いに皆がそうなっているわけではない。世の中にも同じように悪者がいるが、皆そうではない。その人たちは神から厳しく裁かれる! 彼らのためにも祈りましょう。
 あなたは、教育者として自分の生徒を立派な市民、よいキリスト信者に育てるようにしてください。悲観的な考え方を捨てましょう。それは、危険な怪物です。壊すだけで、建てることはしない。主が与えてくださった能力を麻痺させるだけです。わがファウスト君、快活で勤勉に生きるようにしましょう。仕事に善意と主への愛を入れなさい。困難なときにこそ、ドン・ボスコと扶助者聖マリアを忘れないでください。
288 カリタス会のために祈る
(宮崎カリタス会修道女総長日田モニカ・シスターへ 1956年7月15日)
 師の誕生日のためにカリタス会の総長が書いたお祝いの言葉への答えである。
 私の誕生日にあたって、カリタス会は韓国の会員を含めて祈りと貴重なプレ
ゼントを贈ってくださいました。どう感謝すればよいのでしょうか。
 お返しとして他のものはなく、毎日、毎日、皆さんの会員のために、また会の発展や一人ひとりの霊魂の聖性のために特別な祈りをささげています。総長さまも、この年老いた私のためにお祈りください。神に感謝! ありがとうございました。
289 神学生への勧め
(カントーネ・カルロ神父へ 1956年7月15日)
 夏休みのために野尻湖へ行っている神学生を思い起こし、言葉を送っている。 7月15日、78歳になり神さまの呼び出しが近づいてくることを感じます。皆さんにいつもの勧めを送ります。
1.快活でありなさい。陰気な人、他人に対して無関心な人、架空の夢を見る人、評論家やポーズを取る人がいてはなりません。素直で自然な、礼儀正しい態度を取りましょう。
2.身体と精神を働かせましょう。自分たちが働かないと頭(想像力)が働きます。また、自分の家に入ってはいけない者が入ってきます。それは誰であるかおわかりでしょう。
3.神が見ておられることを念頭において、仕事を神にささげるようにしましょう。

1956年 調布サレジオユース・センターの子どもたちと
4.祈りをもって一致を保ちましょう。私は、テレビで見るように皆さんを見ています。特にミサ中。また日中、誰かを思い出すときに、その人は私の祈りを必要としているのではないかと考えます。
290 病人には「十字架を受け入れること」
(バルバロ・フェデリコ神父へ 1956年9月19日)
 神父さま、できるだけ早く完全に治る( 病気になったバルバロ神父への勧め。)よう(これは稀なことです!)に祈ります。
 この場合、特にこの場合、自分のためや霊魂の救いのために価値があるのは、「み心が行われますように!」と祈ること。こう考えれば、喜び、信仰、愛をもって十字架を受け入れる値打ちがあることができる。ごらんなさい、どれ

1956年 野尻湖で「チマッティ街道 Via Cimazia」の作業中
ほどのよいことを主が与えてくださったことか! 祈りにおいて一致しましょう。
291 病人の祈り「み心が行われますように!」
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1956年10月2日)
 神父さまに私が言えるのは、ただあな( 今度は協力者のグリゴレット神父のこと。)たのために祈っているということ。神父さまにおいて神のみ心が行われるようにと願っていること。私はよく「神のみ心に飲み込まれますように」、また「あなたが神のみ心を食べ、それを味わい、消化しますように」と言います。
 聖フランシスコ・サレジオの考えはこれです。「このような場合の魂の祈りは、み心が行われますようにとすべきだ」。もし神父さまがご病気の間に(短いか長いかわかりませんが)信仰と謙遜をもって「み心のままに!」と言えるように
なったら、世界のすべての賞があたったよりも大きな儲けをしたことになります。
これ以上のことは、私に言えないのです。

1957年1月31日
イタリア大使からMedaglia della Solidarietà italianaの勲章を授かる
292 病人への勧め「み心に身を委ねること」
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1956年11月21日)
 あまりに思い込む同じグリゴレット神父への新たな勧め。
 神父さまのご病気のために必要なことはこれです。
1.医者を通して示される神のみ心に身を委ねること。
2.食べて、休んで、イエスとマリアと共に祈りにおいて喜ぶこと。
3.過去のこと、自分がやれたのにやらなかったこと等々を考えないこと。過去は、もう過ぎた。それを考えるのは無駄な重荷になります。病人には安心が必要です。それを考えることは損になります。 
 あなたを抱いて、祝福します。
293 私のことは、変わったことなし
(教え子カンドッティ・ファウストへ 1957年2月21日)
 チマッティ神父は、自分の健康については次のとおり書いていた。
 お祝いのハガキを出したところ、スエズ運河の問題が起こった。いつ届くかわからないので、もう一度出します。私のことは、変わったことなし。歳を取ったということはニュースになりません。一応、平常どおりに働き、神の恵みによりこれ以上望むことはありません。
 イタリアでお目にかかれるかは、私もあなたも決められません。私に限って言えば、難しいことだと思います。でも、神にお任せします。
294 昔のように歌った
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1957年3月3日)
 この手紙にあるとおり、チマッティ神父の生活は平常に進んでいた。ところが…
 昨日、マルジャリア神父と一緒に昔のように歌ってきました。
 25日、修練者は誓願を立てる。神父さまは相変わらず、わが道、真理、命である主のために明るく、勤勉に働いていると思います。日本のためにもご協力を続け、天国での報いを待つようにしましょう。


1957年3月 〜
弱った院長チマッティ神父
 1957年3月22日、元気だったチマッティ神父の生活が急変する。
 ミサの後の祈り中に倒れ、すぐ聖母病院に運ばれた。薬を使ったことのないチマッティ神父の体は治療によく反応し、一週間後、仕事に戻ることができた。言
葉が引っかかるという軽い後遺症があるが、院長としての生活は順調に続けることができた。本人は神のみ手からこの試練を受け入れた。すべての手紙の中にその深い信仰が表れてくる。院長の任期は1958年末までだったが、さらに1962 年3月まで延期された。
* * *
295 自然を歌いながら倒れたチマッティ神父
(ドナーティ・ヴィンチェンツォ神父へ 1957年3月21日)
 チマッティ神父がついに倒れた。ドナーティ神父がチマッティ神父に春についての詩を書いたので、自然科学博士チマッティ神父も学者らしく答えようとした。寝る前にそこまでイタリア語の文を書き、次の朝、脳梗塞で倒れた。4月1日退院し、
7日、テーブルの上に残っていた手紙を書き続けた。
 Primavera, primavera!    春よ、春よ!
 Sempre bella, sempre vera 常に美しく、常に本物
 Sorgi e impera!        立て、支配せよ!
 Tu pervadi l’ atmosfera   あなたは大気圏を満たし
 Tu rinnovi l’ idrosfera    水圏を新たにし
 Incessantemente       いつまでも
 insieme con la litosfera…  岩石圏と共に…
(ここまで3月20日の手紙。4月7日、退院してからその続きの文を書いた)
 いちばんよいときに、主はヴィンチェンツォの傲慢を砕いてくださいました。わがよいイエスよ、感謝いたします。死に至るまでの病ではありませんでした。一時赤ちゃんになったが、わが先生、お母さん(マリア)が導いてくれて、今も導いてくださっています。昨日から仕事に戻ることができました。
296 赤ちゃんに戻った
(ジジョッティ・レナート総長へ 1957年4月13日)
 神父さまのご親切に対して、どう言えばよい( 教え子であった総長に病気の経緯を伝えた。)でしょうか。「天の杯を受け入れます」と言いましょう。
 何だったのでしょうか。香部屋でミサに与っていたところ、自分の部屋に運ばれてしまい、話せなくなっていたが、意識は完全でした。ゆるしの秘跡を受ける日だったので聴罪司祭を呼び、管区長も来て、私が額に十字架のしるしをして病者の秘跡を授けられました。その後医者が来て病院に運ばれ、話せない赤ちゃんのようになり、「まんま」を食べさせられました。その後お母さん(マリア)の出番でした。幼子イエスを育てたので経験があります。イエスさまから小さいヨハネ・ボスコにも先生として与えられました。「まんま」を作れるだけでなく、立派な先生でもあります。一週間で十分に話せるようにしてくれました。神に感謝!
 4月1日退院し、4日にミサを立て、5日には十分に話せる自信がつきました。病気になる前に私が新年度を準備する講話には「見よ、私はすべてを新しくする」という主の言葉を書いていましたが、主は「あなたから始めよう」と言って、私を子どもにしました。入院一週間の間、謙遜についてよく黙想し(私にはとても必要です)、今まで体験したことのない謙遜の教訓を与えられ、お母さんと主に近づく機会も与えられました。子どもになったことによりその実感を得たのです。
 ルイジ・デルコル神父は、私が1週間で体験したことに基づいて「まことの光」という詩を作ってくれました。 なんとすばらしい音楽! 神父さまはそれを聴くためにもう一度日本に来られたらどうですか。
297 まことの光の歌詞
(548番 1957年4月上旬)
 次はデルコル神父の歌詞、チマッティ神父が心を込めて作曲した歌。
 おおマリア 天の后       O Maria, del Ciel Regina
 私の愛のやさしい母 やさしい母 mia dolce Madre amata, dolce
Madre,
 やさしい母 マリア     dolce Madre, Maria.
 世の中すべて暗闇で    Nel mondo tutto è buio
 おん子イエスとあなたのみ solo il tuo Figlio Gesú e tu
 心を照らすまことの光   siete la vera luce del cuore
 世の中は暗闇で       Nel mondo tutto è buio
 イエスとマリアのみ      solo Gesú e Maria

