171 ドン・ボスコは夢で日本を見た
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年1月31日)
ドン・ボスコは多くの不思議な夢を見た。その叙階100周年に際してバルバロ神学生は、1885年の夢の中に「メアコ」が出ていて、ドン・ボスコが日本を見たと発表した。チマッティ神父は本部の長上にそのことを知らせた。
1885年7月、ドン・ボスコが予言的な夢の中でサレジオ会の未来を見、私たちは日本を見たと信じています。彼はチリから出発して最後に北京を見てから(ここは大事!)マカオを見たと書いてあります。その話を記したレモエン神父は、「ドン・ボスコはマカオの代わりにいつもメアコ」と言っていたと書いた。
「歳をとって地名を忘れていたのだ」と彼は言います。ところが、ドン・ボスコは間違えていません。「メアコ」は日本の首都を意味するからです。マカオは宣教の歴史で有名で、東方の宣教活動の中心でした。歴史や地理に詳しいドン・ボスコがマカオの発音を間違えるわけはありません。「その前に果てしない海があり、背景に高くそびえ立つ山がある」と言っています。これはマカオに当てはまらない。かえって、日本の首都に当てはまります。メアコまたはミアコは、日本語で天皇陛下が住まわれる町を意味します。ザビエルの時代には京都でしたが、今は東京です。東京なら、その前に太平洋があり、背景に東洋一の有名な山、富士山がある。その頂上から中国は見えませんが、ド ン・ボスコ(16 )は夢で見ていたのです。
(16 )ドン・ボスコは生存中「東京」や「京都」の名を聞いたことはなかったであろうが1871 年改訂した『教会史』の中にキリシタンの迫害を紹介し26聖人一人ひとりの略伝を加えた。その中に7回「メアコ」が出てくる。富士山の位置も知らなかったはずであるが、夢では何でも見える。
172 悲しい復活祭
(ベルッティ・ピエトロ副総長へ 1940年3月25日)
3月に救護院の男子が卒業し、受け入れる場所が必要だった。チマッティ神父はそのために「更正院」という事業を始めようとしたが、本部に許可を願ったが断られた。
昨日、復活祭にお手紙を頂きました。午前中は喜び、午後は苦しみ。悩みというのは、カヴォリ神父と彼に対するマレガ神父の不満、そして東京へ出発するタシナリ神父。さらに神父さまのお手紙のショック!まあ、我慢しましょう。もう慣れています。箇条書きで問題を説明します。
宮崎には視察のときにお褒めになった救護院(収容者140名)がある。
管区長チマッティは、教区長チマッティに次の悩みを打ち明ける。
「卒業する子どもたちを引き受けてくれませんか」。
管区長は答える。「これは、私たちの精神にかなっている事業だ」。
それで、子どもたちを放り出さないために、教区長と管区長は本部の長上に許可を願った。
神父さまのお答え。「別府のシスターに司祭が与えられないのに新しい事業を始めるのか」と。私たちの犠牲をごらんになった神父さまのお答えはとても悲しい!これ以上申しません。でなければ、長上を悲しませることになります。(17)この状態で何とかして進むようにしましょう。
(17) 正式の支部としてではなく、救護院の付属事業として戦争が終わるまで「更正院」をやることにした。
173 仕事を切に望む
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1940年5月10日)
タシナリ神父は宮崎を離れて東京の修練長になり、しばしばチマッティ神父の意見を求めた。チマッティ神父は彼に自分の心情をよく打ち明けていた。
私の仕事のことについてご安心ください。仕事を切に望んでいても大した仕事がない。本当のことを言うと、今まで自分の人生において日本ほど仕事の少ないことはなかった。疲れるほどの仕事がなく、自分に合わない教区長と管区長の飾り役の仕事、良心の呵責を感じる時間つぶしの無駄な会議である。それが必要であることがわかるが、私には合わない。仕様がないことだからそのままでいきますが、殉教者聖イグナチオの言葉を言いたくなります。「わが子たちよ、私に何が必要であるかよくわかっていらっしゃるでしょう。皆さんの愛徳で私を止めないでください」。
まあ、働きながら前進しましょう。主のため、主において、主と共に。周りは何を言っても結構です。
174 戦時に備えるべきだ
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年9月18日)
新宗教法の施行が進む中、チマッティ神父は教会のために嵐が近づいてくると感じていた。それに備えるべきだと長上に書いた。世界や日本の状況について詳しく書けません。日本は、ドイツの考え方とやり方に倣い、自分たちに適応しながらもナチスとまったく同じ精神になり(おわかりですね)、外国人を排除しようとしています。
何が起こるかわりませんが、目的達成は早いでしょう。司教たちは聖座に特別な権限を願い、教区を再編成し、日本人司祭に委ねている。私たちは前線ではなく、第二第三線で働くようになるでしょう。私はフリーになったら東京へ移転し、サレジオ会員として働くようにします。これ以上要求されるかは主のみご存じです。大勢の立派な日本人会員がいたら問題は簡単に解決できますが、養成は一日ではできません。よい人材が戦争にとられ、遅れることになります。新人材の派遣は中止です。日本人神学生の養成期間を短縮する許可を願います。でなければ、すべてを失う危険があります。やむをえない場合、教会が与えるように、いろいろな権限をお願いいたします。
175 賢明な態度を呼びかける
(サレジオ会の宣教師へ 1940年9月25日)
皆に同じ危機は迫っていて、宣教師たちに賢明にふるまうように呼びかけた。
「新体制」に対して取るべき態度について長上の指示を忠実に守りましょう。落ち着いて明るい気持ちで自分の仕事に従事しましょう。いっそう日本の精神を身につけて、聖書の言葉どおり「自分が小さくなるべき」謙遜と尊敬の気持ちを身につけるようにしましょう。
祈る、常に祈る、熱心に祈る。自分自身とすべてのことをマリアさまとドン・ボスコの保護に任せる。
特に罪を避け、主の名において進むようにしましょう。
話す、書くことにおいて賢明であるように。すべての書類の写しを保存すること。
私たちの政治は、「天の父の政治」であることを念頭に置きましょう。
176 辞職願を提出したときの心情
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1940年10月18日)
ついに教区長の辞職願を皆より早く提出した。よく考え、祈った結果、使節閣下の勧めもあって教区長の辞職願を提出しました。ここの難しい状況は一種の病気です。体全体を救うために緊急に薬を施し、神のみ手に委ねるしかありません。
日本人の上に外国の権威があってはならないという原理を立てれば(外国からの資金にも適用される)、どうなるか神父さまもおわかりでしょう。未来は、神のみご存じです。私たちは前もって手を打ちます。いつかそうすべきだったが、今、決断しました。ほほ笑みみながら、精神的に大変な苦しみです。
11月23日、東京の大きなホールで「紀元2600年のピアノソナタ」を演奏し(18)私の頭の中に「笑え道化師よ!Ridi Pagliaccio!」という歌が浮かんできます。これはこの世の中のことです。神の手には、善のもとになるでしょう。すべてにおいて、み心が行われますように!
(18)11月23日のコンサートは東京の軍人会館で行われ、バイオリニスト江藤俊哉、妹玲子、テノール藤原義江、ソプラノ三上孝子の一流歌手も出演した。目的は、サレジオ会の新しい学校を助けることだった。
177 代行が決まったことを喜ぶ
(教皇庁使節マレラ・パオロ大司教へ 1940年12月2日)
教皇庁使節は11月25日、福岡の司教を説得するようにチマッティ神父に願った。30日に会って、「火の中にいるような気持ちで教会の将来について不安だった」と書いた。この手紙で自分の代行として、鹿児島の代行を兼ねていた出口神父が決まったことを喜んでいると書くが、果たしてその後うまくいくのであろうか。
閣下、お手紙を福岡の司教に渡しました。辞職願を出すと言いましたが、郵便の検閲があってローマへの意見が出せないことを残念がっていました。私は今の状態を説明してみたが、納得せず、教区長退職で問題が解決しないと言っていました。
今日、速達が届いて、代行が決まったことを大きな慰めで受け取りました。早速各教会に知らせ、お祝いの言葉を書き、祈りを約束しました。神学生にも知らせて、日本殉教者の歌を歌いました。私としては大喜びです。この決定は大いに教会に役立つでしょう。15年も長上の立場にいました。これで15歳若返りします。できるだけ早く(代行の)出口閣下ににお目にかかりたいと思います。
1941年
戦争が近づく
この1年、日本は軍備を進めていく。6月に同盟国ドイツとイタリアがロシアに侵攻し、12月8日、日本も真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入する。
チマッティ神父はイタリアの本部との連絡が不可能になって孤立し、1946年までこの状態が続く。日本人の神学生は次々と徴兵されるようになった。
5月3日、新宗教法が施行され、カトリック教会は「日本天主教公教団」として認可され、東京大司教の土井辰雄が統理者となった。宗教団体は文部省から指示を受け、戦争のために利用されるようになった。
5月末、チマッティ神父は宮崎を離れて東京の練馬の神学院へ移転した。九州を訪れるために毎度警察の許可が必要となり、簡単に得られなかった。
開戦の日から出口一太郎新教区長の態度が硬化し、終戦までチマッティ神父の苦悩が続いた。
12月末、三河島教会の主任となった。
178 新教区長の着任を祝う
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1941年2月28日)
出口一太郎新教区長は荘厳に着任した。チマッティ神父は尊敬を表し、信者に紹介し、オルガンを弾いた。そして自分は宮崎教会の信者たちとお別れした。
2月23日日曜日、新教区長フランシスコ出口閣下は宮崎でその役目にふさわしい衣装を着て、教会の入り口で宣教師たちに迎えられ、喜びあふれるコーラスの歌の中、祝福しながら祭壇へ進みました。私は、この恵みのために感謝の歌を歌わせ、信徒と宣教師たちに紹介し、忠誠、従順、協力を約束した。そして、宣教師たちはその座に進んでその手に接吻し、私も教皇さまの代理者として感謝と無条件の従順を表明しました。ミサ後、ドン・ボスコホールで各信徒団体が教区長に歓迎の言葉を述べました。
私は、信者たちへの最後の思い出として、「主よ、私に魂をください。仕事と祈り、ご聖体のイエスへの愛、扶助者聖マリアと教皇への愛をください」という言葉を残しました。
179 キリシタン屋敷の研究
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1941年3月31日)
東京にいたタシナリ神父はキリシタン屋敷跡を調査し『最後の殉教者シドーティ神父』を発表した。(19)チマッティ神父も興味をもっていた。
最近、タシナリ神父は東京の過去の宣教師たちについて研究し、「キリシタン屋敷」の現地を調査した。そこは何名かの宣教師が幽閉されて死に、1643 年に上陸したキアラ神父もその中に含まれています。小石川地区にまだその場所が見られ、当時の井戸が残っています。(20 )その後、シドーティ神父も四年間その中に幽閉された。彼の証言に基づいて新井白石が『西洋紀聞』を書いた。初めは穏やかな待遇を受けたが、その後、召し使いの夫婦、長助と春が神父の態度に打たれて洗礼を受けたので、庭に掘ってあった狭い、暗い地下牢に閉じ込められ、湿気、寒さ、病気で死にました。タシナリ神父はその地下牢を訪れました。
現在、キリシタン屋敷は個人の住宅に占められているが、真ん中に売地があり、私が東京で建てたい小神学校に適している。殉教者の苦しみによって聖とされたこの場所を手に入れるために協力してくださる方を探しています。
(19) 現在、切支丹屋敷は住宅地となり跡形もない。当時の状態を紹介するこの本は専門家に高く評価され、チマッティ資料館にコピーがあり、タシナリ神父の100歳の記念に現代用語にしてドン・ボスコ社により再販された。その後、シドーティ神父の遺骨が発見され、生まれ故郷のパレルモ大司教の主催、共に亡くなった長介と春についても殉教者としての列福運動が進められている。
(20) 1943年タシナリ神父はキアラ神父の墓碑を手に入れ、現在、チマッティ資料館の庭に保尊されている。
180 私は、偉人か犯罪人か
(サレジオ会員へ 1941年4月24日)
東京から九州へ行く許可をもらったら、チマッティ神父は毎度汽車の中で憲兵に監視されていた。昨日、王子であるかのように、または犯罪人であるかのように、憲兵に守られて無事に九州に着きました。心の中に思った。犯罪人なら、聖書が言う「犯罪人の間に加えられた」ということになる。(しかし、彼らは私より真面目だった!)。安全に守るためなら、「眠る番人を与えられた」ということになる。(彼らは私と同じようにぐっすり眠っていた!) ともかく、無事に着いて、み心なら無事に帰れる。大切なのは混乱している世の中、神の栄光と人の救いを実現し、マリアさまにすべてを委ね、その助けを熱心に願うことです。
181 毎日、できるだけのこと
(サレジオ会員へ 1941年5月3日)
5月23日チマッティ神父は新教区長に配慮して東京に転居した。救護院は新修道女会に委ねた。小神学校の指導はサレジオ会が受け持った。九州の会員
と連絡を保つために原則として月2回手紙を書くことにした。
5月はマリアさまの月。私たちが置かれている状況の中、天のお母さまの特別な保護が必要です。世の中は不透明、未来は不確実、できることについては不安です。それでも、仕事から手を引かず、今日できることを後回しにしないで今日のうちに実行しましょう。毎日、今日私は自分の魂のため、任せられた人たちのため、信仰のない人々のために何を行ったかを自問自答しましょう。
182 ジャガイモの説教
(練馬神学院の日誌より 1941年8月24日)
チマッティ神父は、ボヴィオ神父が院長だった練馬の神学院に住んだ。支部の 今日、日曜日、黙想会を前(日誌にこんな話が記されている。)日にジャガイモを収穫する必要が生じた。歌ミサ中の説教をチマッティ神父がすることになり、院長ボヴィオ神父は、「ジャガイモを収穫することについて一言願えませんか」と言ったら、チマッティ神父はこう話してくれた。
「ジャガイモは、土の中に隠れていればよく熟しますが、もし表に姿を出せば、緑色になって毒を含むようになります。私たちも、謙虚で隠れていれば永遠の生命のための実を結びますが、傲慢になれば自分にも他人にも害をもたらします」。
183 病人としての生き方
(アッリ・カルロ神父へ 1941年10月10日)
別府教会にいたアッリ神父が結核のため光の園に入院していた。熱意があり、
病気であっても活動したかったが、チマッティ神父からこの手紙が届いた。
わがカルロ神父さま、あなたの健康は神のみ手にあります。先生が言うには、もし医師の指導に従えば回復の可能性があります。あなたは、病院の担当司祭ではなく、病人です。医師の指示と病院の規則に従ってください。あなたの病気は伝染します。あちこち出歩いたりしてはいけません。主からこの犠牲を頼まれていますが、自分のときはまだ来ていないと言えます。神のみ心であれば、マリアさまが健康の回復を取り次いでくださるように祈りしましょう。あなたを抱きしめて祝福します。
184 第二次世界大戦開始
日誌は戦争開始をわずかな言葉で記している。無原罪の聖母の祝い中だった(日誌より 1941年12月8日)土井大司教と他の客はすぐに帰った。宮崎の場合、食事中だった教区長の態度は急に変わった。また敵国や中立国の外国人の一部が追放され、日本人会員は次々と兵役に呼ばれた。なお、チマッティ神父は、1943年9月まで三河島教
会の主任となり、教えるために神学校に通うようになった。
今日、マリアさまの無原罪の祝日。神学生数名の誓願更新があり、午後の楽しい行事の後、戦争開始のニュースが入った。合同写真を撮ってから皆散ってしまった。皆緊張している。落ち着きを保ち、祈るようにと呼びかけた。
(宮崎支部の日誌から)
今日、宮崎の小神学校の食事中、出口教区長は不適切な話をした。皆の
1941年 タシナリ神父と修練生たちと
前で「外国人は日本の精神がわからず、日本の風呂を使わない」と発言した。
場所と時期に合わない話で、皆に悪い印象を残した。
185 大和魂をもって励みなさい
(マルチノ秋元保夫神学生へ 1941年12月20日)
秋元神学生は神学1年で奉仕者になった。仲間が徴兵されたが、体が弱かったので彼は免除され、日本人会員としてサレジオ会の社団の理事長にされた。
主が、永遠にあなたの(次は彼への励ましの言葉。)遺産となるように。
神への奉仕と人々の救いのためなら、曲げられることがあっても折れることはない。
救いは、日の出る所から来る。
大和魂をもって務めを尽くすために励みなさい。
1942年
生き残りのための苦労
日本は、戦争のために総力を結集し、宗教団体も協力を要請された。1月2日、日本軍はマニラを、15日シンガポールを占領した。
6月5日、ミッドウェー海戦が始まり、8月7日に米軍はガダルカナル島に上陸。戦場は東南アジア全域に広がり、死傷者も多数出た。サレジオ会の神学生も巻き込まれた。
2月8日、全国教区長会議が開かれ、外国人宣教師に援助を出さないことを決めた。生活物資の配給制度も始まり、いっそう苦しい状態になった。
サレジオ会はいっそう困難になり、食料確保のために畑を耕し、あらゆる仕事をするようになった。
いちばん大きな苦しみは、出口教区長が宮崎の小神学校が不要と決めたこと。
サレジオ会と対立するようになり、チマッティ神父は2回だけ九州を訪れることを許されたが、会うことはできなかった。
3月21日、新司祭6人叙階されたこと、4月14日、4人が誓願を立てたことは慰めとなった。
* * *
186 希望をもって生きよう
(日誌より 1942年1月1日)
孤立したサレジオ会員にとって外国からも国内からも収入がなく、生きるために 新年の初め、完全に孤立の(仕事を探し求めるようになった。)状態。資金も底をついた。よりいっそう神のみ摂理を頼らないといけない状態である。そのためにあらゆる道を探してみたが、目上は簡単に助けることができるのに固く戸を閉ざしている。九州の宣教師たちは節約し、東京の私たちはどこか生きる道を探している。今、イタリア大使館、教皇庁使節、土井大司教、各修道会、外務省の寺崎氏に仕事がない
かと尋ねてみた。もしかしたら卒業生か、あるいは協力者会が助けてくださる。
でなければ、ドン・ボスコのように施しを願おう。きっと、務めを果たして清
貧を守れば、今まで助けてくださったように、主は今後も助けてくださるでしょう。信頼をもって進もう。
187 戦時中もできるだけのこと
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1942年1月)
チマッティ神父は、外国に出すことができなくても、この手紙のとおり戦中でも総長への手紙を書き続けた。戦後まとめて提出した。これらは、戦中の貴重な どこでも同じ状(記録となっている。)態ですが、私たちはキリスト教の国と違って、やむをえず宣教活動を停止せざるを得ません。人の心は別な所へ向いています。外国人の私たちの活動がさらに制限されて、生きるためにできるだけのことをやるしかありません。ドン・ボスコが言うとおり、「実行するために困難に出会うと、多くの修道者は手を引くが、これは大間違いだ。私たちは、虚栄や他人の言うことを気にしないで、完全なことができない場合、その一分だけでも満足して実行すること」。
これは日本のサレジオ会員のプログラムでもあります。おかげさまで今もいろいろな仕事を手がけてよい結果を得ています。神に感謝! 制限があっても仕事と祈りはやめません。
188 外国人宣教師は飾りであるか
(チェケッティ・アルバノ神父へ 1942年2月14日)
8日から教区長会議があり、出口教区長はチマッティ神父に会おうとしなかった。
気が小さい別府教会のチェケッティ神父は毎日のように手紙を書き、師は毎度答
私たちの(えていた。)出口教区長は顔を合わせずに手紙を書いただけ。残念です!
教皇庁使節は助けることができないと言い、教会当局を動かすために大砲を撃たないといけないようです。全体の雰囲気から見て、外国人は歓迎されない。日本には邦人の人材が必要です。将来のために、これが唯一の道。外国人は飾りとなります。以前のように重要な役割は果たせません。私たちはこのことを悟って、これに従って行動すべきです。
これは神がゆるされることですから、私たちはできる限り進むようにしましょう。
もちろん、書くのは簡単ですが、何ができるか、どこまで耐えられるかわかりません。最善を尽くしてより熱心に祈りましょう。今の緊急課題は、どこまで仕事が得られるかということです。 189 当局は宣教師を助けない
(教皇庁使節マレラ・パオロ大司教へ 1942年2月21日)
教区長会議の情報がカトリック新聞から師の手に入った。早速教皇大使に手 私たちの教(紙を書いた。)区長は直接に話す勇気がなく、教区長会議の決議を知ったのはカトリック新聞からです。結局、私たちは自分で生きる道を探し、見つからないなら否応でもあの世に行けばよいと言うことのようです。立派な慰め! 言うのは簡単です。幸いにサレジオ会員はこのような貧困に慣れています。貧困は
私たちの全財産です。驚きはしません。宣教活動に関係のない道を探しましょう。どうしようもないとき、あらゆる道を試してみます。
今、見放された者の保護者聖ヨセフの祝いを準備中です。私たちもその数に入れてくださるでしょう。閣下も私たちのためにお祈りください。
190 サレジオ会員の取るべき態度
(サレジオ会員へ 1942年3月24日)
ついに正式な教区長会議の文書が手に入り、サレジオ会員に以下の指示を出 皆さん(してきた。)、私たちと会の事業を存続させるためにいくつか基本的指針をお知らせします。
1.日本の教会当局が出す指示や勧めを忠実に守ること。今、神と教会の前で彼らが全責任者です。宮崎の教区長に対しても敬意を表してください。
2.言葉や行いで抵抗したり、訴えたり、いらだったりする印象を与えないこと。でなければすべては崩れてしまいます。
3.今は、制限する、縮小することは至上命令です。沈黙して目立たないようにし、可能な限りよいことを実行しましょう。
4.当局に対して礼儀正しくふるまい、神経と言葉をコントロールすること。あらゆる面で批判されることがないようにしましょう。
5.神のみ摂理や扶助者聖マリアの保護を信頼し、すべてを委ねましょう。縮小を要求されても、すべてにおいてよい修道者として自分の仕事を続けましょう。
191 海軍大将山本信次郎の恩
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1942年3月)
山本信次郎師の帰天が大きな悲しみとなった。カトリック・アクションの会長だった山本師はチマッティ神父によく協力し、田野教会に海の星のマリアの絵を贈呈し、福者ドン・ボスコ伝も印刷した。彼について総長に長い記事を書いた。 今回、海軍大将山本信次郎をご紹介します。キリスト信者、サレジオ会の協力者として模範的な方でした。1877年12月22日生まれ、東京の暁星学園で
学んで信仰に関心を抱き、1893年受洗しステファノの洗礼名を授けられました。
カトリック教会の難しい時代にその模範は多くの若者に影響しました。ローマの日本大使館所属として第一次世界大戦後の平和条約会議に参加し、皇太子の外国訪問に随行員として同行し、教皇レオ13世、ピオ10世、ベネディクト
15世、ピオ11世の謁見を受け、カトリック教会内外で広い範囲で活躍しました。
長く日本の青年会の会長を務め、1941年に病気にかかり、1942年2月28日に帰天しました。どんなときでも教会、祖国、正当な権威者に対して愛と忠誠を示し、謙虚さと犠牲の精神の模範としてたたえられています。
192 小神学校を救いたい
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1942年6月10日)
出口教区長はチマッティ神父が大変な苦労をして建てた宮崎の小神学校が不要と考え、売却する計画を立てた。これに対してサレジオ会は賛成できないと伝 神父(えた。)さま、私は教区長に、宮崎の小神学校をサレジオ会の事業として認めてくださるように提案し、今その返事を待っています。
教区長は、閉鎖したいと言っています。私たちは、縮小か移転ならよいが、修道会の召し出しが育つ場を閉鎖することに絶対反対だと答えました。神のみ摂理に信頼して、召し出しのために働くことが理解できない彼は、「皆さんは貧しい、お金がないから閉めなさい!」と言いました。会員一同は「絶対反対です!」と答えました。天国も震えたことでしょう!
