2026年9月29日 Don Silvio 講話報告
青少年司牧・召命司牧・実地課程について
Ratio Part II
今回の講話では、Ratioを実際に生かしていくために、青少年司牧、召命司牧、養成がどのように協力すべきか、また特に志願期と実地課程をどのように養成的な経験としていくかについて話されました。第五版のRatioには多くの新しい課題や提案がありますが、それらをすべて一度に実行する必要はありません。新しい風景の中に少しずつ入っていくように、一歩ずつ進めればよいという前向きな姿勢が強調されました。
まず大切なのは、養成と青少年司牧が別々に働かないことです。サレジオ会の使命は一つであり、青少年司牧、召命司牧、養成、広報などの各分野が互いに協力しなければなりません。特に召命司牧については、「誰の仕事か」と考えるよりも、すべての共同体、EPC、サレジオ・ファミリー、各担当者が責任を分かち合う必要があります。
会憲16条が示すように、サレジオの家が本当の意味で「家庭」となり、若者が歓迎され、自分もその場に責任を持っていると感じる時、その家庭的な雰囲気そのものが、サレジオ召命を知り、従いたいという望みを若者の中に生み出します。したがって、召命アニメーションは特別なイベントだけではありません。共同体そのものが召命を生み出す環境になることが重要です。反対に、普通の共同体生活を見て若者が離れたくなるような状態であれば、どれほど召命活動をしても実りは期待できません。
現在の一つの問題は、青少年司牧と初期養成の間に「誰も責任を取らない空白」ができることです。青少年司牧は多くの若者と出会い、彼らが人生や将来をキリスト教的に考えることを助けます。しかし、サレジオ召命に特別な関心を示した若者を誰が継続して同伴するのかが曖昧になる場合があります。一方、養成部門は、修練準備期など正式な養成が始まってから関わろうとする傾向があります。この二つの間に「No Man’s Land」を作ってはならないということが強調されました。
第五版のRatioでは、召命アニメーションと召命識別が初期養成への入口としてより明確に位置づけられています。志願期の経験は基本的には青少年司牧部門がアニメートしますが、養成部門との緊密な協力が必要です。どちらが実際に中心的責任を持つかは地域によって異なってよいものの、その役割を管区ディレクトリの中ではっきり定める必要があります。一人の管区長の個人的判断だけではなく、管区として継続できる制度にすることが大切です。
また、志願者を同伴する人々の準備も重要です。講師は、養成担当者の大切な仕事の一つは、志願者を直接すべて自分で担当することではなく、「誰が志願者を同伴しているのか。その人々は十分に準備されているか。どのように同伴されているか」を確認することだと述べました。経験のほとんどない新司祭を、ただ「最初の従順なら断らないだろう」という理由で大きな責任に置くようなことは避けなければなりません。
南アジアでは、青少年司牧と養成の両部門が一緒に、召命オリエンテーションの資料を作ったり、志願院担当者や召命担当者が合同で集まったりする取り組みが始まっています。大切なのは、「どちらの部門が担当するか」を争うことではなく、若者が十分に同伴されることです。ある管区では、両方の委員会に関わる一人の担当者を置くという提案もありました。青少年司牧担当者が養成委員会に参加し、養成担当者も青少年司牧委員会に参加するなど、具体的な橋渡しが重要です。
さらに、今日の若者の背景は非常に多様になっています。家庭環境、信仰生活、文化、デジタル環境など、一人ひとりがまるで「別の銀河」のように異なります。そのため、全員を同じ期間、同じ方法で準備すればよいという考え方は成り立ちにくくなっています。特に修練期前の期間には、より個別的で忍耐強い同伴が必要です。十分に準備されていない若者を、決められた期間が終わったという理由だけで次の段階に進ませれば、その後さらに大きな問題を生む可能性があります。
一方で、養成の目標そのものを低くしてはいけません。若者を現在いるところから歓迎することと、養成の目標を下げることは別です。出発点は一人ひとり異なっていても、目標は明確です。サレジオ会員は、キリストに形づくられ、ドン・ボスコのカリスマを生き、若者のために自分をささげる者になることを目指します。Ratioが示すサレジオ的アイデンティティが、すべての識別と養成の基準であり、最終目標です。
講話では、「Samuel Group」のような経験も紹介されました。これは、若者にすぐサレジオ会への入会を求めるのではなく、数か月間、自分の人生そのものを召命として真剣に考えるよう助けるものです。祈り、奉仕、霊的同伴などを通して将来を識別していきます。しかし、このようなプログラムを成功させるために最も必要なのは、若者の話を聞く時間を持つサレジオ会員です。資料やプログラムがあっても、若者に時間を与え、耳を傾ける人がいなければ意味がありません。