298 勲章は何のためか
(教え子フラキア・イタロへ 1957年6月30日)
 イタリアの政府から勲章を与えられた。それを喜んだ教え子にこう書いた。
 思い出してくださったことをありがとうございます。
 勲章のことですか! 誰に感謝すればよいかさっぱりわかりません。誰がその運動を起こしたか、何のためにやったかも理解できません。ともかく、天国に入るときに主がメダルをくださいますように祈ります。
 またお目にかかれるか。天国では確かにそうですが、日本か、イタリアか、他の所か、これは主の問題です。現状から見て、帰る機会も帰る必要もないと思います。その理由がおわかりでしょう。だから、先にこの世を去る人は、天国の入り口で友だちを歓迎すればよい! 今は、互いのために祈りましょう。
あなたを抱いて、祝福します。
299 カリタス修道女会の創立について
(カヴォリ・アントニオ神父へ 調布1957年7月7日)
 カヴォリ神父がカリタス修道女会の創立20周年のために一言を頼み、チマッティ神父は教皇ピオ11世が邦人修道会の創立を勧めたことに従って1937年8月
15日にそれを創立した経緯を思い起こして二人の役割を示した。
 親愛なるアントニオ神父さま、遅くなってすみません…。
 教皇さまが書かれた回勅に基づいて私たちがカリタス会のために行ったこと
に関して疑問を抱く理由はないと思います。あのとき、私の義務は命令すること、または勧めることでした。あなたの義務は実行することでした。現在の結果を見て、主が私たちの従順を祝福してくださったことが証明されました。神に感謝!
お互いのために祈りましょう。
ヴィンチェンツォ・チマッティ神父
 追伸──私は義務という言葉に下線を引きました。 
300 長上に身を委ねます
(ダルクマン・ヨハネ管区長へ 1957年7月27日)
 黙想会で書いた報告に管区長の手に身を任せた。なお、このときに、戦前に作曲したオペラ『細川ガラシア』を完成するように頼まれて、二幕から三幕に書 健康に関してはご存じのとおりです(き直した。その後この形で上演された。)。体調は病気以前と同じのようですが、完全でないのは言葉だけ。これは元の状態に戻らないでしょう。これは神のみ心だと信じます。私は、喜んでそれを受け入れます。私の心配は務めを果たせるか、他人に害にならないかということです。もしこのために誰かが害を受けるなら、思いのままにお決めください。私は、主の前に立って調布でも他の場所でも、今の立場や他の立場でも結構です。すべてにおいて神のみ心を行いたいと思います。
 会員や外部の人がホイヴェルス神父のオペラ『細川ガラシア』を上演したいので、作曲を頼んできました。前もって許可を願えばよかったと思いますが、大した仕事ではありません。
301 すべては神の恵みです(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1957年8月1日)
 本部のゼルビーノ神父に自分の健康についての心情を打ち明ける。
 私の回復のために祈ってくださったことを感謝いたしますが、お願いします。
「私において神のみ心が行われますように」と祈ってください。私は、この病気のために主に感謝します。周りの人は、私が健康の巨人だ。演説家、歌
手、作曲家、また教育学、自然科学、哲学の博士、いろいろな分野の指導者、サレジオ会のために働ける者だと思っていました。ところが、数秒だけで子どものようになりました。ああ、主がこのような恵みを多く与えてくださいますように! 私は神のみ心を明らかに見ています。主は、頭も自由意志も、心も残してくださいました。今はまだ書くことができます。言葉が不自由なのは謙遜のためです。大切なのは魂の救いです。

1958年
元気を取り戻したチマッティ神父
 病気の後遺症があってもチマッティ神父の健康は安定し、精力的に働けるようになった。
 イタリアにサレジオ会の総会が開催され、断った本人の代わりにタシナリ神父がダルクマン管区長と一緒に出席した。本人は不在の管区長代行となり、半年
間、管区全体を見る立場になっていくつかの回書も出した。さらに、以前実現できなかった信者のための聖堂の計画も復活させ、献金を募ることにした。
 1958年は、ルルドの聖母出現100周年であった。チマッティ神父はそのために作曲し荘厳に祝った。
 10月にはピオ12世が帰天し、ヨハネ23世が選出された。高齢で中間的な教皇だと言われたが、その親しみやすさで人を惹きつけ、第二バチカン公会議を召集するという大胆な行動で世界を驚かせた。それは、チマッティ神父の存命中に行われた公会議である。
* * *
302 苦しみの十字架
(都井岬の信徒石上アグネスへ 1958年1月5日)
 チマッティ神父が宮崎教会の主任司祭だった古い時代の知人へ。
 お手紙、特にお母さまの受洗のニュースを大変喜びます。神に感謝! 
 マリア・アグネスさんは、福音書の中に奉仕するマルタと、イエスさまを愛するマリアの二つの役割を兼ねています。主は、苦しみの十字架をお与えになったことを、主と共に喜びましょう。「この世の苦しみは一時的であり、受ける報いは永遠である。この地上でイエスとともに苦しむなら、主とともに栄光の冠を受ける」と書いてあるとおりです。主に愛されているので喜びましょう。
 私は、都井岬とご家族を忘れません。特に聖母のルルドの出現100周年を祝う今年は、ご家族にとって祝福に満ちた一年であるように祈ります。年老いた宣教師であるこの私のためにお祈りください。
303 天国で会いましょう
(ロマーニ・ウルデリコ神父へ 1958年1月6日)
 調布サレジオ神学院の元院長だったロマーニ神父は、チマッティ神父がイタリ
 私の健康は、おかげさまで主が望まれると(アにくるように招待した。本人は丁寧に断った。)おりです。昔のように皆への演説、説教、講話ができませんので、ご招待に応じられません。主は、私の魂を愛し、私の傲慢を砕くためにこうしてくださったのです。ご存じのとおり、傲慢は私の特徴であり、弱点でもあります。結論は、天国で会いましょう。神父さまが日本に戻ってくだされば別ですが、これも神のみ心によることです。
 私としては、神の愛のうちに死ぬために、み心に食い尽くされたいのです。
 今、以前のオペラ『細川ガラシア』を完成するために働いています。イタリアのことわざのとおり、「バラなら、咲く!」と。主が、神父さま、協力者、学生を祝福し、報いてくださいますように。
304 よき死の練習は役立つ
(アチェルビ・フランコ神父へ 1958年1月30日)
 「死が怖い」と書いてきた中津教会の主任司祭アチェルビ神父へ。
 神父さまは、死が怖いとおっしゃる。そのために、ドン・ボスコが勧めている毎月のよき死の練習をよくしてください。信者にもそう勧めましょう。これはとても役立つものです。
 神父さまの回心のために必要なのは、次のことです。
 聖人になりたいという熱望。毎日、一歩進み、祈りに合わせて、快活さと勤勉さを保つこと。
 快活さは、神と人々との平和を前提とします。
 勤勉さには、自分の務めを実行するための犠牲の精神が必要です。
 祈りと愛徳のうちに互いに一致しましょう。神父さまを抱いて、心から祝福します。