ドン・ボスコの精神が日本の子らの中に生きていることを、私は自慢しています。
193 「鉄砲の歌」と「使節帰る」
(サレジオ会員へ 1942年10月28日)
10月後半、チマッティ神父は鉄砲伝来記念のために鹿児島県から招かれて九州を訪れた。宮崎で天正遣欧少年使節の一人、伊藤マンショの記念も祝い、
九州に行って、ほとん(会員に会うこともできた。)どすべての会員に会うことができました。皆、物心両
面の大変な状況の中で働いています。その犠牲は神から大いに報いられるでしょう。きっとそうなさるでしょう。私たちは、できる限り、小さなことも大きなことも天国のため、霊魂の救いのため自分の務めを果たしましょう。この旅行中、鹿児島では「鉄砲の歌」、宮崎では「使節帰る」というオペレッタを上演して記念行事に参加しました。神の恵みにふさわしいものとなるように感謝しましょう。
194 「サレジオ」社団名変更
(印刷したハガキ 1942年12月2日)
文部省が「サレジオ神学院」や社団の「サレジオ」の名を変更するように指示したので、サレジオ会は聖ベネディクトの「ora et labora 祈りと仕事」に因んで「日本天主公教祈祷勤労奉仕会員社団」、神学院は「住吉学院」とした。理事長は秋元保夫神学生、理事は若いサレジオ会員がなった。以下の文
出身者・協力者へ。大東亜聖戦の初夏を(書は管区長名だが、彼が書いたのではない。)迎えまして、わが日本におけるサレジオ学院の出身者、協力者でおられる貴堂益々御清栄の事と慶賀奉ります。 わが日本におけるサレジオ会が「日本天主公教祈祷勤労奉仕会員社団」として文部省より認可せられ、今やその理事5名(秋元、牧、西村、宮原、岩下)も皆邦人サレジオ会員と成るに至りました。今後日本におけるサレジオ会事業に関する事項に対しての御問合せはすべて新社団の事務所なる東京都板橋区田中町21番地「住吉学院」になされん事を。
管区長
1943年
戦火急変の中
1943年の間、第二次世界大戦の流れが大きく変わった。2月1日、日本軍はガダルカナル島で大敗し、何万人も戦死した。同2月に、ドイツ軍とイタリア軍もロシアのスターリングラードで大敗した。6月に連合軍が南イタリアに上陸し、9月
8日イタリアは降伏した。
全国に緊迫が広がり、外国人に対する締め付けが厳しくなり、いっそう制限が加えられるようになったのである。
6月25日、日本に学徒戦時動員体制確立要綱の決定が発表された。中学校以上の学生や生徒も徴兵され、工場での労働のために徴用された。いろいろな教育施設も軍のために没収されるようになり、宮崎の出口一太郎教区長は外国人を追い出すために小神学校を売却しようとした。
9月8日以降イタリアが降伏してからイタリア人が1カ月軟禁され、教区長もいっそう過激な態度を取った。
12月24日、ついにサレジオ会は小神学校を閉鎖したが、その中に住むことにした。
* * *
195 サレジオ会の墓を購入
(サレジオ会員へ 1943年3月9日)
戦時中、サレジオ会に墓地が必要となった。そのときチマッティ神父は、現在、
府中のカトリック墓地にあるサレジオ会の墓場を購入することにした。
先日神に召された志願者パウロ戸村正一の永遠の安息のために祈りましょう。
その最期はまことに聖人のようでした。皆は、その忍耐、神のみ心に身をささげる姿勢を見て感心しました。死ぬ前に誓願を立てました。
今日3月10日、東京カトリック墓地にサレジオ会のための用地を購入し契約します。多くの会員の切実な願いでした。修道会専用の区域にあり、戸村正一が最初ですが、ピアチェンツァ神父とフィリッパ神学生のご遺骨もそこに移動させます。次は、誰でしょうか。その人のために祈りましょう。
196 「神が助けてくれるから、自分も協力しなさい」
(リカルドーネ・ピエトロ神父総長へ 1943年3月)
当時、配給だけでは足りなくなってきたので、東京でも宮崎でも運動場を畑に このごろ(してきた。)、各支部は、市や教会当局の要請に従ってできるだけ土地を耕し、神学生も運動場に野菜とジャガイモを植えています。主はその仕事を祝福し、ジャガイモ、トマト、サラダ菜、ほうれん草、キャベツ、かぼちゃなどが立派にできます。新聞でも評判です。人々は「カトリックの神さまはすごいね」と言っています。この野菜をもって近所も助けています。
今月は古いピアノを売って牛を買い、共同体のための牛乳を得ています。やはり、ことわざのとおり、「詩や音楽だけでは生きられない」し、また「日常のパンをお与えください」と祈って「神が助けてくれるから協力しなさい
Aiutati ché Dio t’ aiuta」と言われるとおり一生懸命に働いています。
197 神に召された最初の日本人会員
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1943年4月)
宮崎県出身の立石此吉が兵役中戦場で負傷し結核にかかり、松本の病院で 愛する人の死が悲しいです。最初の日本人会員(神に召された。チマッティ神父はその伝記を書いた。)修道士グレゴリオ立石此吉は、4月13日神に召されました。彼は、修道生活の模範で見習うべき立派なサレジオ会員でした。3年間戦場で兵役を果たしてから、神が忠実な僕に約束されておられる報いを受けました。私たちは、その最期を看取ることを許されませんでした。小さいときに自分の子をマリアさまにささげたお母さんが最期まで付き添ってきました。彼は秘跡を受け、誓願を更新し、サレジオ会の発展と神の国の実現のために命を神にささげました。
198 私たちはいつでもサレジオ会宣教師
(サレジオ会員へ 1943年8月16日)
必要によりあらゆる仕事を行っても、サレジオ会宣教師であることを忘れない。 兄弟の皆さん、今、生きるためにまた事業を維持するためにあらゆる仕事をやらざるを得ませんが、委ねられた人々の救いのための霊的な仕事を忘れないようにしましょう。私たちはいつまでも宣教師、サレジオ会の宣教師です。ドン・ボスコが言うとおり、10まで許されれば10までやる。1だけ許されるならその1を果たす。どの状況にあっても、教会や当局の要求に従って犠牲をもって善を行いましょう。何よりも、心を込めて神のみ手に身を委ね、何が起ころうとも神の導きに従うようにしましょう。
199 イタリアが降伏したとき
9月8日イタリアが降伏した。イタリア人は皆自宅軟禁となったが、一カ月で済(日誌より 1943年9月9日)
イタリアの政治急変により軟禁され、互いにま(んだ。チマッティ神父の日誌にこう記されている。)た外部との連絡が禁止された。
普通なら私有財産が没収されるが、修道者、特にサレジオ会員の場合、貧困以外私有財産はなかった。孤立した生活も修道者にとって難しくないはずである。残念なのは、務めが果たせないことだけ。神さまが代わりになさるでしょう。監視と取り調べは親切だった。信者に対する公の儀式が許され、扶助者聖母会(現サレジアン・シスターズ)のための毎日のミサも行った。
九州の宣教師はより厳しく扱われているようである。
社団の理事が日本人なので、所有物は安全である。職業学校の校長も日本人である。
日本人会員は本当に兄弟のようにふるまって仕事を続けた。教会の委員、カテキスタ、信者たちも皆協力してくれた。
200 アッリ神父が召される
(チェケッティ・アルバノ神父へ 1943年10月23日)
アッリ神父が神に召されたという知らせが別府教会から届いた。チマッティ神父は葬儀への参加を許されなかった。その後その伝記を書いた。
神父さま、カルロ・アッリ神父の死去お悔やみ申し上げます。
その美しい魂のために祈りをささげますが、残念ながら葬儀への参加は許されませんでした。
最期の病気の経過の情報ありがとうございます。皆心を合わせています。
主治医に手紙を書きます。看病してくださった女性にも感謝してください。
201 宮崎の小神学校閉鎖
ついに宮崎の小神学校が閉鎖され、チマッティ神父は、その中に養成を受け(日誌より 1943年12月24日) た合計105名の名簿を残し、その中に中退者、戦死者、サレジオ会員、また教区や他の修道会に入った者が記されている。閉鎖後、サレジオ会に入りたい者は東京に送られた。12月25日教区長は宮崎支部のサレジオ会司祭に対して聖
務停止命令を出した。チマッティ神父に知らせなかった。
今日、宮崎で小神学校の先生たちの別れが行われたことは、召し出しのための養成学校の死を意味する。それは、日本の召し出しに対する、致命的な無理解の結果である。私たちは、神と教会の前でその重大な責任を負うことはない。
202 一年の悲しい決算
(日誌より 1943年12月31日)
一年の日誌の締めくくりは悲しい総決算である。それでも神への感謝で終わる。 多くの出来事があった一年。アッリ神父、立石修道士、戸村志願者が神に召され、多くの日本人会員は兵役中、西村神学生はマニラへ、職業学校の生徒が工場で働いている。小神学校の召し出しを救うために戦ってきた。外国人の仕事が減っても、主は仕事を欠かせなかった。日本の貧しいサレジオ会員のための必要な糧もあった、多くの霊的な慰めもあった。神に感謝!
主よ、あわれんでください。私たちはあなたをたたえます。あなたを愛し、あなたと共に、あなたのために、あなたにおいて働くように努めます。
来年の目標は「祈り、活動、犠牲」とします。
1944年
近づいてくる危機のさなかで
この1年、戦争が激化し、太平洋での日本軍が窮境に追い込まれた。
2月1日、米軍がマーシャル諸島に上陸し、2月16日九州の空襲が始まった。
2月25日、日本政府が決戦非常措置要綱を発表し、3月30日大都市の学童集団疎開を決定した。
10月10日米軍の機動部隊が沖縄攻撃を始めた。
11月24日最初の東京空襲。日本国内は最悪に備えた。
ヨーロッパで連合軍がフランスに上陸しパリに入り、イタリアでは内戦が泥沼状態になった。
サレジオ会員は閉鎖された宮崎小神学校の建物の一部を使用し、残りは県が借り上げた。
チマッティ神父は2月に一度九州を訪れることを許された。教区長に連絡したが会ってくれなかった。サレジオ会員の聖務停止はそのまま一年続いた。
東京大神学校の大部分神学生が徴兵されたので機能しなくなった。4月からサレジオ会は独自の神学院を開始し、9月にチマッティ神父が三河島から神学院に戻った。
11月24日に東京で空襲が始まり、神学生を疎開させる場所を探し始めた。
* * *
203 新年を迎える心構え
(日誌より 正月)
チマッティ神父は日誌に新年の見通しを書いた。宮崎の会員の聖務停止を聞いて、皆それに驚いた。教皇庁使節、東京大司教、大阪の司教に相談した。
皆によい年を祈るが、多くの十字架が予想される。神のみ心が行われますように! 宮崎の十字架が続くのはなぜであろうか。話し合えば簡単なのに!
1944年1月
小神学校が閉鎖されたから問題が終わったはずだ。
残ってくれる者の召し出しを救うために志願院を東京に移す。
204 それでも困難にくじけない
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1944年2月6日)
2月1日から8日まで一度だけ九州を訪れる許可を得た。出口教区長との問題を片づけるためだったが、会ってくれなかった。都城教会を引き上げようとしたベ お目にかかる恵みを頂なくて残念(ルナルディ神父に留まるように願った。)。み心のままに! 神父さまが精神的に疲れていることがよくわかります。人の救いのために働きたい人にとって殉教のときです。私たちは邦人の聖職者によい手本を示すためにも自分の場所に留まりましょう。外部の仕事が減って、内的な仕事に力を入れましょう。私は、仕事が足りない会員たちに何かを翻訳するように勧めます。将来出版できるため、また邦人会員に役立つためです。今、東京で志願院を始めています。8 名います。今日、その保護聖人、日本の殉教者の祝い。停止された事業が始まった日を思い起こします。いつまでこの状態が続くのでしょうか。日本の教会、日本のサレジオ会のためになるようにすべてをささげましょう。
205 時間を有効に使う
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年2月)
本部に送れない手紙は、将来の人に戦時中の宣教師たちの状況を伝えるためである。このときにチマッティ神父は「一年間の毎日の黙想」という資料を準備 神父(した。)さま、日本の子らはできる限り宣教活動を続け、空いている時間を有効に研究に充てています。これによって各分野の専門家と接し、友好関係を増やしています。 マレガ神父は大分のキリシタン関係の文書を多く発見し、印刷する予定です。21 ロマーニ神父やタシナリ神父も同じ分野でそうしています。バルバロ神父は数十冊の出版物を出し、特に福音書の注解が注目されています。この世界的混乱が終わるとき、力を蓄えて生き残る人々は宣教のために働けるでしょう。今は、沈黙と希望のうちに備えるときです。悪をたくらんで全力を尽くす人がいるこのとき、善のために働く私たちは何もしないでいるわけではありません。私たちも精一杯働き、昨日も、今日も、いつまでも生きておられるイエス・キリストのものでありたいのです。
206 新司祭の叙階にあたって
(マルチノ秋元保夫神父へ 1944年3月20日)
マルチノ秋元保夫の叙階式が行われた。サレジオ会来日から18年経って、初
めて邦人司祭が生まれた歴史的な日。そのお祝いの言葉。
親愛なるマルチノ神父さま、的は目の前にある。
考え、言葉、行いにおいて
完徳を目指す仕事を通して
完全に神のみ心に自分を委ね
いっそうイエスに近づくようにしてください。
あなたのヴィンチェンツォ・チマッティ神父
21 マレガ神父は1942年「豊後切支丹資料、1946年「続・豊後切支丹資料」を出版した。
207 サレジオ会の最初の邦人司祭
(リカルドーネ・ピエトロ神父総長へ 1944年3月末)
この手紙から最初の司祭叙階、また6人が誓願を立てたことの喜びが伺われる。
残念ながら終生誓願の牧神学生は再度徴兵され戦死した。
今月は、25日に最初の邦人司祭を含む3人の司祭叙階、また26日に6人が誓願を立てたことは最高の慰めです。敬虔な信者であるマルチノ秋元神父のご両親と姉妹たちが叙階式に参加し、長男を司祭にしてくださった神さまに感謝をささげました。日本の社会を知っている人なら、いかにこれは大きな犠牲であるかわかるでしょう。息子からご聖体を頂くご両親と家族の喜びに満ちた姿を見て、私たちは感激しました。この機会のためにデルコル神学生が歌を作詞し、私はそれを作曲しました。
26日の初ミサの喜びに合わせて、兵役から戻ってきた牧神学生の終生誓願22この恵みのために心から神に感と6人の修練者の初誓願式が行われました。
謝いたします! ドン・ボスコの旗印に従う日本人会員の小さなグループが次第に膨らみます。困難や犠牲の中で育った召し出しはより明るい未来を期待させます。神がその栄光のために彼らを見守り、増やしてくださいますように!
208 サレジオ神学院の誕生
このとき、練馬サレジオ神学院が誕生した。それまで神学生は石神井の東京(日誌より 1944年3月31日)大神学校に通っていたが、戦争のため学生が不足し閉鎖された。サレジオ会は 今日、東京教区の大神学院の院長(独自で神学と哲学を教えることにした。)が来て、大神学校の人数が少なくなったのでサレジオ会員も通えなくなると告げてきた。これで自分たちの所で勉強をせざるを得ないことになる。これによって多くの問題も解決される。通う危険も23 なくなるし、靴も節約できる、また養成もよりよくできるのであろう。
22 この時に初誓願を立てたのは阿部英雄、金子賢之介、山頭源太郎、赤波江博、池田貞夫、岩波倭雄。
23 戦後、1950年に神学校は調布に移転した。
209 院長になったタシナリ神父へ
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1944年4月5日)
タシナリ神父は新しい神学院の院長に任命された。次は、励ましの手紙である。
神父さま、長く祈って考えて相談した結果、神の栄光と皆の利益のために私たちの神学院(神学生、哲学生、志願者とその担当者)の院長に任命します。重い十字架を肩に載せることになりますが、示された神のみ心によってよい実を結び、功徳を積むことにもなるでしょう。恐れることはない。会員も神学生も神父さまを支持し、チマッティ神父もすべてにおいて助けます。
物質的な問題は気にしないでください。主が助けてくださるでしょう。あなたは霊的な面を考えなさい。基本は、会憲、会則、サレジオ会の伝統です。それを通してドン・ボスコが私たちのうちに、私たちの間に生きるようになります。復活祭に際してもっとよいプレゼントをしたかったが、主が喜ばれるこれを受け取ってください。ペトロのように、「主よ、お言葉のとおり網を降ろします」と言いなさい。
210 気を落とさずに進もう
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1944年4月8日)
都城は東京からずいぶん遠い。孤独なベルナルディ神父を励ます必要があった。
わがアンジェロ神父さま、その犠牲がわかります。仕事がないことはいちばん辛いのです! 辛くても祈りながらできるだけのことをやれば、主は喜び、ときがくれば報いてくださるでしょう。お母さんのことを心配せずに扶助者聖マリアに委ねましょう。私は人々にいつもそう言います。できるだけのことをやれば、主はよいほうを図ってくださいます。運命主義者でない私を信じてください。起こることは、ためになるから主がおゆるしになる。自分の都合に合わせようと思っても、主が望まれるままになります。よいお父さんである主が定めてくださることを受け入れて、元気よく進むようにしましょう。快活で、いつも善意をもって働き、恐れずによいと思うことを実行しましょう。
211 戦死した教え子を思う
宮崎県高鍋出身のタルチジオ甲斐成大が、1943年11月1日フィリピンで戦死(日誌より 1944年4月30日)した知らせが届いた。チマッティ神父は大きな期待をかけていたこの教え子の伝
今日、タル(記を書いた。)チジオ甲斐神学生が死去した悲しい知らせがその両親から届いた。
主が与え、主がお取りくださった。み名が祝されますように! わが主よ、あなたは美しい花を摘み、実りのないこの役立たない私を、この枯れた枝をお
残しになります。イエスさまよ、群れをお残しになり、羊飼いをお取りください!
タルチジオ甲斐は、素直で正しい、偽りのない、すべてにおいて神のみ心24だった。人間的に言って大きな損失である。
と一致していた本物のタルチジオみ心が行われますように!
212 チマッティ神父、神学院に戻る
3年間三河島教会の主任を務めたチマッティ神父は、タッサン神父に任務を譲(日誌より 1944年9月15日)
り、練馬の神学院に移動した。これからは、神学院がその住まいになる。
今日、私は練馬の神学院に移ってきた。会員も教会当局もそのことを願っていた。もし軟禁されるなら、私がここにいるのはいろいろな意味で役立つ、と
言う。私としては、戦場を退いた兵隊のような気がするが、後を継ぐ人がよりよくやるから、三河島の信者にとって有益である。日本人は若い人の活発さ、変化のある指導を好む。私は秤で量られて、あらゆる意味で不足していることがわかった。今回も主に向かって、「主よ、辱めてくださったことは、私にとってよいことです」と歌うべきだ。
主は聖人になるための最後の機会を与えてくださる。神学院の仕事に戻って、私にとっては前よりやりやすい。学生にも役立つであろう。
24 若い聖タルチジオは、ローマの迫害の時に御聖体を守るために殉教した。
1944年 練馬に移ったチマッティ神父
213 戦時中も音楽を活用する
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年10月)
チマッティ神父がそばにいれば音楽がある。当時の神学院でもそうだった。若者のコーラスが少なかった戦時中、サレジオ神学院のコーラスが有名だった。
戦時中のいちばん厳しいときにサレジオ神学院のコーラスが東京でいちばん有名でした。カテドラルや他の教会で葬儀と荘厳ミサ、聖週間、クリスマス、復活祭、特にそれらの式がラジオで放送されるとき、私たちが招待されます。放送局は機械を持ち込み、レコードを録音し、その後放送します。サレジオ会員にとって名誉、宣伝、収入源となり、日本人の心とつなぐ機会にもなるのです。皆芸術の喜びを味わい、より優れた演出ができるようになります。私が作曲し、マルジャリア神父が歌った童謡を録音したときを思い出します。「ストップ! やり直し!」と叫ばれました。これまで音楽を教えてきた長い年月よりも多くを学ぶ機会となりました。自分は歌手だと思い込む会員が舞台に上ります。
見栄のためであってもよい目的だから恐れることはありません。「さあ、全国民が聞くんだよ」と言えば緊張します。試しレコードを聞かせると「ストップ! やり直しだ!」となれば、「歌手の生活はきついなあ」と言って気まぐれの人は消えていきます。これにより次第にすばらしい演奏ができるようになるのです。
214 オラトリオ「よき牧者 Pastor bonus」と「一年の黙想」
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年11月)
タシナリ院長の祝いのためにチマッティ神父は新しいオラトリオと黙想の原稿をプレゼントした。両方の原本が資料館に保存されている。黙想の分量が多く、
サレジオ会の伝統には、会員(一部だけデジタル化されている。)の霊名を祝う習慣があり、その日に祈り、祝いの言葉、またその人の特徴を強調する何かを演ずるようにします。これは家庭的な精神を培うために役立ちます。院長の場合、特別な形で祝います。今
年は、デルコル神学生が作詞し、私は作曲した福音書によるラテン語のオラトリオ「よき牧者 Pastor bonus」をソロとコーラスで上演しました。そしてプレゼントとして私がまとめた聖フランシスコ・サレジオとドン・ボスコの著書に基づく「一年間のためのサレジオ会の黙想」を院長と神学生に渡した。それは、一度体験してから、ドン・ボスコに近づくため、サレジオ会に公にしてもよいと思います。
215 聖母マリアに教会建設を約束する
11月に東京空襲が始まった。毎度サイレンが鳴り、皆防空壕に入る。チマッ(日誌より 1944年12月)ティ神父だけ外に残ってロザリオを唱える。そのとき、聖母マリアの名前で教会を 12月3日 空襲の爆弾(建てるという約束をした。)が学校の左右に落ちたが、マリアさまは明らかに守ってくださった。神に感謝!
12月5日 今日、無原罪の聖母祭の前に防空壕を作るために皆忙しい。短い話の後、掘った防空壕を祝福した。近ごろの出来事のために皆神経がいらだつ。疎開する場所を探す提案が出た。当局にも相談したが、外国人であり、食料調達も困難があると言われた。
12月8日 マリアさま万歳! 昨夜2時、また昼12時警報が鳴ったが、予定どおり朝のミサから夕食までプログラムを成し遂げた。私は、無原罪・扶助者聖マリアをたたえるために教会を建てることを約束した。25マリアよ、私たちの体と心、私たちの事業を守り、遠い方々もお守りださい。
216 珍しいマリアへのソナタ
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1944年12月)
この手紙では、聖母マリアをたたえるために作曲した変わったソナタを紹介する。
先日上演したマリアさまをたたえるカンタータは、変わった出来事から生まれてきたものです。というのは、紀元2600年のとき、私は日本の神話と歴史を基にして「国の肇を讃えて」というピアノソナタを作曲し、NHKのラジオが全国へそれを放送し、高く評価されました。私は、宣教師としてその出来事を祝う国民に心を合わせるために作ったのですが、ある人は、私が神話に賛成してそれをたたえたと誤解しているのです。
そのため今回、私はマリアさまの名でそのソナタを聖なるものにしました。コーラス、ソリスト、ピアノ、ハルモニウム、バイオリンのためにその3部を編曲し、マリアのカンタータとなったのです。わが詩人デルコル神学生は、私の趣旨をよく理解して立派に作詞してくれました。そして、ラジオの放送局が来てレコードを録音し、どこかで放送したと思います。
マリアさま万歳! 私たちにも万歳! 私自身にもおめでとう、と言いたくなります。
217 危機の中の幸い
困窮の中のみ摂理の助けが届いた。これで疎開の場所を手に入れる資金がで(日誌より 12月9日)きた。なお、このころNHKで多くの録音ができた。見つけたら貴重なものである。
次々と警戒警報が鳴る。周りに火災も相次ぐ。私たちは無事である。
今日、上海から寄付金が届いた。どなたがみ摂理の使者であるか不明だ。
25 その教会は、1956年に建てられた下井草教会である。
神に感謝!