後半では、実地課程(Practical Training)について重点的に扱われました。これはサレジオ初期養成の中でも最も特徴的な段階の一つです。ここで若い会員は、ドン・ボスコ教育法、アシステンツァ、共同体生活、若者との直接的な関わりを通して、サレジオ召命を実際に経験します。しかし、この段階の成功は、本人の努力だけではなく、どの共同体に派遣されるか、院長がどのように同伴するかに大きく左右されます。
講師は、実地課程の成功か失敗かは、かなりの部分、管区長と管区評議会が「どこへ派遣するか」を決める時点ですでに決まっていると強く指摘しました。単に「この共同体は人手が足りないから」という理由で実地課程の会員を配置してはいけません。実地課程の第一の目的は人員補充ではなく養成です。共同体がドン・ボスコ教育法を実際に生き、若い会員を歓迎し、院長が本人を同伴できる環境でなければなりません。
もし必要な養成条件を満たさない共同体しかない場合、管区長と評議会には、若い会員をそこへ送らない道徳的責任があります。召命的成長の可能性より危険の方が大きい環境に実地課程の会員を置くべきではありません。実際の分かち合いでは、同じ若い会員でも、ある共同体では危機に陥り、別の共同体に移ると才能を発揮して成長した経験が紹介されました。このことからも、すべての院長が自動的に養成者になれるわけではなく、院長自身の養成が必要であることが分かります。
実地課程では、ただ多くの活動をさせればよいわけでもありません。重要なのは、その経験を本人が振り返り、「この経験は自分に何を教えたか」「なぜ私はこのように反応したのか」「奉仕、召命、使命について何を学んだか」を考えられるよう同伴することです。実地課程は、経験から学び、識別し、自立性、責任、創造性を成長させる時期です。
また、実地課程は本人の才能や将来の可能性を発見する大切な時でもあります。どのような専門分野に向いているのか、将来養成者になれる可能性があるのか、どのような使命に特別な賜物を持っているのかを見ることができます。そのため、実地課程の終わりには、本人、共同体、管区がそれまでの経験全体をしっかり振り返る総合評価を行うことが重要です。
実地課程での「従順」の扱いについても注意が促されました。従順という言葉を使って、若い会員を圧迫したり、権威者同士の対立に巻き込んだりしてはなりません。教会全体で「権威の濫用」が大きな問題となっている現在、養成の場でも本人の自由を尊重しながら権威を用いる必要があります。真の従順は自由を前提とするものであり、恐れによって従わせることとは異なります。
さらに、実地課程を一つの種類の使徒職だけで終わらせず、可能であれば学校、オラトリオ、ユースセンター、宣教地、養成共同体など異なる現場を経験させることも有益だという意見が出されました。他管区での経験や国際的な経験が、その人の視野を広げる場合もあります。ただし、配置転換そのものが目的なのではなく、本人の養成上の必要性に応じて計画されなければなりません。
特に興味深かったのは、実地課程を「共同使命の中での共同養成」の場として考える視点です。学校やユースセンターでは、責任者が信徒であることもあります。その場合、若いサレジオ会員は、信徒の協働者からも学び、自分を養成してもらう経験をします。これは、信徒とともに使命を担う将来のサレジオ会員にとって非常に重要です。
また、養成委員会に実地課程中の会員を一人参加させることも、新しい可能性として強調されました。若い会員の声を直接聞くことで、管区の養成の見方そのものが変わる可能性があります。第五版のRatio作成過程でも、若い会員たちの参加が重要な役割を果たしました。養成を「若い会員について話すこと」だけではなく、若い会員と一緒に考えることへ変えていくことが期待されています。
最後に、初期養成を終えて共同体に入った若い司祭や修道士への同伴についても触れられました。近年、初期養成を終えた数年後に危機を経験したり、会を離れたり、司祭の場合には教区へ移ったりするケースが各地で見られるという報告があります。そのため、初期養成終了後の移行期間も、青少年司牧と養成が協力しながら支えていく必要があります。
召命司牧と養成は、別々の段階ではなく一つの連続した歩みだということです。若者との最初の出会いから、召命への関心、志願期、初期養成、実地課程、そして初期養成後の共同体生活まで、途切れない同伴が必要です。
同時に、養成は「人を次の段階へ進ませること」ではありません。本人の現在の自由と現実を受け止めながらも、最終的にはキリストに形づくられ、ドン・ボスコの心を持ち、若者のために自分をささげるサレジオ会員へと成長することを目指します。
そのためには、よいプログラム以上に、よい共同体、よい院長、よい同伴者、そして若者の話を実際に聴くことのできるサレジオ会員が必要であるということが、この講話全体を通して強く感じられました。