1958年3月9日 新司祭から祝福を受ける 左側はコンプリ神父
305 他人の批判を気にするな
(リヴィアベッラ・レオーネ神父へ 1958年3月27日)
 来日の第一グループの一人だったリヴィアベッラ神父は、碑文谷サレジオ教会の主任司祭で、とても勤勉であったが、他人の批判を気にしていた。チマッティ 神父さま、他人の言うこ(神父はこの手紙を書いた。)とを気にしないで、自分の務めに最善を尽くしましょう。私もそうします。残念ながら、神父さまに協力したくても、それができない状態です。
 神父さまを批判する人は、その仕事の量がわからず、その結果も見ない、やり方もわかっていません。
 神父さまは、「調布が寝ているとき、レオーネ神父は仕事している」とおっしゃる。これに賛成しません。そうする必要もないし、役にも立ちません。私の考えでは、長上の許可がなければ、夜の仕事の上に主の祝福がないのです。 306 余計な心配をするな
(クリンゲル・アッティリオ神父へ 1958年4月15日)
 以前、チマッティ神父の標本の研究によく協力していたクリンゲル神父は、宮崎日向学院の小神学校の担当者だった。神経が細かく、健康のことをいつも心
 神父さまの(配していた。)心身の健康のために何回も申し上げたことを繰り返します。
 「主とマリアさまの手に寛大に身を委ねなさい」と。神父さまの健康はありのままです。それは、主が与えてくださった十字架です。できるだけ治療しながら、余計な心配をしないでください。小さなことにも祈りと犠牲の精神を合わせることは、よい薬になります。「主よ、あなたのため、私の落ち度、また委ねられた人の落ち度を補うため!」と言いなさい。そして、明るい気持ちと喜び、忍耐をもって、自然に、素直に、できるだけ自分の務めを果たし、結果において自己満足や他人の誉れを求めないようにしなさい。目標はいつも主、主だけ、すべてにおいて主だけ。先ほどの祈りのとおり、「主よ、あなたのためです!」と言いなさい。
307 日本がキリスト教にならない原因
(ラステッロ・フランチェスコ神父へ 1958年6月12日)
 イタリアのサレジオ会機関誌の担当者だったラステッロ神父は、日本の宣教活動についての意見を求めてきた。次は、チマッティ神父の答えはこれである。
 いつも神父さまを思い出しています。お互いにそうしましょう。自分の務め
を果たしながら、よき死、否、本当の命を、準備しましょう。左「La vera Luce 真の光」の自筆原稿1、右「La vera Luce 真の光」の自筆原稿2
 神父さまが質問なさった日本の宗教の現況については、この頭の空っぽな私の判断はこうです。
 以前言われてきた「日本のとき」は、まだ来ていないと思います。戦後、
日本は目覚めたと思われたが、今、宣教師や宣教の手段が増えてきたにしても、リズムは前と変わらないようです。原因は何でしょうか。宗教的な伝統と言葉の困難、宣教師たちの準備不足、また公立学校の道徳教育が土台を見いだしていないことです。なお、ミッションスクールで人材不足のため信仰のない先生たちが教えていること。その他に、日本の文化、学問、マスコミは、外国の信仰を無視する国々と同じ道をたどっていることです。
308 主が望まれるままに
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1958年9月29日)
 グリゴレット神父は、チマッティ神父と同じように弱っている状態であった。
 私はいつものように神のみ手にあり、神のみ心に従って働き、できるだけそれに順応するように努めています。以前のように働けないことは気にはなりますが、私たちの功徳は、今、主が望まれるときまで、ここで、今の状態で、主が望まれるまま、すべてを受け入れることです。慌てたり、嘆いたり、残念がったりすることは、心を弱めるだけです。
いつも快活で、神の完全な愛のうちに死ぬことができるように、祈りと愛のうちに一致しましょう。
309 サレジオ会員への最後の回書
(サレジオ会員へ 1958年11月10日)
 管区長の不在中、チマッティ神父はその代行をやってきた。最後に、協力して 11月14日午後、親愛なる管区長がお戻(くださった会員たちにこの手紙で感謝した。)りになり、代行としての私の任務が終わります。務めを果たせるように皆さんがご協力くださったことを感謝し、毎日、その事業のために祈ることを約束いたします。
 この期間中、より親密に付き合うことができて、管区のために協力し合ったことの結論として、新教皇ヨハネ23世のモットー「従順と平和」が各自のものとなりますようお勧めいたします。私たちにおいて神のみ心が実現し、会憲を忠実に守り、実りとして真の平和が実現しますように。私のためにお祈りください。
310 ルルド出現100周年の祝い
(調布の日誌より 1958年12月7-8日)
 祝いの雰囲気を作るために、チマッティ神父は外見の飾りも大切だと教えていた。
 マリアさまのルルド出現100周年のために建物のイルミネーションを行った。暗闇の中で傑作だった。多くの近所の人も見るために集まってきた。とてもすばらしかった。
 7日にアカデミアがあり、8日に荘厳な歌ミサがささげられた。

1959年
更新された院長職
 
 チマッティ神父の院長職は6年で任期終了であるが、さらに3年延長された。
体が弱っていた本人にとって、最後まで力を振り絞る機会となった。
 7月に80歳の祝い。そのときのミサとその後のアカデミアが録音された。
 その機会に長年念願だった信徒の聖堂を建てる資金集めにも力を入れた。
 12月20日、小規模だったが聖ドメニコ・サヴィオにささげられた聖堂が落成された。
 このころの手紙には、以前よりもよき死を準備する話が出てくる。
* * *
311 宣教師になりたい人のため
(プッポ・オランド神学生へ 1959年2月12日)
 後に宣教師として来日したアルゼンチンの神学生からの手紙が来た。それに対 お祈りを(する返信。)感謝します。祈りは、宣教師のため、人の救いのためにもとても必要です。日本が回心するには、私たちも彼らもひざまずかないといけないのです。
 宣教師になりたい皆さんには、ドン・ボスコのモットー「Da mihi animas 私に魂を与えたまえ」に憧れ、日常の務めをよく果たし、イエスさま、我らの母マリアさま、ドン・ボスコを愛し、快活、勤勉であることが必要です。私が神の愛のうちに死にますようにお祈りください。心から皆さんを祝福します。
312 聖人になることは難しくない
(アチェルビ・フランコ神父へ 1959年3月27日)
 また聖人になることについての中津教会の主任司祭への答えである。

サッカーボールを蹴るチマッティ神父
 お手紙ありがとう。しかし、私は神父さまの考えに賛成しません。
 神父さまは、聖人になることは不可能だと言う。それは間違いです。もし望
めば、聖人になれるし、またそれはそれほど難しくもなく、むしろ、とてもやさしいことです。もちろん、神の恵みによりますが、自分が望めばできるのです。
そのためには、自分の務めをよく果たすだけでよいのです。
 快活でよく働きましょう。
313 教え子を思い出している
(教え子フラッキア・イタロへ 1959年7月28日)
 よく思い出してくれるヴァルサリチェ時代の教え子たちの会長へ。
 愛情と情報に満ちたお手紙ありがとうございます。ついに信者のための聖堂の工事が始まりました。
 15日に80歳になりました。おかげさまで、支部の指導、授業、宣教の務めを何とかしてこなしています。すべてにおいて神のみ心が行われますように! 私がよき死を遂げ、神の完全な愛のうちに、親愛なる母扶助者聖マリアのみ手に死ぬことができますようにお祈りください。
 オペレッタ『マルコ漁師』を思い出してくれてありがとう。今年、ここでは『エリコの盲人』を上演して大成功しました。日本では、『マルコ漁師』、『エリコの盲人』、『ヴィスニュ』、『放蕩息子』など、またヴァルサリチェの時代以降に作曲したいくつかの他のものも上演されます。
 毎日、ご家族を思い出します。快活、勤勉でいてください。愛と祈りにおいて一致しましょう。
314 天国への憧れ
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神父へ 1959年12月5日)
 クリスマスと新年、お祝い申し上げます。お互い( サレジオ大学の学長になっている教え子への挨拶。)のために祈りましょう。特に私のよき死のためにお祈りください。私が義人の死を遂げ、親愛なる母マリアのみ手のうちに死を迎えることができますように。
 わがヴァレンティーニ神父さま、天国に入るときに天使たちが楽器を弾いて歌ってくれるなら、なんとすばらしい音楽でしょう。どう思いますか、あまりに高望みなのでしょうか!
 まあ、煉獄もあるでしょう…。お祈りでお助けください。