12月17日午後2時、ラジオ局の担当者が来て、クリスマスのためのレコードを録音に来た。ラテン語とイタリア語の賛美歌の他に、1940年、紀元2600年のために作曲したピアノとバイオリンのソナタを録音し、すべて立派にできた。
神に感謝!
218 一年の感謝
(日誌より 1944年12月31日)
今年も日誌は祈りと感謝で終わる。チマッティ神父の常の心であった。
疎開する場所を探しているところである。戦争の不安の中、今年も終わる。主よ、戦争から私たちを解放してください。すべてのために感謝いたします。無に等しいこの私のことを思えば、これほどの恵みに値しません。わが主イエスよ、私のためでなく、私の子らのためです! これからはいっそう働くようにします。み心が行われますようにすべてを委ねます。キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに! マリアのマントの下に、またドン・ボスコの保護の下に!
1945年
敗戦と再建の始まり
この1年、日本国民にとって最悪の年。日本軍が次々と大敗し、大都市への無差別爆撃が行われた。
3月9-10日、東京大空襲
4月1日、米軍が沖縄本島上陸。およそ19万人の死者。都市部の児童たちが地方へ疎開。
4月下旬、サレジオ神学生が野尻湖へ疎開。チマッティ神父は東京に残る。
5月7日、ドイツ軍が無条件降伏。
7月、九州の宣教師たちが熊本県栃木温泉に監禁。
7月17日、ポツダム会議で世界の新体制が決まる。
8月6日、広島の原爆、8日、ソ連軍が日本に宣戦布告、9日、長崎の原爆。
8月14日、御前会議で日本政府がポツダム宣言を受諾。
8月15日、天皇陛下の玉音放送があり、連合軍へ無条件降伏。チマッティ神父は東京に残っていた。終戦の時点、別府を除いて、九州の事業がほとんど全壊。すべてを再建する課題に直面する。出口神父に変わって、福岡の深堀司教が宮崎・大分の教区長代行になる。
10月7日、チマッティ神父、九州を訪れることができた。
11月末、東京で全国教区長会議に元教区長も参加。教会の新方針が決まる。
12月28日、国会で以前の宗教団体法を廃止し、宗教法人令が公布施行され、宣教の新時代が始まる。
* * *
219 新年の挨拶
(サレジオ会員へ 1944年12月27日)
これは年末に出した新年挨拶。戦時中の雰囲気が漂っている。
新年おめでとう! 皆さんにあらゆる意味で幸せな年でありますように! そのためにも私は毎日の祈りと犠牲を主にささげます。他にプレゼントはなく、代わりに私自身、私のできること、主のお望みであれば命も差し上げます。
「新しい年、新しい生活!」というとおり、今置かれている状況の中、もし主がお召しになるならば、真の新しい生活が始められる状態でいるようにしましょう。東京の場合、これほどの「よき死の練習」を真剣に行ったことはありません。これも神の恵み! 神のみ心であれば、その栄光のため、私たち自身、委ねられた人々の救いのため、より長く働けるように残してくださることを祈ります。ドン・ボスコが言うとおり、私たちの命はよいお父さんであられる主のみ手にあります。いつまで生きるか主はご存じです。天国に入るためにいつ死ぬかを知る必要はありません。よく準備することだけが大切です。
220 避雷針になる聖母マリア
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1945年1月29日)
この手紙に出てくる聖母マリアの額は、現在、下井草教会の後ろの壁に飾られ 戦争の(ている。)状況はいっそう深刻になっています。危険が迫ってきています。そのため私たちは森の中に二つの「避雷針」を取り付けることにしました。
一つは、掘った防空壕の近くにかけた扶助者聖マリアの額です。もう一つは、職業学校の上に取り付けたマリアさまのご像です。荘厳にそれらを祝福し、危険なときにそれに目を向けて祈ることにしています。
221 「パンと仕事と天国」
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1945年2月)
東京の学徒が疎開され、サレジオ会も神学生のために疎開場所を探していた。
日本に戦争が迫り、大都会、特に東京から住民が疎開し、扶助者聖母会のシスターたちも富士山麓の山中湖に避難しました。私たちも最悪に備えて神学生が勉強を続け、宣教に備えるように安全な場所を探しています。聖ヨセフの取り次ぎを願って神のみ摂理が助けてくださることを確信しています。
大都会の子どもたちは疎開し、若者と元気な人は兵役中、または工場で勤労奉仕しています。私たちは彼らのために祈り、手紙で連絡を保ち、必要な物資や本を送り、入院中の者をお見舞いしています。演劇、コンサートなどで慰めるようにもします。ドン・ボスコがサレジオ会員に約束した「パンと仕事と天国」のとおり、恩人の協力によりパンと仕事は不足しません。天国は、お望みのときに主がくださるでしょう。
222 三つの仕事
(野尻湖のサレジオの神学生へ 1945年5月5日)
ついに長野県の野尻湖に疎開場所が手に入り、神学生がそこに疎開した。チマッティ神父は東京に残り、院長であるタシナリ神父を通して彼らに次の目標を与
皆さ(えた。)ん、特に二つのことを確認したい。
1.マリアの月にあたり、マリアを通して、マリアと共に思い、言葉、行いをイエスさまにささげること。
2.仕事、仕事、仕事 という目標です。
まず、心のための仕事。中途半端なサレジオ会員なら、仕事の実りは半分以下になる。しっかりした一貫性のあるサレジオ会員なら、ドン・ボスコのように広く深く働くことができるようになります。
次は、学ぶという仕事。今、その手段が不足していますが、人類の学問の土台は本がなかった時代に置かれました。毎日、長上との付き合いを通して学んでください。彼らに自分の疑問をぶつけてください。形式的な授業よりも、自然な学び方が効果的です。
三番目は、生活を支える仕事。喜んで参加しましょう。怠け者、つぶやく人がいないように。皆快く、力に応じて協力しましょう。
私は「疎開しないか」とよく聞かますが、まず、学校と三河島教会に問題がないようにしたいのです。
死なないなら、後でそのことを考えましょう。死ぬのなら、よい死を遂げるように私のためにお祈りください。
223 どんなときでも「み心のままに!」
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1945年6月2日)
この手紙は心配していた野尻湖にいる神学生に宛てられた。チマッティ神父の 最後の空襲で横浜の教会、(信仰がよく現れる手紙である。 )大森の教会、川崎の教会も「かつてあったもの」になりました。
私たちは神の手にあるので、心配せずに祈りましょう。自分の務めを果たせば、主は守ってくださるでしょう(もちろん、自分の協力が必要です!)。これ
は、予言ではなく現実です。たとえ、物質面で自分の思ったとおりにいかなくても、皆と同じようになっても、自分や全体のためにそれでよいのです。自
分が望むとおりでなくても、主は父です。次のとおり祈るように勧めてください。
「主よ、み心のままに!」神さまに自分の望みを言わなくてよい。「しかし」「もしも」という言葉は要りません。「主よ、み心のままに!」だけ。自分にとっても、皆にとってもそれでよい。祈るときに信仰をもってイエスを通して祈れば、何でも得られる。残念ながら、私たちが祈るとき、自分の小さな利益を願う(大したことでもないのに)、そしていちばん大事なことを願わないか、あるいははっきりと言わない。しかし、聖書には、具体的なこと(日常のパン、罪のゆるし、悪からの救い)の前に、「み心が行われますように!」と書いてあります。
224 窮乏の中にも神に感謝!
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1945年7月23日)
戦争の終わりが近づいていた。野尻湖にも生活物資の不足が極限に達した。日本人会員が余る物を運んでいたが、汽車の切符が手に入らず、途中でなくして 切符2枚が手に(しまうこともあった。)入った。できるだけ物を送ります。神に感謝! ところが、私たちが助けたくても、頼まれた物を送れないことがある。物がない、また送る方法がないのです。私たちが皆さんに意地悪をするとは、とんでもない! 互いに愛徳と忍耐があれば、主は祝福してくださるでしょう。 ある人は、東京の神学院に物が有り余っていると思っている。そうではない! 以前は苦労して手に入った物も、今はお金を高く払っても手に入らない。今、人数分の配給しかなく、三河島の福祉事業さえもそうです。貧しい人はとても苦しんでいます。私たちもその数に入っている。当然、影響を感じていますが、我慢せざるをえません。神のみ心としてこれを受け入れて、ささげるようにしましょう。
225 思い込みの病人の扱い
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1945年7月31日)
野尻湖の異常事態の中、精神的な病気にかかる人もいた。その精神的な病
悩んでいるMさんについて、あまり心配要りません(気の扱いについてチマッティ神父は以下のように勧めた。)。思い込みによる病は、他人に理解されないが、本人にとっては大変苦しい。これに対して、浮かんでくる心配を忘れさせるために同調を示しながらも、心配を見せないで仕事や人との交わりを勧め、明るく、落ち着いた雰囲気に生きることが必要です。
F神父の場合は、あまり熱を測らないように勧めなさい。その行動は病気よりも重い病気だ。測ることを禁じた医師からもそう言われた。ここでも、励ますこと、明るく、親切に付き合うことが必要です。目に見えない病気だから他人から信じてもらえない、否定されることは本人にとって大変苦しみです。
226 終戦の日
(日誌より 1945年8月15日)
今日、黙想会の締めくく( ついに終戦の日が来た。)り、マリアさまの祝いに、平和のプレゼント。神をたたえよう、神に感謝! これ以上のプレゼントがあろうか。主よ、私の願いはご存じです。国民の悲しみに心を合わせながら、天皇陛下が国民をよい方向へ導いてくださいますように! 戦争開始は12月8日無原罪の聖母の祭日、終戦は8月15日聖母被昇天の祭日、天の母の日。そして、ドン・ボスコの誕生の前日。神に感謝!
これから神の栄光のため、国のため、霊魂の救いのために再建、拡張、強化の仕事を手がけましょう。
227 再建の基本方針
(サレジオ会員へ 1945年9月2日)
戦争が終わっても、動けない状態だった。交通網が破壊され、家に帰る帰国者があふれ、数カ月混沌した状況が続いた。チマッティ神父が九州を訪れたの 最近の出来事によって喜びで満た(は10月7日だった。大変な旅だった。)されていますが、これから人材と事業を点検し、全力投球で新しい情熱をもって再建に着手しましょう。言葉より実行、過去を嘆くより現実に立ち向かい、未来を夢見るよりドン・ボスコの精神に従って神の栄光と霊魂の救いのために力を合わせましょう。個人としては、会憲を順守すること、事業に関しては各自自分の立場で落ち着いて、明るい気持ちで仕事に取り組むこと。
まず、信徒の信仰生活の再建。信仰教育とその実践を強調し、治すべき状態を正し、特に見放された若者のために愛と献身を尽くして教会学校を再建すること。
熊本の栃木温泉にいる宣教師たちは10日ごろ帰れるようです。皆元気ですが、弱っているでしょう。必要な休息と栄養を取りましょう。私はできるだけ協力します。この試練をおゆるしになった主は私たちを見放すことはありません。世の中の状態を考えれば、主は不純なことから清めてくださったのです。神に感謝! み手からすべてを受け入れて生活を改善し、互いの協力を深め、み名によりあらゆる困難に打ち勝ち、善意をもって生きるようにしましょう。
228 田中幸太郎の話
(サレジオ会員へ 1945年12月3日)
11月末、全国教区長会議が開催され、戦前の元教区長たちも招かれた。そこで教会の基本的方針が決められた。チマッティ神父は、カトリック信者で、当時文部省学校教育局長であった田中幸太郎の教会再建のための言葉を記録した。
全国教区長会議は、明るい穏やかな雰囲気、相互理解にあふれた会議でした。田中幸太郎氏は次のように述べました。
1945年 野尻湖
悲しい戦時中、信者たちは特に祈りをもって宣教師たちのそばにいました。極端な国粋主義に導かれた日本は、カトリック教会にのみ正しい道を示す力があることを理解できず、今のような結果になりました。今から、キリスト教の精神を培うためにあらゆる手段を活用し、カトリックの教えを広めるようにすべきです。成功するために戦いも必要でしょうが、驚くことはありません。教会は、どこでも、どんな時代でも、いつもそうでした。今は日本人も外国人も団結し、それぞれの可能性を活かすべきです。外国人は長い経験に基づくキリスト教の精神をもっているが、日本の教会の歴史は浅い。私たち日本人は、宣教師たちが日本のためになさったことを、決して、忘れることはありません。国民性の立場からではなく、カトリックの立場から物事を見るべきです。
1946年〜1947年4月戦後の再建
日本の民主主義が誕生。
まず、1945年12月31日から学校で修身・日本史・地理の授業が停止された。
1946年1月1日天皇の「人間宣言」。そして、宗教団体は「教団」から「宗教法人」に変わった。
1946年から1947年4月までチマッティ神父は宮崎に籍を移し、必要のある所へ駆けつけ、事業再建を指導した。その期間中、中津と東京に新しい養護施設、宮崎に日向学院中学校が設立され、初代校長となった。サレジオ会小神学校もそこに再開された。
米軍のカトリック信者は、いろいろな形で戦災孤児や教会事業の再建に協力した。
1947年3月31日、教育基本法・学校教育法が公布され、4月1日から6・3 制が実施されるようになった。
4月19日、チマッティ神父は総会に参加するためにイタリアへ旅立ち、戻ってきたのは1948年7月。
そして1949年11月末までまだ管区長の立場であった。
* * *
229 東京の浮浪児の事業
(タシナリ・クロドヴェオ神父へ 1946年6月17日)
戦後、東京に親を失った戦災孤児があふれ、チマッティ神父が九州からタシナリ神父にその世話を命じた。東京の成増で始まった事業は、現在の東京サレ 皆さん、ご苦労さま! 子ど(ジオ学園の養護施設となった。)もたちを救うために汗を流していること、神に感謝! 神父さまは私の許可を願っているが、私はすでに許可を与えました。ここから皆さんのために祈り、お勧めを願ったら書いてあげましょう。お金のことは、評議員に探してくれるようにと指示しました。そのために神に祈りましょう。きっと送ってくださるでしょう。聖人であれば、神のみ摂理の奇跡を見るでしょう。
神よ、あなたのいちばん貧しい子たちを世話しているタシナリ神父をお助けください。50万円があればすべてが解決される。誰か持っている人が助けてくれるように祈ります!
230 肉体労働も必要だ
(デランジェラ・ステファノ神学生へ 1946年8月29日)
チマッティ神父は叙階に近いこの若い神学生に身体労働の意味を教えている。 お手紙ありがとう! お気持ちがわかります、肉体労働をしなければならないことは。それは、あなただけでなく、会員皆もそうです。特に戦中戦後、そ
れは避けられないことでした。皆、あなたと同じこと、もしかしたらあなたよりも感じています。あなたが安心するために、聖人たちのことを考えてみてください。特に同じような使命を与えられた聖人、否、イエスご自身のこと。イエスは30年間も労働し、その状態でおん父との一致を失いませんでした。私たちもそうすべきです。なぜなら、そうさせてくださるのは神のみ摂理ですから。主が「心の貧しい人は幸いである」と言われ、日本の私たちサレジオ会員は実際にそうです。
231 お姉さんの帰天
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1946年9月28日)
本部との文通が再開されたとき、最初の知らせはお姉さんの帰天のことであった。そして、その返事の中の最初の願いは、管区長の役職から解放してくれるこ 8月24日と(とであった。)28日のアメリカ経由のお手紙を頂き、姉の帰天を知らせ、ありがとうございます! 神のみ心が行われますように! 主は私が家族の絆から解かれることをお望みになったのです。これほどお別れを感じるとは思いませんでした。ついに残ったのは私独りです。より強く主に結ばれるためでしょう。神に感謝!26
長上の皆さんが日本を愛しておられるなら、イタリアから新しい管区長を送ってください。皆の利益のためです。私は、皆さんがおっしゃる所、どこへでも行きます。会員にこのよい手本を見せたいのです。長上の皆さん、ぜひ聞き入れてください。苦労は拒みません。その証拠として、今、宮崎で志願者と哲学生の授業を再開しています。
232 新司祭への言葉
(1946年12月21日)
戦後の新司祭へのお祝いの言葉である。
カスティリオーニ・アルベルト神父へ
1.主は、若いあなたの喜び。感謝しなさい!
2.主は、あなたのもの。あなたと任せられた人々の救いを願いなさい。
3.すべてにおいて、キリストのようにふるまいなさい。
デランジェラ・ステファノ神父へ
1.谷川の水を求める鹿のように、主を慕い求めなさい。
2.霊的なものや、物的なもののために心配するな。
3.困難なときに星(マリア)を見なさい。
233 日向学院が生まれる
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1947年3月)
総長への手紙には日向学院の誕生を報告し、「日向」が「イエスに向かう」ことを思い起こさせると説明した。生まれ変わったドン・ボスコ社にも期待を寄せ 神父さま、戦(ていると言った。)時中、宮崎の小神学校が問題になりましたが、今はそこにもう一度サレジオ会の志願院が戻っています。また、県の願いがあって、中学 26 チマッティ神父の姉シスター・マリア・ラファエラ・チマッティが所属していた修道女会の総長からの手紙に対する返事である。帰天したのは1945年6月23日、知らせは1年以上かかった。彼女は1996 年5月12日に教会から福者とされた
1946年 バイオリニスト江藤俊哉氏とその家族と
校も認可されました。学校の名前は、この地方に因んで「日向」としました。
しますようにお祈りください。それには「日に向かう」という象徴的な意味があります。本当にそれが実現27
234 イタリア出発前の挨拶
(サレジオ会員へ 1947年4月8日)
戦後、久しぶりサレジオ会の総会が開かれ、チマッティ神父とロマーニ神父が参加した。東南アジアの道が開通していないのでアメリカ経由で行った。出発に 皆さん、イタリアへ旅立つ前に(あたり会員に次の挨拶を書いた。)、宣教活動の苦しみと喜びを共に分かち合った私は、改めて無条件の愛情と祈りを約束します。皆さんが教会、サレジオ会、人々の救いのために献身的に働き、皆さんの霊魂の友であるこの年老いた私
27 西洋の言葉で「東・西」は「Oriente・Occidente 日が昇る・日が落ちる場所」と言う。
西洋教会で「救いは東から来る・イエスは東から生まれる」と言って聖堂の中で東に向かって祈ることになっていた。
に示してくださった愛情のことを心から感謝し、ご期待に十分に応えられなかったことをお詫びいたします。
神の名により皆さんに次のことを約束します。もし、忠実に会憲を守り、堅固な信心生活と仕事に基づいて生きるならば、私たちは聖人となり、修道生活の物的・霊的な困難に打ち勝つことができると約束します。でなければ、責任を負いません。
管区長不在中、ボヴィオ神父が代行してくださいます。
1947年4月〜1948年6月総会のためイタリアへ帰国
1947年4月、総会に参加するためにアメリカ経由でイタリアへ向かった。総会は8月後半であった。
その前後の長い期間イタリアを回り、日本のことを紹介し、協力を願い、250 回以上の講演をした。
管区長の交代も期待したが、1949年の終わりまでそのまま続くことになった。
12月12日、ピオ12世教皇の謁見があった。
アメリカ経由の日本への帰国は1948年7月になった。
この期間中日誌を書かなかったが、原則として日本の会員に月二回報告の手紙を書いた。
* * *
235 管区長の交代を願う
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1947年5月17日)
イタリアに着いたチマッティ神父は、早速、副総長に管区長の交代を願い、戦時中に書いた数多くの文書を長上に渡した。それらはサレジオ会本部の資料 神父さま、以前、(室に保存されている。)何回も長上の皆さんに私の交代をお願いしました。おかげさまでまだ元気です。苦労をいといません。日本では、宣教地も修道会も土台が据えられ、今は事業や会員を強化すべきときです。そのために、若くて強い指導者が必要です。
チマッティ神父は、必要があればどこでも再出発できます。第二次的なポストでよいです。何にも執着がなく、そのために功徳もないのではないかと恐れています。20年もこの立場にいたので、交代をもって会員によい手本を示すべきです。神の栄光と人々の救いのためにお願いいたします。ある会員は、ヨーロッパからの新人がよいと言っていますが、日本にも私より立派にやれる人がいます。霊的な面で会員の進歩を図るためにこれがいちばんよい提案だと神の前に信じます。
236 イタリアでの活動報告
(アチェルビ・フランコ神学生へ 1947年7月18日)
友だちの代表者として手紙を書いた神学生にイタリアでの活動報告と予定を知 皆さん(らせる。)、ご安心ください、チマッティ神父はアメリカを通ってもアメリカニズムの影響を受けていません。むしろ、以前より自分の考え方を強めてきました。
戻れるならば、お聞かせしましょう。
では、今まで何をやってきたかをお知らせします。
・長上と話して、皆さんについてできるだけよいことを話し、よくないことをあわれんで隠すようにしました。それは、「罪のない人は、先に石を投げなさい」と言われないためです。
・会計その他を報告し、これからの計画を示し、保存してきた書類を渡してきました。
・養成支部、学校、卒業生の集会で講演し、会社と折衝し、新聞のインタビューにも答えました。
・いくつもの支部で黙想会を指導してきました。
・多くのシスターの修道院で説教や講話をしました。
・もちろん、いつも歌と演奏も伴いました。
・トリノ近辺の支部や宣教師の家庭を訪問し、8月、黙想会の後、総会に参加する予定です。
皆さんに感謝し、毎日祈りの中で思い出します。主が皆さんに望んでおられるのは、快活でよく働くこと、また聖なるサレジオ会員になることです。
237 懐かしい生まれ故郷へ
(日本の神学生へ 1947年8月6日)
何年かぶりファエンツァを訪れたら、どこでも戦争の傷跡を見た。自分の生まれ
1947年 総会のためイタリアへ帰国時に。ドン・ボスコが育った家の前で作曲した歌「父の家」を教える
生まれ故郷ファエ(た家も消えていた。)ンツァを訪問しました。戦中、故郷を流れるラモーネ川が戦線となり、生まれ育った地区は大損害を受けました。橋を渡って友だちの家を探そうと思ったけれど、勇気がありませんでした。私の生まれた家も存在しなくなった! 記念に取っておこうと思った人は残念がるでしょう!
イタリアには生活必要品は何でもありますが、皆不満です。分裂のもとは政治です。国民の利益を考えずに政党は争い、互いを食い尽くすばかりです。
皆さんについて情報を欲しがる人にはできるだけよいことを話しています。よい材料はいくらでもあるから。おかげさまで、皆日本のサレジオ会や宣教地に対して好感を抱いています。
238 マリアはイエス中心に生きた
(イタリアでの説教より 1947年8月21日)
イタリア滞在中多くの教会と修道院で説教し、自分がマリアに対して抱いていた深い信心を示す説教のヒントを残してきた。 ドン・ボスコは、「マリアは本当に愛してくださっています」と人々に教え、多くの形でマリアの物的また精神的な面での愛を示してきました。
ある人は「マリアへの信心はイエス中心ではない」と言うが、それは本当なのでしょうか。
マリアの生活の中心は、イエスだったではありませんか。マリアは、「彼の言うとおりにしなさい」と言ったではありませんか。イエスも「見よ、あなたの母です」、そして「見よ、あなたの子です」とおっしゃったではありませんか。天使もマリアに現れたとき、救い主としてイエスを告げ、マリアはイエスを産み、その苦しみに参加したではありませんか。
もし私たちは信仰に生きているならば、聖人のようにマリアを愛し、その信仰を見習うべきです。彼女は、エリサベトから「信じた方は幸いだ」と言われました。私たちも、マリアと同じような信仰をもって生き、マリアを知らせるようにしましょう。
239 善はできるだけやればよい
(デルコル・ルイジ神父へ 1948年4月5日)
チマッティ神父が出版の分野で大活躍したデルコル神父に書いた勧め。これは、
ドン・ボスコの知恵である。完璧主義は徳ではないと。
神父さま、手がけているラテン語の教材についてできるだけのことをやればよいです。
カファッソ神父は、若いドン・ボスコに、「善は、よくやるべきだ」と言いました。だが、ドン・ボスコは、「善は、できるだけやればよい」と言います。将来、神のみ心であれば、神父さまに多くの務めが任せられるでしょう。そのとき、今の言葉を忘れないでください。
240 イエスさま、あなたの出番
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年5月2日)
イタリア滞在一年間が終わるころ、チマッティ神父は総長に次の手紙を書いた。
私は管区長交代を期待していましたが、長上(管区長交代はもう少し待つことになったのである。)の皆さんは、「延長されることは、拒否されたのではない」とおっしゃる。私は、再建中の日本サレジオ会のために今はいちばんよいときだと思っていました。この延長は私が行ったことの償いのためになるでしょう。「主よ、私を辱めてくださったことはよいことです」と言いましょう。この言葉を音楽にしましょうか。
日本で今まで実現されたよいことは、私ではなく、主と会員が行ってくれました。これからも主と会員が私の愚かさを補うでしょう。不在中も彼らは立派に働いてくれました。
悩みがあっても私は落ち着いて平安です。言うべきことは長上に申し上げましたから。これからは、「イエスさま、あなたの出番です」と言いましょう。
241 今後の仕事に備える
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年6月5日)
帰り道はまたアメリカ経由だった。船から長上に別れの手紙を書いた。
ニューヨークに近づいて、日本語を復習しています。日本の仕事に専念することを主が望んでおられるからです。大した仕事はできないが、私のために何がよいか主はご存じです。み手に身を委ねます。いかに辛いか、主はおわ
かりです。今後の仕事のために心を準備します。兄弟たちは助けてくださるでしょう。主は、私が彼らの仕事を壊さないように助けてくださるでしょう。
船の上にサレジオ会員6名、乗客2000人、司祭は私独り。善意は不足しま
せん。神との一致を保つようにし、祈ったり、読んだり、書いたり、話したりしています。私のためにお祈りください。
242 これが私の十字架
(ベルーティ・ピエトロ副総長へ 1948年6月21日)
アメリカの神学校で元教え子に会うことができた。そこで撮った写真も残っている。アメリカ大陸を横断してサン・フランシスコから本部にこの手紙を書いた。
太平洋を渡る前の最後の挨拶です。アメリカでの歓迎は紳士的で明るい雰囲気の中でした。
ある友だちは、自分の管区長が年老いてよく忘れる、決断できない、という悩みを打ち明けてきた。日本の会員は、私についてそれ以上のことを言うでしょう。私は彼らをよく知っています。長上の皆さんに申し上げたことは、一
つも取り消しません。主は、これをもって私をお試しになります。今日、ゆるしの秘跡を受け、聴罪司祭は、十字架を受け入れて愛するように、と勧めてくれました。きっと、イエスの声でした。自分がわからなくても、主が決められることに対して「み心のままに!」と言いましょう。
20年も前から何回も管区長の交代を願ってきましたが、今、どんな立場になっても日本に残してくださるようにお願いします。主にこの恵みを願いましょう。
1948年7月〜12月
管区長としての最後の苦労
1948年7月、チマッティ神父は一年ぶりに日本に戻り、1949年11月末まで管区長を務めた。東京と九州の間を行き来しながら忙しい1年半を過ごした。
そのとき、日本は戦後の再建に必死だった。民主主義の新しい体制も次第に定着していた。
国際社会においては5月にイスラエル国家が成立し、8月に大韓民国、9月に朝鮮民主主義共和国が成立した。 12月に中国で宣教師たちの追放が始まった。
国連総会では世界人権宣言が行われた。
宣教活動の可能性を見込んで新修道会が次々と来日し、数年で数々のカトリック教育・福祉事業を開始された。サレジオ会も事業を固め、将来の発展の土台を築いた。
1948年7月に目黒碑文谷の支部が設立され、同じ月にリヴィアベッラ神父が満州から戻ってきた。
12月8日に国分寺のサレジオ学園の落成式が荘厳に祝われた。
* * *
243 碑文谷サレジオ事業の始まり
(ダルフィオール・ルイジ神父へ 1948年7月16日)
チマッティ神父が戻ったとき、碑文谷のサレジオ教会の土地が購入されていて、ダルフィオール神父がこの手紙でこの事業に派遣された。彼は50年以上もその事 神父さまにゆっくり(業で働くようになった。)話すことができず、手紙を書きます。ご存じのとおり、目黒に新事業を始める必要があります。まず、オラトリオ(教会学校)から始めましょう。子どもたちはすでに運動場になる畑で遊んでいます。長上は、始めるためにダルフィオール神父が最適だと判断しました。必要なのは、人間関係を結び、正しい態度を見せること。それは、神父さまならできることです。
当然、すべてゼロからの出発。貧しい質素な状態で始まります。今、大き
な助けはできませんが、次第によくなるでしょう。神父さまが賛成してくださると確信しています。新しい事業なので、家などをあまり気にしないで、全力を注げば何とかなります。日本のことわざのとおり「なせば成る」と。主の恵みにより、ドン・ボスコのときのように最初のオラトリオが出来上がるでしょう。
244 戦後の日本はどんな道を歩むか
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年7月中旬)
事業は発展していたが、日本のキリスト教に対してチマッティ神父は疑問を抱い
過去一(ていた。)年、会員たちは神の恵みにより奇跡のような仕事を成し遂げました。育英の職業学校の拡張、養護施設(150名収容)の国分寺へ移転、目黒支部の新しいオラトリオの始まり。また九州の各支部の再建、サレジアン・シスターズと宮崎カリタス会の事業の発展。今は、福祉事業の時代だから、私たちは、ドン・ボスコの精神に忠実に歩めば幸いです。
国民のキリスト教に対する目覚めが目立ち、会員も大活躍していますが、日本に対する神のご計画は予測できません。私は、あまりバラ色ではないと思います。何世紀も固まった伝統がそう簡単に消えないでしょう。家族制度や宗教に対する人々の態度は変わっていません。敗戦後、慣れていない民主主義に適応しようとしていますが、生活のために苦労しながら労働者や農家の権利を獲得する運動、住宅の再建、以前世界を支配していた商業や工業の立て直しなどは、地震、台風、洪水のように社会を揺さぶっています。日本はまだ安定した土台を見いだしていません。宗教に関しても不安定な状態です。神の呼びかけを拒否しないように、信仰の道を見いだすように祈りましょう。
245 カトリック学校の特徴
新年度から日向学院に高等学校ができた。チマッティ神父は、ミッションスクー(日誌より 1948年7月26日)ルの土台としてカトリックの教えを置くべきだと説いた。 宮崎の日向学院を訪問してきた。見事な本館が完成し、高等学校も準備中
である。新教育法により私立学校の経済的負担が大きく、黒字にするのは難しいことであろう。
学校のカトリック性格を明確にすべきである。幸いに私たちの学校にサレジオ会員の他に何名かの模範的なカトリックの教師がいる。私が強調してきたのは、キリスト教の教えに基づくこと。カテキズムは適当なときに教えられるが、キリスト教の教えがとても効果的である。自由な研究会を大事にすべきだ。学校の公の名称が「カトリック・ミッション・スクール」であることを忘れてはならない。
私たちの志願者もこの学校で丈夫な木に育ち、次第によい実を結ぶようになることを期待している。
246 洗濯は自分の家ですべきだ
(サレジオ会員へ 1948年10月1日)
チマッティ神父はすべての支部を訪問し、会員たちに感謝の言葉と具体的な勧 皆さんと共(めを与えた。)に今月を過ごし、その善意と仕事の熱意を確かめ、嬉しく思いました。神の祝福がありますように! 私たちの生き方のすべての根本は、祈り、犠牲、会憲の順守であることを思い出しましょう。
気を付けていただきたいことがある。他の教会を訪問するとき、主任司祭について不満不平を打ち明けてくる信者がいる。そのような話を打ち切って、よい信者であるように勧めてください。「もし神父さまが主任司祭だったら、日
本人の気持ちがよくわかります!」というような話を信じないでください。このような不満は、言うべき人に話せばよい。私たちも、「自分の洗濯は自分の家で!」ということわざを思い出しましょう。
247 潤滑油が必要だ
(ベルナルディ・アンジェロ神父へ 1948年10月11日)
人それぞれ自分の性格があるが、人を相手に働く者はどういう態度を身に着けるべきかを、チマッティ神父が教えている。 神父さまのために一言。まず、ここまで助けてくださったことや今後も助けてくださることを心から感謝いたします。ところが、神父さまは人々から何を言われているか、どう思われているかご存じでしょう。それは、潤滑油、言葉と態度に潤滑油が必要である、と。皆に対して、信者、シスター、協力者、身内の人に対しても。また、訪れる人、お客、会員、シスター、要理を教える人に対して寛大なもてなしをすべきこと。
公にも人を褒め、小さなプレゼントをすること。これによって損することはない。
さらに、会員との関係を大事にしてください。互いに協力し、愛し合って、互いのために祈りましょう。
248 間違った情報を植え付ける危険性がある
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1948年10月)
教育学の博士号をもっていたチマッティ神父は、戦後の日本の教育プログラムを見て、特に歴史と哲学に関して反キリスト教的な内容があることに気付いた。
以前にも申し上げましたとおり、今、日本には信仰の自由が認められ、学びたい人が増え、宣教師たちの時間の大部分が教えることに充てられます。
学びに来る人の大部分は純粋な気持ちで来ますが、ただ議論するため、流行っている唯物論、観念論、相対主義の考え方をひけらかすために来る人もいます。これらの考え方は、今、日本を毒しています。新しい教育制度に基づく学校のプログラムの教科書が刷新されてきたが、残念ながらその内容はまだ以前の影響を受けています。特に歴史の内容はプロテスタントの影響を受けている、また哲学や科学は唯物論の精神に染まっています。あまり批判せずその教えを吸収する人は悪い影響を受けます。私たちは、学校の教えの中身をよく吟味する必要があるのです。
1949年
管区長の使命を全うする
チマッティ神父管区長の最後の1年。10月まで通常のとおり任務を果たし、支部を視察し、人事を決め、後任への引き渡しを準備した。大阪の新しい支部が設立され、管区の本部、ドン・ボスコ社、神学校の移転も計画された。下井草教会も小教区として承認された。
3月末、日向学院の校長として最後の挨拶をした。
5月に、聖フランシスコ・ザビエル来日400周年のため腕の聖遺物が来日し、音楽をもって協力した。
10月4日、特別視察者が来日し、タシナリ神父が後任者として任命され、11 月末に発表された。
12月3日、チマッティ神父管区長としての日誌を終了した。
12月末、師の新しい任務が発表された。サレジオ神学院の図書館長になることであった。
* * *
249 新年の見通し
(日誌より 1949年1月)
日誌の中に新しい一年の課題を記す。管区長として最後だと感じていたであろ 主(う。)は新しい年を与えてくださる。すべてにおいてみ心のままに! 「すべてを新しくする」とおっしゃった主のお言葉が実現しますように!
主よ、私の不足をおゆるしください。日本に戻ったときの私の心はご存じです。「私の考えはあなたたちの考えと違う」とおっしゃった主よ、起こることがわからなくても、主において、主とともに、主のために生きるようにしたい。ドン・ボスコのように、人の何倍も働きたい。ところが、私は力不足です。しかも、戦後の異教の国でおまけに外国人です。それは日本では大変なこと! できるだけのことをやります。主が導いてくださいますように!
250 離脱を始める
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1949年1月3日)
元教え子のジジョッティ神父が副総長となり、とても心強く思う。最近、コンサートの機会もほとんどなく、役割が終わったと感じて、身の回りを整理し音楽と お忙しいところで心苦し(著作の原稿を送り始めた。)く思います。今回、私の音楽の原稿や以前師範学校で教えていた教育学の未完成の原稿をお送りします。当時、折をみて教えながら書いたものですが、誰かに役立つかも知りません。私の音楽の研究が 1900年ごろにさかのぼるので48年も経ちました。音楽にはその後も進歩したでしょうが、それほどではないと思います。とにかく、当時、私のわかっていたことを書いただけです。
251 日向学院卒業生への話
(日向学院卒業式での話 1949年3月24日)
日向学院中学校校長として一期生を送る最後の挨拶の一部。
今日、皆さんが待ち望んできた卒業式の日です。農家が自分の労苦の実りを喜ぶように皆さんも自分の働いたことの実りを喜んでいます。多く蒔き多く働
いた人は多く収穫します。少なく蒔き少なく働いた人はその結果を見るでしょう。
私は、皆さんが自分の努力の実りを見ることができたこの日、一つの約束をしてほしい。3年前、入学のとき、私は皆さんの霊的成長のために一つの目標を示しました。それを覚えているでしょう。「己を知り、己に勝て」ということでした。
今日、偉いお客様、先生方、そして神の前に皆さんはその目標をどこまで達成できたかを自問してみてください。先生方は皆さんを助けるために自分の務めをよく果たしました。皆さんは、成功するためにどこまで善意を尽くし協力したのでしょうか。
次の約束をしてもらいたい。すなわち、神がくださったタレントをよく活用し、
1948年11月21日 叙階された4人の新司祭と共に
先生方の努力に応えて自分の性格に勝ち、よく学び、祖国が必要とする立派な人になるために一生懸命に努力するという約束をしてもらいたいのです。
252 また音楽作品を送る
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1949年6月15日)
再度自分の原稿を送る。処分してしてもよいと言いながら、本当は大事にして また離脱(もらいたい。)するために楽譜をお送りします。もはや自分に役立ちません。神父さまの管轄ですから、誰かに参考になれば自由に使ってくだい。個人や団体
に役立たないなら、ストーブに入れて暖房にでも役立てばよいです。けれども、私はそうは思いません。まあ、私のことをご心配しないでください。私に代わってお母さん(マリア)とドン・ボスコに挨拶してください。
(1949年7月14日)
近いうちにまた楽譜を送ります。今度は、古きよき時代のもの。よく覚えてください。これらのものを送るのは、高く評価して印刷し上演するためではない。
役立てば、皆さんが自由に使うためです。役立たぬなら、ご自由に処分してください。やはり、人生の最期の一歩手前になれば、心配することがないため、また他人に心配をかけないために、今のうちに離脱したほうがよいのです。
以前に役立ったものがまだ役立てば、自由にお使いください。私のためにお祈りください。心から抱きしめます。28
253 自分はまだ聖人になっていない!
(中国の管区長ブラーガ・カルロ神父へ 1949年9月24日)
本部からの視察者が日本に着き、タシナリ神父が後継者になる。公にされてい おかげさまでここは仕事が有り余り、不足して(なくても皆知っていた。手紙の調子からもわかる。)いるのは働き手です。何名か病気で、十字架も少なくない。私は、少しびっこを引いていますが、神の恵みにより肩も足もいくらか丈夫です。
わがカルロ神父さま、聖人であればよいのですが、まだそうなっていなくて目標からよほど遠いです。70歳になってもまだなっていないなら、主が残してくださる未知の時間のうちになれるのでしょうか。
まあ、もう帆を降ろして、頭で考えるよりも行動すべきです。神父さまのお祈りで助けてください。神の手に身を委ねます。主がご自分のものにしてくださいますように。
254 後継者の任命への感謝
(リカルドーネ・ピエトロ総長へ 1949年11月22日)
新管区長としてタシナリ神父が公表され、チマッティ神父はその任命を総長に 長上の皆(感謝する。)さんが決定なさったことは管区や霊魂の救いのためにとてもよいです。神に感謝!
私にではなく、すべてを成し遂げた会員たちに感謝すべきです。皆さんは、
私の能力を過剰評価なさっています。自分としては務めをできるだけ果たすように努めたつもりですが、間違いが多く、神に対する背き、また霊魂の損失を
28 チマッティ神父のこれらの資料はイタリアで手を懸けずままに残ってしまい、列福列聖調査が始まった時に調布のチマッティ資料館に戻ってきた。
1949年12月
防ぐことができませんでした。長上のご指導にも十分に従わず、ご期待に添えませんでした。タシナリ神父へ譲る遺産はあらゆる意味でよくないのです。
私が日本に残ることは、皆さんの明らかなお望みです。私としては、どこへでも行く用意があり、やれることがあれば何でも喜んでやります。役立つ所があれば、長上のお望みは主のお望みです。
これで私の公式の文書が終わりです。何年も私の命を日本の親愛なる会員、総長さま、教皇さまのためにささげました。特に日本に清貧、純潔、愛徳、平和があることを祈ります。
神父さまを抱きしめて、祝福をお願いいたします。
255 日誌の結び
神学院の食堂で元管区長への祝いと挨拶が行われた。引き継ぎを行うために(日誌より 1949年11月)チマッティ神父は書類などを整え、11月末に部屋も渡す準備をして、12月3日、 11月17日。サレジオ神(管区長の日誌を終了した。)学院の食堂で元管区長への挨拶が行われた。神に感謝!
次は私の答え。「これで事業の土台が据えられました。これからは、ドン・ボスコの精神に従って神の栄光と霊魂の救いのために完成しなければなりません。私のためにお祈りください」ということでした。
私は、会憲において現役で亡くなる長上のために定められている特別な祈りを全部失うことになります。
12月3日。11月末、親愛なる新管区長とその秘書に部屋を引き渡した。これから始まる新しい生活において、神の栄光と人々の霊魂の救い、特に私の霊魂の救いを実現するために、よい死を準備することができるために、主が助けてくださいますように!
1949年12月3日、聖フランシスコ・ザビエルの祝日、よき死の練習の日に
1950年
失業のチマッティ神父
1950年から1953年まで朝鮮戦争が勃発し、日本にも大きな影響を与えた。
チマッティ神父は役職を持たないサレジオ会員となった。本人は教会で働けると期待していたが、新管区長は休ませる必要があると思い、神学院の図書係とした。これからは長上へ報告、会員への回書、日誌もなく、彼の心を知ることができるのは本人が個人に書いた手紙を通してである。管区長、教え子、グリゴレット神父、副総長ジジョッティ神父への手紙が目立つ。
1月に神学院が調布へ移転することが決まった。
4月から引っ越しの準備が始まり、チマッティ神父が移ったのは9月である。
夏休み中、黙想会を指導するために中国に呼ばれた。
9月5日、調布に入り、元工場の建物で住むようになった。新校舎の工事も始まった。
彼は図書館の荷造りを見守り、頼まれる仕事をやり、神学生に数時間教えていた。
* * *
256 沈黙と希望のうちに
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1950年1月28日)
副総長になった教え子ジジョッティ神父に書いた手紙から、期待していた仕事を与えられなかったチマッティ神父の悩みと神のみ心に従いたい姿勢が伺われる。
神父さまが思い出してくださることを感謝します。新しい立場になってよく悟りました。自分が空の手であるということ。天国へ行くために主の前にもっと宝を積まなければならないこと。長上が決めたことは、私の傲慢を砕くための主の恵みです。それを受け入れて、喜びをもって進むようにします。
神父さまがおっしゃるには、昔のヴァルサリチェの生活に戻ったと。私は今、
1950年 学校の教師とバッジョ、フェデリコ、チマッティ神父
仕事を与られることを待ちながら少し穴埋めをしています。ときどきサッカーボールも蹴り、教えるのは少しの音楽、少しの宗教、少しの教育学の古い内容です(今は、ギリシア語の名前が流行っている!)。しかし、これだけでは私にとって仕事とは言えません。ヴァルサリチェのときに仕事の中に生きていて、心身とも元気でした。今は、「沈黙と希望のうちに」役立つように努力しています。私のためにお祈りください。マリアさまのマントを引っ張って、私がすべてにおいて神のみ心を行うことができますように。ああ、何の疑問も抱かずその導きに従うことはなんと美しいことでしょう! さあ、喜びましょう。天国では間違うことも、人を煩わすこともないでしょう。
近いうちにもう少しの楽譜をお送りしましょう。ご自由に使ってください。もはや公式の文書を書く必要はありません。主はこのことからも解放してくださいました。神のみ心が行われますように!
257 失業同様の状態
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1950年3月4日)
グリゴレット神父に打ち明ける悩みから、仕事がなく、定年になって人たちの心 わがジュセッペ(理状態がわかる。)神父さま、今の立場は、神が望まれるから私にとってよいですが、失業者同様であって、霊的には大きな損失です。以前は、多くの仕事とその功徳があった。教区長、管区長、院長のために多くの人が祈ってくれていた。今、残るのはイエスさまだけ。そのあわれみにより私の不足と落ち度がゆるされることを願っています。祈りで何でも得られるから、今、私はより熱心に祈れるようになりました。
今、ヴァルサリチェの神学生のような生活です。任せられたことを行うだけ。長上が私の願いを受け入れてくださったことはよかった。25年間で犯した間違いを祈りで償って、近づいてくる最期の報告を準備します。後継者を妨げたくないために指一本も動かず、一言も言わず、邪魔にならないように姿を消したい。主に願っているのは、仕事を与えてくれること。週15時間の授業と15人のピアニストに教えるだけでは、失業同様です。これから仕事が増えると言われたので、見ましょう。神のみ心が行われますように!
春になれば標本の採集もできる。移転により図書館の整理もある。また作曲もできる。イタリアから戻ってから多くの作曲をしました。私が滅びないようにお祈りください。
258 仕事をお願いします
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1950年5月29日)
神父さま、仕事をお願いします。骨を日本に埋めさ( チマッティ神父は、新しい管区長に切に仕事を願う。)せてくださるように主に願っていますが、皆さんは、チマッティ神父は歳だ、失敗以外何もできないと思っていらっしゃるようです。私が何かの功徳を積むことができるように仕事をさせてください。愛してくださる主が置いてくださったこの状態を上手に活用しないならば、なんと大きな負い目になるでしょう! 何かよいことができるようにしてください。夏休み中、休む必要のある会員がいれば、彼らを補うために私を使ってください。どんな仕事でも喜んでやります。
259 今の状態なら過労死はしない
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1950年6月26日)
以前チマッティ神父が毎月宣教地の記事を書いていたように、グリゴレット神父は、今も書くように頼んだが、本人は、別な担当者がいるから、自分の仕事 ご存じのとおり、(ではないと答えた。)私には決定権がなく、頼まれることをするだけ。宣伝係は
デルコル神父です。彼と連絡を取ってください。今の私の状態がおわかりでしょう。下っぱの立場を与えられたからそれをやります。任せられたこと以外のことには直接に関わらないようにしています。今の状態で過労死はしません。これが私の悩みです。仕事が足りなくて、心身とも病みます。自分が無に等しい
者であることを悟るために主がこうお定めになったでしょう。これは科学実験より有意義な体験です。今まで得たものは何もなく、宣教師としても失敗でした。主と教会、またサレジオ会もゆるしてくださいますように。主が与えてくださる残りの時間がそのための償いとなります。「沈黙と希望のうちに」永遠のために何かを貯めるように。残り時間は短く、私の魂は貧しい。貧しく生まれ、貧しく生きた。今は霊的にも貧しい。お互いのために祈りましょう。
260 中国での黙想会
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1950年8月17日)
この時期に、中国のサレジオ会員に黙想会の指導を頼まれた。これは、この一年の最大の喜びとなった。気晴らしにもなり、多くの友だちと教え子に会うことも 香港でお手紙を頂きました。今、マカオで黙想会(できた。日本に戻ってから調布に住むようになった。 )を指導中、次は香港で三回も続けて指導します。問題がなければ、9月5日東京に帰れる。四回も黙想を指導する機会を与えてくださった主は、本当に私を愛してくださっています。
霊的に大きな喜びとなりました。
これからも自分の力を尽くすほどの仕事を期待します。でなければ、うまくいきません。けれども、そう望んでも、「過去を見てきた人々はお前を警戒するだろう。お前は何ができるのか」と考えてしまいます。神に感謝! 結論は、自分のできるわずかなことを行い、祈りの中に主と一致すればよいのです。 261 私がよき死を準備するとき
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1950年9月10日)
調布に着いてから長上であるタシナリ神父への率直な報告である。宣教活動ができると期待していたのに、年寄りだと見なされて休む状態に置かれたと言う。
健康は良好です。仕事に関しては、やらせてくださることをやり、ないときに自分で探します。
私は、トリノのヴァルサリチェで30年間も働いた。最後に役職に就き、自分の傲慢の風船が膨らみ始めた。その後、宣教地で25年間も準管区長、教区長、管区長を経て、総会で本部の評議員に選ばれそうになり、風船がさらに膨らんだ。今度は、日本に戻ったら苦しみが始まった。言葉や文書で「早く戻りなさい」と言われ、「デリケートなことだから後で話す!」とも言われ、特別視察
者からも「日本に残ることは長上の望みだ」と言われ、ついに「年寄りだから休みなさい」と言われてしまった。主は、破れそうだった私の風船に小さな穴を開け、風船がしぼみ、私は自分の最期を考えるようになった。でなければ、どうなったかわかりません。長上の皆さんは私がもう役立たないとご判断なさり、私はよき死を準備するために主が与えてくださるこの機会を有効に使いたいと思っています。神父さまも、私がよき死を準備するようにお助けください。神に感謝!