1960年
体力が衰えるチマッティ神父
 81歳のチマッティ神父は次第に体力が衰える。生活には大きな変化はないが、神学生の大部分は日本人となり、本人は以前より言葉の限界を感じた。
 この一年で記念すべきことは、オペラ『細川ガラシア』が上演されたこと。
 3月3日、東京の土井辰雄大司教が日本の最初の枢機卿とされたこと。
 オリンピックが1964年に東京で開催されることが決まり、日本全体は活気づいている。経済効果も期待された。
* * *
315 管区長への報告
(ダルクマン・ヨハネ神父管区長へ 1960年2月3日)
 今月は特別な問題はなく、平常のとおり順調( 師は、毎月長上への報告を忠実に行っている。)に進んでいます。自分の多くの不足を直すために善意も弱まりません。主とマリアさまがあらゆる意味で助けてくださっています。
 健康は相変わらずですが、階段を上るとき息苦しくなることがあります。特に、遅れないために走るときにそうなるのです。
 勉強と仕事に関しては頭がまだ働きますが、年老いたので以前のようなエネルギーが出ません。他人に勧める「できるだけのことと、もう少し」ということは、自分も実行しないといけないのです。特に霊的生活のために。祈りにおける私の困難は、機械的になることです。もっと深めるべきです。
 お祈りのご協力をお願いいたします。

来日第1陣の生き残り4名 左からグアスキーノ、カヴォリ、チマッティ、リヴィアベッラ
316 一日一善
(ボヴィオ・フェリーチェ神父へ 1960年4月12日)
 大分県の教会で働いていたボヴィオ神父への励ましの言葉。
 神父さまは、教会の仕事に進歩がない、いつも出発のところだと言っています。
 これについて聖フランシスコ・サレジオは、「毎日一歩進み、積極的に仕事をし、大したことをやっていないと思っても、毎日再出発をする。これが主の精神があることのしるしだ」と書きました。
 神父さまも自分を改善しながら「一日一善」を実行してください。任せられ
ている教会の困難なことは、昔の宣教師たちも体験しました。成果が上がらなくても、できるだけ務めを果たすのです。
 以前の総長フィリッポ・リナルディ神父は、同じく困難について報告した故ピアチェンツァ神父にこう答えました。「十字架上のイエスさまの福音宣教の結果を見てください。皆彼を捨てて逃げた、と書いてあるのではありませんか」。私たちも、できる限り自分の務めを果たしたうえで、イエスさまがなさったようにしましょう。結果は、自分によるのではなく、いろいろな事情によるのです。 快活さと勤勉さによって主と一致し、霊魂を愛して祈りましょう。神父さまを抱いて祝福します。
317 自分のエゴに勝て
(デランジェラ・ステファノ神父へ 1960年4月12日)
 学校で働いて困難に遭っていたデランジェラ神父への言葉。
 神父さまはおっしゃる、「主に対して直線、長上に対してジグザグ線で」と。
 私にはよくわかりませんが、聖書が言うには「すべての権威は神からくる」と。私はいつも直線です。私たちの困難、心配、迷い、余計な想像は、頭、
心、自由意志と体が神のものではなく、自分のものだと思っていることから来る。
ああ、私たちのエゴ! 神(イタリア語Dio)とエゴ・我(イタリア語 io)が一致しないとき! その場合、神は我(io)となる。おわかりですね。すべては自尊心の問題です。だから主は「自分を捨てなさい」と言っています。
 私たちは司祭です。「全世界に行きなさい!」と言われました。狭い範囲に閉じこもることなく、いつも人々の霊魂を目の前に置いて神へ導くのです。彼らを主の心の中に入れて、自分も一緒に入る。主と共に働き、共に祈り、共に書き、共に話す。
 ドン・ボスコが神父さまに言いたいことを繰り返します。「快活で(そのために心の平和が必要です)、働き(余計な想像をしないで行動します)、愛と祈りをもって神と人の魂と一致しなさい」と。
 互いのために祈りましょう。神父さまを抱いて、祝福します。
318 神のみ心の中に沈むように
(ジジョッティ・レナート総長へ 1960年6月14日)
 教え子であったサレジオ会の総長に自分の心を打ち明ける。
 私は老人として、主のおん助けにより務めを果たすように努力しますが、より大きな努力と完徳が必要だと感じます。み心の中に沈むようにしたいのですが、努力すればするほどまだ遠いと感じます。自分も、他人に勧める快活、勤勉さ、愛と祈りにより、神と人と一致すること、これを実現するようにしたいです。 サレジオ会の大きな責任と十字架を背負っている神父さまにも、これが役立つことではないかと思います。お互いのために祈りましょう。
319 病んでいる神父に
(カスティリオーニ・アルベルト神父へ 1960年11月15日)
 カスティリオーニ神父は長年日本で働いて、病気のためにイタリアに帰っていた。
 神父さまの健康の具合を伺いました。いちばん大切なのは、神のみ心に身を委ねること。日本での神父さまの数年前からの宣教は、委ねられた人々のために苦しみと十字架をささげることでした。今もそうです。イエスもその手本を示してくださいました。その福音宣教の頂点は十字架でした。
 このような場合、聖フランシスコ・サレジオは、忍耐をもって神のみ心を受け入れて「み心が行われますように!」と身を委ねることを勧めていました。主がこの祈りが受け入れてくださいますように祈ります。よい看護師であるマリアさまを通して慰めと平安がありますように。
320 日本の回心のため
(マンガネリ・ジュリオ神父へ 1960年12月17日)
 1927年、副総長リカルドーネ神父が来日したとき、( マンガネリ神父は当時ドン・ボスコ社の社長だった。)東京で一緒に山本信次郎師を訪れて質問しました。「日本はいつ回心するでしょうか」と。「それは、数多くの観想修道院が日本にできて、熱心にそのために祈るときでしょう」と彼は答えました。
 同じときに、当時の教皇庁使節だったジャルディーニ大司教も、「日本が回心するには、2世紀もかかるでしょう」と言いました。私たちは、祈りながら種を蒔くようにしましょう。それと共に犠牲、忍耐、謙虚も必要です。また、そのために聖人にならないといけないのです。

1961年〜1962年3月院長の任期終了まで
 チマッティ神父の体はますます弱まり、手紙でそのことをよく訴えている。
 1月半ば、後に後任となったクレヴァコーレ神父が副院長として任命された。
 6月15日、神学院の教授陣の中心カントーネ神父がローマのサレジオ大学に呼ばれ、教授陣が弱まった。
 9月に管区長ダルクマン神父の任期が6年延長された。
 10月に第二バチカン公会議が開始され、終了はチマッティ神父帰天の2カ月後1965年12月8日であった。
 12月22日、大分教区が設立、平田三郎が初代司教。チマッティ神父教区長の宮崎・大分知牧区が過去の思い出となった。
 1962年3月、クレヴァコーレ神父は、チマッティ神父の任期終了で神学院の院長になった。
* * *
321 聖フランシスコ・サレジオの精神
(チマッティ神父の講話より、1961年1月20日)
 チマッティ神父の霊性はドン・ボスコの霊性。しかし源泉は聖フランシスコ・サレジオである。サレジオ会の名前もそうである。チマッティ神父は両方に通じて 聖フランシスコ・サレジオの祝日は、サレジオ会の(いた。その祝いのために書いた短い文書を紹介する。)初期において最高の祝いの一つだった。1854年にドン・ボスコがこの聖人を自分の事業の保護者にしたのは、愛徳と柔和を特徴とする聖人だったからである。
 私たちは今、その祝いを準備するために毎日その言葉を読んでいる。サレジオ会員であることを自覚するためには、その精神を知るべきである。なぜなら、ドン・ボスコの精神は、聖フランシスコの精神に基づいているからである。「主を愛し、主が愛されるようにする」という目標、またドン・ボスコの「私に魂を与えたまえ、Da mihi animas」というモットーは、共に聖フランシスコ・サレジオから来る。私たちの修道会の特徴「仕事、信心、愛徳(家庭的な精神)」もそうである。
 聖フランシスコ・サレジオはこう教えている。「真の信心をもっている人は、神に心を上げるために祈りという翼、また人々と共に歩むために愛情という足をもっている」。だから、ドン・ボスコの信心は活動的である。
 さらに聖フランシスコはこう言っている。「仕事は、どんな仕事であっても主との一致を妨げない」。だから、ドン・ボスコは、仕事のときにもいつも主に心を上げるようにと、私たちに勧めている。
322 求道者の友人のために祈る
(木村光男、音楽の教え子へ 1961年2月8日)
 この方は、戦時中三河島教会でチマッティ神父から音楽を学んだ人である。
 お手紙ありがとう。私は今82歳になりました。院長として神学生のために働
いていますが、もはや神さまに召されるときが近づいてきています。主の愛のうちに死ぬことができるようにお祈りください。
 今、あなたが教会で学んでいることはすばらしいことです。安心してその指導に従って主を求めてください。ご家族のためにも祈ります。声を失ったとは残念ですが、主のみ手からそのことも受け入れ、主がそのことから善を引き出すことができると信じましょう。カトリックの教えを学んで信仰の恵みを得れば、心から湧き出る歌で主をたたえることができるようになります。お元気で、主が祝福してくださるように祈ります。
323 司祭叙階60周年を目指す友人へ
(ヴァルサリチェ院長マルティノッティ・カルロ神父へ 1961年2月16日)
 司祭叙階60周年記念を目指す友だちにお祝いの言葉。
 神父さまのお手紙は遺言みたいなもの。やはり、死ぬことも生きることも主に委ねましょう。
 神父さまの目標は1966年。私は1965年です。私は毎日、神父さまのため