愛徳に関しては、傲慢と共にそこに私の弱点があります。というのは、私は壊れやすいガラスでできていて、人に対する私の心の表し方を慎む必要があると思います。けれども、会員に対して愛徳を表すために尽くしてきたことを、決して悔やむつもりはありません。
1951年
仕事を願うチマッティ神父
この1年、チマッティ神父の生活はそのまま続いた。
9月に建築中の本館が落成された。チマッティ神父は図書館の事務室に閉じこもり、本の整理と目録の作成を本格的に始めた。資料館にある手書きの目録を見ると、プリントされたわら半紙の裏面を使い1.2000冊の本が登録されている。忍耐のいる孤独な仕事! その他に授業と自然科学の標本の収集と整理、さらに神学生を助けるための恩人探し、外国から神学院の必要な備品の注文をしていた。
しかし、もっと役立ちたい気持ちが表れる。その最も大きな実りは「サレジオ会
来日25周年の歴史」である。それはまずプリントとして出され、1953年、タシナリ神父から手を加えられてからイタリアで“Nell’Impero del Sol Levante”という題で印刷された。さらに多くの作曲も残っている。
* * *
262 力が有り余る
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1951年1月9日)
教え子だった副総長ジジョッティ神父な、恩師が手紙を書かないことを気遣っ
て手紙を書いてくれた。チマッティ神父は率直に自分の状態を伝えた。
親愛なるジジョッティ神父さま、私が手紙をあまり書かないとおっしゃる。何を書けばよいのですか。公のことを書く理由はないし、個人的なことを書く必要もない。なお経済的な理由でお祝いの言葉を控えるようにと言われます。毎日、重い責任を背負っている神父さまのことを主において目の前に置いています。これがいちばん役立つでしょう、またこれで十分でしょう。
私の情報と言えば、健康は良好で、笹の根のように強い。と言っても、これは私のせいではありません。もっと仕事があればもっと元気になれますが、長上は与えてくれないのは、これ以上できないからでしょう!今、ヴァルサリチェの神学生時代に戻っています。少しの音楽、ちょっとした自然科学(石、動植物)、少しの教育学、少々の宗教学と修徳倫理神学、そして聴罪司祭の務め。ヴァルサリチェのとき、病人の世話もしていました。どう見ても、この私の力を使い尽くすためにこれではとても足りません。
今は図書館に閉じこもり、整理しています。主がこうお定めになったのは、自分の魂の救いを考えて最期を準備するためでしょう。神に感謝!
263 よい行いを、永遠の生命のため
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1951年1月12日)
いつものとおりグリゴレット神父に心のこもった返事を書く。この手紙には、いろ
いろなことについて世から離脱をするという強い気持ちが感じられる。
神父さま、今、私の唯一の望みは永遠の生命のためによい行いを実行すること。与えられた機会を活用しなければ、ゆるしがたいことです。福音書の中から何か作曲できるようによい歌詞を書いてくれませんか。他の仕事がないときに音楽を通して少しでもよいことができるようにしたいのです。
今まで、私はブルネル氏が描いた聖骸布のイエスの顔を各支部に配ったり、洗礼、霊名日などの思い出にして、ドン・ボスコ社やサンパウロの店にも置いたりしましたが、今、商品としてあまり人気がないようです。やはり商売のことであれば、直接店に任せるべきです。私が知っているのは、商売の道ではなく、ドン・ボスコの道、善を行うためにみ摂理に頼る道です。次第にすべてから、人からも離脱していきます。しかし、あまりにも愛しているので心は離れません。
264 多くのことをやりたかったのに…
(ジジョッティ・レナート副総長へ 1951年6月12日)
72歳のチマッティ神父は病気を患ったことなく、歳を感じてもいない。年寄り
扱いとされるのはとても辛い。この手紙でそのことを訴えている。
神父さまの秘書ゼルビーノ神父にも書いたことですが、皆さんは、私を年寄りだと見ています。結論は明らかです。博物館行きの骨董品だから大事にすべきだ、と。日本の会員も「年寄りだから疲れる」、また「私たちの太祖だ É il nostro patriarca!」と言う。そのとおりだから、早く天国へ行けるので神に感謝します! 神父さま、喜びましょうよ。主は、長上の決定を通してみ心
(老齢ではなく)を喜ばせてくださる主のもとへ行きましょう」を示してくださいました。謙虚と痛悔の心をもって、毎日のミサで唱える「若さ29という言葉を実行します。多くのことをやりたかったのに、主はこの状態にいるように望んでおられます。私が望むとおりではなく、主が望まれるままに!
265 天に憧れる
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1951年6月12日)
ゼルビーノ神父はジジョッティ神父の秘書。「自分に知らせることなく死んではならない」、また「老後は大事にすべきだ」と書いていたことへの返事である。
神父さま、死が呼んでくれるとき、否、主が呼んでくださるとき、あなたの賛成は要りません。私は、完全に主に身を委ねています。ここにはすることがあまりないので、自由に天に憧れることができる状態です。その日はあまり遠くないと思っています。み心のままに!
なお、「老後を大事にすべきだ」という神父さまのご意見に対してあまり賛成できません。それは、決して、ドン・ボスコとその後継者たちの考えではないと確信しています。
29 この言葉は、当時のミサの初めに唱えられていた詩篇の言葉。
1952年
イタリアへ最後の旅
5月まで、チマッティ神父はそのままの生活を送る。
この年、イタリアでサレジオ会の総会が開催されることになった。それに管区長と管区の会員代表者一人が参加することになっていて、この会員代表者は管区会議で選ばれる。
チマッティ神父は、まず管区会議に参加することを辞退した。ところが、その席で彼が会員代表者として選ばれた。再度辞退したが、三回目また満場一致で選ばれたのでついに同意し、5月にイタリアへ行くことになった。旅は往復とも初めて飛行機を使い、南アジア周りだった。これが最後の帰国である。
総会において本部の最高評議員に選ばれそうになったが、本人は上手に逃れた。心は日本にあったからである。滞在中、空いた時間を利用して生まれ故郷と全国を回り、恩人や知人に会って日本を宣伝することに尽力した。
祖国を離れるとき、別れを強く感じた。大事なプレゼントを携えて日本に。新しい生活が始まった。
* * *
266 明るく生きましょう
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1952年1月1日)
新しい年が始まり、孤独なチマッティ神父は教え子に手紙を書いて自分の気持 神父さま、(ちを表した。)今年の最初の手紙はあなたのため。すべてのよいこと、すべての聖なることをあなたのために祈ります。神父さまも私を忘れないでください。「わが友よ、少なくともあなたが私をあわれんでください!」と聖書に書いてあるとおりです。
私は文通ができないほど仕事に追われていません。喜んで手紙で神父さまに協力します。もし、すべてのサレジオ会員が今の私のようにだけ働いてい
ればあわれです! 主が私のためにこうお定めになったから、み心のままに! 今までの私の間違いを見れば、当然の結果だと思います。
さあ、明るく生きましょう。私を慰めてくださるのは、無限である主のあわれみです。それを頼りにする人は受け入れられるから。私もその中の一人です。
267 修道生活講話の手引き
(ロマーニ・ウルデリコ神父へ 1952年3月末)
院長の祝いの日に彼が提出したのは「修道生活講話の手引き Appunti di Conferenze religiose」であった。30彼が書いた趣旨の中にその使い方がわかる。そのまま読むのではなく、参考にしながら心のままに話していたのである。
管区長のお望みに応えて私が黙想会で取り上げている課題の内容をまとめ、院長さまに提出します。
次のことを念頭に置いてくださるようにお願いいたします。
1.文章は、私が話すとおりに書けません。話すとき、毎度書いたメモを目の前において、神が勧めてくださるまま、また聴く相手の状況に合わせて話します。
2.引用文の出展は、手元にあるものだけを記しました。説教の準備中、その都度、探したりすることもあり、サレジオ会の出典ならできるだけそれを記すことにしましたが、全部示すのは不可能です。
3.エピソードや個人的な思い出はより刺激になりますが、合う相手と合わない相手とがあります。
4.ここに書いた私の講話のまとめは状況により変わったりする、また変えないといけないときもあります。話を短くしたり、伸ばしたりすることもよくあります。 できるだけ長上のお望みに応えるように努めましたが、不十分なところをおゆるしください。他にご希望があれば、おっしゃってください。私のこの文書をご自由にお使いください。
30 それは1954年にプリントの形で公にされた。残念ながらまだ日本語訳はない。
1952年 イタリア・ボルカにて化石の標本を見る
268 評議員にならないための芝居
(タシナリ神父の証言)
次は、一緒に総会に参加したタシナリ神父の証言。総会のメンバーの中にチマッティ神父の教え子、信奉者が多かった。彼は本部の最高評議員に選ばれる チマッティ神父は、総会中、最高評議員に(可能性があると聞いて、避ける方法を考えた。)選ばれる噂があると聞いて、それを避けるために変わった行動をし始めた。まず、いつも散髪をやらせてくれて
いたが、数日前から、時間がないと言ってそれを拒んできた。そして、老いさらばえた人のように体を曲げて足を引きずりながら歩き始めたのである。
総会中、評議員を選ぶための投票が行われ、開票するときにチマッティの名前がよく読まれていた。その度にチマッティ神父の体が震えていた。結果的にわずかな数票の差で選ばれなかった。
会場を出たときに、私に向かって、「いつひげを剃ってくれるか」と言った。
そして、元気な姿でサッサと歩けるようになった。
269 院長への報告
(ロマーニ・ウルデリコ神父へ 1952年10月3日)
チマッティ神父は、外国にいても、毎月自分の生活の報告を院長に手紙で行っ 今日、(ていた。)宣教師の保護者、幼いイエスの聖テレジアの日によき死の練習を行い、9月の報告で閉めます。
健康はおかげさまで相変わらずです。
仕事については、ただでパンを食べないように、頼まれることがあれば仕事します。もちろん、どこでも説教、講話、話し合いなどをして、興味のある人がいれば日本の「万歳!」を教えます。
何か必要なことがあれば、至急にお知らせください。
日本に対して皆好感を示し、これは将来実るものでしょう。数が多い恩人のためにお祈りください。
管区長が与えてくださった任務は調布支部のために働くことです。できるだけのことをやっています。み心であれば、早く帰れますようにお祈りください。
270 イタリアとの別れ
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1952年10月9日)
今回、イタリアとの別れ、特に長年協力してくれたグリゴレット神父との別れは
タシナリ神父に散髪をしてもらう
出発は26日ロー(辛かったであろう。)マからの予定です。滞在中、務めを果たせるように助けてくださったことを心から感謝します。主は、神父さまのなさったことを記録してくださっています。神に感謝!
神父さまを抱いて、心を込めて祝福します。
主は、私が切に願った立場に残してくださった。「主よ、私を辱めてくださったことは、私にとってよいことです」と言いましょう。
謙虚と痛悔の気持ちのうちに、美しい永遠の命の希望をもって生きるようにしましょう。もし私が、わが唯一の愛であられる神の元に先に呼ばれるなら、神父さまは私の安息のためにお祈りください。
1952年11月〜1953年和を培うチマッティ神父
73歳のチマッティ神父は、サレジオ神学院の院長として戻ってきて若返った。
神学院の中に修練者、哲学生、神学生が3グループに分かれていた。各グループは、聖堂と食堂を除いて別区域で生活し、それぞれ担当者がいた。院長は全体を調整し、活性化を図り、全体の責任を負って霊的指導を行っていた。当時、日本人25名、外国人25名がいた。スポーツ、行事、演劇などが盛んで、典礼、特に司祭叙階、誓願式は荘厳に行われていた。夏休みは、一時野尻湖の山の家で過ごしてから、各事業に協力していた。
チマッティ神父は共同生活、祈り、食事、遊びに参加し、皆を励まし、言葉と手本をもって道を示していた。当然、音楽も担当していた。彼がピアノに座ると雰囲気が盛り上がる。権威を重く感じさせず、誰とでも気楽に一緒に話をした。他の支部の会員も彼に手紙を書いたり、祝いのときに喜んで訪れたりして家庭的な雰囲気を楽しんでいた。ときどき近所の聖職者と修道者も招き、彼らも会うことを楽しみにしていた。
1953年1月から近所の子どもたちのためにオラトリオ(後にユース・センターと呼んだ)も正式に始まり、神学生の司牧の場となっていた。初めはチマッティ神父自身が会長となり、必ず日曜日に子どもたちの中に姿を見せていた。
次第に、近辺のカトリック信者も集まり、そこからカトリック調布教会が生まれてきたのである。
* * *
271 金子神父への勧め
(ドミニコ金子賢之介神学生へ 1952年12月21日)
院長になったとき、早速叙階式があった。日本人の会員に書いた言葉が残っている。
1953年 4人の若いサレジオ会員と
親愛なるわがドメニコさん、主は、あなたに愛の新たなしるしを示し、祭壇に奉仕するようにとそばに置いてくださり、洗礼を授け、説教することにより、霊魂の救いの協力者としてくださいます。神に感謝! 神がいかに愛してくださっているかを考えなさい! 主はあなたに言われます。
- 過去も未来も心配するな。やるべきことをやりなさい。
- 修道者と助祭としての務めを果たすには最善を尽くしなさい。
- 聖なる喜びをもって、常に明るく勤勉に働きなさい。
あなたの霊名の聖人が模範になりますように。
272 サレジアン・シスターズへの勧め
(コンテ・ジョヴァンナシスターへ 1953年1月17日)
同じサレジオ家族であるサレジアン・シスターズのための言葉もよく書いている。
姉妹たちのための一言。
- 聖フランシスコ・サレジオの言葉「頼まず、拒まず!」。その意味は、子どものように神のみ摂理に身を委ねること。
- ドン・ボスコの言葉「何も恐れるな!」。その意味は、過去も未来も心配せずに、主が今望まれることをよく実行すること。お互いのために祈りましょう。 273 管区長への報告
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1953 年6 月4 日)
院長になったチマッティ神父は、毎月、自分の管区長に報告していた。
今月の私の報告です。
1.健康に関しては、相変わらず。左目が少し弱っているので治療しています。
2.勉強と仕事に関しては、いろいろな科目を教え、空いた所を補っています。
以前ほど頭は敏感ではなく、専門家ではないことを承知しています。もっと勤勉でなければなりません。
3.信心業に関しては規則正しく行っています。これについても前述と同じです。
4.誓願や会憲の順守に関しても同様です。
5.愛徳に関しては、ご存じのとおり私の弱点は感受性です。皆好きになります。何も問題ありませんが、しっかりするようにお祈りください。
私が最後まで自分の務めを果たせるように主とマリアさまのおん助けを祈ってください。
274 野尻湖の神学生への勧め
(カントーネ・カルロ神父へ 1953年7月6日)
夏休み中、神学生は野尻湖へ行っていた。手紙で必ず彼らと連絡を取ってい 東(た。)京で雨なら、野尻湖は寒い! 天気なら、野尻湖で皆さんは泳いだり、遠足したりすると私たちは考える。おかげさまで、ここも変わったことなし、皆元気です。皆さんしっかりして主を愛しているでしょう。
帰ってきたら、経済の問題について話すつもりです。皆さんもこちらの心配と清貧の務めを理解し、私たちに対する神のみ摂理の計らいを知るべきだからです。
明るい気持ちで進み、悪魔に隙を与えずに、神との一致を保ちましょう。
誓願式の日が近づいている修練者のためにお祈りください。皆本当に立派です。皆さんに勝るとは言いませんが、少なくとも皆さんと同じぐらいです。 275 進歩する秘訣
(シモンチェリ・カルメロ神学生へ 1953年7月15日)
次は、シモンチェリ神学生が文書で自分の報告をしたことへの返事。
今日、私の洗礼の記念日にあたって、私たちの考え、言葉、行いの審判者、またよいお父さんでもあられる神のそばに快く一日を過ごします。
報告はよろしい。すべてのために神に感謝! 以前もイエスさまに代わって申し上げたことを繰り返します。
1.すべての行いについて良心の究明をする習慣を身に着けなさい。数秒で十分です。その後イエスさまに自分の愛を訴え、次の行いをよくする決心を立てなさい。
2.私が「置き換え方法」と呼ぶやり方に慣れるようにしなさい。何か不完全なことがあれば、気が付いたときに意図的に善を置き換えること。善を行わなければ、悪を避けるだけで大した進歩がないから。否定的なことに対して肯定的なことを置き換える(これは自然の法則でもある)…。いくらゼロを並
べても、プラスになることはない。毎日、隠れた小さな仕事を大事にしましょう。小さいことだから疲れない、また気が付かないうちに積もる。海や川の静かな蓄積と、台風、火山、地震と比べれば、言うことがわかるでしょう。
1954年
霊父チマッティ神父
この1年に注目すべきこと。1854年無原罪の聖母の教義が宣言された100周年にあたって、教会は「マリアの年」と定めた。チマッティ神父は、自分のミサ 50周年を準備する一年とし、この二つの出来事を意識しながら一年を過ごし、その間に聖イグナチオの「霊操」も個人的に行った。
サレジオ会にとってこの一年の大事な出来事は、5月に目黒の碑文谷サレジオ教会が落成されたこと、また6月に聖ドメニコ・サヴィオが列聖され、7月に韓国でサレジオ会の事業が始められたことである。
国際的な出来事は、ベトナム共和国が誕生したことである。
* * *
276 シスターへの勧め
(ボニ・リタシスターへ 1954年3月24日)
チマッティ神父は、頼む人のためにご絵の裏にその人に合った勧めを書いてい
た。特に黙想会の機会にそうしていた。
次のことをお勧めします。
1.落ち着いて、明るく生きること。主は、善意と完徳を望んでいるあなたの心をごらんになり満足しておられます。その決意を新たにしてください。
2.他人に対する好き嫌いに打ち勝つためには、その人のために祈りなさい。祈りの中にその名前を言ってください。ドン・ボスコは特にミサの聖変化のときにその人のために祈るようにと勧めていた。
3.正しくない行動を取ったなら、何か償いを決めなさい。たとえば、嫌いな人なら、その人に近づくこと。好きな人なら、自分の気持ちを抑えること。
4.良心の究明を大事にしなさい。
277 長上への報告
(タシナリ・クロドヴェオ管区長へ 1954年4月6日)
長上への次の報告から、その生き方と努力目標がわかる。
私の報告です。
- 健康に関して、変わったことなし。よく働けば元気になる。国分寺でコンサートをやったのちに調子が最高だった。これは、年寄りを大事にすべき、仕事をさせると疲れると言う人への教訓になる。
- 勉強と仕事に関しては、教授陣が不足していて何もないより不完全なものがよいという原理に基づいて、準備不足でも神学生、哲学生、修練者に授業をすることがある。不足分は主が補ってくださるでしょう。
- 私は「ボナ・ノッテ(共同体への晩の短い言葉)」の効果を信じています。
そのために、試しとして夕の祈りを団体別にしてみている。特別なときに合同でやる。
278 マリアさまへの祈りを頼む
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1954年5月12日)
サレジオ会員にとっては、トリノにあるドン・ボスコが建てた扶助者聖マリア大聖堂が親しまれていて、チマッティ神父は、5月24日の祝いのためにその祭壇の お願いがあります。お母さんである(前で祈ってくれるようによく願っていた。)マリアさまの祝いに際して、私に代わってその祭壇の前に行って、調布の共同体やその日に着衣する修練者のためにこう言ってください。
「マリアさま、あなたをもっと愛したい私たちは、自分の務めをよく果たし、よい死を迎えることができるようにお助けください」と。
私もあなたのために、遠い日本からマリアさまに向かってこう言いましょう。
「我らの母と教師、我らの愛、喜びであるマリアさまに、万歳! マリアさまを愛しているピエトロ神父にも、万歳!」
279 30日間の黙想会の決心
師はこのとき、来年のミサ50周年を準備するために個人的に「聖イグナチオの(1954年6月末) 霊操」を行った。夏休みの前だったと思われる。その記録が残っていて、最後1.大罪を忌み嫌い、深く恐(にその決心が記されている。)れること。特に修道者と司祭は罪に対して戦いを挑むべきである。どんな犠牲を払っても、罪を避けなければならない。「主よ、すべての罪から私を解放してください」。
2.イエスを見習うこと。少しだけでもその徳、特に財産や名声からの離脱(清貧、謙遜)を見習いたい。「これは、私の愛する子」。「あなたの行かれる所、あなたに従う」。
3.イエスの愛のために進んで苦しみを受け入れること。「苦しむ、軽視されること、これが私の名誉、私の得である」。
4.神のみ心と一致すること。「主よ、私の自由を受け入れてください。み心のままに!」
主よ、お恵みと共にあなたの愛をください、それが私にとって十分です、それ以上頼みません。
神に感謝! すべての恵みを取り次いでくださるマリアにも、感謝!
280 野尻湖の神学生への勧め
今年も神学生は野尻湖で一時期を過ごし、チマッティ神父は離れている彼らを(1954年7月14日)
皆無事に着いて(心にかけていた。)、夏休み中、心身共に健全に過ごしたい決意があるでしょう。
皆さんに次のことを繰り返し申し上げます。
1.私たちの心から罪を遠ざけるようにしましょう。
2.喜びのうちに主に仕えましょう。
3.会憲に書いてあるとおり、共同生活を大事にしましょう。
私たちは、愛徳と誓願に従うことによって神を愛し、神に仕えるために互いに心を一つにしましょう。
1954年12月8日に叙階された新司祭たちと共に
ドン・ボスコが言うとおり、「同じ場所、同じ精神、同じ一つの目的を目指して」と。
281 自然を楽しむ
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1954年8月2日)
チマッティ神父の一つの楽しみは自然の研究。野尻湖へ行くときによく標本を 短い期間、神学生を見るために野尻湖へ行っ(採集していた。資料館に多くのものが残っている。)ていますが、私の足と肺にとって、もはや団体との遠足や登山は無理です。私独り、また一緒行ってくれる人がいれば、何とかしてシダ類、苔類などの植物を収集してきます。他の活動ができないとき、集めた資料を整理します。
282 年齢を気にしないように
(フェドリゴッティ・アルビーノ神父へ 1954年10月19日)
戦前日本を視察したこの長上は、チマッティ神父に、体力が衰えたかと尋ねて
神父(きた。)さま、確かに昔のように遠足はできませんが、もし立っている所にボールが転がってくれば、まだ蹴ることができる。年齢と具合のことをあまり考えないほうがよい。それは、皆にあることです。気にすれば、かえって重くなります。すべてを天の父のみ手に委ねましょう。心配は要りません。
天の父が呼んでくださるとき、愛する子、愛されている子としてすぐに答えられるように私のためにお祈りください。天で会いましょう。そこでの音楽は、なんとすばらしいことでしょう!
私は機会があれば、今も、ヴァルサリチェで若かったときのように楽器と歌ではしゃいでいます。
1955年
チマッティ神父司祭叙階50 周年を祝う
1955年は特に二つの出来事で思い出される。
2月15日の夜、練馬区の職業学校で原因不明の火災があり、二人の若い会員が命を失ったこと。
1カ月後、チマッティ神父の叙階50周年にあたり、教え子の総長ジジョッティ神父が来日したこと。
彼は日本の事業を視察した後、調布で恩師の司祭叙階50周年を祝ってから、
4月11日に日本を発った。初めての総長の日本訪問であった。
もう一つの出来事は、ダルクマン神父が、任期満了の管区長タシナリ神父の後任となったこと。彼が10年後、チマッティ神父の最期を看取ることになる。
* * *
283 音符ごとに愛のしるし
(教え子ボスコ・ロベルト神父へ 1955年5月25日)
叙階50周年の多くの祝いの言葉の中、特にボスコ・ロベルト神父の言葉が嬉しかった。彼は有能な音楽家でヴァルサリチェ時代にチマッティ神父の元で学び、
後に師の音楽を集め、伴奏を付けて大きく貢献した人である。
今日、期待しなかったお手紙が届き、喜びのためにすぐに航空便で返信します。思い出してくれて、またサン・カリストのカタコンベの音楽家たちも一緒に祈ってくれて感謝します。
サン・カリストの偉い音楽家諸君、ありがとう。ロベルト神父に教わる皆さんは幸せ! 名前もドン・ボスコを思い起こさせるし、音楽家としても優れています。ぜひ、喜んで努力し、心を込めて学んでください。これは、人に役立つために効果的ですばらしい手段です。次のことを念頭に置きましょう。歌ったり、曲を弾いたりすることは祈ることです。音符ごと、主のため、主と共に
1955年3月19日 司祭叙階50周年ミサ後に
愛のしるしとなるように。皆さんもマリアさまを愛しているから、マリアさまにもそのしるしとなりますように。これを実行すれば、あまり価値のない私の音楽も、聴く人にとってすばらしい効果があるでしょう。
親愛なるわがロベルト神父さま、説教してしまってすみません。60年間も神
学生と一緒にいるので、ついそうなってしまう。私の宣教師30年、誓願60年、ミサ50年の祝いは、親愛なる総長の来日で飾られました。正直に言って、どうしてこんなに祝うか理解できません。皆「長生きしますように!」と言ってくれるが、私が永遠に生きるのは死んでからです。最期の試験のことを思い起こしますので私のためにお祈りください。
284 ある先生への勧め
(タルチジオ土屋茂明神学生へ 1955年5月30日)
タルチジオさんのために喜んで時間を( 当時、教育実習中の神学生への勧め。)割きます。あなたのニュースは私を喜
1955年3月19日チマッティ神父司祭叙階50周年にオペレッタ“La Croce sul colle”『丘の上の十字架』が上演されたばせてくれました。
ドン・ボスコの勧めを思い出しなさい。
- 心配するな! 主を愛する人にとってすべては益となる。
- 神に対して、自分に対して、隣人に対して、できる限り務めをよく果たすこと。
- さらに、任せられた生徒のために祈りなさい。特にいちばん困らせる生徒のため。もしかしたら、彼らのための祈りが足りないかも知りません。
快活で、いつも落ち着いて行動しなさい。イエスとマリアの心の中に!
285 整理整頓を守ること
(野尻湖にいるサレジオの神学生へ 1955年7月14日)
院長として若い神学生の生活面も指導していた。これは一例である。
皆さんが出発する前にそれぞれの場所や個人の物を整理するように注意しました。毎月の静修のとき確認する習慣を身につけるようにと言われていて、一般によく守っているが、特に寝室には散らかっている手ぬぐいなどがあり、洋服箪笥の中はだいたいきれいだが、小机の中に、空箱、使った剃刀、要ら
ない物が何でも入っている。皆さんもいつかこのことを生徒に教えるでしょうが、もし自分たちが守らないなら生徒に何を言うのであろうか。いちばん散らかっている場所は食堂の引き出しです。小瓶、本、空っぽや半分になったお菓子の箱、ご絵、使える物や期限切れのもの等々があります。やはり、整理は不十分です。
今から、毎月整理する決心を立てましょう。これは秩序と清貧の問題です、またドン・ボスコの教えでもあります。毎月の静修に際して物質的な面でも整理するようにしましょう。今日はこれだけ。快活、勤勉で、主との一致を保ちましょう。
286 心は主にささげる
(ドナーティ・ヴィンチェンツォ神父へ 1955年12月)
ドナーティ神父は、詩をもってチマッティ神父に心をささげると書いた。これはチ
私の詩は、あなた(マッティ神父の答え。)の詩ほどきれいではないが、受け取ってください。
わがヴィンチェンツォ、もし忠実であれば、
主が与えてくださるものはなんとすばらしい! ところが、Monsignore という惨めな者にではなく、心は、主に与えるべきものだ。
この返事を読んだら、ひざまずきなさい。心をもって人や世に愛着すべからず、と。
1956年 ‐ 1957年3月
全力を尽くすチマッティ神父
この間の大きな出来事は、エジプトの独立戦争によりスエズ運河に船が沈められ、東南アジア経由のヨーロッパからの定期便が消え、代わりに航空便が盛んになったこと。
日本も国連に加盟し、国際的に発言が強くなってきた。
調布の信者数が増え、日曜学校の活動も軌道に乗り、チマッティ神父は専用の聖堂を造ろうとしたが、資金が足りなかった。神学院の生活に目立ったことなく人数も変わらなかったが、来日する宣教師が減ってきた。
3月にタシナリ神父が修練長になった。
9月にチマッティ神父が戦時中に約束したマリアさまへの下井草教会の落成式が行われた。
ところが、1957年の3月、チマッティ神父の健康に急変が起こった。
* * *
287 教師である卒業生への励まし
(教え子カンドッティ・ファウストへ 1956年1月12日)
大きな喜びをもたらしてくれたお手紙を読( 昔の教え子への手紙に以下のように書いた。)んでキスをしました。あなたも私
の返事で喜ぶでしょう。ドン・ボスコのよい卒業生のヴァルサリチェ時代のわがファウスト君、日常生活の煩わしさが心配を増やすでしょうが、あなたはより積
極的に信仰生活を生き、主を信頼し、よく祈ればすべてを乗り越えられるでしょう。
手紙の中で触れている聖職者の問題。わがファウスト君、彼らがそうなっているのは非常に残念です。それは司祭のあるべき姿ではない。幸いに皆がそうなっているわけではない。世の中にも同じように悪者がいるが、皆そうではない。その人たちは神から厳しく裁かれる! 彼らのためにも祈りましょう。
あなたは、教育者として自分の生徒を立派な市民、よいキリスト信者に育てるようにしてください。悲観的な考え方を捨てましょう。それは、危険な怪物です。壊すだけで、建てることはしない。主が与えてくださった能力を麻痺させるだけです。わがファウスト君、快活で勤勉に生きるようにしましょう。仕事に善意と主への愛を入れなさい。困難なときにこそ、ドン・ボスコと扶助者聖マリアを忘れないでください。
288 カリタス会のために祈る
(宮崎カリタス会修道女総長日田モニカ・シスターへ 1956年7月15日)
師の誕生日のためにカリタス会の総長が書いたお祝いの言葉への答えである。
私の誕生日にあたって、カリタス会は韓国の会員を含めて祈りと貴重なプレ
ゼントを贈ってくださいました。どう感謝すればよいのでしょうか。
お返しとして他のものはなく、毎日、毎日、皆さんの会員のために、また会の発展や一人ひとりの霊魂の聖性のために特別な祈りをささげています。総長さまも、この年老いた私のためにお祈りください。神に感謝! ありがとうございました。
289 神学生への勧め
(カントーネ・カルロ神父へ 1956年7月15日)
夏休みのために野尻湖へ行っている神学生を思い起こし、言葉を送っている。 7月15日、78歳になり神さまの呼び出しが近づいてくることを感じます。皆さんにいつもの勧めを送ります。
1.快活でありなさい。陰気な人、他人に対して無関心な人、架空の夢を見る人、評論家やポーズを取る人がいてはなりません。素直で自然な、礼儀正しい態度を取りましょう。
2.身体と精神を働かせましょう。自分たちが働かないと頭(想像力)が働きます。また、自分の家に入ってはいけない者が入ってきます。それは誰であるかおわかりでしょう。
3.神が見ておられることを念頭において、仕事を神にささげるようにしましょう。
1956年 調布サレジオユース・センターの子どもたちと
4.祈りをもって一致を保ちましょう。私は、テレビで見るように皆さんを見ています。特にミサ中。また日中、誰かを思い出すときに、その人は私の祈りを必要としているのではないかと考えます。
290 病人には「十字架を受け入れること」
(バルバロ・フェデリコ神父へ 1956年9月19日)
神父さま、できるだけ早く完全に治る( 病気になったバルバロ神父への勧め。)よう(これは稀なことです!)に祈ります。
この場合、特にこの場合、自分のためや霊魂の救いのために価値があるのは、「み心が行われますように!」と祈ること。こう考えれば、喜び、信仰、愛をもって十字架を受け入れる値打ちがあることができる。ごらんなさい、どれ
1956年 野尻湖で「チマッティ街道 Via Cimazia」の作業中
ほどのよいことを主が与えてくださったことか! 祈りにおいて一致しましょう。
291 病人の祈り「み心が行われますように!」
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1956年10月2日)
神父さまに私が言えるのは、ただあな( 今度は協力者のグリゴレット神父のこと。)たのために祈っているということ。神父さまにおいて神のみ心が行われるようにと願っていること。私はよく「神のみ心に飲み込まれますように」、また「あなたが神のみ心を食べ、それを味わい、消化しますように」と言います。
聖フランシスコ・サレジオの考えはこれです。「このような場合の魂の祈りは、み心が行われますようにとすべきだ」。もし神父さまがご病気の間に(短いか長いかわかりませんが)信仰と謙遜をもって「み心のままに!」と言えるように
なったら、世界のすべての賞があたったよりも大きな儲けをしたことになります。
これ以上のことは、私に言えないのです。
1957年1月31日
イタリア大使からMedaglia della Solidarietà italianaの勲章を授かる
292 病人への勧め「み心に身を委ねること」
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1956年11月21日)
あまりに思い込む同じグリゴレット神父への新たな勧め。
神父さまのご病気のために必要なことはこれです。
1.医者を通して示される神のみ心に身を委ねること。
2.食べて、休んで、イエスとマリアと共に祈りにおいて喜ぶこと。
3.過去のこと、自分がやれたのにやらなかったこと等々を考えないこと。過去は、もう過ぎた。それを考えるのは無駄な重荷になります。病人には安心が必要です。それを考えることは損になります。
あなたを抱いて、祝福します。
293 私のことは、変わったことなし
(教え子カンドッティ・ファウストへ 1957年2月21日)
チマッティ神父は、自分の健康については次のとおり書いていた。
お祝いのハガキを出したところ、スエズ運河の問題が起こった。いつ届くかわからないので、もう一度出します。私のことは、変わったことなし。歳を取ったということはニュースになりません。一応、平常どおりに働き、神の恵みによりこれ以上望むことはありません。
イタリアでお目にかかれるかは、私もあなたも決められません。私に限って言えば、難しいことだと思います。でも、神にお任せします。
294 昔のように歌った
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1957年3月3日)
この手紙にあるとおり、チマッティ神父の生活は平常に進んでいた。ところが…
昨日、マルジャリア神父と一緒に昔のように歌ってきました。
25日、修練者は誓願を立てる。神父さまは相変わらず、わが道、真理、命である主のために明るく、勤勉に働いていると思います。日本のためにもご協力を続け、天国での報いを待つようにしましょう。
1957年3月 〜
弱った院長チマッティ神父
1957年3月22日、元気だったチマッティ神父の生活が急変する。
ミサの後の祈り中に倒れ、すぐ聖母病院に運ばれた。薬を使ったことのないチマッティ神父の体は治療によく反応し、一週間後、仕事に戻ることができた。言
葉が引っかかるという軽い後遺症があるが、院長としての生活は順調に続けることができた。本人は神のみ手からこの試練を受け入れた。すべての手紙の中にその深い信仰が表れてくる。院長の任期は1958年末までだったが、さらに1962 年3月まで延期された。
* * *
295 自然を歌いながら倒れたチマッティ神父
(ドナーティ・ヴィンチェンツォ神父へ 1957年3月21日)
チマッティ神父がついに倒れた。ドナーティ神父がチマッティ神父に春についての詩を書いたので、自然科学博士チマッティ神父も学者らしく答えようとした。寝る前にそこまでイタリア語の文を書き、次の朝、脳梗塞で倒れた。4月1日退院し、
7日、テーブルの上に残っていた手紙を書き続けた。
Primavera, primavera! 春よ、春よ!
Sempre bella, sempre vera 常に美しく、常に本物
Sorgi e impera! 立て、支配せよ!
Tu pervadi l’ atmosfera あなたは大気圏を満たし
Tu rinnovi l’ idrosfera 水圏を新たにし
Incessantemente いつまでも
insieme con la litosfera… 岩石圏と共に…
(ここまで3月20日の手紙。4月7日、退院してからその続きの文を書いた)
いちばんよいときに、主はヴィンチェンツォの傲慢を砕いてくださいました。わがよいイエスよ、感謝いたします。死に至るまでの病ではありませんでした。一時赤ちゃんになったが、わが先生、お母さん(マリア)が導いてくれて、今も導いてくださっています。昨日から仕事に戻ることができました。
296 赤ちゃんに戻った
(ジジョッティ・レナート総長へ 1957年4月13日)
神父さまのご親切に対して、どう言えばよい( 教え子であった総長に病気の経緯を伝えた。)でしょうか。「天の杯を受け入れます」と言いましょう。
何だったのでしょうか。香部屋でミサに与っていたところ、自分の部屋に運ばれてしまい、話せなくなっていたが、意識は完全でした。ゆるしの秘跡を受ける日だったので聴罪司祭を呼び、管区長も来て、私が額に十字架のしるしをして病者の秘跡を授けられました。その後医者が来て病院に運ばれ、話せない赤ちゃんのようになり、「まんま」を食べさせられました。その後お母さん(マリア)の出番でした。幼子イエスを育てたので経験があります。イエスさまから小さいヨハネ・ボスコにも先生として与えられました。「まんま」を作れるだけでなく、立派な先生でもあります。一週間で十分に話せるようにしてくれました。神に感謝!
4月1日退院し、4日にミサを立て、5日には十分に話せる自信がつきました。病気になる前に私が新年度を準備する講話には「見よ、私はすべてを新しくする」という主の言葉を書いていましたが、主は「あなたから始めよう」と言って、私を子どもにしました。入院一週間の間、謙遜についてよく黙想し(私にはとても必要です)、今まで体験したことのない謙遜の教訓を与えられ、お母さんと主に近づく機会も与えられました。子どもになったことによりその実感を得たのです。
ルイジ・デルコル神父は、私が1週間で体験したことに基づいて「まことの光」という詩を作ってくれました。 なんとすばらしい音楽! 神父さまはそれを聴くためにもう一度日本に来られたらどうですか。
297 まことの光の歌詞
(548番 1957年4月上旬)
次はデルコル神父の歌詞、チマッティ神父が心を込めて作曲した歌。
おおマリア 天の后 O Maria, del Ciel Regina
私の愛のやさしい母 やさしい母 mia dolce Madre amata, dolce
Madre,
やさしい母 マリア dolce Madre, Maria.
世の中すべて暗闇で Nel mondo tutto è buio
おん子イエスとあなたのみ solo il tuo Figlio Gesú e tu
心を照らすまことの光 siete la vera luce del cuore
世の中は暗闇で Nel mondo tutto è buio
イエスとマリアのみ solo Gesú e Maria
298 勲章は何のためか
(教え子フラキア・イタロへ 1957年6月30日)
イタリアの政府から勲章を与えられた。それを喜んだ教え子にこう書いた。
思い出してくださったことをありがとうございます。
勲章のことですか! 誰に感謝すればよいかさっぱりわかりません。誰がその運動を起こしたか、何のためにやったかも理解できません。ともかく、天国に入るときに主がメダルをくださいますように祈ります。
またお目にかかれるか。天国では確かにそうですが、日本か、イタリアか、他の所か、これは主の問題です。現状から見て、帰る機会も帰る必要もないと思います。その理由がおわかりでしょう。だから、先にこの世を去る人は、天国の入り口で友だちを歓迎すればよい! 今は、互いのために祈りましょう。
あなたを抱いて、祝福します。
299 カリタス修道女会の創立について
(カヴォリ・アントニオ神父へ 調布1957年7月7日)
カヴォリ神父がカリタス修道女会の創立20周年のために一言を頼み、チマッティ神父は教皇ピオ11世が邦人修道会の創立を勧めたことに従って1937年8月
15日にそれを創立した経緯を思い起こして二人の役割を示した。
親愛なるアントニオ神父さま、遅くなってすみません…。
教皇さまが書かれた回勅に基づいて私たちがカリタス会のために行ったこと
に関して疑問を抱く理由はないと思います。あのとき、私の義務は命令すること、または勧めることでした。あなたの義務は実行することでした。現在の結果を見て、主が私たちの従順を祝福してくださったことが証明されました。神に感謝!
お互いのために祈りましょう。
ヴィンチェンツォ・チマッティ神父
追伸──私は義務という言葉に下線を引きました。
300 長上に身を委ねます
(ダルクマン・ヨハネ管区長へ 1957年7月27日)
黙想会で書いた報告に管区長の手に身を任せた。なお、このときに、戦前に作曲したオペラ『細川ガラシア』を完成するように頼まれて、二幕から三幕に書 健康に関してはご存じのとおりです(き直した。その後この形で上演された。)。体調は病気以前と同じのようですが、完全でないのは言葉だけ。これは元の状態に戻らないでしょう。これは神のみ心だと信じます。私は、喜んでそれを受け入れます。私の心配は務めを果たせるか、他人に害にならないかということです。もしこのために誰かが害を受けるなら、思いのままにお決めください。私は、主の前に立って調布でも他の場所でも、今の立場や他の立場でも結構です。すべてにおいて神のみ心を行いたいと思います。
会員や外部の人がホイヴェルス神父のオペラ『細川ガラシア』を上演したいので、作曲を頼んできました。前もって許可を願えばよかったと思いますが、大した仕事ではありません。
301 すべては神の恵みです(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1957年8月1日)
本部のゼルビーノ神父に自分の健康についての心情を打ち明ける。
私の回復のために祈ってくださったことを感謝いたしますが、お願いします。
「私において神のみ心が行われますように」と祈ってください。私は、この病気のために主に感謝します。周りの人は、私が健康の巨人だ。演説家、歌
手、作曲家、また教育学、自然科学、哲学の博士、いろいろな分野の指導者、サレジオ会のために働ける者だと思っていました。ところが、数秒だけで子どものようになりました。ああ、主がこのような恵みを多く与えてくださいますように! 私は神のみ心を明らかに見ています。主は、頭も自由意志も、心も残してくださいました。今はまだ書くことができます。言葉が不自由なのは謙遜のためです。大切なのは魂の救いです。
1958年
元気を取り戻したチマッティ神父
病気の後遺症があってもチマッティ神父の健康は安定し、精力的に働けるようになった。
イタリアにサレジオ会の総会が開催され、断った本人の代わりにタシナリ神父がダルクマン管区長と一緒に出席した。本人は不在の管区長代行となり、半年
間、管区全体を見る立場になっていくつかの回書も出した。さらに、以前実現できなかった信者のための聖堂の計画も復活させ、献金を募ることにした。
1958年は、ルルドの聖母出現100周年であった。チマッティ神父はそのために作曲し荘厳に祝った。
10月にはピオ12世が帰天し、ヨハネ23世が選出された。高齢で中間的な教皇だと言われたが、その親しみやすさで人を惹きつけ、第二バチカン公会議を召集するという大胆な行動で世界を驚かせた。それは、チマッティ神父の存命中に行われた公会議である。
* * *
302 苦しみの十字架
(都井岬の信徒石上アグネスへ 1958年1月5日)
チマッティ神父が宮崎教会の主任司祭だった古い時代の知人へ。
お手紙、特にお母さまの受洗のニュースを大変喜びます。神に感謝!