野尻湖で食事の準備
にこう祈りましょう。「わが主よ、もしこの司祭の霊魂のために、また委ねられた人々のためにそれが役立つならば、1966年まで彼にその慰めをお与えください。そのために働くことができますように、わが主よ、カルロ神父の願いを聞き入れてください」。これでよろしいのでしょうか!
 私は、友だちに書くとき、いつも、私のよき死のために祈ってくださるように願います。
324 ドメニコ・サヴィオのきれいなご像を願う
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1961年6月8日)
 サレジオ神学院の聖堂の前にきれいなドメニコ・サヴィオのご像が飾ってある。 私が今いちばん気にして(その由来はこの手紙にある。)いるのは、ドメニコ・サヴィオのご像です。大理石でもよろしいが、大切なのは、美しいものであること。大きさは1 メートルぐらい。手に十字架を持っている姿が好きです。宣教を表すからです。いずれに
せよ、美しいものをお願いします。資金を準備していますから、早くできますように。
 主が報いてくださいますように! 私はそのために祈ります。主の栄光のため、またドメニコ・サヴィオが若者の救いのために働いてくださるためです。
325 溝部脩神学生への励まし
(フランシスコ溝部神学生へ 1961年8月5日)
 溝部神学生はローマで勉強中だった。後に司教になった方である。 お手紙ありがとう。調布の友だちは夏の仕事のために各支部に散っています。
 私は82歳になって、何とか仕事をやっています。今年度で院長の任期が終わります。私のよき死のためにお祈りください。神の完全な愛のうちに死を迎えますように。
 勉強しながら、内面の働きを忘れないでください。「毎日一歩」、また「水のしずくが岩を掘る」。何があっても「心配するな」ということを覚えてください。
毎日あなたを思い出します。
326 司祭への勧め
(韓国の宣教師スピース・ライモンド神父へ 1961年12月27日)
 この方は、日本から韓国に派遣されたサレジオ会員。
 神父さまへの勧めとして、ドン・ボスコが友だちに与えていた「健康と聖徳」ということにします。
 健康は、神の恵みとして務めを果たすために必要です。それを保つにはドン・ボスコが宣教師たちに与えた11番目の勧め「健康を大事にし、体力に応じて働きなさい」ということを守ればよいです。
 聖徳は、神の恵みでありながら自分の一生の霊的な働きにもよります。特に次のことが役立ちます。
 まず、いつも快活であること(神と隣人の平和を保つことによって)。
 次は、勤勉であること(毎日の自分の務めを果たすことによって)。
 そして、愛と祈りをもって神と人々との一致を保つこと。これを守れば間違いなく聖人になります。
 私のよき死のためにお祈りください。神父さまを抱いて祝福します。
327 退任にあたって
(ダルクマン・ヨハネ管区長へ 1962年2月23日)
 任期が終わるチマッティ神父の、院長として管区長への最後の報告である。
 今日、よき死の練習にあたって報告を書きます。
 務めに関しては、神父さまは私の不足と困難をご存じです。祈りと手本で補うようにしますが、これだけでは不十分です。学生の利益、会員の霊的な養成のためにもっと考えるべきです。
 このごろの主への祈りにおいて、私がよき死を準備し、力に応じて人のために働ける状態に置かれることを願っています。ご遠慮なくお決めください。どんな仕事と地位、どんな場所、海外でも、どんな命令でも、神のみ心として従います。神に感謝!
 愛徳に関しては、どんな人に対しても不満、冷たい態度はなく、ただ、隣人に対する私の愛が神の愛の中において霊的なものにすべきだと感じます。
328 大分教区の誕生
(ジジョッティ・レナート総長へ 1962年3月7日)
 1950年、聖ザベリオ宣教会が宮崎県を担当することになったことで、チマッティ神父の活動の場の思い出が半分消えた。また大分教区が生まれ、このことに 今度の3月26日、大分の(よって知牧区の名も消えた。)新しい司教の叙階式が行われ、これにより宮崎・大分知牧区が終わり、大分教区が生まれます。日本におけるサレジオ会の活動の場の名も消えます。
 私は過去をふり返る習慣はありませんが、今回、少しだけふり向いて見れば、私の足りなかったことを主がゆるしてくださると希望します。実現したよいことはすべて神の恵みです。神に感謝! 
 主は何年も前から知牧区への愛着を断ち切ってくださったが、ときどき、そうなったのは私の準備不足や他の不足のためではないかと反省します。また、自分が本当に神のみ心に従ったかという疑問が心に浮かんでくることがあります。今回の司教の叙階式により、知牧区の名前への執着も完全に消えてしまうのです。
329 チマッティ神父任期満了
(調布支部の日誌より 1962年3月19日)
 年度の終わりに発表された辞令によりチマッティ神父は調布に残り、ここが終着駅となる。次第に神学院の姿も変わり、授業は外の神学校が望ましいという考え方になってくる。戦前の姿に戻るのである。

1961年
 今日、聖ヨセフの祝日に管区長は「爆弾」(新辞令のこと)を落とした。
 言葉より手本をもって9年間指導してくださったMonsignorチマッティは、任期終了で院長職を退く。生きた手本としてこれから私たちと共に残る。新しい院長はアルフォンソ・クレヴァコーレ神父。皆、温かく彼を歓迎し、快く従う気持ちを表す。 
 いちばん意外な爆弾は、カルメル・シモンチェリ神父が副院長になること。またジョルジョ・ベルッチ神父が神学生の係となること。さらに、コンプリ神父が異動すること。しかし、その辞令はまだ発表されない。(5月1日中津ドン・ボスコ学園の院長となったのである)。

1962年4月〜1963年5月チマッティ神父の夕焼け
 チマッティ神父は、1963年の5月まである程度元気だった。特別な任務はなかったが、積極的に共同生活に参加し、音楽、科学標本の整理、図書館の本の登録、外国の恩人への文通などに関わり、10月からは支部の日誌も任せられた。夏休み中、野尻湖に行って多くの標本を採集した。
 11月、宮崎で伊東マンショ帰天350周年の記念祭に参加し、帰り道、昔の宣教地を訪れた。
 教会の大きな出来事は、第2バチカン公会議がローマで開催されたこと。チマッティ神父はその成り行きに深い関心を寄せていた。
 1963年1月29日イタリア政府から新たな勲章を授けられた。
 その生活に大きな変化はなかったが、5月に体力が急速に衰え、30日桜町病院で診察を受けそのまま入院し、その闘病生活が始まったのである。
* * *
330 新しい院長への従順
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1962年3月15日)
 指名された新しい院長に対して最初の手紙でその従順を表す。
 先日、管区長から神父さまが院長に選ばれたことを伺い、神父さまの上に神さまの恵みを願いました。
 管区長はいろいろなことを助けるために調布に残れと知らせてくださいました。このために神に感謝! どうぞ、従順をもって院長さまに従います。私の
弱さを忍び、私が自分の霊魂を救い、神から召されるときによき死を遂げることができますようにお助けください。