マリア・アグネスさんは、福音書の中に奉仕するマルタと、イエスさまを愛するマリアの二つの役割を兼ねています。主は、苦しみの十字架をお与えになったことを、主と共に喜びましょう。「この世の苦しみは一時的であり、受ける報いは永遠である。この地上でイエスとともに苦しむなら、主とともに栄光の冠を受ける」と書いてあるとおりです。主に愛されているので喜びましょう。
私は、都井岬とご家族を忘れません。特に聖母のルルドの出現100周年を祝う今年は、ご家族にとって祝福に満ちた一年であるように祈ります。年老いた宣教師であるこの私のためにお祈りください。
303 天国で会いましょう
(ロマーニ・ウルデリコ神父へ 1958年1月6日)
調布サレジオ神学院の元院長だったロマーニ神父は、チマッティ神父がイタリ
私の健康は、おかげさまで主が望まれると(アにくるように招待した。本人は丁寧に断った。)おりです。昔のように皆への演説、説教、講話ができませんので、ご招待に応じられません。主は、私の魂を愛し、私の傲慢を砕くためにこうしてくださったのです。ご存じのとおり、傲慢は私の特徴であり、弱点でもあります。結論は、天国で会いましょう。神父さまが日本に戻ってくだされば別ですが、これも神のみ心によることです。
私としては、神の愛のうちに死ぬために、み心に食い尽くされたいのです。
今、以前のオペラ『細川ガラシア』を完成するために働いています。イタリアのことわざのとおり、「バラなら、咲く!」と。主が、神父さま、協力者、学生を祝福し、報いてくださいますように。
304 よき死の練習は役立つ
(アチェルビ・フランコ神父へ 1958年1月30日)
「死が怖い」と書いてきた中津教会の主任司祭アチェルビ神父へ。
神父さまは、死が怖いとおっしゃる。そのために、ドン・ボスコが勧めている毎月のよき死の練習をよくしてください。信者にもそう勧めましょう。これはとても役立つものです。
神父さまの回心のために必要なのは、次のことです。
聖人になりたいという熱望。毎日、一歩進み、祈りに合わせて、快活さと勤勉さを保つこと。
快活さは、神と人々との平和を前提とします。
勤勉さには、自分の務めを実行するための犠牲の精神が必要です。
祈りと愛徳のうちに互いに一致しましょう。神父さまを抱いて、心から祝福します。
1958年3月9日 新司祭から祝福を受ける 左側はコンプリ神父
305 他人の批判を気にするな
(リヴィアベッラ・レオーネ神父へ 1958年3月27日)
来日の第一グループの一人だったリヴィアベッラ神父は、碑文谷サレジオ教会の主任司祭で、とても勤勉であったが、他人の批判を気にしていた。チマッティ 神父さま、他人の言うこ(神父はこの手紙を書いた。)とを気にしないで、自分の務めに最善を尽くしましょう。私もそうします。残念ながら、神父さまに協力したくても、それができない状態です。
神父さまを批判する人は、その仕事の量がわからず、その結果も見ない、やり方もわかっていません。
神父さまは、「調布が寝ているとき、レオーネ神父は仕事している」とおっしゃる。これに賛成しません。そうする必要もないし、役にも立ちません。私の考えでは、長上の許可がなければ、夜の仕事の上に主の祝福がないのです。 306 余計な心配をするな
(クリンゲル・アッティリオ神父へ 1958年4月15日)
以前、チマッティ神父の標本の研究によく協力していたクリンゲル神父は、宮崎日向学院の小神学校の担当者だった。神経が細かく、健康のことをいつも心
神父さまの(配していた。)心身の健康のために何回も申し上げたことを繰り返します。
「主とマリアさまの手に寛大に身を委ねなさい」と。神父さまの健康はありのままです。それは、主が与えてくださった十字架です。できるだけ治療しながら、余計な心配をしないでください。小さなことにも祈りと犠牲の精神を合わせることは、よい薬になります。「主よ、あなたのため、私の落ち度、また委ねられた人の落ち度を補うため!」と言いなさい。そして、明るい気持ちと喜び、忍耐をもって、自然に、素直に、できるだけ自分の務めを果たし、結果において自己満足や他人の誉れを求めないようにしなさい。目標はいつも主、主だけ、すべてにおいて主だけ。先ほどの祈りのとおり、「主よ、あなたのためです!」と言いなさい。
307 日本がキリスト教にならない原因
(ラステッロ・フランチェスコ神父へ 1958年6月12日)
イタリアのサレジオ会機関誌の担当者だったラステッロ神父は、日本の宣教活動についての意見を求めてきた。次は、チマッティ神父の答えはこれである。
いつも神父さまを思い出しています。お互いにそうしましょう。自分の務め
を果たしながら、よき死、否、本当の命を、準備しましょう。左「La vera Luce 真の光」の自筆原稿1、右「La vera Luce 真の光」の自筆原稿2
神父さまが質問なさった日本の宗教の現況については、この頭の空っぽな私の判断はこうです。
以前言われてきた「日本のとき」は、まだ来ていないと思います。戦後、
日本は目覚めたと思われたが、今、宣教師や宣教の手段が増えてきたにしても、リズムは前と変わらないようです。原因は何でしょうか。宗教的な伝統と言葉の困難、宣教師たちの準備不足、また公立学校の道徳教育が土台を見いだしていないことです。なお、ミッションスクールで人材不足のため信仰のない先生たちが教えていること。その他に、日本の文化、学問、マスコミは、外国の信仰を無視する国々と同じ道をたどっていることです。
308 主が望まれるままに
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1958年9月29日)
グリゴレット神父は、チマッティ神父と同じように弱っている状態であった。
私はいつものように神のみ手にあり、神のみ心に従って働き、できるだけそれに順応するように努めています。以前のように働けないことは気にはなりますが、私たちの功徳は、今、主が望まれるときまで、ここで、今の状態で、主が望まれるまま、すべてを受け入れることです。慌てたり、嘆いたり、残念がったりすることは、心を弱めるだけです。
いつも快活で、神の完全な愛のうちに死ぬことができるように、祈りと愛のうちに一致しましょう。
309 サレジオ会員への最後の回書
(サレジオ会員へ 1958年11月10日)
管区長の不在中、チマッティ神父はその代行をやってきた。最後に、協力して 11月14日午後、親愛なる管区長がお戻(くださった会員たちにこの手紙で感謝した。)りになり、代行としての私の任務が終わります。務めを果たせるように皆さんがご協力くださったことを感謝し、毎日、その事業のために祈ることを約束いたします。
この期間中、より親密に付き合うことができて、管区のために協力し合ったことの結論として、新教皇ヨハネ23世のモットー「従順と平和」が各自のものとなりますようお勧めいたします。私たちにおいて神のみ心が実現し、会憲を忠実に守り、実りとして真の平和が実現しますように。私のためにお祈りください。
310 ルルド出現100周年の祝い
(調布の日誌より 1958年12月7-8日)
祝いの雰囲気を作るために、チマッティ神父は外見の飾りも大切だと教えていた。
マリアさまのルルド出現100周年のために建物のイルミネーションを行った。暗闇の中で傑作だった。多くの近所の人も見るために集まってきた。とてもすばらしかった。
7日にアカデミアがあり、8日に荘厳な歌ミサがささげられた。
1959年
更新された院長職
チマッティ神父の院長職は6年で任期終了であるが、さらに3年延長された。
体が弱っていた本人にとって、最後まで力を振り絞る機会となった。
7月に80歳の祝い。そのときのミサとその後のアカデミアが録音された。
その機会に長年念願だった信徒の聖堂を建てる資金集めにも力を入れた。
12月20日、小規模だったが聖ドメニコ・サヴィオにささげられた聖堂が落成された。
このころの手紙には、以前よりもよき死を準備する話が出てくる。
* * *
311 宣教師になりたい人のため
(プッポ・オランド神学生へ 1959年2月12日)
後に宣教師として来日したアルゼンチンの神学生からの手紙が来た。それに対 お祈りを(する返信。)感謝します。祈りは、宣教師のため、人の救いのためにもとても必要です。日本が回心するには、私たちも彼らもひざまずかないといけないのです。
宣教師になりたい皆さんには、ドン・ボスコのモットー「Da mihi animas 私に魂を与えたまえ」に憧れ、日常の務めをよく果たし、イエスさま、我らの母マリアさま、ドン・ボスコを愛し、快活、勤勉であることが必要です。私が神の愛のうちに死にますようにお祈りください。心から皆さんを祝福します。
312 聖人になることは難しくない
(アチェルビ・フランコ神父へ 1959年3月27日)
また聖人になることについての中津教会の主任司祭への答えである。
サッカーボールを蹴るチマッティ神父
お手紙ありがとう。しかし、私は神父さまの考えに賛成しません。
神父さまは、聖人になることは不可能だと言う。それは間違いです。もし望
めば、聖人になれるし、またそれはそれほど難しくもなく、むしろ、とてもやさしいことです。もちろん、神の恵みによりますが、自分が望めばできるのです。
そのためには、自分の務めをよく果たすだけでよいのです。
快活でよく働きましょう。
313 教え子を思い出している
(教え子フラッキア・イタロへ 1959年7月28日)
よく思い出してくれるヴァルサリチェ時代の教え子たちの会長へ。
愛情と情報に満ちたお手紙ありがとうございます。ついに信者のための聖堂の工事が始まりました。
15日に80歳になりました。おかげさまで、支部の指導、授業、宣教の務めを何とかしてこなしています。すべてにおいて神のみ心が行われますように! 私がよき死を遂げ、神の完全な愛のうちに、親愛なる母扶助者聖マリアのみ手に死ぬことができますようにお祈りください。
オペレッタ『マルコ漁師』を思い出してくれてありがとう。今年、ここでは『エリコの盲人』を上演して大成功しました。日本では、『マルコ漁師』、『エリコの盲人』、『ヴィスニュ』、『放蕩息子』など、またヴァルサリチェの時代以降に作曲したいくつかの他のものも上演されます。
毎日、ご家族を思い出します。快活、勤勉でいてください。愛と祈りにおいて一致しましょう。
314 天国への憧れ
(ヴァレンティーニ・エウジェニオ神父へ 1959年12月5日)
クリスマスと新年、お祝い申し上げます。お互い( サレジオ大学の学長になっている教え子への挨拶。)のために祈りましょう。特に私のよき死のためにお祈りください。私が義人の死を遂げ、親愛なる母マリアのみ手のうちに死を迎えることができますように。
わがヴァレンティーニ神父さま、天国に入るときに天使たちが楽器を弾いて歌ってくれるなら、なんとすばらしい音楽でしょう。どう思いますか、あまりに高望みなのでしょうか!
まあ、煉獄もあるでしょう…。お祈りでお助けください。
1960年
体力が衰えるチマッティ神父
81歳のチマッティ神父は次第に体力が衰える。生活には大きな変化はないが、神学生の大部分は日本人となり、本人は以前より言葉の限界を感じた。
この一年で記念すべきことは、オペラ『細川ガラシア』が上演されたこと。
3月3日、東京の土井辰雄大司教が日本の最初の枢機卿とされたこと。
オリンピックが1964年に東京で開催されることが決まり、日本全体は活気づいている。経済効果も期待された。
* * *
315 管区長への報告
(ダルクマン・ヨハネ神父管区長へ 1960年2月3日)
今月は特別な問題はなく、平常のとおり順調( 師は、毎月長上への報告を忠実に行っている。)に進んでいます。自分の多くの不足を直すために善意も弱まりません。主とマリアさまがあらゆる意味で助けてくださっています。
健康は相変わらずですが、階段を上るとき息苦しくなることがあります。特に、遅れないために走るときにそうなるのです。
勉強と仕事に関しては頭がまだ働きますが、年老いたので以前のようなエネルギーが出ません。他人に勧める「できるだけのことと、もう少し」ということは、自分も実行しないといけないのです。特に霊的生活のために。祈りにおける私の困難は、機械的になることです。もっと深めるべきです。
お祈りのご協力をお願いいたします。
来日第1陣の生き残り4名 左からグアスキーノ、カヴォリ、チマッティ、リヴィアベッラ
316 一日一善
(ボヴィオ・フェリーチェ神父へ 1960年4月12日)
大分県の教会で働いていたボヴィオ神父への励ましの言葉。
神父さまは、教会の仕事に進歩がない、いつも出発のところだと言っています。
これについて聖フランシスコ・サレジオは、「毎日一歩進み、積極的に仕事をし、大したことをやっていないと思っても、毎日再出発をする。これが主の精神があることのしるしだ」と書きました。
神父さまも自分を改善しながら「一日一善」を実行してください。任せられ
ている教会の困難なことは、昔の宣教師たちも体験しました。成果が上がらなくても、できるだけ務めを果たすのです。
以前の総長フィリッポ・リナルディ神父は、同じく困難について報告した故ピアチェンツァ神父にこう答えました。「十字架上のイエスさまの福音宣教の結果を見てください。皆彼を捨てて逃げた、と書いてあるのではありませんか」。私たちも、できる限り自分の務めを果たしたうえで、イエスさまがなさったようにしましょう。結果は、自分によるのではなく、いろいろな事情によるのです。 快活さと勤勉さによって主と一致し、霊魂を愛して祈りましょう。神父さまを抱いて祝福します。
317 自分のエゴに勝て
(デランジェラ・ステファノ神父へ 1960年4月12日)
学校で働いて困難に遭っていたデランジェラ神父への言葉。
神父さまはおっしゃる、「主に対して直線、長上に対してジグザグ線で」と。
私にはよくわかりませんが、聖書が言うには「すべての権威は神からくる」と。私はいつも直線です。私たちの困難、心配、迷い、余計な想像は、頭、
心、自由意志と体が神のものではなく、自分のものだと思っていることから来る。
ああ、私たちのエゴ! 神(イタリア語Dio)とエゴ・我(イタリア語 io)が一致しないとき! その場合、神は我(io)となる。おわかりですね。すべては自尊心の問題です。だから主は「自分を捨てなさい」と言っています。
私たちは司祭です。「全世界に行きなさい!」と言われました。狭い範囲に閉じこもることなく、いつも人々の霊魂を目の前に置いて神へ導くのです。彼らを主の心の中に入れて、自分も一緒に入る。主と共に働き、共に祈り、共に書き、共に話す。
ドン・ボスコが神父さまに言いたいことを繰り返します。「快活で(そのために心の平和が必要です)、働き(余計な想像をしないで行動します)、愛と祈りをもって神と人の魂と一致しなさい」と。
互いのために祈りましょう。神父さまを抱いて、祝福します。
318 神のみ心の中に沈むように
(ジジョッティ・レナート総長へ 1960年6月14日)
教え子であったサレジオ会の総長に自分の心を打ち明ける。
私は老人として、主のおん助けにより務めを果たすように努力しますが、より大きな努力と完徳が必要だと感じます。み心の中に沈むようにしたいのですが、努力すればするほどまだ遠いと感じます。自分も、他人に勧める快活、勤勉さ、愛と祈りにより、神と人と一致すること、これを実現するようにしたいです。 サレジオ会の大きな責任と十字架を背負っている神父さまにも、これが役立つことではないかと思います。お互いのために祈りましょう。
319 病んでいる神父に
(カスティリオーニ・アルベルト神父へ 1960年11月15日)
カスティリオーニ神父は長年日本で働いて、病気のためにイタリアに帰っていた。
神父さまの健康の具合を伺いました。いちばん大切なのは、神のみ心に身を委ねること。日本での神父さまの数年前からの宣教は、委ねられた人々のために苦しみと十字架をささげることでした。今もそうです。イエスもその手本を示してくださいました。その福音宣教の頂点は十字架でした。
このような場合、聖フランシスコ・サレジオは、忍耐をもって神のみ心を受け入れて「み心が行われますように!」と身を委ねることを勧めていました。主がこの祈りが受け入れてくださいますように祈ります。よい看護師であるマリアさまを通して慰めと平安がありますように。
320 日本の回心のため
(マンガネリ・ジュリオ神父へ 1960年12月17日)
1927年、副総長リカルドーネ神父が来日したとき、( マンガネリ神父は当時ドン・ボスコ社の社長だった。)東京で一緒に山本信次郎師を訪れて質問しました。「日本はいつ回心するでしょうか」と。「それは、数多くの観想修道院が日本にできて、熱心にそのために祈るときでしょう」と彼は答えました。
同じときに、当時の教皇庁使節だったジャルディーニ大司教も、「日本が回心するには、2世紀もかかるでしょう」と言いました。私たちは、祈りながら種を蒔くようにしましょう。それと共に犠牲、忍耐、謙虚も必要です。また、そのために聖人にならないといけないのです。
1961年〜1962年3月院長の任期終了まで
チマッティ神父の体はますます弱まり、手紙でそのことをよく訴えている。
1月半ば、後に後任となったクレヴァコーレ神父が副院長として任命された。
6月15日、神学院の教授陣の中心カントーネ神父がローマのサレジオ大学に呼ばれ、教授陣が弱まった。
9月に管区長ダルクマン神父の任期が6年延長された。
10月に第二バチカン公会議が開始され、終了はチマッティ神父帰天の2カ月後1965年12月8日であった。
12月22日、大分教区が設立、平田三郎が初代司教。チマッティ神父教区長の宮崎・大分知牧区が過去の思い出となった。
1962年3月、クレヴァコーレ神父は、チマッティ神父の任期終了で神学院の院長になった。
* * *
321 聖フランシスコ・サレジオの精神
(チマッティ神父の講話より、1961年1月20日)
チマッティ神父の霊性はドン・ボスコの霊性。しかし源泉は聖フランシスコ・サレジオである。サレジオ会の名前もそうである。チマッティ神父は両方に通じて 聖フランシスコ・サレジオの祝日は、サレジオ会の(いた。その祝いのために書いた短い文書を紹介する。)初期において最高の祝いの一つだった。1854年にドン・ボスコがこの聖人を自分の事業の保護者にしたのは、愛徳と柔和を特徴とする聖人だったからである。
私たちは今、その祝いを準備するために毎日その言葉を読んでいる。サレジオ会員であることを自覚するためには、その精神を知るべきである。なぜなら、ドン・ボスコの精神は、聖フランシスコの精神に基づいているからである。「主を愛し、主が愛されるようにする」という目標、またドン・ボスコの「私に魂を与えたまえ、Da mihi animas」というモットーは、共に聖フランシスコ・サレジオから来る。私たちの修道会の特徴「仕事、信心、愛徳(家庭的な精神)」もそうである。
聖フランシスコ・サレジオはこう教えている。「真の信心をもっている人は、神に心を上げるために祈りという翼、また人々と共に歩むために愛情という足をもっている」。だから、ドン・ボスコの信心は活動的である。
さらに聖フランシスコはこう言っている。「仕事は、どんな仕事であっても主との一致を妨げない」。だから、ドン・ボスコは、仕事のときにもいつも主に心を上げるようにと、私たちに勧めている。
322 求道者の友人のために祈る
(木村光男、音楽の教え子へ 1961年2月8日)
この方は、戦時中三河島教会でチマッティ神父から音楽を学んだ人である。
お手紙ありがとう。私は今82歳になりました。院長として神学生のために働
いていますが、もはや神さまに召されるときが近づいてきています。主の愛のうちに死ぬことができるようにお祈りください。
今、あなたが教会で学んでいることはすばらしいことです。安心してその指導に従って主を求めてください。ご家族のためにも祈ります。声を失ったとは残念ですが、主のみ手からそのことも受け入れ、主がそのことから善を引き出すことができると信じましょう。カトリックの教えを学んで信仰の恵みを得れば、心から湧き出る歌で主をたたえることができるようになります。お元気で、主が祝福してくださるように祈ります。
323 司祭叙階60周年を目指す友人へ
(ヴァルサリチェ院長マルティノッティ・カルロ神父へ 1961年2月16日)
司祭叙階60周年記念を目指す友だちにお祝いの言葉。
神父さまのお手紙は遺言みたいなもの。やはり、死ぬことも生きることも主に委ねましょう。
神父さまの目標は1966年。私は1965年です。私は毎日、神父さまのため
野尻湖で食事の準備
にこう祈りましょう。「わが主よ、もしこの司祭の霊魂のために、また委ねられた人々のためにそれが役立つならば、1966年まで彼にその慰めをお与えください。そのために働くことができますように、わが主よ、カルロ神父の願いを聞き入れてください」。これでよろしいのでしょうか!
私は、友だちに書くとき、いつも、私のよき死のために祈ってくださるように願います。
324 ドメニコ・サヴィオのきれいなご像を願う
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1961年6月8日)
サレジオ神学院の聖堂の前にきれいなドメニコ・サヴィオのご像が飾ってある。 私が今いちばん気にして(その由来はこの手紙にある。)いるのは、ドメニコ・サヴィオのご像です。大理石でもよろしいが、大切なのは、美しいものであること。大きさは1 メートルぐらい。手に十字架を持っている姿が好きです。宣教を表すからです。いずれに
せよ、美しいものをお願いします。資金を準備していますから、早くできますように。
主が報いてくださいますように! 私はそのために祈ります。主の栄光のため、またドメニコ・サヴィオが若者の救いのために働いてくださるためです。
325 溝部脩神学生への励まし
(フランシスコ溝部神学生へ 1961年8月5日)
溝部神学生はローマで勉強中だった。後に司教になった方である。 お手紙ありがとう。調布の友だちは夏の仕事のために各支部に散っています。
私は82歳になって、何とか仕事をやっています。今年度で院長の任期が終わります。私のよき死のためにお祈りください。神の完全な愛のうちに死を迎えますように。
勉強しながら、内面の働きを忘れないでください。「毎日一歩」、また「水のしずくが岩を掘る」。何があっても「心配するな」ということを覚えてください。
毎日あなたを思い出します。
326 司祭への勧め
(韓国の宣教師スピース・ライモンド神父へ 1961年12月27日)
この方は、日本から韓国に派遣されたサレジオ会員。
神父さまへの勧めとして、ドン・ボスコが友だちに与えていた「健康と聖徳」ということにします。
健康は、神の恵みとして務めを果たすために必要です。それを保つにはドン・ボスコが宣教師たちに与えた11番目の勧め「健康を大事にし、体力に応じて働きなさい」ということを守ればよいです。
聖徳は、神の恵みでありながら自分の一生の霊的な働きにもよります。特に次のことが役立ちます。
まず、いつも快活であること(神と隣人の平和を保つことによって)。
次は、勤勉であること(毎日の自分の務めを果たすことによって)。
そして、愛と祈りをもって神と人々との一致を保つこと。これを守れば間違いなく聖人になります。
私のよき死のためにお祈りください。神父さまを抱いて祝福します。
327 退任にあたって
(ダルクマン・ヨハネ管区長へ 1962年2月23日)
任期が終わるチマッティ神父の、院長として管区長への最後の報告である。
今日、よき死の練習にあたって報告を書きます。
務めに関しては、神父さまは私の不足と困難をご存じです。祈りと手本で補うようにしますが、これだけでは不十分です。学生の利益、会員の霊的な養成のためにもっと考えるべきです。
このごろの主への祈りにおいて、私がよき死を準備し、力に応じて人のために働ける状態に置かれることを願っています。ご遠慮なくお決めください。どんな仕事と地位、どんな場所、海外でも、どんな命令でも、神のみ心として従います。神に感謝!
愛徳に関しては、どんな人に対しても不満、冷たい態度はなく、ただ、隣人に対する私の愛が神の愛の中において霊的なものにすべきだと感じます。
328 大分教区の誕生
(ジジョッティ・レナート総長へ 1962年3月7日)
1950年、聖ザベリオ宣教会が宮崎県を担当することになったことで、チマッティ神父の活動の場の思い出が半分消えた。また大分教区が生まれ、このことに 今度の3月26日、大分の(よって知牧区の名も消えた。)新しい司教の叙階式が行われ、これにより宮崎・大分知牧区が終わり、大分教区が生まれます。日本におけるサレジオ会の活動の場の名も消えます。
私は過去をふり返る習慣はありませんが、今回、少しだけふり向いて見れば、私の足りなかったことを主がゆるしてくださると希望します。実現したよいことはすべて神の恵みです。神に感謝!
主は何年も前から知牧区への愛着を断ち切ってくださったが、ときどき、そうなったのは私の準備不足や他の不足のためではないかと反省します。また、自分が本当に神のみ心に従ったかという疑問が心に浮かんでくることがあります。今回の司教の叙階式により、知牧区の名前への執着も完全に消えてしまうのです。
329 チマッティ神父任期満了
(調布支部の日誌より 1962年3月19日)
年度の終わりに発表された辞令によりチマッティ神父は調布に残り、ここが終着駅となる。次第に神学院の姿も変わり、授業は外の神学校が望ましいという考え方になってくる。戦前の姿に戻るのである。
1961年
今日、聖ヨセフの祝日に管区長は「爆弾」(新辞令のこと)を落とした。
言葉より手本をもって9年間指導してくださったMonsignorチマッティは、任期終了で院長職を退く。生きた手本としてこれから私たちと共に残る。新しい院長はアルフォンソ・クレヴァコーレ神父。皆、温かく彼を歓迎し、快く従う気持ちを表す。
いちばん意外な爆弾は、カルメル・シモンチェリ神父が副院長になること。またジョルジョ・ベルッチ神父が神学生の係となること。さらに、コンプリ神父が異動すること。しかし、その辞令はまだ発表されない。(5月1日中津ドン・ボスコ学園の院長となったのである)。
1962年4月〜1963年5月チマッティ神父の夕焼け
チマッティ神父は、1963年の5月まである程度元気だった。特別な任務はなかったが、積極的に共同生活に参加し、音楽、科学標本の整理、図書館の本の登録、外国の恩人への文通などに関わり、10月からは支部の日誌も任せられた。夏休み中、野尻湖に行って多くの標本を採集した。
11月、宮崎で伊東マンショ帰天350周年の記念祭に参加し、帰り道、昔の宣教地を訪れた。
教会の大きな出来事は、第2バチカン公会議がローマで開催されたこと。チマッティ神父はその成り行きに深い関心を寄せていた。
1963年1月29日イタリア政府から新たな勲章を授けられた。
その生活に大きな変化はなかったが、5月に体力が急速に衰え、30日桜町病院で診察を受けそのまま入院し、その闘病生活が始まったのである。
* * *
330 新しい院長への従順
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1962年3月15日)
指名された新しい院長に対して最初の手紙でその従順を表す。
先日、管区長から神父さまが院長に選ばれたことを伺い、神父さまの上に神さまの恵みを願いました。
管区長はいろいろなことを助けるために調布に残れと知らせてくださいました。このために神に感謝! どうぞ、従順をもって院長さまに従います。私の
弱さを忍び、私が自分の霊魂を救い、神から召されるときによき死を遂げることができますようにお助けください。
日向学院にて
331 できるだけ仕事をする
(ゼルビーノ・ピエトロ神父へ 1962年6月8日)
総長の秘書をやっているゼルビーノ神父に自分の近況を知らせる。
今日、日本26聖人殉教者の列聖100周年の日。私は、新しい辞令により調布に残り、少し仕事があります。授業、音楽、恩人への宣伝、また資料室の標本を整理する必要があります。貴重な図書館も贈呈され、その中に日本関係の文献1000冊ほどあります。その整理も行っています。おかげさまで、頭も、手も、足もまだ使えます。私のよき死のために祈ってください。
ジジョッティ神父にこう伝えてください。「勧めてくださったとおり今の立場で修練者のような生活を送ることは難しくなく、むしろ、楽しく、霊的にもとても役立ちます」と。主において、愛と祈りのうちに一致しましょう。
332 よき死を願う
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1962年8月5日)
いつも愛情に満ちている神父さまの( いつもの親愛なるグリゴレット神父へ。)お手紙に答えます。今年の夏休み、野尻湖に行くことになりました。
いくらか仕事があり、祈る時間も多くあります。神父さまを忘れません。
ときどきふと思うことがある。母も姉も84歳で亡くなった。もしかしたら、主は同じ年に…。そのために、「貧しいヴィンチェンツォが神の完全な愛とわが母マリアのみ手の中で死にますように」とお祈りください。
333 人の洗礼名日を思い出す
(コンプリ・ガエタノ神父へ 1962年8月6日)
チマッティ神父は聖人の特徴をよく知っていて、霊名日に思い出していた。中津のドン・ボスコ学園に赴任した私の霊名の聖ガエタノは「venator animarum 明日、愛と祈りのうちに神父さまと一緒に一日を(魂の狩人」と言われ、毎年思い出してくれていた。)過ごします。守護聖人の取り次ぎにより、神父さまも本当の「魂の狩人」となりますように。特に自分の魂の狩人になってください。
毎日神父さまを思い出します。神父さまも年老いたこの友を忘れないでください、よき死を遂げられますように。
今日、イエスのご変容の祝い。神学生は皆高い山に登っています。わがガ
エタノ、私たちも自分の魂のために「excelsiorより高く!」登るようにしましょう。
334 責任ある人への勧め
(コンプリ・ガエタノ神父へ 1962年9月9日)
ドン・ボスコ学園の責任者だった私は人間関係に困難を感じていて、手紙で 私の健康のためますますVincenzo(勝(チマッティ神父の指導を仰いだときの返信。)利者) になるように祈ってくれたことを感謝します。黙示録2章の七つの教会の天使が、「Vincenti勝利者」に約束したことをときどき思い出します。
神父さまの祈りのお助けにより魂がその霊的な報いで満たされますようにお互いのために祈りましょう。
ここで神父さまが頼んできた勧めを短くまとめます。
— 委ねられた人、一人ひとりのために祈りなさい。特別に不満がある人のため。
— 忍耐をもって仕事の実りを待ちなさい。特に心身の病気を抱えている人の場合。
— ドン・ボスコの言葉を覚えてください。こう言っています。「私は一生の間、人を満足させようと努力したができなかった。信じなさい、皆を満足させるのは不可能です」と。自分の務めを果たし、主が満足していれば十分です。
— 反対する人がいるとき、たくさんの言葉ではなく、いつも愛徳を示しなさい。
— 祈り、忍耐、愛徳を大事にし、喜びながら善を行い、スズメが鳴くのをそのままにしておきなさい。
335 第二バチカン公会議開始
(調布支部の日誌より 1962年10月5日)
チマッティ神父が書いた支部の日誌に第2バチカン公会議の始まりが記されている。ここで言うルルドのマリア像は、現在の神学院のルルドに飾られている。彼 私たちは公会議の準備のため(がイタリアに注文したものである。)に9日間の祈りを熱心にささげ、長上は詳しい情報を伝えてくれる。
10月7日 日本の司教団と枢機卿が公会議に参加するために羽田を発つ。
支部共同体はチマッティ神父の誓願65周年記念を祈りの中で祝う。
10月8日 公会議準備の3日間に、16時半からアカデミアが行われる。基本課題は「私は信じる、唯一、聖なる、普遍、使徒継承の教会を」である。この言葉は教皇さまの紋章とともに舞台に飾られている。
10月11日 神の母マリアの祝日に公会議開始! マリアさまのこの名称は他のすべての根元である。荘厳なミサ後、全員でルルドの洞窟へ行列し、大理石の新しいご像を祝別した。
336 九州への別れ
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1962年11月17日)
伊東マンショの記念祭のために日向学院の校長タシナリ神父から招かれた。 宮崎で伊東マンショの祝(九州への最後の旅である。)いに参加し、12年ぶり元知牧区を見ることができ、初めのころの信者にも会うことができ、永眠した人々のために墓地で祈りました。「日向学院」にすばらしい体育館と聖堂ができ、昔の救護院も大きく拡張した。主がこれらの事業を祝福し、それらを通して立派な活動ができますように!
協力してくださったことは主の書に記されていて、マリアさまもドン・ボスコも神父さまに感謝しています。私のよき死のために祈ってください。神さまの判断は人の判断と違います。あなたの祈りで助けてください。
337 自然博物館の将来
(グリゴレット・ジュセッペ神父へ 1963年2月5日)
チマッティ神父は、自分が夢見ていた生物学博物館の将来の価値を考えるよう
日本の(になった。)教育課程において神学校に入れるのは高等学校の卒業後。これでは、自然科学博物館はどんな意味があるのでしょうか。好奇心でしょうか、贅沢でしょうか。哲学生や神学生のためなら聖書博物館、または生理学・心理学教室が役立つでしょう。付属として検査のための科学実験室も考えられます。それも私の初めの夢でしたが、結局、夢のまま終わってしまいます。資金があっ31 たら、今でも始めたいぐらいです。
今は、地域合同の神学校、または国際神学校に通うように言われるようになってきました。まあ、生き残る者が見ればよいでしょう。
31 チマッティ神父が集めてきた自然科学のいろいろな採集は、今、彼の活動の証拠としてチマッティ資料館に展示されている。
聖具を祝福する
338 祈りは、最善の愛徳の業
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1963年3月21日)
体力が衰えても、チマッティ神父はやる気でいっぱいだった。院長へのこの報
最後の診察の結果、病(告にその気持ちが表れる。)気よりも老衰だと言われました。それでも役立てば、できることなら何でも喜んでやります。今まで、他人の霊魂のために働けなかったのは、主が祈りを通してしか宣教できない状態に置いてくださったからです。神が「自分の魂のためにやりなさい」と言ってくださるので、それを実行しています。今、私のため、調布の人のため、サレジオ会員のため、全世界の人のために祈ります。祈りは、最善の愛徳の業です。
あとがき — 差し支えがなければ、今までと同じように図書館の仕事、また音楽への協力、標本の整理、たまに作曲、少しサレジオの霊性の教え、少し自分での勉強、うちのシスターズの世話、そして運動場で神学生と一緒にいるようにします。役立てば、頼まれることを何でもやる用意があります。
339 マリアさまの祝い 日誌の終わり
(調布支部の日誌より 1963年5月26日)
24日だった扶助者聖マリアの祝日は26日に祝われた。チマッティ神父は行列中よろめき、足が不安定だった。夕方、その日の日誌を書き、次の日も書こうとし 今日(たが…)(日曜日)典礼外の扶助者聖マリアの祝い。午後3時、近隣の修道女会と信者も参加し荘厳な行列が行われた。途中数か所で止まり短い話をし、賛美歌を歌い、最後は森の中でご聖体の賛美式で行列が終了した。マリアさま万歳! 神に感謝!
晩はマリアさまへのセレナータ:イルミネーション、コンサート、歌、短い話、ユースセンターのすばらしい回転花火! 天国でのサレジオ家族とドン・ボスコの子たちは静かだったのでしょうか。マリアさま万歳! 調布にとって母と教師となってくださいますように。
5月27日 後片付けをして日常の生活に戻る。天候は不安定、雨も降る、眠たくなる…。 ここでペンを置いた。午前中、力を振り絞って修練者に最後の授業をやったが、午後寝込んでしまった。30日、桜町病院で診察を受け、そのまま入院した。
1963年
寝たきりのチマッティ神父
6月22日神学院に戻ったチマッティ神父は寝たきりの状態。本館2階右の病室で2年4カ月闘病生活を送り、会員数名と看護師が世話していた。
彼は共同生活に参加できなくてもその行事を意識し、心を合わせていた。単調な生活だったが、見舞う人が多く、国内外から手紙が届き、できるときに自分で答え、できないときに代筆してもらった。
彼にとって病床は祈りの場。いつもロザリオを握り、「今、私の仕事は祈ることだ」と言っていた。ベッドの横に自分が書いた三種類のロザリオの黙想が置いてあった。
その他に、一年間の毎日霊名日もあたる会員や友人の名前が書いてある小さなメモ用紙の束があった。今資料館に保存されている。毎日、それを見ながら一人ひとりを祈りで思い出していた。
一時期、座ったままミサを許された、他のときには他の司祭が病室でミサをささげ、信心深く与っていた。
毎日担当の会員と一緒に共同体の祈りを唱え、晩の祈りの後、短い言葉(ボナ・ノッテ)を話していた。その一部が録音されている。
1963年6月3日教皇ヨハネ23世が帰天し、6月21日パウロ6世が選出され、その指導の下で1965年12月8日、第二バチカン公会議が終了した。本人は意識のあるときまでその発展に興味を示した。
1963年11月3日、日本政府から「勲三等瑞宝章」の勲章を授けられた。
* * *
340 皆のために祈っている
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1963年6月26日)
以前と同じように、院長に自分の報告を文書でしていた。
1963年 病床でご聖体を受ける
敬愛する院長さま、汚い字をおゆるしください。できるだけ報告を書きます。
1.できるだけ皆と心を合わせよき死の練習を行いました。神の前で報告し、最期であるかのようにゆるしの秘跡を受け、ご聖体を頂きました。この立場でいかに主をよく見ることができることか! マリアさまのお助けにより主のあわれみに身を委ねます。
2.健康に関しては、医者に従いながら、皆のために祈ります。
3.このまま、楽に共同体の信心業に参加できます。それは私の本当の力です。私は1日中、すべての霊魂のため、一人ひとりのため、特にサレジオ会の兄弟のために祈ります。目の前に全世界の人、生きる人と亡くなった人がいます。イエスさまが呼んでくださるとき、天国へ、天国へ。しかし、急ぎません。皆を思い出します、特に兄弟たちと長上、昔の友だちと長上、過去の神学生と現在の調布の神学生を。毎日、皆、皆、皆を思い出します。
341 病人の役割を考えさせる
(教え子アメリオ・フランコ神父へ 1963年7月9日)
以前もよく出てきた音楽家の教え子。彼も寝たきりだった。
神父さまのあまり楽観的でない手紙を感謝します。私が言える、また言うべきことは、心配するなということです。毎日、祈りの中に神父さまと一致しています。私も寝たきりです。他人の協力を頼りにして、歩むべき道が神のみ心だと、ますます悟ります。神父さまも、祈りと神との一致に生きるようにしてください。天の父の家に多くの役目があります。その家族のメンバーなら、誰も無用だと思ってはいけません。大切なのは、神のみ手に自分を委ね、神がお望みの目的のために使ってくださること。毎日、「み心のままに」という祈りを唱えましょう。
私は、寝ている状態でロザリオを唱えながら過ごし、愛する方がたを思いめぐらし、彼らのために祈ります。今、その中に特に神父さまがいます。安心して、私のためにお祈りください。
342 カヴォリ神父ためのミサ曲
(シモンチェリ・カルメロ神父へ 1963年7月15日)
カヴォリ神父の司祭叙階50周年のために最後の作曲を書き、シモンチェリ神父
明日の私の愛徳、(にその完成を願った。)祈り、仕事は、ご霊名日にあたるわがシモンチェリ神父さまのためです。
お願いがあります。今の状態でアントニオ・カヴォリ神父に約束した50周年のためのミサ曲を完成することはできません。「キリエ Kyrie」は新しいですが、残りは若いときのミサ曲の改定版です。神父さまに、それを調整するために助
けてくださるようお願いします。カリタス会が催促してきたので、できるだけ早く助けてください。皆さんを祝福します。
343 日本政府から「勲三等瑞宝章」
(調布支部の日誌より 1963年11月13日)
日本政府は、いろいろな形で日本の文化に貢献したチマッティ神父に、最後 今日、管区長(に勲章を授けた。)、多くのサレジオ会員、扶助者聖母会の管区長、東京支部の代表者、カリタス修道女会の代表者、イタリア大使、教皇庁公使の代理などが集まり、昼前に文部大臣の代理者が来られ、短い儀式の中、天皇陛下の名で、日本の文化に貢献したことでチマッティ神父に「勲三等瑞宝章」が授けられた。チマッティ神父は、自分ができる方法で感謝の意を表した。その日、読売新聞の朝刊に記事が出た。夕方のテレビニュースにも写真と紹介が出た。
344 荘厳にご聖体を授ける
(調布支部の日誌より 1963年12月8日)
教会の伝統に従って、チマッティ神父に荘厳にご聖体を授けた。それを拝領す 今日、無原(る写真がある。)罪聖母の日に、共同体のミサ後、神学生と長上を先頭に院長は荘厳な形でチマッティ神父にご聖体を授けた。本人はベッドに座り、「おおイエスよ、おおイエスよ!」と何回も繰り返しながらご聖体を拝領した。出席者はその深い信仰と熱意に深い感銘を抱いた。
1964年
最期の言葉を残したチマッティ神父
3月にチマッティ神父は危機状態になり、それを乗り越えて10月まで直筆で手紙を書けるまで回復した。
6月から8月末までミサを立てる許可も与えられた。その期間中、世話する会員にボナ・ノッテの話もできるようになり、その一部が録音された。
11月から容態は悪化し、12月ごろ耳が聞こえなくなり、目も弱くなった。その状態で新年を迎えた。
* * *
345 丸岡秀世神学生の日誌
(1964年1月5日)
丸岡神学生は、いちばん長くチマッティ神父を看病し、いろいろな記録を残し チ(た。)マッティ神父は公現祭の前日にこう言った。「明日、私の第3の洗礼名の祝いです。第1はヴィンチェンツォ、第2はエンリコ、第3はガスパレです」。
1月5日、今日、頂いたリンゴを薄く切って差し上げたら、こう言った。「美
味しい! 美味しい! リンゴがこんなに美味しいのは、主はなんとよい方でしょう!」
1月16日、 身体清拭中にこう言った。「マリアさまも幼子イエスに対してこうしていた。主にささげる気持ちでやってください」。
346 ミサを立てたい
(クレヴァコーレ・アルフォンソ神父へ 1964年6月)
これは直筆で書いた手紙。主治医は桜町病院の森口幸雄氏だった。
親愛なるわが院長さま、健康はご存じのとおりです。親切なお医者さんや、会員たちが看病してくださることを感謝します。祈りで恩返しします。神から召されることを待っている間、私のためにお祈りください。
今、私のいちばんの願いは、お医者さんが毎日ミサをゆるしてくださること。
これは、唯一の必要な慰めです。お医者さんは聖なる方ですが、司祭に必要なことを理解できないでしょう。このままでは、私はただよい信者だけである。
司祭にこれは不十分です。ミサは私のいちばんの望みです。
院長さまの許可を見込んで、見舞いに来る会員やお客さんにちょっとしたお菓子や果物を差し上げました。その愛徳の業に比べれば、小さなお礼です。
召されるその日を待ちながら、私のためにお祈りください。
347 ほほ笑み
(調布支部の日誌より 1964 年7月15日)
サレジアン・シスターズの修練院は近くにあるのでときどき見舞いに来ていた。 今日、チマッティ神父は85歳。サレジアン・シスターズが修練者と一緒に見舞いに来たので、チマッティ神父はお菓子の箱を開けてもらって、一人ひとりに一個ずつ配った。最後のシスターが箱にふたを閉じようとしたら、チマッティ神父は止めて、ほほ笑みみながら「この一個は私のため」と言って皆と一緒に笑った。
348 ミサをささげる喜び
(ボヴィオ・フェリーチェ神父へ 1964年7月25日)
ついにミサを立てるようになった。座ったまま許されたのである。
親愛なるボヴィオ神父さま、よいニュースがあります。毎日ミサを立て、ご聖体を頂きます。毎日、パンを裂く式(ミサ)で神父さまとその仲間を思い出します。
それぞれの立場で神の栄光と霊魂の救いのために元気を出して働きましょう。
仕事において一致して、年老いたこの兄弟は心を込めて神父さまを祝福します。
349 マリアの祝日
(ボナ・ノッテ 1964年9月11日)
これは録音されたチマッティ神父の夕の祈り後の話の一つである。
明日、マリアさまのいちばんきれいなお祝いの一つ(マリアのみ名)です。昔、サレジオ会員は誓願のときに自分の洗礼名にマリアさまの名を加えていました。誓願を守ってくださるためです。
これはキリスト信者の間によく定着した祝いです。私たちも力ある保護者であるマリアさまに祈りましょう。「キリスト信者の助けなる聖マリア、私たちのためにお祈りください」という射祷をよく唱えましょう。マリアさまがいつも私たちの母、天からの保護者となるように特に誘惑やあらゆる困難のときに願いましょう。マリアさまへの祈りは体と心を悪から守るために大切だとドン・ボスコは教えています。ですから、誓願のときに自分の身を委ねたこのよい母に願いましょう。この病室でも私たちの導き手、保護者となるようにお互いのために祈りましょう。「キリスト信者の助けなる聖マリア、私たちのためにお祈りください!」
1965年
天に召されるチマッティ神父
最後の一年に入ったチマッティ神父は、耳が聞こえず、目もほとんど見えず、意識ももうろうとしていた。
3月中、また耳が少し聞こえるようになり、5月27日、最後の録音が行われた。
6月22日まで代筆の手紙も再開できた。
その後、また次第に衰え、声も出なくなり、沈黙の世界に入った。
10月6日帰天。葬儀ミサは、本人が聖母マリアにささげた下井草教会で行われた。
* * *
350 昔の教え子を思い出す
(オラトリオ・サン・ジュゼッペの教え子へ 1965年5月19日)
一時期声が戻ったチマッティ神父は、イタリアの第一次世界大戦時の教え子た 皆さん、創立100周年お(ちの手紙に代筆で答えた。)めでとうございます。過去にたくさんのよいことをなさった恩人の皆さんのため、また任せられている人たちの霊魂の救いのために神の恵みを祈ります。
皆さん、いつも快活で、心を一つにして霊魂を救うために働きましょう。サン・ジュゼッペ万歳! 主がすべてにおいて祝福してくださいますように!
あまり長く書けないので、ごめんなさい。今、自分のベッドに横たわり、私
の仕事は祈ることです。日中、働いている皆さんを見ています。皆さんのため、その家族のため、皆さんの必要なことのために祈ります。イエスさまが私のつたない祈りを聴きいれてくださいますように。がんばってください。私は皆さんを愛して、愛して、祝福します。
1965年3月19日 司祭叙階60周年のお祝いに、見舞いに来たサレジオ会員たちと
351 ボナ・ノッテ
(1965年5月24日)
扶助者聖マリアの祝日にあたるこの日、見舞いに来た調布の共同体への言葉 皆さんの訪問(が録音された。)、ありがとう。ドン・ボスコ万歳! 扶助者聖マリアを与えてくださったドン・ボスコ万歳!
ありがとう、ありがとう、ありがとう。今朝、特にご聖体を頂いたとき、皆さんのためにたくさん、たくさん、たくさん祈りました。皆さんも、少しでも善を行いたいこのチマッティ神父のためにお祈りください。
よろしい、よろしい、ありがとう、ありがとう、お互いのために祈りましょう。
万歳! 万歳!
352 録音された最後の言葉
(ボナ・ノッテ1965年5月27日)
ご昇天祭の夕方、修練者はチマッティ神父の手から会憲の本を渡してもらうために集まった。ゆっくり、ゆっくりと、最後に力が尽きたかのように話した言葉が録音された。天国という言葉を用いながら、その感動は頂点に達した。
人間はよいことをするためにいかに多くの難しいことを発明するか! 見て、私たちは今ここに一緒に集まっています。主はその子ら、修練者が一緒に集まっているところを見て、とても、とても、とても喜んでいます。
ドン・ボスコが常に言われた「いつも快活でありなさい」という目標を忘れないでください。会憲に基づいて働きなさい。そして、修練長と一緒にヒヨコが必要なエサを得るために雌鶏を囲んでついていくように、私たちもそうしましょう。毎日、いつも、私たちの雌鶏である、主、扶助者マリア、ドン・ボスコについていきましょう。彼らは私たちの指導者です。ついていけばよいのです。
主が特別に皆さんを祝福してくださるように!(会憲の本を渡す) このとおり、親愛なる修練者の皆さん、もしこの本に書いてあることに従うならば、必ず天国に行けきます。天国へ行くこと、なんと美しいこと、なんと美しいこと、祝福されるイエスさまと共に、マリアさまと共に、永遠に、いつまでも、いつまでも。
今日はご昇天祭です。少し天国を思いましょう、天国を、天国を、このとおり、親愛なる修練者の皆さん! よろしい、よろしい、一緒に祈りましょう。一緒に主の祈り、アヴェ・マリア、栄光の祈りを唱えましょう、私たちの奉献を受け入れてくださいますように、イエスさまとマリアさまの教えに従うために助けてくださいますように。
天国! 天国! 天国! 皆、皆、皆!
353 最後の手紙
(教え子キアナーレ・アルベルトへ 1965年6月22日)
代筆での最後の手紙は、自分が一生の間思い出したオラトリオ・サン・ジュ 親愛なるベルナルドさん(ゼッペの会長のためだった。)、皆さんの恩を受けた新司祭の写真を送ります。皆さんのため、またご家族やその必要なことのために毎日祈ります。私は心から一人ひとりの上に主の最高の祝福を祈ります。
オラトリオ・サン・ジュゼッペと「5月15日の会」万歳! 快活、勤勉で、一緒に善を行うために一致しましょう!
できれば、皆さんを指導してくれるガレリ神父とヴァレンティーニ神父によろしく。
心から皆さんのヴィンチェンツォ・チマッティ神父
354 チマッティ神父は神のみ手に
(調布支部の日誌より 1965年10月6日)
チマッティ神父の最期は調布サレジオ神学院の日誌に記されている。師を送るために共同体がその部屋に集まり、彼のためにミサがささげられるところだった。
今日朝5時前、助祭丸岡神学生は院長を起こし、(そして地上のチマッティ神父のミサも終わったのである。)チマッティ神父が危篤状態のようだと知らせた。すぐに支部の全員が集まり、主治医の森口先生、管区長、近隣のサレジアン・シスターズ等に連絡し、院長は病人に教皇の祝福を与え、病者の秘跡を授けた。皆がそろったところ、院長は病室で病人のためにミサをささげ、その中で皆ご聖体を頂いた。ミサが終わってから少し時間が経つと、病人の脈を確かめていた主治医は、「チマッティ神父は亡くなられた」と知らせた。6時半であった。
355 チマッティ神父の主治医だった森口先生は、列福調査のときに証人として呼ば 森口幸雄先生の証言 チマ(れた。)ッティ神父の脈が止まったのは、ちょうど、司祭が「ミサ聖祭が終わりました。行きましょう、主の平和のうちに!」と言ったときであった。皆に知らせたのは、少し時間が経ってからである。
あとがきチマッティ神父が帰天した後の出来事
ご遺体は調布サ(1965年10月6日)レジオ神学院に安置され、多くの人が祈りに来た。
下井草教会で(同年10月10日)葬儀が行われ、府中カトリック墓地に埋葬された。
調布サレジオ修道(1967年10月5日)院新聖堂が落成され、ご遺体は地下聖堂に移された。列福調査開始(1976年3月5日)を申請し、11月26日から東京教区で70名ほどの証人が聴取された。
東京大司教と医師(1977年11月18日)2名のもとで教会法が定めるご遺体の検案が行われ、非常に珍しいことに腐敗していないことが確認された。
調布の聖堂で東(1978年1月22日)京教区の調査終了式が行われた。 イタリアのト(同年6月3日)リノ教区でも調査が終了した。
師の著書が信(1981年6月3日)仰にかなっていることの調査が終了した。
サレジオ会本部(1982年1月22日)列福調査担当者ルイジ・フィオーラ神父により、調査の結果や手紙40 巻、証言10巻などが聖座へ提出された。
1983年9月2日
チマッティ資料館が落成された。
ヨハネ・パウロ二(1991年12月21日)世教皇はチマッティ神父の英雄的徳を認め、「尊者」の称号を与えた。
チマッティ神父の(1996年5月12日)姉シスター・ラファエラ・チマッティが列福された。
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