日向学院にて
331 できるだけ仕事をする
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1962年6月8日)
 総長の秘書をやっているゼルビーノ神父に自分の近況を知らせる。
 今日、日本26聖人殉教者の列聖100周年の日。私は、新しい辞令により調布に残り、少し仕事があります。授業、音楽、恩人への宣伝、また資料室の標本を整理する必要があります。貴重な図書館も贈呈され、その中に日本関係の文献1000冊ほどあります。その整理も行っています。おかげさまで、頭も、手も、足もまだ使えます。私のよき死のために祈ってください。 
 ジジョッティ神父にこう伝えてください。「勧めてくださったとおり今の立場で修練者のような生活を送ることは難しくなく、むしろ、楽しく、霊的にもとても役立ちます」と。主において、愛と祈りのうちに一致しましょう。
332 よき死を願う
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1962年8月5日)
 いつも愛情に満ちている神父さまの( いつもの親愛なるグリゴレット神父へ。)お手紙に答えます。今年の夏休み、野尻湖に行くことになりました。
 いくらか仕事があり、祈る時間も多くあります。神父さまを忘れません。
 ときどきふと思うことがある。母も姉も84歳で亡くなった。もしかしたら、主は同じ年に…。そのために、「貧しいヴィンチェンツォが神の完全な愛とわが母マリアのみ手の中で死にますように」とお祈りください。
333 人の洗礼名日を思い出す
(コンプリ・ガエタノ神父へ 1962年8月6日)
 チマッティ神父は聖人の特徴をよく知っていて、霊名日に思い出していた。中津のドン・ボスコ学園に赴任した私の霊名の聖ガエタノは「venator animarum  明日、愛と祈りのうちに神父さまと一緒に一日を(魂の狩人」と言われ、毎年思い出してくれていた。)過ごします。守護聖人の取り次ぎにより、神父さまも本当の「魂の狩人」となりますように。特に自分の魂の狩人になってください。
 毎日神父さまを思い出します。神父さまも年老いたこの友を忘れないでください、よき死を遂げられますように。
 今日、イエスのご変容の祝い。神学生は皆高い山に登っています。わがガ
エタノ、私たちも自分の魂のために「excelsiorより高く!」登るようにしましょう。 
334 責任ある人への勧め
(コンプリ・ガエタノ神父へ 1962年9月9日)
 ドン・ボスコ学園の責任者だった私は人間関係に困難を感じていて、手紙で 私の健康のためますますVincenzo(勝(チマッティ神父の指導を仰いだときの返信。)利者) になるように祈ってくれたことを感謝します。黙示録2章の七つの教会の天使が、「Vincenti勝利者」に約束したことをときどき思い出します。
 神父さまの祈りのお助けにより魂がその霊的な報いで満たされますようにお互いのために祈りましょう。
 ここで神父さまが頼んできた勧めを短くまとめます。
— 委ねられた人、一人ひとりのために祈りなさい。特別に不満がある人のため。
— 忍耐をもって仕事の実りを待ちなさい。特に心身の病気を抱えている人の場合。
— ドン・ボスコの言葉を覚えてください。こう言っています。「私は一生の間、人を満足させようと努力したができなかった。信じなさい、皆を満足させるのは不可能です」と。自分の務めを果たし、主が満足していれば十分です。
— 反対する人がいるとき、たくさんの言葉ではなく、いつも愛徳を示しなさい。
— 祈り、忍耐、愛徳を大事にし、喜びながら善を行い、スズメが鳴くのをそのままにしておきなさい。
335 第二バチカン公会議開始
(調布支部の日誌より 1962年10月5日)
 チマッティ神父が書いた支部の日誌に第2バチカン公会議の始まりが記されている。ここで言うルルドのマリア像は、現在の神学院のルルドに飾られている。彼 私たちは公会議の準備のため(がイタリアに注文したものである。)に9日間の祈りを熱心にささげ、長上は詳しい情報を伝えてくれる。
 10月7日 日本の司教団と枢機卿が公会議に参加するために羽田を発つ。
 支部共同体はチマッティ神父の誓願65周年記念を祈りの中で祝う。
 10月8日 公会議準備の3日間に、16時半からアカデミアが行われる。基本課題は「私は信じる、唯一、聖なる、普遍、使徒継承の教会を」である。この言葉は教皇さまの紋章とともに舞台に飾られている。
 10月11日 神の母マリアの祝日に公会議開始! マリアさまのこの名称は他のすべての根元である。荘厳なミサ後、全員でルルドの洞窟へ行列し、大理石の新しいご像を祝別した。
336 九州への別れ
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1962年11月17日)
 伊東マンショの記念祭のために日向学院の校長タシナリ神父から招かれた。 宮崎で伊東マンショの祝(九州への最後の旅である。)いに参加し、12年ぶり元知牧区を見ることができ、初めのころの信者にも会うことができ、永眠した人々のために墓地で祈りました。「日向学院」にすばらしい体育館と聖堂ができ、昔の救護院も大きく拡張した。主がこれらの事業を祝福し、それらを通して立派な活動ができますように!
 協力してくださったことは主の書に記されていて、マリアさまもドン・ボスコも神父さまに感謝しています。私のよき死のために祈ってください。神さまの判断は人の判断と違います。あなたの祈りで助けてください。
337 自然博物館の将来
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1963年2月5日)
 チマッティ神父は、自分が夢見ていた生物学博物館の将来の価値を考えるよう
 日本の(になった。)教育課程において神学校に入れるのは高等学校の卒業後。これでは、自然科学博物館はどんな意味があるのでしょうか。好奇心でしょうか、贅沢でしょうか。哲学生や神学生のためなら聖書博物館、または生理学・心理学教室が役立つでしょう。付属として検査のための科学実験室も考えられます。それも私の初めの夢でしたが、結局、夢のまま終わってしまいます。資金があっ31 たら、今でも始めたいぐらいです。
 今は、地域合同の神学校、または国際神学校に通うように言われるようになってきました。まあ、生き残る者が見ればよいでしょう。
31  チマッティ神父が集めてきた自然科学のいろいろな採集は、今、彼の活動の証拠としてチマッティ資料館に展示されている。

聖具を祝福する
338 祈りは、最善の愛徳の業
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1963年3月21日)
 体力が衰えても、チマッティ神父はやる気でいっぱいだった。院長へのこの報
 最後の診察の結果、病(告にその気持ちが表れる。)気よりも老衰だと言われました。それでも役立てば、できることなら何でも喜んでやります。今まで、他人の霊魂のために働けなかったのは、主が祈りを通してしか宣教できない状態に置いてくださったからです。神が「自分の魂のためにやりなさい」と言ってくださるので、それを実行しています。今、私のため、調布の人のため、サレジオ会員のため、全世界の人のために祈ります。祈りは、最善の愛徳の業です。
 あとがき — 差し支えがなければ、今までと同じように図書館の仕事、また音楽への協力、標本の整理、たまに作曲、少しサレジオの霊性の教え、少し自分での勉強、うちのシスターズの世話、そして運動場で神学生と一緒にいるようにします。役立てば、頼まれることを何でもやる用意があります。
339 マリアさまの祝い 日誌の終わり
(調布支部の日誌より 1963年5月26日) 
 24日だった扶助者聖マリアの祝日は26日に祝われた。チマッティ神父は行列中よろめき、足が不安定だった。夕方、その日の日誌を書き、次の日も書こうとし 今日(たが…)(日曜日)典礼外の扶助者聖マリアの祝い。午後3時、近隣の修道女会と信者も参加し荘厳な行列が行われた。途中数か所で止まり短い話をし、賛美歌を歌い、最後は森の中でご聖体の賛美式で行列が終了した。マリアさま万歳! 神に感謝! 
 晩はマリアさまへのセレナータ:イルミネーション、コンサート、歌、短い話、ユースセンターのすばらしい回転花火! 天国でのサレジオ家族とドン・ボスコの子たちは静かだったのでしょうか。マリアさま万歳! 調布にとって母と教師となってくださいますように。
 5月27日 後片付けをして日常の生活に戻る。天候は不安定、雨も降る、眠たくなる…。 ここでペンを置いた。午前中、力を振り絞って修練者に最後の授業をやったが、午後寝込んでしまった。30日、桜町病院で診察を受け、そのまま入院した。

1963年
寝たきりのチマッティ神父
 6月22日神学院に戻ったチマッティ神父は寝たきりの状態。本館2階右の病室で2年4カ月闘病生活を送り、会員数名と看護師が世話していた。
 彼は共同生活に参加できなくてもその行事を意識し、心を合わせていた。単調な生活だったが、見舞う人が多く、国内外から手紙が届き、できるときに自分で答え、できないときに代筆してもらった。
 彼にとって病床は祈りの場。いつもロザリオを握り、「今、私の仕事は祈ることだ」と言っていた。ベッドの横に自分が書いた三種類のロザリオの黙想が置いてあった。
 その他に、一年間の毎日霊名日もあたる会員や友人の名前が書いてある小さなメモ用紙の束があった。今資料館に保存されている。毎日、それを見ながら一人ひとりを祈りで思い出していた。
 一時期、座ったままミサを許された、他のときには他の司祭が病室でミサをささげ、信心深く与っていた。
 毎日担当の会員と一緒に共同体の祈りを唱え、晩の祈りの後、短い言葉(ボナ・ノッテ)を話していた。その一部が録音されている。
 1963年6月3日教皇ヨハネ23世が帰天し、6月21日パウロ6世が選出され、その指導の下で1965年12月8日、第二バチカン公会議が終了した。本人は意識のあるときまでその発展に興味を示した。
 1963年11月3日、日本政府から「勲三等瑞宝章」の勲章を授けられた。
* * *
340 皆のために祈っている
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1963年6月26日)
 以前と同じように、院長に自分の報告を文書でしていた。

1963年 病床でご聖体を受ける
 敬愛する院長さま、汚い字をおゆるしください。できるだけ報告を書きます。
1.できるだけ皆と心を合わせよき死の練習を行いました。神の前で報告し、最期であるかのようにゆるしの秘跡を受け、ご聖体を頂きました。この立場でいかに主をよく見ることができることか! マリアさまのお助けにより主のあわれみに身を委ねます。
2.健康に関しては、医者に従いながら、皆のために祈ります。
3.このまま、楽に共同体の信心業に参加できます。それは私の本当の力です。私は1日中、すべての霊魂のため、一人ひとりのため、特にサレジオ会の兄弟のために祈ります。目の前に全世界の人、生きる人と亡くなった人がいます。イエスさまが呼んでくださるとき、天国へ、天国へ。しかし、急ぎません。皆を思い出します、特に兄弟たちと長上、昔の友だちと長上、過去の神学生と現在の調布の神学生を。毎日、皆、皆、皆を思い出します。
341 病人の役割を考えさせる
(教え子アメリオ・フランコ神父へ 1963年7月9日)
 以前もよく出てきた音楽家の教え子。彼も寝たきりだった。
 神父さまのあまり楽観的でない手紙を感謝します。私が言える、また言うべきことは、心配するなということです。毎日、祈りの中に神父さまと一致しています。私も寝たきりです。他人の協力を頼りにして、歩むべき道が神のみ心だと、ますます悟ります。神父さまも、祈りと神との一致に生きるようにしてください。天の父の家に多くの役目があります。その家族のメンバーなら、誰も無用だと思ってはいけません。大切なのは、神のみ手に自分を委ね、神がお望みの目的のために使ってくださること。毎日、「み心のままに」という祈りを唱えましょう。
 私は、寝ている状態でロザリオを唱えながら過ごし、愛する方がたを思いめぐらし、彼らのために祈ります。今、その中に特に神父さまがいます。安心して、私のためにお祈りください。
342 カヴォリ神父ためのミサ曲
(シモンチェリ・カルメロ神父へ 1963年7月15日)
 カヴォリ神父の司祭叙階50周年のために最後の作曲を書き、シモンチェリ神父
 明日の私の愛徳、(にその完成を願った。)祈り、仕事は、ご霊名日にあたるわがシモンチェリ神父さまのためです。
 お願いがあります。今の状態でアントニオ・カヴォリ神父に約束した50周年のためのミサ曲を完成することはできません。「キリエ Kyrie」は新しいですが、残りは若いときのミサ曲の改定版です。神父さまに、それを調整するために助
けてくださるようお願いします。カリタス会が催促してきたので、できるだけ早く助けてください。皆さんを祝福します。
343 日本政府から「勲三等瑞宝章」
(調布支部の日誌より 1963年11月13日)
 日本政府は、いろいろな形で日本の文化に貢献したチマッティ神父に、最後 今日、管区長(に勲章を授けた。)、多くのサレジオ会員、扶助者聖母会の管区長、東京支部の代表者、カリタス修道女会の代表者、イタリア大使、教皇庁公使の代理などが集まり、昼前に文部大臣の代理者が来られ、短い儀式の中、天皇陛下の名で、日本の文化に貢献したことでチマッティ神父に「勲三等瑞宝章」が授けられた。チマッティ神父は、自分ができる方法で感謝の意を表した。その日、読売新聞の朝刊に記事が出た。夕方のテレビニュースにも写真と紹介が出た。
344 荘厳にご聖体を授ける
(調布支部の日誌より 1963年12月8日)
 教会の伝統に従って、チマッティ神父に荘厳にご聖体を授けた。それを拝領す 今日、無原(る写真がある。)罪聖母の日に、共同体のミサ後、神学生と長上を先頭に院長は荘厳な形でチマッティ神父にご聖体を授けた。本人はベッドに座り、「おおイエスよ、おおイエスよ!」と何回も繰り返しながらご聖体を拝領した。出席者はその深い信仰と熱意に深い感銘を抱いた。

1964年
最期の言葉を残したチマッティ神父
 3月にチマッティ神父は危機状態になり、それを乗り越えて10月まで直筆で手紙を書けるまで回復した。
 6月から8月末までミサを立てる許可も与えられた。その期間中、世話する会員にボナ・ノッテの話もできるようになり、その一部が録音された。
 11月から容態は悪化し、12月ごろ耳が聞こえなくなり、目も弱くなった。その状態で新年を迎えた。
* * *
345 丸岡秀世神学生の日誌
(1964年1月5日)
 丸岡神学生は、いちばん長くチマッティ神父を看病し、いろいろな記録を残し チ(た。)マッティ神父は公現祭の前日にこう言った。「明日、私の第3の洗礼名の祝いです。第1はヴィンチェンツォ、第2はエンリコ、第3はガスパレです」。
 1月5日、今日、頂いたリンゴを薄く切って差し上げたら、こう言った。「美
味しい! 美味しい! リンゴがこんなに美味しいのは、主はなんとよい方でしょう!」
 1月16日、 身体清拭中にこう言った。「マリアさまも幼子イエスに対してこうしていた。主にささげる気持ちでやってください」。
346 ミサを立てたい
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1964年6月)
 これは直筆で書いた手紙。主治医は桜町病院の森口幸雄氏だった。
 親愛なるわが院長さま、健康はご存じのとおりです。親切なお医者さんや、会員たちが看病してくださることを感謝します。祈りで恩返しします。神から召されることを待っている間、私のためにお祈りください。
 今、私のいちばんの願いは、お医者さんが毎日ミサをゆるしてくださること。
これは、唯一の必要な慰めです。お医者さんは聖なる方ですが、司祭に必要なことを理解できないでしょう。このままでは、私はただよい信者だけである。
司祭にこれは不十分です。ミサは私のいちばんの望みです。
 院長さまの許可を見込んで、見舞いに来る会員やお客さんにちょっとしたお菓子や果物を差し上げました。その愛徳の業に比べれば、小さなお礼です。
召されるその日を待ちながら、私のためにお祈りください。
347 ほほ笑み
(調布支部の日誌より 1964 年7月15日)
 サレジアン・シスターズの修練院は近くにあるのでときどき見舞いに来ていた。 今日、チマッティ神父は85歳。サレジアン・シスターズが修練者と一緒に見舞いに来たので、チマッティ神父はお菓子の箱を開けてもらって、一人ひとりに一個ずつ配った。最後のシスターが箱にふたを閉じようとしたら、チマッティ神父は止めて、ほほ笑みみながら「この一個は私のため」と言って皆と一緒に笑った。
348 ミサをささげる喜び
(ボヴィオ・フェリーチェ神父へ 1964年7月25日)
 ついにミサを立てるようになった。座ったまま許されたのである。
 親愛なるボヴィオ神父さま、よいニュースがあります。毎日ミサを立て、ご聖体を頂きます。毎日、パンを裂く式(ミサ)で神父さまとその仲間を思い出します。
 それぞれの立場で神の栄光と霊魂の救いのために元気を出して働きましょう。
 仕事において一致して、年老いたこの兄弟は心を込めて神父さまを祝福します。
349 マリアの祝日
(ボナ・ノッテ 1964年9月11日)
 これは録音されたチマッティ神父の夕の祈り後の話の一つである。
 明日、マリアさまのいちばんきれいなお祝いの一つ(マリアのみ名)です。昔、サレジオ会員は誓願のときに自分の洗礼名にマリアさまの名を加えていました。誓願を守ってくださるためです。
 これはキリスト信者の間によく定着した祝いです。私たちも力ある保護者であるマリアさまに祈りましょう。「キリスト信者の助けなる聖マリア、私たちのためにお祈りください」という射祷をよく唱えましょう。マリアさまがいつも私たちの母、天からの保護者となるように特に誘惑やあらゆる困難のときに願いましょう。マリアさまへの祈りは体と心を悪から守るために大切だとドン・ボスコは教えています。ですから、誓願のときに自分の身を委ねたこのよい母に願いましょう。この病室でも私たちの導き手、保護者となるようにお互いのために祈りましょう。「キリスト信者の助けなる聖マリア、私たちのためにお祈りください!」

1965年
天に召されるチマッティ神父
 最後の一年に入ったチマッティ神父は、耳が聞こえず、目もほとんど見えず、意識ももうろうとしていた。
 3月中、また耳が少し聞こえるようになり、5月27日、最後の録音が行われた。
 6月22日まで代筆の手紙も再開できた。
 その後、また次第に衰え、声も出なくなり、沈黙の世界に入った。
 10月6日帰天。葬儀ミサは、本人が聖母マリアにささげた下井草教会で行われた。
* * *
350 昔の教え子を思い出す
(オラトリオ・サン・ジュゼッペの教え子へ 1965年5月19日)
 一時期声が戻ったチマッティ神父は、イタリアの第一次世界大戦時の教え子た 皆さん、創立100周年お(ちの手紙に代筆で答えた。)めでとうございます。過去にたくさんのよいことをなさった恩人の皆さんのため、また任せられている人たちの霊魂の救いのために神の恵みを祈ります。
 皆さん、いつも快活で、心を一つにして霊魂を救うために働きましょう。サン・ジュゼッペ万歳! 主がすべてにおいて祝福してくださいますように!
 あまり長く書けないので、ごめんなさい。今、自分のベッドに横たわり、私
の仕事は祈ることです。日中、働いている皆さんを見ています。皆さんのため、その家族のため、皆さんの必要なことのために祈ります。イエスさまが私のつたない祈りを聴きいれてくださいますように。がんばってください。私は皆さんを愛して、愛して、祝福します。

1965年3月19日 司祭叙階60周年のお祝いに、見舞いに来たサレジオ会員たちと
351 ボナ・ノッテ
(1965年5月24日)
 扶助者聖マリアの祝日にあたるこの日、見舞いに来た調布の共同体への言葉 皆さんの訪問(が録音された。)、ありがとう。ドン・ボスコ万歳! 扶助者聖マリアを与えてくださったドン・ボスコ万歳!
 ありがとう、ありがとう、ありがとう。今朝、特にご聖体を頂いたとき、皆さんのためにたくさん、たくさん、たくさん祈りました。皆さんも、少しでも善を行いたいこのチマッティ神父のためにお祈りください。
 よろしい、よろしい、ありがとう、ありがとう、お互いのために祈りましょう。
万歳! 万歳!
352 録音された最後の言葉
(ボナ・ノッテ1965年5月27日)
 ご昇天祭の夕方、修練者はチマッティ神父の手から会憲の本を渡してもらうために集まった。ゆっくり、ゆっくりと、最後に力が尽きたかのように話した言葉が録音された。天国という言葉を用いながら、その感動は頂点に達した。
 人間はよいことをするためにいかに多くの難しいことを発明するか! 見て、私たちは今ここに一緒に集まっています。主はその子ら、修練者が一緒に集まっているところを見て、とても、とても、とても喜んでいます。
 ドン・ボスコが常に言われた「いつも快活でありなさい」という目標を忘れないでください。会憲に基づいて働きなさい。そして、修練長と一緒にヒヨコが必要なエサを得るために雌鶏を囲んでついていくように、私たちもそうしましょう。毎日、いつも、私たちの雌鶏である、主、扶助者マリア、ドン・ボスコについていきましょう。彼らは私たちの指導者です。ついていけばよいのです。
 主が特別に皆さんを祝福してくださるように!(会憲の本を渡す) このとおり、親愛なる修練者の皆さん、もしこの本に書いてあることに従うならば、必ず天国に行けきます。天国へ行くこと、なんと美しいこと、なんと美しいこと、祝福されるイエスさまと共に、マリアさまと共に、永遠に、いつまでも、いつまでも。
 今日はご昇天祭です。少し天国を思いましょう、天国を、天国を、このとおり、親愛なる修練者の皆さん! よろしい、よろしい、一緒に祈りましょう。一緒に主の祈り、アヴェ・マリア、栄光の祈りを唱えましょう、私たちの奉献を受け入れてくださいますように、イエスさまとマリアさまの教えに従うために助けてくださいますように。
天国! 天国! 天国! 皆、皆、皆!
353 最後の手紙
(教え子キアナーレ・アルベルトへ  1965年6月22日)
 代筆での最後の手紙は、自分が一生の間思い出したオラトリオ・サン・ジュ 親愛なるベルナルドさん(ゼッペの会長のためだった。)、皆さんの恩を受けた新司祭の写真を送ります。皆さんのため、またご家族やその必要なことのために毎日祈ります。私は心から一人ひとりの上に主の最高の祝福を祈ります。
 オラトリオ・サン・ジュゼッペと「5月15日の会」万歳! 快活、勤勉で、一緒に善を行うために一致しましょう!
 できれば、皆さんを指導してくれるガレリ神父とヴァレンティーニ神父によろしく。
心から皆さんのヴィンチェンツォ・チマッティ神父
354 チマッティ神父は神のみ手に
(調布支部の日誌より 1965年10月6日)
 チマッティ神父の最期は調布サレジオ神学院の日誌に記されている。師を送るために共同体がその部屋に集まり、彼のためにミサがささげられるところだった。
 今日朝5時前、助祭丸岡神学生は院長を起こし、(そして地上のチマッティ神父のミサも終わったのである。)チマッティ神父が危篤状態のようだと知らせた。すぐに支部の全員が集まり、主治医の森口先生、管区長、近隣のサレジアン・シスターズ等に連絡し、院長は病人に教皇の祝福を与え、病者の秘跡を授けた。皆がそろったところ、院長は病室で病人のためにミサをささげ、その中で皆ご聖体を頂いた。ミサが終わってから少し時間が経つと、病人の脈を確かめていた主治医は、「チマッティ神父は亡くなられた」と知らせた。6時半であった。
355 チマッティ神父の主治医だった森口先生は、列福調査のときに証人として呼ば 森口幸雄先生の証言 チマ(れた。)ッティ神父の脈が止まったのは、ちょうど、司祭が「ミサ聖祭が終わりました。行きましょう、主の平和のうちに!」と言ったときであった。皆に知らせたのは、少し時間が経ってからである。

あとがきチマッティ神父が帰天した後の出来事
ご遺体は調布サ(1965年10月6日)レジオ神学院に安置され、多くの人が祈りに来た。
下井草教会で(同年10月10日)葬儀が行われ、府中カトリック墓地に埋葬された。
調布サレジオ修道(1967年10月5日)院新聖堂が落成され、ご遺体は地下聖堂に移された。列福調査開始(1976年3月5日)を申請し、11月26日から東京教区で70名ほどの証人が聴取された。
東京大司教と医師(1977年11月18日)2名のもとで教会法が定めるご遺体の検案が行われ、非常に珍しいことに腐敗していないことが確認された。
調布の聖堂で東(1978年1月22日)京教区の調査終了式が行われた。 イタリアのト(同年6月3日)リノ教区でも調査が終了した。
師の著書が信(1981年6月3日)仰にかなっていることの調査が終了した。
サレジオ会本部(1982年1月22日)列福調査担当者ルイジ・フィオーラ神父により、調査の結果や手紙40 巻、証言10巻などが聖座へ提出された。
1983年9月2日
チマッティ資料館が落成された。
ヨハネ・パウロ二(1991年12月21日)世教皇はチマッティ神父の英雄的徳を認め、「尊者」の称号を与えた。
チマッティ神父の(1996年5月12日)姉シスター・ラファエラ・チマッティが列福された。
*  *  *